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Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について)

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月13日(日)23時12分04秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について) ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月13日(日)20時26分51秒 ]

私も失礼させていただきます。

>> 私は福岡市に住んでいて、あちこち鹿さん(バイクの名前)
>> でツーリングが趣味で、古墳をおとずれるようになり、ついには考古学ファンになり、PCを持ってこのコーナーにきちゃいました。初心者です。よろしく。
>> この10年そういうことしてるとどこいくにしてもフェリーにのるのですが、そのたびに思うのは日本はつくづく島国だなあ、ということです。九州も、本州も。
>> そういった意味では魏の人たちも船から見た倭、という感覚で倭人伝に書き残したのでしょう。
>> 参考にしてもらいたいのは博多-大阪のルートです。
>> 陸路なら三つのルートがあります。
>> 山陰、山陽、大分-北四国-淡路。以外なことに北四国ルートがいちばん短く感じました。ただ三つの海をわたらなければず、一番金食いました。もうやんない。
>> 問題は海のルートです。みなさん知ってのとおりここには夜間の大型フェリーが4往復もあって、それもそのはず瀬戸内は内海なため山陰航路が大荒れでも瀬戸内はおだやかに航行できるわけです。
>> つまり山陰経路は瀬戸内航路にくらべて難所、時間食う。船からすれば。また危険です。
>> よく大和説のひとは北部九州ー近畿のルートについて山陰経路を持ち出しますが、それはどうか、とツーリングのたびに思ってしまいます。陸路なら都市少ないから行きやすいけどね。 やっぱ昔も今も瀬戸内ですね。
>> それと豊予海峡のフェリー、5回ほど乗りこみましたがいつも荒れてて船酔いします。あそこは難所ですね。神武東征の神話の意味がよくわかります。

すいません。 船酔いになられた件、お見舞いも憂い上げます。
私も以前、大分に住んでおりました。
其の時に、臼杵からだったかな? フェリーに二度ほど乗りまして四国に渡っていますが、
二度ともに幸い天候に恵まれまして快適な船旅でした。

5回もとは、非常に運がよろしくないですね。
確かに難所なのですが、(でないとおいしい魚が取れません(笑))天候次第で全く別物ですよ。

>> 邪馬台国四国説の方、参考までに・・・。



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Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について)

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月14日(月)08時00分43秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について) ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月13日(日)20時26分51秒 ]

にゃんさん今日は。

>> 私は福岡市に住んでいて、あちこち鹿さん(バイクの名前)
>> でツーリングが趣味で、古墳をおとずれるようになり、ついには考古学ファンになり、PCを持ってこのコーナーにきちゃいました。初心者です。よろしく。
>> この10年そういうことしてるとどこいくにしてもフェリーにのるのですが、そのたびに思うのは日本はつくづく島国だなあ、ということです。九州も、本州も。
>> そういった意味では魏の人たちも船から見た倭、という感覚で倭人伝に書き残したのでしょう。

にゃんさんはバイクで古墳めぐりをなされたんですか。
鉄道や乗用車で巡った人は沢山いてもバイクは珍しいのではないでしょうか。
フェリーもね。
距離に対する感覚など風を肌に感じながら旅行するのと閉じ込められた小さな空間の中で受ける物とは大違いでしょう。
天候の影響なども古代人の感覚に近いものがあるかもしれない。
そういう意味でにゃんさんの感覚は非常に貴重なものだと思います。

>> 参考にしてもらいたいのは博多-大阪のルートです。
>> 陸路なら三つのルートがあります。
>> 山陰、山陽、大分-北四国-淡路。以外なことに北四国ルートがいちばん短く感じました。ただ三つの海をわたらなければず、一番金食いました。もうやんない。
>> 問題は海のルートです。みなさん知ってのとおりここには夜間の大型フェリーが4往復もあって、それもそのはず瀬戸内は内海なため山陰航路が大荒れでも瀬戸内はおだやかに航行できるわけです。
>> つまり山陰経路は瀬戸内航路にくらべて難所、時間食う。船からすれば。また危険です。
>> よく大和説のひとは北部九州ー近畿のルートについて山陰経路を持ち出しますが、それはどうか、とツーリングのたびに思ってしまいます。陸路なら都市少ないから行きやすいけどね。 やっぱ昔も今も瀬戸内ですね。

全くその通りでしょう。
ただ夏場限定、上り(北九州→但馬)限定であれば可能性もあるかもしれない。
ただ下り(近畿→北九州)は時間と労力が三倍位かかってしまうでしょう。
大阪や奈良の国の通常の交易ルートはやはり瀬戸内しか考えられませんよね。

>> それと豊予海峡のフェリー、5回ほど乗りこみましたがいつも荒れてて船酔いします。あそこは難所ですね。神武東征の神話の意味がよくわかります。
>> 邪馬台国四国説の方、参考までに・・・。



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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月6日(日)21時22分20秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 1月6日(日)15時05分45秒 ]

>> #ですから、魏の時代の鏡(中原・遼東・半島)を調べて、それが江南のものか、華北のものか判定しないと、議論のしようがないです。
>> #漢鏡6期以降くらいになると、江南の原料になるそうですが、これらの製造年代は、どうなるのでしょう?
>> #ちなみに、殷周の青銅器の原料も、雲南のものだそうです。
>> #魏の鏡は江南の原料でないというなら、その根拠をしめすべきです。
 華北のデータと、それに合致する例は提示されてますよネ。
 卑弥呼の時代は魏と呉が反目しあっている時代です。(景初三年も)
 江南の原料が入手できたでしょうか。
 
>> #だから、阿部氏は、魏の鏡は江南の原料でないという前提で反論を出せといっているのですが、その前提自体についての、なんの根拠も示していないわけです。
 すみません。何を仰りたいのか分かりません。(焼酎がちょっと濃かったか)
 氏は魏の鏡から華南の鉛が検出されれば「鑑定の撤回、再鑑定をいささかも躊躇しない」と書いてます。
 振り出しに戻るだけのような気がしますネ。


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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月6日(日)21時51分07秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月6日(日)21時22分20秒 ]

>>  卑弥呼の時代は魏と呉が反目しあっている時代です。(景初三年も)
>>  江南の原料が入手できたでしょうか。

お互いあの文章を読んでいるという前提であらためて伺いますが
どういう根拠で江南の原料であると言っているのですか?


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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月6日(日)23時22分44秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月6日(日)21時51分07秒 ]

おはつです。
三角縁にかんしてはあいかわらず中国鏡、国産鏡との論議が続いてますけどもやはり常識からいって
中国では一枚も出土もない
大型がある
もうすでに500枚も国内で出土している
ということから国産で間違いないでしょうに。いまの時点で500枚ということは当時は5000枚は生産されたでしょう。
これからも発掘が続けば600枚になる日も近いのでは。
もともとこの特徴のある鏡が卑弥呼がもらった鏡だ、といいだした小林秀雄氏の時代には200枚以下の発掘だったので
それで氏を含めた邪馬台国大和説論者がいちばん古墳から大量にでる鏡が卑弥呼が魏から下賜された鏡、という説を信じ込むようになったのがきっかけで、もういまの時代まで引きづらなくていいでしょうに。
個人的にはこの三角縁神獣鏡、国産、それも北部九州製ではないか、と考えるようになってきました。賛同者いますか? 初心者なのでやさしくね。(~。~)


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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月7日(月)00時48分53秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月6日(日)23時22分44秒 ]

>> おはつです。

こんにちは

>> 三角縁にかんしてはあいかわらず中国鏡、国産鏡との論議が続いてますけどもやはり常識からいって
>> 中国では一枚も出土もない
>> 大型がある
>> もうすでに500枚も国内で出土している
>> ということから国産で間違いないでしょうに。いまの時点で500枚ということは当時は5000枚は生産されたでしょう。
>> これからも発掘が続けば600枚になる日も近いのでは。
>> もともとこの特徴のある鏡が卑弥呼がもらった鏡だ、といいだした小林秀雄氏の時代には200枚以下の発掘だったので
>> それで氏を含めた邪馬台国大和説論者がいちばん古墳から大量にでる鏡が卑弥呼が魏から下賜された鏡、という説を信じ込むようになったのがきっかけで、もういまの時代まで引きづらなくていいでしょうに。

中国鏡説派でも今は魏ヵらの下賜品と信じている人は少ないと思いますよ。
黒塚古墳で画文帯神獣鏡より粗末な扱いを受けていた事などから邪馬台国畿内説の人でさえ国産説が多くなっています。
ただ少数ながら日本が特注した物だから中国から発掘されず、日本にのみ残っていると考える人がいるようです。

>> 個人的にはこの三角縁神獣鏡、国産、それも北部九州製ではないか、と考えるようになってきました。賛同者いますか? 初心者なのでやさしくね。(~。~)

畿内に比べて北部九州からの発掘は少ないです。
椿井大塚山や黒塚古墳のように一つの古墳から30枚以上の発掘が畿内であった事から、国産とすれば畿内生産と考える方が素直であるかと思います。
ただ、銅鐸なども九州が先で畿内に移ってから大型化したことなどを考えると、三角縁神獣鏡も始めは九州にあって後に畿内に生産拠点が移動した
可能性は否定できません。
証拠も根拠も全くありませんが。



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Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月7日(月)12時25分18秒]

 皆様、あけまして、おめでとうございます。
 
 年末に、卑弥呼の墓について質問させていただいた寝太郎です。過去ログを拾っていると、「子の刻寝太郎」氏の投稿を見つけました。先人に敬意を表し、平仮名のねたろうでお尋ねします。

 本年最初のおにりんさんの提案、狗奴国=吉備国論、拝見しております。畿内説の論者には、他に東海地方を狗奴国にあてる方もいるようですが、いずれも『倭人伝』本文の「其南有狗奴国」を考慮されていないことは否めないでしょう。私が理解できないのは、『倭人伝』中の「狗奴国」を求めるのに、『倭人伝』に出て来ない前方後円墳や特殊祭器等による、考古資料の分布を論拠とされていることです。私には、それが正しい方向へ導くものとは思えないのです。もう少し、文献読解に力点を置くべきではないでしょうか。 

さて、畿内説と決定的に相容れない「其南有狗奴国」ですが、その南とはどこに対して南なのでしょうか。
○ 倭国の南
○ 邪馬壹国の南
○ 女王国の南
○ 旁国二十一国中最末の奴国の南
他にもあるのかもしれませんが、おおよそ、この中に正解がありそうに思われるでしょう。重出があるのでは、と訝る方もいらっしゃるかもしれませんが、これらは、全て異なる領域を示しています。さらに最後の一つは、表記自体が間違っています。「狗奴国」の位置を探るには、上記の領域の特定が不可欠です。そこで、まず、「倭国の領域」について皆様にお聞きいたします。

 私は、『三国志』・『宋書』・『隋書』を同時代史書(または、それに準ずる)と考え重視しています。陳寿は「旧百余国」と記し、倭国が、前代(後漢時代もしくは、それ以前も含まれる?)において百余国であったと記述しています。『後漢書』の「凡そ百余国」は、これを補強するものでしょう。

では、魏代ではどうなったのでしょう。古田氏は「今、使訳通ずるところ三十国」の表記から、後漢時代の百余国が、統合収斂して三十国になったのだとしています。しかし、私は百余国のうちの三十国のみが、卑弥呼の支配領域だと考えています。そして、これが『倭国伝』ではなく『倭人伝』になった理由だと考えているのです。卑弥呼の支配は、わずか三十国に留まり、倭国全体に及ばなかったと考えれば、「倭人…」の書き出しも、ごく自然に受け入れられるのではないでしょうか。
それでも『倭人伝』中の「倭国女王」や「倭王」の表記と矛盾すると指摘されるかもしれません。しかし、これは中国側の大義名分による表記なのです。何故なら、景初二年の貢献記事以前には、卑弥呼を記すに「倭」字を冠することがないからです。魏は、景初二年の金印授与の詔書発行を以って、卑弥呼を「倭王」と公認したのです。陳寿が、景初二年の記事以前と以降において、「女王」と「倭王」、「女王国」と「倭国」を明確に弁別しているのは、中国側の大義名分に従ったためと考えられるでしょう。紀行文と編年体で記された歴史事実という、著述姿勢の違いとも考えられますが、各用語を使い分けている事実は否定できません。
つまり中国は、倭国=百余国、卑弥呼の支配領域=三十国であり、残りの七十余国こそ、その余の旁国であり、卑弥呼が統治すべき国だと考えているのです。二十一国連記の国々は、卑弥呼の支配領域であり、その余の旁国には、なり得ないのです。先に述べた通り「旁国二十一国」は、表記自体が間違っています。二十一国は、卑弥呼の支配領域です。
では、残りの七十余国には、どんな国が考えられるでしょうか。「狗奴国」は敵対国であり、当然入ります。(必然的に狗邪韓国は、卑弥呼の支配国三十国の一つです。)「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」から、海を隔てた東方に、倭人の国々が広がっていると予想されます。この国々こそ、その余の旁国の大半を占めると思われます。卑弥呼の時代においては、卑弥呼と直接には敵対せず、支配も受けない中立の国々ではなかったかと思われます。

さて、中国側が百余国の領域を「倭国」と考えていたことは、お解りでしょう。では、倭国の領域は判らないのでしょうか。いいえ、それは『宋書』から読み取れるのです。高名な倭の五王の武が、南朝の天子に宛てた上表文から推察できるのです。
「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」
他の九州説の人と同じく、私もこの一文の解釈に古田氏の論理を用いています。つまり、衆夷というのは九州のことであり、毛人は中国・四国の西半部、海北は朝鮮半島南部と考えています。九州と中国・四国の西半部の合計は百二十一国です。これは、後漢時代の百余国と凡そ重なり合うものと考えます。宋代においても凡そ百余国なのに、中間の魏代にだけ、三十国に統合されたとは考えられないでしょう。よって、中国人から見た倭国とは、九州と中国・四国の西半部の百余国であると言えるではないでしょうか。そしてこれは、かつての歴史教科書に必ず乗っていた、弥生時代の地図に線引きされた二つの領域(銅矛圏と銅鐸圏)の、銅矛圏に重なるであろうと予想されるのです。

如上により、倭国とは、九州と中国・四国の西半部に在った百余国を意味する、中国側の用語であり、魏代の卑弥呼は「倭国」全てを支配するに至らなかった、というのが今回の私の仮説です。ここで一旦、皆様のご意見を伺い、次回「狗奴国」の位置を特定したいと考えています。よろしくご教授ください。


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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月14日(月)09時43分15秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月14日(月)01時05分26秒 ]

こんにちは、牛頭さん
青銅の件、疑問だと思います。
私も同感なのです。

>> >> >> 鉛の成分調整はしなかったのでしょうか?
>> >> 銅鉱石と鉛鉱石はどちらも同じ銅山で混ざっているのです。
>> >> それで、一般に、青銅において、鉛は銅に自然にまざって

確かに、自然青銅というものは、有りますしこれが青銅の元になったとは聞いています。
そして、そう言う鉱山が、あるとも。
しかし、鉱山によりバラつきが大きすぎそのまま使えるものは限られています。
そこで、錫と鉛を調合するのですが、鉛事態5%は入れてるのですから当然追加されていると考えます。
加えて、錫の問題があります。
錫は、普通スズ石から取られますが、これにも微量ですが、鉛が含まれているんです。
以前調べたのですが、銅鐸も鏡も成分比は殆同じようです。
それぞれから、鉛が追加されているのに同位体比が、
と言う測定事態少しでも合金を学んだ事の有る者には、疑問なんですが?

>> >> しまう。それで、銅鉱山の位置が、鉛同位体比から推定
>> >> できるのです。

>> >> それに、鉛同位体比をぴったり徐州産のものになるように
>> >> 調整するために、そうなるように徐州産ではない銅による
>> >> 青銅器を鋳潰して、混ぜるんですか?

つまりは、徐州の鉱山の銅には、恒に5%程度の銅が含まれている事の証拠を示して欲しいと思いますし。
錫も加えてない事に成るので、同じく自然青銅が採掘され其の成分比を証拠として示して欲しいものです。

>> 錫は混ぜたんでしょう?
>> 錫や鉛が入る事によって融点が下がり、流動性も上がって神獣鏡のような半肉彫りの鋳造がし易くなるのではないかと。
>> 錫が融点230度くらいなのに鉛を入れた半田は180度位で溶けるようになるときいた気がします。

其の通りです。錫も鉛も其の合金の半田より融点は高い。
ですが融点は、如何でしたか?忘れてしまいましたが。
加工性や強度をあげるため加えられるのですから。

>> >> 三角縁神獣鏡の鉛同位体比は、かなり集中的に同じ場所に
>> >> あつまります。これとぴたり一致するように銅をまぜていた
>> >> なんて、まるで、古代人が鉛同位体比を知っていて、後世
>> >> の研究者が「困るように」わざわざあわせたような言い方
>> >> ですね。

>> 鉛を実際に加えたかどうかはちょっとした思い付きなので根拠はありませんが、鉛の同位体と言ってもばらつきが結構あって
>> その偏差値のなかでおおよそ中国江南と推定できると言うのが以前の説だったと思いましたが?

>> 徐州といっても呉の領域でしか銅は産出しないと言う話ですし。

>> >> 九州説のトンデモなみなさんの議論を聞いていると、まる
>> >> で、九州にあった邪馬台国や、魏や半島の人々が、21世紀
>> >> までの世界を予言して、自分たちのことを歪曲して隠蔽しよう
>> >> としたみたいです。

そうは言われますがね、呉のカンショウバクヤの剣などの話もありますから、
成分調整は、されていた。
だが、其れに使う鉛や錫に含まれる鉛は、如何分離分析したのかと聞いてるんですが。
判るとは、思えないんですよ。

>> ヤマト政権がやった事でしょう?

>> >> そうまでして、九州の邪馬台国の人々が、邪馬台国を大和に
>> >> あったかのように見せたい理由はなんですか?

>> ヤマト政権が唐に対して日本書紀をまとめる事により自分達の歴史を詐称しようとした事はありえますね。

>> >> >> 弟子が日本人でも良いのじゃないですか?何処に問題があります?

>> >> ええ、問題あります。かれらは完全に中国語を理解していた。

>> それでいいんじゃないですか?

私も同感

>> >> >> 日本人に字を教えれば済む事。あるいは日本人を妻にして子供を作っても良い。

>> >> だったらなおさら、なぜ彼らは子供たちも含めて全員河北に
>> >> 戻ったのでしょうか?

>> なぜ戻ったと考えるのですか?
>> 時代の推移のより人数の増減があったとしても子孫も鏡作部として日本に留まっていたのでは?

>> >> >> 三角縁神獣鏡の需要がなくなっただけだろうと思います。
>> >> >> 需要がなくなれば作られなくなります。

>> >> 実際には、需要があったようで、倭において、つたない
>> >> 倣製鏡が、おそらく4世紀中葉くらいまで作られています。

>> >> しかし、中国の歴史をみれば、西晋は、3世紀最終末まで
>> >> かなりうまくやっていましたが、4世紀に入ると急激に
>> >> 衰えてきて、対外的にも権威などを失墜し、北方からの
>> >> 異民族の流入などに悩むことになる。

>> >> 倭との交流は、文献上は266年が最後となりますが、後に
>> >> 復活したのは、六朝の宋代ですが、実際、この4世紀は、
>> >> 中国の中でかなりの混乱があったのです。

其れなのに、日本への人の入りがすく無いと言うのもおかしし

>> 楽浪で見つかったという三角縁神獣鏡によく似た鏡が日本に来て大型化して三角縁神獣鏡になった可能性があるということです。



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Re: Title 本の紹介

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月7日(月)13時05分02秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月6日(日)02時35分20秒 ]

>> でも、倭人伝には九州のことしか書かれていない。女王の都は、伊都国からせいぜい1500里。

>>
>>
#いいえ、1500里です。
(この議論はあきあきしているので、レスしないでね)

>> 邪馬台国=弥生V期で良いんじゃないですか?
>>
#だったら、そこんとこがきっとインチキ循環論法なんでしょう。邪馬台国=弥生V期になるように鏡の年代を設定すれば整合がとれます。(私はまじめにそう思っています)





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Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月7日(月)20時30分28秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)09時55分09秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
 吉野ヶ里と小郡三沢で弥生中期ごろから専業集団がいたことをうかがわせる調査結果が出ています。
 以前にもレスしたっけ。



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Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月7日(月)20時36分13秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)13時08分06秒 ]

>>  ほう!近畿には伝統的な“墳丘墓”があるんですか。
>>  “墳丘墓”と言えば九州で発生したのものだとばかり思ってた。
>>
>>
>>
 須玖岡本、三雲南小路。
 まあ、ここで言う個人墓とは違うと思いますが、支石墓は個人墓ですネ。





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Re: Title承前「封土作冢」追加

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月7日(月)20時39分26秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)13時08分06秒 ]

>>
 楯築の副葬品はどんなものですか、中華王朝に冊封された“王”であることを示すものが出土していますでしょうか。
 教えてください。



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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月7日(月)20時48分16秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月6日(日)21時51分07秒 ]

>> >>  卑弥呼の時代は魏と呉が反目しあっている時代です。(景初三年も)
>> >>  江南の原料が入手できたでしょうか。
>> お互いあの文章を読んでいるという前提であらためて伺いますが
>> どういう根拠で江南の原料であると言っているのですか?
 あの論文の主旨は三角縁鏡(紀年銘鏡)の原料産地を示すことによって魏鏡ではないことを示すこと、
 根幹として江南の原料であることを示しているでしょう。
 結論を先に読んで、自分の考えと違っていたのでちゃんと読んでないんですか?


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Re: Title 本の紹介

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月7日(月)20時50分10秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)08時55分28秒 ]

>>  いずれにしろ、箸墓が卑弥呼の墓だとすると、同じ王家の奥津城に2〜3世代前の古墳があることをどう解釈するか。

>>
>>
 要するに、卑弥呼の共立によって大乱が収まる以前の人たちの古墳ですね。



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Re: 狗奴国=吉備国論

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月7日(月)21時09分27秒]

元の発言 [ Re: 狗奴国=吉備国論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)11時54分45秒 ]

魏の使訳の通じる国に狗奴国を含めると,
卑弥呼と狗奴国の抗争に魏の仲介が絡む,
ということになり,興味深い。

倭国の範囲に,狗邪韓国を含めると,
任那問題が浮上し,興味深い。

大加耶(高霊)や辰国(新羅)と倭国との関連は,
久留米の高良山や妻木晩田の孝霊山と絡み,興味深い。

というわけですよね?


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Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月7日(月)21時14分21秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)09時55分09秒 ]


>>
>>

岩波文庫版日本書紀(一)の第98頁に,

「素戔鳴尊の,蛇を断りたまへる剣は,
今吉備の神部(かむとものを)の許に在り。
出雲の簸の川上の山是なり。」

とあります



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Re: Title 本の紹介(劣等感の現れ)

投稿者[ 浅香恵利 ] 発言日時 [1月14日(月)10時18分07秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 1月13日(日)19時42分21秒 ]

>> そういうものの書き込み方、というか頭ごなしの否定の仕方ほどつまらないものはありません。自己の優越性を強調するような・・・。

  “自己の優越性の強調”ではありません。
  心理学的には、まさに“劣等感の現れ”が、如実に現れているとしか言いようがありません。




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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月7日(月)22時16分00秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月7日(月)20時48分16秒 ]

>> >> お互いあの文章を読んでいるという前提であらためて伺いますが
>> >> どういう根拠で江南の原料であると言っているのですか?
>>  あの論文の主旨は三角縁鏡(紀年銘鏡)の原料産地を示すことによって魏鏡ではないことを示すこと、
>>  根幹として江南の原料であることを示しているでしょう。
>>  結論を先に読んで、自分の考えと違っていたのでちゃんと読んでないんですか?

もちろんはじからはじまできちんと読みました。
しかし根拠がまったく書いてありません。
ぼくの読み落としでしょうか?????

あなたはちゃんと江南の原料である理由が書いてあると読んでらっしゃるのですよね?
それでは頭をたれて教えを請います。

江南の原料であるという理由はなんだと書いてあるのですか?
教えてください?
ぼくは物分りがが悪いですから、どこになんとかいてあるのか親切に教えていただけると本当に感謝します。

ぼくには、どう読んでもただ結論しか書いてないとしか読めないのです。


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銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [1月8日(火)00時07分17秒]

 椿井大塚山古墳出土の5番鏡である三角縁神獣鏡(吾作徐州銘四神四獣鏡)の鉛同位体比測定結果は以下の通りです。(出所:「鉛同位対比測定による日本および中国出土の考古遺物の産地の研究」山崎、室住他)

椿井No.5 徐州銘鏡
 (206/204)17.99
 (207/206)0.8578
 (208/206)2.102

ここから以下の計算により207/204及び208/204を求めます。
 207/204 = 207/206 × 206/204 = 0.8578 × 17.99
 208/204 = 208/206 × 206/204 = 2.102× 17.99

No.5
 (206/204)17.99
 (207/204)15.4318
 (208/204)37.8150

 この数値を、中国各地の鉛同位対比と比較してみます。(出所:「東アジア鉛鉱石の鉛同位対比」馬淵、平尾87)
 省名の次の()内数値は、同資料に掲載された鉱山数です。また、同資料に掲載された各鉱山の同位対比を地域ごとに分類し、その最小値〜最大値を同位体比ごとに示しました。(河南省は1鉱山の数値しか得られていないので幅表示ではありません。)

山東省(3)
(206/204)17.002 〜 18.281
(207/204)15.402 〜 15.586
(208/204)37.437 〜 38.540

河南省(1)
(206/204)17.934
(207/204)15.534
(208/204)38.160

雲南省+湖南省+浙江省(13)
(206/204)18.388〜21.003
(207/204)15.637〜15.901
(208/204)38.639〜41.368


 以上より、椿井No.5 徐州銘鏡の鉛同位対比は206/204、207/206、208/206ともに山東省試料3点のばらつきの範囲内に収まっていることが判明します。
 また、同資料掲載の各鉱山の数値について、206/204、207/206、208/206ごとにそれぞれ椿井No.5 徐州銘鏡の数値との差をとり、その平方和を求めますと、上記河南省の数値が全36鉱山中の最少値となります。すなはち、数値的に最も近接しているのは河南省のものということになります。

 一方で、椿井No.5 徐州銘鏡の数値は雲南省、湖南省及び浙江省の206/204、207/206、208/206の範囲すべてから外れていることが確認いただけると思います。つまり雲南省、湖南省及び浙江省の試料13点の散布とNo.5徐州銘鏡の数値は明らかに乖離しております。


 以上から、No.5徐州銘鏡の素材が江南産である可能性はほぼ否定してよろしく、逆に山東省、河南省に近接する地域のものである可能性がきわめて高いと思われます。
 このことは、三角縁神獣鏡の鉛同位対比散布図(207/206 : 208/206)に戦国期銅貨の国別分布を重ねてみると三角縁が集中する領域に魏、斉および楚の銅貨があらわれている事実によっても裏付けられます。(出所:「中国古代青銅器の鉛同位対比」平尾)


 結論:No.5徐州銘鏡の素材産地は、江南からは遠く、現在の徐州市に近く、三国曹魏の領域であると推定できます。


13

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった

投稿者[ 紀 智明 ] 発言日時 [1月14日(月)10時30分09秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月13日(日)23時06分42秒 ]

>> それじゃあ『倭人伝』のなにを信じるのですか。
>> 畿内説では、里程(距離や方角)、国名(大海国、一大国)、人
>> 名(壹与)、貢献年次、会稽東治等みな書き間違いかでたらめな
>> 数字ということになりますよ。

  畿内説は、何も信じていないのです。
  天皇家一元主義(自分の妄想?)がすべてで、史書という事実を見たくないのです。


131

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月8日(火)00時50分47秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月6日(日)02時45分46秒 ]

こんばんは

>崇神記の話をひっくるめると、っていう意味ですけど。

崇神記には吉備平定はありませんね。という揚げ足取りはおいといて・・・

吉備平定は書紀は崇神紀にありますが、古事記は孝霊記ですよね。小説を書
く分にはいいかもしれませんが、史料として考えたら、少なくともどちらが
正しい伝承かという判断が付かないと採用できませんよね。他にもこういう
伝承の混乱はいくらでもあるはずで、それ以前に、孝霊記なら闕史八代とい
われるようなところにあたりますから、その伝承そのものがどこまで遡れる
のかといったあたりから考えていかなきゃいけないので、ちょっと頭が痛い
ですね。

>平林章仁著「三輪山の古代史」白水社

どうもありがとうございます。ただ、ちょっとこちらの方面は手が回りそう
にないので、そのうちに勉強させてもらいます。


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Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月8日(火)00時53分54秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 1月6日(日)07時25分53秒 ]

こんばんは

>記紀を参考にすると,狗奴は後の熊襲のことらしいですが,

このあたりが、一つの大きな問題ではなかろうかと思うんですよね。
よく見る狗奴国観というのは、主に、集団と集団の対立という図式で捉えられ
いるように思います。熊襲などが出てくるというのはまさにこの図式で、熊襲
と大和朝廷という全くの異文化の集団が争う訳で、これは、王だけではなくて、
一兵卒、民衆レベルまでおそらく対立感情があります。前方後円墳と前方後方
墳の分布を一種の“宗教”として捉え、狗奴国との争いを“宗教”対立として
考えるのもこの範疇に入るでしょう。

ところが、マルセさんが書かれているとおり、魏志倭人伝には、価値観を異
にする集団同士が争っていたなどということはどこにも書かれていません。
卑弥呼、卑彌弓呼という個人名をわざわざあげて、その両者が“和せず”と
書かれているだけです。だから、普通は「文化や“宗教”といった価値観の
違いで二つの集団はもともと争っていて・・・」などと書かれていないこと
を補ってこの部分を理解することになりますが、もともと書かれていないこ
とですから、このような読み方しか出来ないというように拘束してしまうこ
とはできないはずです。ですから、「二つの集団は古来友好関係を保ってい
たが、卑弥呼と卑彌弓呼のときだけ、仲たがいをした」などと読むことを否
定する理由はないと思われます。

したがって、記紀の熊襲と倭人伝の狗奴国を結びつけるといった、価値観の異
なる集団同士の争いというスキームに安易にあてはめてしまう事は、再考を要
するのではないでしょうか。この点について、だいぶ前にALEXさんが王の名前
が卑弥呼、卑彌弓呼という類似性を持っていることなどから考えて、全く異質
な領域に狗奴国を設定することは適当ではないというようなことを書かれてい
たと思いますが、私もこれには全くの同感で、この点から、たとえ狗奴国が九
州であっても熊襲であるということにはどうしても違和感を感じてしまいます。


134

Re: Title 本の紹介

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月8日(火)01時01分45秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)16時31分32秒 ]

>>
#私は、年号は単なる吉祥句と考えています。
「年号など単なる吉祥句」というご都合主義が許せない人が、「伊都国までと伊都国から先では1里の距離が5倍も違うし、奴国から先は方角も突然90度回転してしまう」と主張するのも変なものです。

ところで、おにりんさんは、銅鐸の消滅についてどうお考えですか。箸墓の時代はすでに鏡の時代ですから、相当早い時期に銅鐸は消滅したと考えるべき?



135

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月8日(火)01時03分54秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 1月6日(日)07時57分29秒 ]

こんばんは

> これは、石野博信氏の「邪馬台国の考古学」の153pの図のことですよね。この図では、吉備や西部瀬戸
>内が減って、河内が増えているのが見て取れますが、増えている河内の土器というのは、もしかすると河内
>型の庄内甕のことなんじゃないでしょうか。

そこまでのデータは持っていないのでなんとも言いようがないですが、この
図自身が相当に古いもので長年変わっていないので、現在どうなっているの
かということは大変気になります。最近は庄内の大和甕・河内甕というのは
単なる名札で、河内甕といっても河内の甕とは限らないということになって
いるようなので、おそらく、河内の比率などは変わるでしょう。

> 政治的な理由でなく、経済的な理由からでも、吉備系土器の減少を説明できるのではないでしょうか。

それはできるかもしれませんが、どれだけの裏づけを付加できるかが問題でし
ょうね。土器を除外して、何を根拠に吉備の人が大和にやってきたというのか、
他の地方の人は自前の土器を使っているのに、なぜ吉備(+西部瀬戸内)だけが
畿内の土器を調達したのか、というあたりを何がしかのデータでサポートでき
ればいいのではないかと思います。

もともと、他の解釈が絶対駄目だというわけじゃなくて、複数ある解釈の一つ
として狗奴国を吉備に当てるということもあるのでは?ということですから。

>実は、卑彌弓呼は若いころに卑弥呼にフラレタのを逆恨みして・・・なんていうことがあったりして。

この二人は隣近所に住んでいるわけではなくて、少なくとも別の“クニ”の
“王”ですから、“王”となるより以前も含めて、直接会うということは、
ほとんどなかったのではないでしょうか。それに、魏志によればこれは実際
の戦闘行動にまで発展しているのですから、ある程度の社会的要因がなけれ
ば下のものが付いてきません。二人の“王”がいて互いに反目しており、か
つ、そこに社会的要因があるとすれば、これは倭国の王の地位をめぐっての
確執と考えるのが素直ではないでしょうか。“倭国乱”の直後のことでもあ
り、また、実際、卑弥呼死後に倭国王の座をめぐっての争いが起きているの
ですから。

私は、狗奴国についてはこんなイメージを持っています。そうなると、狗奴
国の位置というのも自然に絞られてきて、庄内に入るあたりで倭国王の可能
性があったところといえば、吉備か山陰のどこか、ということになるのでは
ないかと考えています。


14

Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月14日(月)10時54分15秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月13日(日)22時23分15秒 ]

>> >> 現状において、年輪年代で出てきた年代は、いままでの
>> >> 考古学とは、かなり乖離しているようで、考古学者の間
>> >> でもこのデータをどう扱うかについては、かなり議論が
>> >> 分かれるところですが、年輪年代で出てきたデータの間
>> >> には矛盾はありません。デタラメならその間にも矛盾が
>> >> 出てくるでしょう。

>> 僕もそれなりに信頼してよいものであろうとは思いますが
>> それでもなお追試ができない以上、それぞれのデータ間に
>> おいて矛盾がなくても(矛盾のないように組み立てること
>> だって可能というか、矛盾のないようにするのでは)
>> 確定しないところが科学的な思考と思います。

年輪にはばらつきがあって発掘された木材にも年代が合わない物も多数あるそうです。
その中で誰かさんの年代観に一致する物だけを選択していたとすれば信頼に足る物かどうか。
測定不能といって廃棄された年輪データの方に真実があったりする可能性もあると思います。


140

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月8日(火)01時52分48秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)01時41分08秒 ]

>>
>>
東海というのは、濃尾のことかと思いますが、どうも現状では難しそうですね。
三世紀となると、核となるところが見当たりません。
考えるとすると連合体のようなものになりそうなので、卑彌弓呼という一人の
王に引き入られた狗奴国というものとはちょっと離れるような気がします。

なんで、濃尾=狗奴国説って人気があるんでしょうね。




142

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月8日(火)09時32分49秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)01時15分01秒 ]

>> 崇神記には吉備平定はありませんね。という揚げ足取りはおいといて・・・

>>
>>
狗奴国の東(こち)彦でクコチピクってのはだめですかね。



143

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月8日(火)09時59分49秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)01時28分04秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
この場合なぜKuは狗ではいけなかったのでしょう。

>>
>>
この場合はなぜKiは支ではいけなかったのでしょう。
この時代にはngの音がまだあって、King/Kung/KOngだった可能性は無いのでしょうか。
呼もそうですけど朝鮮半島系の名前だったりして。




146

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月8日(火)11時07分45秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)10時54分56秒 ]

>> この時代にはngの音がまだあって、King/Kung/KOngだった可能性は無いのでしょうか。

>>
ngがありうるなら、升はどうなんでしょう。
∫Ongのような音だった可能性はないでしょうか。
単純にsiだったら斯 のような気もします。
すると難升米はとっても変な名前になってしまいますが・・・




147

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月8日(火)12時27分42秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)10時58分16秒 ]

>> 狗奴国の東(こち)彦でクコチピクってのはだめですかね。

>>
>>
卑弥弓呼がピミクコ、狗古智卑狗がクコチピク、狗奴国がクナ国とすると、全てにクが含まれます。
これが何かは分かりませんが、同じもの(例えば部族のような)を表すとすると

卑弥弓呼: ピミ(何かの祭祀あるいは地位)ク(クの)ハ(王?)
狗古智卑狗:ク(クの)コチ(東?)ピク(男性の尊称?)
狗奴:   ク(クの)ナ(格助詞?国の一般名詞?奴に対応する意味?)

もしコチを東と解釈してもこれが方角というより、後の左大臣/右大臣のような地位を表すものかも。
古智卑狗は勝彦、口彦もあるかな。
毛勝彦だったりして。
毛勝岳つうのがあるが関係ないか・・・やっぱり。





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Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月8日(火)12時34分59秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)00時27分40秒 ]

おにりんさん、早速のレスありがとうございます。
今回のレスぐらいの書き方なら、不快感はありません。
これ以降も、柔らかい書き方に努めていただきたいものです。
しかし、精力的ですね。嫌味でなく、感心します。

>>
>>
>>
>>
>>
『倭人伝』は、韓半島と九州との方向を「帯方東南」と示し、
正確に方向を把握していると思います。東でも南でもありません。

>>
>>
>>
>>
>>
古田氏の論証に、「動詞+方角」記事の方角は、始発方向を示す
というのがありましたが、検討されたのでしょうか。
この考えを容れなければ、「東南伊都国に到る」は理解不能の一文です。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
この説明が、かなり苦しいことは、おにりんさん自身がご承知でしょう。
ここに言う南北軸では、「狗奴国=吉備国論」に、全く成立の余地がないでしょう?
吉備は大和の北になるのですよ。
それに、総里程の12000余里を異なる二つの里単位で解釈するのですか。
つまり、不彌国までの10500里はメートルで、残りの1500里は
キロメートルで書かれていると言うのと同じですよ。
私は、不彌国までが12000里であると考えていますが。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
音による推定には、自信ありませんが、伊万里を考えています。
倭(ゐ)+万理(pari)です。音韻に関しては、専門家のおにりんさんに
いずれ、お聞きすることになると思います。

余談ですが、「♯」の使い方を教えてもらえませんか。どういう意味ですか。
本当に解らないのです。

>>
>>
「旧百余国」が中国人の考える倭国の概念です。
倭国王はなかったですね。しかし、倭王・倭女王と女王を
弁別している事に変わりないと思います。

>>そしてこれは、かつての歴史教科書に必ず乗っていた、弥生時代の地図に線引きされ>>た二つの領域(銅矛圏と銅鐸圏)の、銅矛圏に重なるであろうと予想されるのです。
>>
>>
>>
2世紀に当てはまるならば、心強い限りです。
私は、後漢時代に百余国統一(完全であるかは不明です。)の王がいて、
その後、魏代では30国になったと考えているのです。
その間の経緯が、3世紀に当てはまらない理由だと考えられませんか?
そういう考え方はなさらないでしょう、「畿内説」だから。

>>
>>
>>
畿内にはあるのですか。3世紀前半は、当の中国が動乱時代じゃないでしょうか。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
奴国の理解が、私とは異なるでしょうが、大和から大量の人が流入している
と言う根拠はなんでしょう。先日「邪馬台国の考古学」手に入れました、何ページですか。
まだ読んでいませんが、里程には触れていないようですね。卑弥呼の墓についても、
p56に『倭人伝』による検討を放棄するかのような記述がありますけど、
本当に、『倭人伝』に根拠を持つと主張されているのですか。

ともあれ、本の紹介はありがたいです。勉強します。

>>
>>
>>
>>
>>
30国は文献のみで、おおよその領域を特定できると考えています。
次回、詳細に説明させていただきます。

>>
>>
>>
>>
>>
最大限の整合性を得るのに、「南」を北や西や東に解釈するのですか。
矛盾していますよ、やっぱり。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私は、畿内説が宗教だなどとは言いませんが、科学的でないことは証明できます。
1 『倭人伝』の記述に信憑性を認めないのに、卑弥呼や邪馬台国の存在を信じること。
2 『倭人伝』に根拠を持たない、考古資料で歴史を構築すること。
3 自国史料に載っていない女王や王を皇室と結び付け、
合わないところは、こじつけて整合していると主張すること。
まだ、必要でしょうか。科学的なのは、『倭人伝』に根拠を持たない、
考古資料の年代を推定するときだけでしょう。
おにりんさんの豊富な考古資料の知識を、九州説で再検討される
お気持ちはないでしょうか。
邪馬台国問題に、きっと大幅な前進が見られると思います。




149

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月8日(火)13時11分44秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)02時52分39秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
魏志東夷伝の中の国の数って時々合わないことありませんか。
弁、辰合わせて二十四国のはずが二十三国しか国名が書いてありません。
このうち弁辰のつくものが十二国。
つかないものが十一国。
弁辰何々でないものが辰韓とすると、辰韓十二国にひとつ足りない。
で辰王のいる馬韓の月支国をいれると一応数があう。
だから狗邪韓国は韓だけれども、何らかの理由で倭の三十国の中に入れる可能性も捨てきれないように思います。
魏志東夷伝では馬韓、弁辰韓それぞれ五十五、二十三の名前が挙がっています。

国数については後漢書のほうが整理(加工?)されているように見えます。
ここでは馬韓、辰韓、弁韓それぞれ五十四、十二、十二で全体で七十八とされています。
全体の数は魏志東夷伝に合っていますが、うちわけが違うように思います。

このあたりどうなんでしょうか。




153

伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月8日(火)16時13分30秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月8日(火)12時34分59秒 ]

ねたろうさん今日は。

>> 古田氏の論証に、「動詞+方角」記事の方角は、始発方向を示す
>> というのがありましたが、検討されたのでしょうか。
>> この考えを容れなければ、「東南伊都国に到る」は理解不能の一文です。

伊都国が前原にあったと考えるから無理せざるを得ないのではないでしょうか?
唐津に上陸し東南へ3,40km行けば佐賀あたりにつきます。吉野ヶ里なんかも伊都国の候補にしてはどうでしょう。
そして八女あたりが邪馬台国とすれば距離方向とも全く倭人伝の記述と一致する事になります。

伊都国が唐津湾の中にあれば末盧国(唐津)に寄らず伊都国に直接伊都国(前原)に行く筈だからです。
(去年の4月号で少し議論をしました。ツリーがおかしくなって中途半端な議論に終わっていますが。)

>> >> #九州説では、どうあがいても、巴利国ににあった名前の地名
>> >> #が発見できません。

>> 音による推定には、自信ありませんが、伊万里を考えています。
>> 倭(ゐ)+万理(pari)です。音韻に関しては、専門家のおにりんさんに
>> いずれ、お聞きすることになると思います。

文字もなかった古代の地名と文字が伝えられた時代の地名を無理に合わせる必要はないのではないでしょうか。
地名は行政の都合で変えさせられる事はままあることですから。



157

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月8日(火)18時17分36秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)16時36分02秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
確か古田氏が定説を批判する時に「壹」→「臺」、「南」→「東」などの変更を「共同改訂」といって非難していました。
私も真似してみようかななんて。(^^;

それはさて置いて吉野ヶ里は周辺に農耕遺構などをを持たず軍事基地だったような 印象をもっています。
「特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之」という記述と1000戸ばかりの人口というのは吉野ヶ里にピッタリ当てはまると思いますが。

しかも不弥国などが有明海沿岸に比定出来ますから、「南至投馬國水行二十日」を有明海北部から出航し、鹿児島へ行くと考えればもうこれっきゃないと思えてきます。

如何ですか。




158

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月8日(火)19時04分31秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)13時53分03秒 ]

>>
>>
>>
そういう解釈は、初耳です。どの文章を指しているのでしょう。

>>
>>
>>
>>
>>
年次が正しければ、明帝の詔書、人名が正しければ壹与ですよ。

>> 3 自国史料に載っていない女王や王を皇室と結び付け、
>>
>>
>>
>>
おにりんさんの主張は、箸墓が卑弥呼の墓で、卑弥呼は、
ヤマトトトビモモソヒメじゃなかったですか。

>> 合わないところは、こじつけて整合していると主張すること。

>>
なるほど、それが科学的姿勢ですか。

>>
>>
>>
>>
その文献学者達は、長里説で里程を解釈しているのですか。
代表的な説を是非教えて頂きたいものです。

>>
>>
奇遇ですね。私も、女王国と邪馬壹国は、
別の概念と捉えているのですが。




159

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ 大和川湖南 ] 発言日時 [1月8日(火)19時18分30秒]

元の発言 [ 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ かまくら龍 ] 日付 [ 1月3日(木)18時21分38秒 ]


 例の「対海国」の一件は、暗黙のうちに了解してくれたのかな?

>>  魏の明帝の詔書(卑弥呼の遣使‐景初二年‐に対するもの)に、……
>>    『賜汝好物』
>> とある。
>>  この“好物”の中の一つが、鏡である。
>>  鏡は、中国では実用品の域をでていないのに、倭国では太陽信仰のシンボルとして大量に使用し、また、尊重していた。
>>  魏朝では、“倭国は、鏡が好きだ”という状況を十分に認識していた。
>>  それゆえに、銅鏡を100枚も下賜した。

 あなたも「“好物”の中の一つが、鏡である」と書いているように、「好物」は銅鏡だけを指した言葉ではないから、この解釈には無理があるのではないかな。「好物」という語は「よき物」と解する説がいいと思うけどな。


>>  @  魏朝が、新たに鋳造したものを下賜したのだだとすると、現在までに国内で出土している魏鏡では、あまりにも少なすぎるのではないだろうか。

 どうして?100枚全部卑弥呼の墓に埋まってるかもしれないじゃない?


>>  A  下賜されたのが、三角縁神獣鏡だとすると、 卑弥呼は、鏡を“好物”としていた−自らの信仰のシンボルであった−のだから、当然のこととして、死に際して一緒にかなりの和の鏡が埋葬されたと考えるのが道理であろう。
>>     また、臣下に下賜したものも相当数あるだろうから、それらの臣下も死に際して当然埋葬しただろう。

 三角縁神獣鏡のほかに和の鏡が埋まってなければおかしいってこと?そんな道理はないよ。


>>  B  さらに、三角縁神獣鏡は、既に500面以上も出土しているということは、卑弥呼以外に誰がもらっているのだろうか?

 いわゆる舶載三角縁神獣鏡はまだ500枚も出ていないはずだけど?
 それはともかく、卑弥呼以外に魏から銅鏡を貰った人の候補なら他にもいるよ。まず、二代目女王の臺與、率善中郎將になった難升米や掖邪狗たち、率善校尉になった牛利などは、任官の時に銅鏡をもらっている可能性充分だ。もちろん、卑弥呼だって任官の時だけしかもらっていないとは限らない。たとえば、正始四年の遣使の時は、景初三年のときより質・量とも豊富な献上品を持っていったのだから、それなりの見返りがあった筈さ。史書には何をくれたか書いてないけれど、そこに銅鏡がなかったと主張するだけの根拠があるの?


>>     このことを記した史書などどこにもないはずである。

 漢王朝が倭人に銅鏡をくれたって書いてある史書はあるの?


>>  C  それなのに、魏朝からもらった鏡を、臣下に下賜し、1世紀以上も後の古墳から出土するのは、“全面伝世”したからだというような論理は、成り立つはずがない。

 1世紀以上も後の古墳からしかでないと思っているんだ!誰に吹き込まれたの?庄内式と布留式の境目が4世紀半ば頃だとでも思っているわけ?そりゃ、誰かに騙されてるよ!


>>  したがって、魏鏡や三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡ではない。

 したがって、この結論は成り立たないんだ。


>>  卑弥呼の鏡は、3世紀の弥生墓から出土している鏡のいずれかである。

 3世紀の弥生墓って、具体的には、どれを指しているのかな?まさか、弥生中期後半から後期前半くらいの北部九州の弥生墓なんてことはないよね?


>>  魏は、漢から政権を禅譲されたので、同時に鏡もそのまま譲られていたと考えられる。
>>   以上の論理から、卑弥呼の鏡は、漢式鏡である。

 そのような破綻した論理では卑弥呼の鏡の種類を特定できないよ。


16

Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月14日(月)12時13分53秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月14日(月)10時54分15秒 ]

>> 年輪にはばらつきがあって発掘された木材にも年代が合わない物も多数あるそうです。

その情報はどっから出たものですか?
どこかに書いてあるんでしょうか。


162

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月8日(火)19時38分15秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)16時33分57秒 ]

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

でもね、おにりんサンちとばかし年明けから傲慢が過ぎませんか?
今月は、私など口も挟めないような好い議論が続いていると思いROMして居様と思いましたが、
これじゃね!

あまりなので、遠慮無くあげ足を取らせてもらいますよ!

>>
20年間に壱トンぐらいの銅でしょ。
完全に不可能なんですか?物理的に?
社会状況的に?それとも、徐州の全銅山の生産量は、20年間に壱トンに満たないとか、
そのくらいのものを輸出するだけの生産が出来ないとか、社会政治的に全く不可能であるというのを証明できる証拠をお持ちなのですね!

当時だとしても、人間一人の体重を約50Kgwとして20人分!
対馬海峡を天気が良くても、丸木舟で20年間に渡せない数なんですね!

>>
>>
>>
>>
>>
これも絶対に不可能なんですか?
抜道など全く無いと証明する証拠をも持ちと拝察します。

>>
>>
この位の生産が不可能だと言う絶対的証明をお願いします。

>>
>>
これも不可能だと言う証明をお願いします。

>> もともとこの特徴のある鏡が卑弥呼がもらった鏡だ、といいだした小林秀雄氏の時代には200枚以下の発掘だったので

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
あのね、製品の鏡、壱枚壱枚を手彫りしたという証拠は?
鋳造ってどんなものどんな事か、正確に理解されておられます?

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
だったら、全く同じ物が、50年以上中国で伝承されている証拠をご提示ください。

>>
>>
だったら、ご自分で鋳造工芸と鋳造技術を充分実体験と勉強なさってから、
其の証明をして記入なさる事でしょうね!
ついでに彫刻も勉強なさったら!
それで、ブロンズを作って見られるとろるしいのでは!
壱、2度鋳造と鋳造型を作ったくらいの人間に穴の見えるようなことは、記入なさらない事です。





163

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月8日(火)19時51分21秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)14時15分15秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
小帝は、明帝の治世年号入りの鏡を卑弥呼に送ったわけですね。

>>
>>
>>
>>
>>
>> 古田氏の論証に、「動詞+方角」記事の方角は、始発方向を示す
>> というのがありましたが、検討されたのでしょうか。

>>
>>
やっぱり、ご存じないようですね。対馬や壱岐には、
南向きに出向しても、海流の流れで東南に行き着くから
始発方向でよいと主張されたのです。

>>
>>
>>
>>
私が考える卑弥呼の国は、山田氏と違うと考えますが、
上の論理がまかり通るなら、山田氏に軍配上げてもいいのかも。

>>
>>
>>
>> この説明が、かなり苦しいことは、おにりんさん自身がご承知でしょう。
>> ここに言う南北軸では、「狗奴国=吉備国論」に、全く成立の余地がないでしょう?
>> 吉備は大和の北になるのですよ。

>>
解っていても、自説が正しいんですよね。

>> それに、総里程の12000余里を異なる二つの里単位で解釈するのですか。

>>
>>
>>
私は、短里説でなければ説明できないと考えているのです。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
出所不明の地図から、三世紀の中国人の地理観を
読み取るとはすごいですね。
これも科学ですか。

>> 倭(ゐ)+万理(pari)です。音韻に関しては、専門家のおにりんさんに
>> いずれ、お聞きすることになると思います。

>>
>>
>>
2000年10月の大場嘉門氏との論争「倭の発音」
読みました。同時期、私も大場氏と同じ結論に達していました。
おにりんさん今でも「倭奴」を「わな」、「周道倭遅」を
「しゅうどうわち」と読むおつもりですか。

>>
もちろん、勉強させていただきます。

>> 「旧百余国」が中国人の考える倭国の概念です。
>> 倭国王はなかったですね。しかし、倭王・倭女王と女王を
>> 弁別している事に変わりないと思います。

>>
>>
>>
倭王・倭女王は、倭国王・倭国女王と同義だと思います。
直前の『韓伝』も、『韓国伝』ではないでしょう。

>> 私は、後漢時代に百余国統一(完全であるかは不明です。)の王がいて、

>>
倭国王帥升。

>> その後、魏代では30国になったと考えているのです。

>>
前回の回答は、そうかもしれませんねだったのに残念です。
これは、なんと言う化学変化ですか。

>>
仰る通り、そうします。

>>
>>
>>
>>
>>
長里説で里程をご説明くだされば、いつでも退散しますし、
納得できれば、畿内説に替わってもいいと考えていますが。

>>
残念ながら、科学者は日本語を理解しないものらしい。(独語)



164

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月8日(火)20時04分28秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)19時34分06秒 ]

>>
どの文章でしょう。示せないのかなー。

>> 年次が正しければ、明帝の詔書、人名が正しければ壹与ですよ。

>>
>>
おにりんさんが、景初二年説とは。

>>
>>
>>
>>
他説を嘲弄し、論者の人格を貶め、自説に抗せんと
する、あらゆる発言を拒むのが科学的態度でしたね。
カルシウム不足では。




165

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月8日(火)20時47分47秒]

元の発言 [ 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月8日(火)16時13分30秒 ]

牛頭天王さん今晩は。

>> >> 古田氏の論証に、「動詞+方角」記事の方角は、始発方向を示す
>> >> というのがありましたが、検討されたのでしょうか。
>> >> この考えを容れなければ、「東南伊都国に到る」は理解不能の一文です。

>> 伊都国が前原にあったと考えるから無理せざるを得ないのではないでしょうか?
>> 唐津に上陸し東南へ3,40km行けば佐賀あたりにつきます。吉野ヶ里なんかも伊都国の候補にしてはどうでしょう。
>> そして八女あたりが邪馬台国とすれば距離方向とも全く倭人伝の記述と一致する事になります。

>> 伊都国が唐津湾の中にあれば末盧国(唐津)に寄らず伊都国に直接伊都国(前原)に行く筈だからです。
>> (去年の4月号で少し議論をしました。ツリーがおかしくなって中途半端な議論に終わっていますが。)

私も、以前から不思議でなりませんでした。卑弥呼の都は
博多湾岸であり、古田氏の言う「郊迎」の礼であったとし
ても、伊都国(前原)に直接乗り込むのに不都合はないと
思っていたからです。
しかし、私は伊都国を金印をもらった倭奴国であると考えるようになったのです。
怡土郷は、その残存地名であると考えています。
つまり、前代では倭奴国が都であり、「郊迎」の礼を行う
には、松浦に上陸する必要があったと考えているのです。
後漢時代の郡使の往来の記録を参考にしたものと思われます。

伊都国と音韻が合わないのは、卑弥呼の都が博多湾岸に移
動したことによって、「都に伊れ近し」の国と表記されるようになったからだと考えています。

>> 文字もなかった古代の地名と文字が伝えられた時代の地名を無理に合わせる必要はないのではないでしょうか。
>> 地名は行政の都合で変えさせられる事はままあることですから。

早計であったと反省しています。


166

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月8日(火)21時20分32秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)23時19分52秒 ]

>>
>>
>>
 遺跡名と調査次、遺構コードを教えていただければ調査報告書で確認します。



167

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月8日(火)21時32分56秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)11時48分47秒 ]

>>  文中の30ヶ国を“倭”(民族)の範囲と考えれば狗奴国も含むけれど、
>>  女王国対狗奴国の対立があったとすると、狗奴国も女王国と匹敵する連合体であって一つの国としない考えもあります。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私は1)以外にないと思いますってことです。
おにりんさんはどれだと思ってるんですか?

>>  それと、まだ他に倭に含まれてない“+α”の複数国がありますヨ。
>>
あっ、そうか。



168

熊襲って何?(Re: 狗奴国)

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月8日(火)21時44分33秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 1月8日(火)00時53分54秒 ]

そうした点は,おっしゃる通りだと思います。


ただ,

後の熊襲であるとした場合,その実体は如何に?

という視点から,
神話を読み解く手法もあるでしょうから,
この視点から見ると,熊本辺りは,
やはり興味深いと思います。

薩摩,大山祇神,火瓊瓊杵尊,とか,
あれこれあれこれを巡り,
話題が大満載ですから。


逆に,

継体紀にある磐井の乱というのは,
「筑紫国造は孝元天皇皇子大彦命の後」(岩波版註)
らしいので,

その源流を,一大率〜邪馬台国系と見ると,
継体天皇の立場と絡み,
けっこう面白いかな・・・。


# というわけで,神功皇后とは?


169

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月8日(火)21時52分47秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)22時43分59秒 ]

>>  須玖岡本、三雲南小路。
>>  まあ、ここで言う個人墓とは違うと思いますが、支石墓は個人墓ですネ。
>>
 だから「ここで言う個人墓とは違うと思いますが」と書きましたですヨ。

>>
 それが私が「吉野ヶ里は邪馬台国ではない」とする理由の一つです。
 「前方後方墳」出現までまで、世襲の「オウ」が居なかったという考えです。
 ただし、これら四基の「前方後方墳」の年代が不明なので(考古学的)断定はできません。

>>
 個人墓が有るかどうかと言う命題でしたよネ。
 結論は「有った」でょう。
 規模は後から付加される属性であった、先ず「オウ」の権威が確立したことを示す個人墓であることが本質でしょう。

蛇足) 墳丘を持った個人墓はあっても、北部九州で言う「墳丘墓」に個人墓はないと思います。
    「墳丘墓」は基本的に群集墳ですから。
    それでも、須玖岡本には平民用の「自然丘」を使った集合墓、首長者層の「墳丘墓」、オウの「独立王墓」に分かれています。
      



170

Re: Title承前「封土作冢」追加

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月8日(火)21時56分25秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」追加 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)22時57分25秒 ]

>>
>>
 そういうことでしょうネ。
 見方を変えると、冊封体制に組み込まれたクニ(金印国家群)でないことは確かですネ。



171

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月8日(火)22時00分02秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月6日(日)13時32分19秒 ]

>> >>  ゲッ!
>> >>  何をお読みになったんですか。
>> 「東アジアの古代文化109号」です。
>> データの出所が書かれてないので科学的根拠がないです。
 文脈からは、「東文研」でしょう。


173

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月8日(火)22時22分26秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)16時33分57秒 ]

>> 三角縁にかんしてはあいかわらず中国鏡、国産鏡との論議が続いてますけどもやはり常識からいって
>> 中国では一枚も出土もない
>>
>>
>>
>>
>>
>>
「平緑神獣鏡
 画文帯神獣鏡も平縁神獣鏡の仲間であるが,・・・・・・・・・・・・
 平縁神獣鏡としたものは,殆んどが二神二獣鏡である。・・・・・・・
 ・・・・“外側”が肥高してやや三角縁に近い姿を示すものとの二者がある。
 後者は主として獣形文鏡に特徴的なものであるが,神獣鏡としての例もある。
 これを“斜縁神獣鏡”と呼ぷこともある」
 ハテ?サテ?



174

おはつです。 あのー

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月8日(火)22時28分43秒]

元の発言 [ 感謝感激、熱烈歓迎 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)00時44分13秒 ]

つまり中国科学院の王さんはこんな鏡は中国に無い、という主張はまったく認められないということでしょうか?
鏡の製作が戦乱によって生産されにくくなる三国志の時代に倭のために大量に大型鏡を魏が製作するのかなあ。河上氏のいうように魏から送られた鏡は方格規く鏡か内向花文鏡だと思うけど。
にほんは西も東もあれだけ銅製品を作ってるのに。
やっぱり国産銅で国産鏡が無難なのでは。
お二方はあまりにも邪馬台国大和説の信者でありすぎるからそのような(科学的)な結果を信じていらっしゃるのでは?
もっと視野を広げましょうよ。
あと三角縁=魏鏡説を繰り広げる論者の全員が大和説、というのも気になります。あれはやはり倭国乱、後の260年以降の生産だと思いますよ。


177

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月8日(火)22時39分01秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)22時14分15秒 ]

>>
>>
>>
>>
 三角縁鏡の特徴の一つは、同范(兄弟)鏡が多いってことなんですが。(^_^;)

>>
>>
>>
 椿井大塚山5号鏡の鉛同位対比は湖南省の鉛に近接してるってんですがネ。

>>
 工人も呉の工人、公孫氏のところに居た工人。
 楽浪から意処の共通する“平縁神獣鏡(斜縁神獣鏡)”が出土するのも当たり前。



178

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月8日(火)22時55分19秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月7日(月)22時16分00秒 ]

>> 江南の原料であるという理由はなんだと書いてあるのですか?
>> 教えてください?
>> ぼくは物分りがが悪いですから、どこになんとかいてあるのか親切に教えていただけると本当に感謝します。
>> ぼくには、どう読んでもただ結論しか書いてないとしか読めないのです。
 結論を導き出した元グラフがありますよね。
 確かに、このグラフの元データについて、例えば鉱山名などがありませんけど、省名があります。
 省名だけに、しょうめい(証明)には充分。
 疑わしければデータの出所を調べる必要がありますネ。


179

Re: 狗奴国=吉備国論

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月8日(火)23時02分29秒]

元の発言 [ Re: 狗奴国=吉備国論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)23時11分23秒 ]

そうですね,畿内論者の中では,
岡田説が狗邪韓国を倭に含めるのは無しだった,
でしたかね。

魏,呉,公孫淵,高句麗,辺りの血生臭い話とか。

# でも解明上,面白そう。

>> 大加耶(高霊)や辰国(新羅)と倭国との関連は,
>> 久留米の高良山や妻木晩田の孝霊山と絡み,興味深い。

>>


ぐふふ。

筑後川流域の久留米辺りは,
九州論者の本命の一つでして,

谷川健一『青銅の神の足跡』によると,

肥後北部から筑後の間は,物部氏の本拠であった,
という説があるそうです。(太田亮説)

そこに高良(こうら)山があり,
高良神社の祭神は,阿曇磯良または武内宿祢というが,
一説に,物部氏関係だそうです。


というわけで,考えてみると,

オヤジッチさんによると,そこらで「鉄」。

物部氏と言えば「鉄」と言われますが,
孝霊山のある妻木晩田も,「鉄」。

「鉄」と言えば,大加耶(高霊)。

辰韓人と言えば,男女倭に近し,また文身。
(辰国については機会があればまた)


おまけとしては,

例の何で,卑弥呼と物部のなんとかがあり,
と言う場合に,

卑弥呼=日の三井の呼=三井郡派
卑弥弓呼=日の御木(三毛/三計)の呼=大牟田派

とでも空想を逞しくすれば,
ちょうど北と南の位置関係であり,
女王国が狗奴国と争ったのは,物部一族の争いか,
(上記谷川説では,多氏もコンビとか)

あるいは,さらに多角的に観点を広げるとかすれば,・・・,物部対?

なんて方向で推理すると,
この件名での論点の一つに適う,と(^◇^)



180

すばやい返事。

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月8日(火)23時05分36秒]

元の発言 [ Re: おはつです。 あのー ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)22時37分51秒 ]

なるほど。
年号ですか。私としては大和に前方後円墳が大量に作られる時期=布留0式以降に三角縁が大量に製作された、と思っていますからね。ただ黒塚や椿井大塚山の大量副葬を見る限りではその被葬者が死んですぐ一括して製作された印象が私にはあって、もっと後の時代かもしれません。
ただ景初四年鏡という年号鏡があるということは、倭鏡にしても邪馬台国時代後期の鏡、かその直後の鏡であることはいえるでしょうね。


181

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野 ] 発言日時 [1月8日(火)23時15分52秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月8日(火)22時55分19秒 ]

>> >> ぼくには、どう読んでもただ結論しか書いてないとしか読めないのです。
>>  結論を導き出した元グラフがありますよね。
>>  確かに、このグラフの元データについて、例えば鉱山名などがありませんけど、省名があります。

まず、元データの出所が不明ですよね。
つぎに、数値が不明ですよね。
それから、なにやら元データを加工したらしいことが書いてありますが
どう計算したかも不明ですよね。

だから、このグラフって結論であって、その理由は全く書いてないってことじゃないですか?


>>  省名だけに、しょうめい(証明)には充分。

これだけ不明だらけじゃ証明でもなんでもないですよね。


>>  疑わしければデータの出所を調べる必要がありますネ。

データの出所もデータ加工した数式も書かないで科学的なわけないです。
それじゃまるで冗談のような雑文じゃないですか。


182

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月8日(火)23時24分44秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月8日(火)22時39分01秒 ]

>>  椿井大塚山5号鏡の鉛同位対比は湖南省の鉛に近接してるってんですがネ。

まったく根拠不在の伝説がまたひとつ生まれたってことですか?


185

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月8日(火)23時38分49秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)22時14分15秒 ]

やはり、鋳造、鋳造による工芸を理解されておらないようですね。

>> >> 1)1トンの銅を中国の徐州から運ぶ
>> 20年間に壱トンぐらいの銅でしょ。
>> 完全に不可能なんですか?物理的に?
>>
>>
>> 対馬海峡を天気が良くても、丸木舟で20年間に渡せない数なんですね!

>>
>>
>>
原料というのなら鉄は如何なんですか?
鉄ベイにして持ちこんでるでしょう。

>> これも絶対に不可能なんですか?
>> 抜道など全く無いと証明する証拠をも持ちと拝察します。

>>
>>
>>
>> この位の生産が不可能だと言う絶対的証明をお願いします。

>>
>>
>>
>>
>>
>> これも不可能だと言う証明をお願いします。

>>
>>
>>
>>
>> あのね、製品の鏡、壱枚壱枚を手彫りしたという証拠は?

>>
>>
>>
>>
>> 鋳造ってどんなものどんな事か、正確に理解されておられます?

>>
>>
>> だったら、全く同じ物が、50年以上中国で伝承されている証拠をご提示ください。

>>
>>
>>
>> だったら、ご自分で鋳造工芸と鋳造技術を充分実体験と勉強なさってから、
>> 其の証明をして記入なさる事でしょうね!

>>
其処が理解されてい無いと言うことですよ。
極端なことを言いましょうか。

この場合、うでの良い職人が、一人居れば可能になるということなんですよ。
おにりんさんの言われている事は鋳型の元型の製作でほとんどクリアできることなんですよ。
現在、この元型を作れる職人サンが全滅しし兼ねないと大騒ぎでしょう。

居こむ材料まで、考慮して元型を作成できる職人サンが一人居れば、良いと言う事なんです。

こんな話は、いかがです。
あのですね、ここに、一人洛陽出身のうでの良い職人が居たとします。

何かの事情で、楽浪郡で仕事をしていた老人です。
洛陽の出身なので、なれた徐州産の銅と鈴を使って仕事をしていました。

楽浪郡が、危なくなって倭国へ逃げてきました。
そこで、製作する事になりましたが、材料が良くありません。
王に、材料を取り寄せてくれるように頼みました。
王は、材料を取り寄せました。
職人は、材料が届く間、せっせと元型を作るのに励みなした。

材料が届き、弟子を養成しながら製作に励みましたが、10年程度で後継者の養成を果せずなくなりました。
さて、困ったのは弟子達です。

経験不足のため、師の作ったような元形を作れません。
しかし、質の良い鏡を作るのには師の作った元型を使う事が必要です。

そして、其の型は、徐州産の銅を使う事を前提に作られており、其れ以外では、良いものは出来ません。
元型は、大事に使いつづけられましたが、寿命が来て次々に壊れていきました。

弟子達は、其の方を元に別の元型を作ろうとしましたが、其処までの技術は、持っていませんでした。
何処かで狂いが出てしまい、師の様には行きませんでした。

童話風に書いてみましたが、こんな事でも可能になるんです。
技術と言うものの意味を良く考えて理解してください。





188

Re: おはつです。 あのー

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月9日(水)00時10分17秒]

元の発言 [ Re: おはつです。 あのー ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)22時37分51秒 ]

グラフや資料はこの夏に似たようなのを図書館で見た覚えがあります。
ですが、其の時の解説に、錫にも若干鉛が含まれておりこの影響と
日本国内の銅や幾つかの主用銅山のデータがぬけて居ると書いてあったような?


19

トラブルが発生しましたので、書き込みの一時中断をお願いいたします。

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [1月14日(月)12時29分45秒]

トラブルが発生しましたので、本日は書き込みの一時中断をお願いいたします。
復旧し次第おしらせいたします。

なお、一部の投稿が復旧不能になるかもしれませんので、お含み置きください。


191

Re: おはつです。 あのー

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [1月9日(水)00時38分59秒]

元の発言 [ Re: おはつです。 あのー ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月9日(水)00時10分17秒 ]

>> 日本国内の銅や幾つかの主用銅山のデータがぬけて居ると書いてあったような?

# その反論が否定されて中国産鉛ということで決着したのが20年ほど前のことですので、相当古い本のようですね。


192

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月9日(水)01時35分22秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)03時19分24秒 ]

>土器の拡散は有名ですけどね。

土器の拡散というか分布ということでいうと、たとえば、関東方面に東海の
土器が出ているから、東海と関東は親しい関係にあったという想定をする訳
ですね。ここだけではなくて、他の所でも、福岡で庄内式が多く出るから、
畿内と福岡あたりは緊密な関係にあった、とか推論する訳です。

つまり、前提として、

『外来性の土器が多く出る場合、土器の由来地と出土地は親しい関係にある』

という条件設定をしたうえで、話を展開している訳でしょ?

そうすると、東海系土器っていうのは狗奴国との抗争期と見られる庄内期を
通じて大和の搬入土器としては最大の比率を持っている訳だから、畿内にと
って東海は最も友好的な地域と言わないとおかしい。にもかかわらず、他の
地域については土器で友好関係を推定しておきながら、大和と東海の関係だ
けはこの前提を破って知らん顔っていうのはどうにも理解しがたいです。

将来的には、大和の東海系土器は伊勢の土器で濃尾の土器ではないというこ
とになるかもしれませんけど、今はまだ大和の東海系土器は濃尾の土器と考
える方が主流だと思いますから、今のように誰も彼もが狗奴国は濃尾だとい
う現状っていうのはちょっと不思議ですね。たまたま本を出してる人がそう
いう考えの人ばかりなので、一見そう見えているだけかもしれませんが。

今はどうか知りませんが、赤塚が狗奴国は東海だといい出した時には、奈良
東南部は東海の土器が多く出土するからあそこは東海の領分で邪馬台は河内
だといっていました。これはこれで首尾一貫してるからわからないではない
ですが。


193

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月9日(水)07時23分55秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月8日(火)20時47分47秒 ]

ねたろうさん、おはよう御座います。

>> 私も、以前から不思議でなりませんでした。卑弥呼の都は
>> 博多湾岸であり、古田氏の言う「郊迎」の礼であったとし
>> ても、伊都国(前原)に直接乗り込むのに不都合はないと
>> 思っていたからです。

私が伊都国=前原ではないと考えるのは三世紀には唐津街道は浜島玉島の部分が海で波が崖に直接打ち付けるような状態で通行不能だったらしいからです。
壱岐−唐津間と壱岐−前原間の距離も殆んど変りませんし、壱岐から深江あたりは直接視認出来ます。
前原が卑弥呼の時代の伊都国なら末盧国に立ち寄り、500里陸行する事はありえないことだろうと思います。

>> しかし、私は伊都国を金印をもらった倭奴国であると考えるようになったのです。
>> 怡土郷は、その残存地名であると考えています。

もちろん倭奴国と伊都国と福岡あたりは強い関連があると思います。
但し、「イト」というクニも時代により大きくなったり、分割されたり、移動したりしたのではないでしょうか。
あるときは博多湾から有明海までを含む大きな国だった。
それがあるときは奴国と伊都国に分割されたこともある。
時代が変わって元イト国の住民が怡土郷へ移住させられて怡土郡になったという可能性を考えています。

>> つまり、前代では倭奴国が都であり、「郊迎」の礼を行う
>> には、松浦に上陸する必要があったと考えているのです。

私はむしろ前原が末盧国だった可能性もあると思っています。
そして末盧国は後に東松浦の方に移動した。
この場合伊都国は大宰府あたりが有力候補になります。
そして邪馬台国は甘木か日田に。

>> 後漢時代の郡使の往来の記録を参考にしたものと思われます。

>> 伊都国と音韻が合わないのは、卑弥呼の都が卑弥呼の都に移
>> 動したことによって、「都に伊れ近し」の国と表記されるようになったからだと考えています。

卑弥呼の都が博多湾では畿内派に「それ見ろ九州説も原文改訂しているじゃないか」と反撃の口実を与えることになります。


194

どうもごぶさたです

投稿者[ 日野陽仁 ] 発言日時 [1月9日(水)10時20分27秒]

あけましておめでとうございます。
どうもすっかりごぶさたしておりますが、HPの宣伝に参りました(笑)
「九州王朝説批判」↓

http://village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu.htm

で未完成になっておりました「推古朝の謎」を、とりあえず仮登録しました↓

http://village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu_wk.htm

まだ原論文のままで、最新の成果を含んでいませんが、修正したら本登録する予定ですので
よろしくお願いします。


195

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月9日(水)12時39分41秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月9日(水)00時05分18秒 ]

>> 居こむ材料まで、考慮して元型を作成できる職人サンが一人居れば、良いと言う事なんです。

>>
>>
>>
国産で制作するための最低の条件を例え話にしたまでの事で何ら矛盾は有りませんよ。

詭弁は、弄さない様に、論点を変えてもしょうがないでしょう。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
何か矛盾が出ますかね?
その人たちは、三角縁神獣鏡だけ作っていなきゃ行けないんですか?
別の種類を作っては行けないし、三角縁神獣鏡を作るのを止めては行けないと言うルールを
持つとお考えなのですね!

スポンサーの注文で別の種類を作る事も無いと。

>> 技術と言うものの意味を良く考えて理解してください。

>>
>>
あなたは、研究するのに、機材等にまったくこだわらないと言われるんでしょう。
本当に相なんですか?
その職人たちだって良いと思っている材料には、こだわるでしょうに、
こんな事も面倒で無理だと言われますか?
現代でも遠くに材料を探しに行ったり注文する職人さんがいないと言われるんですから




196

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月9日(水)12時49分25秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)22時31分32秒 ]

>> 小帝は、明帝の治世年号入りの鏡を卑弥呼に送ったわけですね。
>>
あれ?景初二年説じゃなかったですか。
確か、年次と人名は正確らしいと…。
まあ、おにりんさんなら許されるんでしたね。
翌年改元されるのが判っていたのに、なぜ小帝は、
明帝の年号を入れさせたのか不思議に思っていたのです。
三角縁は特鋳とお考えでは。前帝の威徳をたたえたのですか。

>>
>>
>>
やっぱりご存じないじゃないですか。
投馬国へは、一海を渡るの表現がなく、たんに水行二十日の
記述から、九州島沿岸を航行したのであり、九州島内の国である。
「南至投馬国水行二十日」の文型は、不彌国を起点とした傍線行程。
つまり、位置は不彌国からみて南でも、旅程は邪馬壹国より以北の
行程にあたる。というのが古田氏の理論ですよ。

>>
>>
>>
逆でしょう。倭人伝に書かれてある里数値は、
短里説で読まなければ理解できません。
あなたこそ、倭人伝以外の長里の例を示し、
倭人伝でも長里で読めると証明すべきなのです。
なぜなら、『倭人伝』の里程は、短里であれば
現在の地図と整合していることが歴然としているからです。
短里が普通、長里が異常なのですよ。

「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあり」
私は、東治と考えますが、東冶であれ中国大陸内には収まります。
赤道の方まで持っていってないでしょう。
あきらかに、短里の証左足り得ると考えます。

>>
>>
でも、十五世紀の地図で、三世紀のことをあーだこーだ言ったのは貴方ですよ。

>>
>>
それを聞いているのが大場さんでした。おにりんさんは
「わ」に近いと考えているのでしょう。
加えて「奴」は、上古音で「な」としているようですが、
だいたい上古音を示す韻書はなく、逆に「那の津」の「な」音が
上古音推定の論拠になっていると聞きましたが。
初心者なもので、又聞きですけど実際どうなんですか。

>> 倭国王帥升。
>>
国書に、国名と王名が書かれていたとでもしておきましょう。
王は複数いたようですし。

>>
>>
>>
>>
2800キロも蛇腹のように、折りたためば合うというわけですね。
さすがに、科学的ですね。

>>
>>
>>
>>
>>
韓は方四千里、狗邪韓国―対馬間千里、対馬―壱岐間千里。
比率が整合しているのは、里単位が同一だからであり、
短里使用が考えられるでしょう。
当時から、測量技術が有ったと考えるべきでしょう。
おにりんさんは、誇大里数値派ですか?

>>
>>
>>
これは、私も悩みましたが、牛頭さんへのレスをみて下さい。
現在の仮説です。

>>
>>
>>
どこを想定しているのでしょう。奴国は傍線行程で、
伊都国が前原なら方向は東南ですから内陸に向かうと考えられますが。

>>
>>
>>
>>
水行は陸続きです。私は、韓国内陸行と考えますが、おにりんさんは水行派ですよね。
水行は、陸続きになるでしょう。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
水行と渡海は書き分けてあり、投馬国は九州島内です。
不彌国の南に邪馬壹国があるのです。距離ゼロです。
部分里程の合計が、万二千余里であることも否定されるのでしょうか。
要するに里程は考えたくないんでしょう。
長里説で万二千余里を解説している、畿内論者もいなくなりましたしね。

>>
確かに、ドイツ語は失敗でした。お恥ずかしい。
さすがに科学者さんは、細やかな心遣いをされますね。




197

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ 大和川湖南 ] 発言日時 [1月9日(水)13時12分18秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月9日(水)00時37分29秒 ]

 長文のフォロー、どうも!

 でも、ここの問題は三角縁神獣鏡が239年から100年以上後、つまり、340年以後から「しか」出土しないなんて、出鱈目なことを主張しているのは誰なの?ってことなんだ。

 そんなことを主張している、まともな人って、本当にいるの?


198

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について)

投稿者[ 菅原 ] 発言日時 [1月9日(水)14時33分30秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月9日(水)12時49分25秒 ]

ねたろうさん、始めまして。

>> やっぱりご存じないじゃないですか。
>> 投馬国へは、一海を渡るの表現がなく、たんに水行二十日の
>> 記述から、九州島沿岸を航行したのであり、九州島内の国である。
>> 「南至投馬国水行二十日」の文型は、不彌国を起点とした傍線行程。

 うーん、どうなんでしょうねぇ。現代の日本人の、北海道・本州・四国・九州といった
地理的感覚で解釈すると危ういのではないかと思います。ねたろうさんは、関門海峡を
ご覧になったことがおありでしょうか?私は一度観光で訪れたことがあり、九州に入った時、
下まで降りてみたのですが、それはもう、本州はまさに目と鼻の先といった感じです。
大河を見慣れた中国人には、一瞬小さな川くらいに見えるかもしれません(実際に間違う
ことはないでしょうが)。

 北部九州から魏の使者が(魏の官人が中国人から話を聞いたということでもかまわない
のですが)、日本海側へ東進するにしても、関門海峡を抜けて瀬戸内海を東進するにしても、
はたして狗邪韓國〜対馬〜壱岐〜北部九州の時のように、「渡一海」などと表現する
でしょうか?

 当時の中国人が、海で隔てられた本州島と九州島といった地理的感覚を持っていたか、
疑わしく、北部九州から山陰または瀬戸内への航路は沿岸航行と判断した可能性が高い、
と考えるほうが妥当なのではないでしょうか。

  投馬国が九州島内の国である可能性を全否定するわけではありませんが、「倭人伝」の
記事からは、九州島内に限定されているとは言えないと思います。


2

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月13日(日)23時25分34秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月11日(金)22時17分10秒 ]

牛頭さん、今晩は。遅くなりましてすみません。

>> >> 多分、牛頭さんとの議論のずれは、傍線行程の理解と、
>> >> 万二千余里の解釈の違いにあるのではないでしょうか。
>> >> 私は、里程に関しては、全面的に古田氏の解釈に依拠しています。
>> >> 7,000+1,000+800+1,000+600+1,000+500+100+0=12,000里
>> >> 奴国(伊都国からの)と投馬国(不彌国からの)は、
>> >> 傍線行程として、万二千余里から除いて計算しています。
>> >> 対馬、壱岐を半周読法で解釈し、その合計1400里は、
>> >> 万二千余里に含まれると考えています。
>> >> そうすると、不彌国と邪馬壹国間は、距離ゼロになり、
>> >> 総里程万二千余里が、全て記述されていることになるのです。

>> 対馬、壱岐を半周と言うのがちょっと。私は余里という言葉の解釈で不彌国と邪馬壹国間の距離は2,300里位しかないのではないかと考えています。

私は、里表記のあるところだけが、実際に魏使が確認しえたとこ
ろであり、日数表記は倭人による伝聞と考えています。ですから、
里程は全て、『倭人伝』内に記されていると考えているのです。

>> >> 多分、牛頭さんやオヤジッチさんも狗奴国を熊本あたりとされていると思うのですが、
>> >> 九州南部の投馬国への行程を、有明からと考えるには、無理があるのではと考えており、
>> >> 九州東岸廻りが妥当だと思っています。

>> 私は九州は仕事で飯塚に数度と観光で1度行っただけなので九州の地理は陳寿程度かもしれません。
>> 九州東岸廻りだと原文改訂せずに持っていくには末盧国を宗像あたりに持っていって、そこから東南にさがって不弥国が豊前市あたりにあった
>> としたほうが矛盾がないと思います。

私も、九州には、二度しか行っておりませんので、地理観に自信
はありません。しかし、投馬国へは、傍線行程と考えられますの
で、不彌国から方角が南というだけで、そこへの旅程は東岸廻り
でも、西岸廻りでもよいわけです。これについては、日野さんの
ホームページの「『漢書』西域伝と魏志倭人伝」が参考になると
思います。あとは、『倭人伝』の記述に西岸の情報がないので、
東岸廻りが妥当と結論したわけです。

>> >> 正確な地理は、把握していたかもしれませんが、地図はなかったと考えます。
>> >> 後に書かれた『後漢書』の記述が、あまりにも混乱しているのが、
>> >> 弱いながらも、その理由になるのではないでしょうか。

>> 漢は日本に使いをしていないですからね。
>> それに対して魏は郡使を常駐させる?まで邪馬台国と関わっていたのです。
>> しかも266年までは晋との交流が記録されている。
>> その後の交流は記載されていないがもっと続いていた可能性が強い訳です。
>> そうなると郡から女王国への行程が一人や二人の報告によって伝えられたいい加減な情報によって出来た物ではありえない訳です。
>> 地理についてもかなり詳しく把握していたのではないでしょうか。

もちろん、後漢時代からは、楽浪、帯方郡の支配下にあり、郡使
は何度も往来していたと考えられ、かなり正確な地理観をもって
いたと思われます。よって、地図が有ったとしても不思議ではあ
りません。しかし、南朝宋代に書かれた『後漢書』の地理観は、
『倭人伝』の記述と多くの点で合いません。もし地図があったの
なら、南朝宋は、魏や晋から政権を禅譲された国ですから、必ず
受け継がれていると思うのです。
でも、確信しているわけではありません。

>> その通りですよ。古田さんに対して「原文改訂をしないといいながら改訂しているじゃないか。」と少し皮肉を言ったのです。
>> 但し、あらゆる定説を疑ってみると言う古田さんの手法は私の姿勢と一致します。
>> そして私の仮説も九州説の人からさえ支持されていない事が多いです。
>> ま、仮説と言うより単なる思い付き程度ですが。

ようやく、得心しました。
私の説も仮説の域を出ません。皆さんの批判を受けながら鍛えて
いきたいと思っています。


20

Re: おにりんさん、こちらにレス付けて下さい。

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月14日(月)12時32分02秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月11日(金)01時50分31秒 ]

大変申し訳ない次第です。深謝。


おにりんさん、今晩は、返事遅くなってすみません。

>>
>> 単に、吉祥句でも並べた鏡を送るべきだったのでは、
>> というのが引っ掛かっているのです。

>>
>>
>>
#私は、原文どおり景初二年が貢献年次だと思っています。
年号は天子の治世を表すものであるのに、卑弥呼に送った鏡の中
に、(先の天子)明帝の治世年号入りの鏡が有ること自体が不信
だと言っているのです。貢献年次が景初三年であれば、十二月に
出された証書により、難升米等は、銀印をもらってから、帯方太
守とともに正始元年二月以降に帰国したと考えられます。景初三
年十二月には、夏王朝の暦法に戻すという小帝の詔があり、卑弥
呼への証書を出す時点で、改元は決まっていたことがわかります。
当然「正始」の年号も決まっていたでしょう。では、なぜ正始年
号の鏡だけを作らなかったのかと言う疑問が生まれるのではない
でしょうか。倭国遣使が帰るまでには、閏十二月があり、少なく
とも一月以上の時間があったはずなのです。もし、十二月以前に
鏡が作られたのなら、年号を入れずに吉祥句だけの鏡にすればよ
かったのではないか、と申し上げているのです。

>> こんどは「女王国東渡海千余里復国在」の説明がつかなくなるでしょう。

>>
>>
それだと伊勢湾から関東までの距離が、対馬から壱岐までの距離
と同じになりますよ。さらに、畿内説では、投馬国と女王国は、
不彌国から見て実際の方角は東だけど、これは南と解釈し、女王
国の東千里の国は、原文どおり東と解釈することとなって、方位
に関しては全く恣意的に取捨選択していることになるでしょう。

>> つまり、水行であれ、渡海であれ、畿内説では方角の矛盾を説明できないのです。

>> 日野さんの説をどう解釈されているのですか。

>>
>>
日野さんのような緻密な分析と明快な論証は、私には出来ません。
結論には同意できませんが、立派な論文と評価しています。
私が聞いているのは、日野さんの論文では、不彌国から邪馬壹国
迄の記述「水行十日、陸行一月」も傍線行程として書かれてある
と解釈できますが、それについてどう考えますかと言うことです。

>> 荒唐無稽な数値ではないということを申し上げたつもりです。
>> 都から、会稽郡までは晋の統治領域ですよ。
>> それを万二千余里と考えているわけですから、当然実感を伴う数値です。
>> 遥か彼方の南方というような抽象的な表現ではないということです。

>>
>>
>>
確かに、会稽まで万二千余里と書いてあるわけでは有りません。
しかし、5000里程度と書いてあるのでもありません。
帯方郡から女王国までの里程を考え、これを中国本土に当てはめ
れば、女王国は、会稽の東に位置するであろうと言う意味です。
万二千余里は、都から会稽までの距離と言う意味ではないかも知
れませんが、『東夷伝』に使用された「里単位」と中国本土で使う
「里単位」が異なっていたとしたら、中国本土に当てはめて、会
稽の東にあたると推定することさえできないでしょう。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#魏略には邪馬台国が伊都国の南とある、というのを私は知りません。
「当に会稽の東治の東に在るべし」の意味は、夏后小康の子が会
稽で教えた断髪文身の風習と同じことが、女王国に見て取れるの
は、女王国が、会稽の丁度東に位置することと関係があるのでは
ないかと、陳寿が推測していると言うことでしょう。決して、万
二千余里が間違っていることを示すために持ち出した例ではあり
ません。

#実は、『倭人伝』は短里でなければ解けないが、畿内説だから認
めるわけにはいかず、矛盾している長里説を、矛盾していると知
りながら正しいと書くことを春秋の筆法と言うのではないでしょ
うか。普通に考えれば短里であることは明白ですから。

>> おにりんさんが、その説を支持される筈はないですよね。
>> 卑弥呼の墓では長里説でしたから。

>>
>>
>>
>>
それじゃあ『倭人伝』のなにを信じるのですか。
畿内説では、里程(距離や方角)、国名(大海国、一大国)、人
名(壹与)、貢献年次、会稽東治等みな書き間違いかでたらめな
数字ということになりますよ。

>>
>> 韻書のないことを問題にしているのではなく、
>> 今読んでいる本には、上古音は韓半島や日本の古文献を参考に
>> 推定されていると書いてあるのですけど、「奴」はどうなのか知りたいだけです。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ご教授ありがとうございます。参考にさせていただき、勉強します。

>> わが国のことを記述した倭人伝でさえ解読できないのに、
>> 高句麗の地名や支配領域を特定できるものでしょうか。

>>
>>
>> よしんば、できたとして、長里による推定でしょう。
>> 韓半島が短里で、高句麗が長里ですか。

>>
韓半島と、高句麗は陸続きですよ。同じ『東夷伝』内に書かれた国ですよ。

>> 同じ東夷伝の中に、二つの異なる単位が使用されたと考えられますか。

>>
>>
>>
その特殊な理由を考え出さないと長里説では説明できないと言っているのと同じでしょう。

>>
>>
日数の換算は無いでしょう。里数を知らない倭人の言葉(日数)
を中国人はやすやすと信じたのでしょうか。周囲の国々を夷蛮と
さげすんでいた誇り高き中国人ですよ。不彌国までは、里数で表
記したのに、肝心の邪馬壹国までが日数表記だけなのは、魏使が
邪馬壹国へ行かなかったから、とでも仰るのでしょうか。
私は、里数表記のあるところは、実際に訪れていると思いますが、
日数表記は、倭人からの伝聞と考えます、いかがでしょう。

>>
>>
書き手も読み手も同じ里単位で読むのが当たり前でしょう。
読み手が長里で読むと予想されるときに限り、『三国志』に書い
てある「里」はあなた方の知らない短里で書いていると断りを
入れるものでしょう。
読み手も短里で読むから、中国本土の会稽の東に女王国があると
書かれても納得できるのです。

>>
>>
>>
魏代の里に関しては、文献で求められていないから論争になって
いるのです。考古学的に考えれば、倭人伝の記述から短里使用は
疑えません。三世紀の韓半島から北部九州までの地形が、現在と
大幅に違うと言う証拠でも有れば考えますが。

>>
>>
>>
>>
>>
それに不信を抱いている素人が山ほどいるということです。
学者の言っていることが全て正しいのですか。土器の編年が、近
年めまぐるしく変化するのは、学者の提出した考えが、次から次
へと変化した結果でしょう。学者が言っているから間違いないと
いうのは、唾棄すべき権威主義と考えます。

なお、漢代と唐代の里は、一里三百歩と三百六十歩で、明らかに
違う単位です。

>> それは、科学者に考えていただきたい課題ですね。
>> 韓半島、対馬、壱岐に使用された里数値の比率が、
>> 現在の地形の比率とほぼ重なりますから、
>> 測量技術が有ったと考えるべきでしょう。偶然にしてはすごすぎますよ。

>>
>>
>>
苦しいですね。面積では16〜25倍の誤認ですか。
>>
>> 帯方郡治からの総日程です。良くご存知でしょう。
>> 古田氏の本も全部お読みでしょうから。

>>
>>
>>
>>
>>
#私は、帯方郡治から不彌国までを12,000里と考えますが。
おにりんさんの考え方は、連続式読方であり、日野氏の論文に矛
盾しますし、帯方郡から不彌国までは短里で計算した実際の距離
を採用し、不彌国から邪馬壹国までを長里で換算し、実距離に合
わせていることになります。韓国から北九州までが10500里で、
北九州から畿内大和までが1500里であると本気で主張されるの
ですか。これは、おにりんさんがよく示される1995年より、遥
か昔の古典的長里説ですよね。
#漢代でも日に30里じゃなかったと思いますが。
そして、多くの研究者は、この問題に触れていないのが現状です。
有ったら教えてほしいと何度もお願いしているはずです。

#読みにくい文章とは思いますが、おにりんさんならご理解頂けるでしょう。




200

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について)

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月9日(水)16時28分25秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について) ] お名前 [ 菅原 ] 日付 [ 1月9日(水)14時33分30秒 ]

菅原さん、始めまして。

>> >> やっぱりご存じないじゃないですか。
>> >> 投馬国へは、一海を渡るの表現がなく、たんに水行二十日の
>> >> 記述から、九州島沿岸を航行したのであり、九州島内の国である。
>> >> 「南至投馬国水行二十日」の文型は、不彌国を起点とした傍線行程。

>>  うーん、どうなんでしょうねぇ。現代の日本人の、北海道・本州・四国・九州といった
>> 地理的感覚で解釈すると危ういのではないかと思います。

そうは思いますが、、、
倭国が島で構成されているということは
彼らは知っていましたから、関門海峡を川とは
勘違いしないでしょう。
ねたろうさんの言い分も筋は通っていると
思います。


201

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について)

投稿者[ 菅原 ] 発言日時 [1月9日(水)18時07分01秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について) ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月9日(水)16時28分25秒 ]

 yaohideさん、始めまして。

 前の投稿は、用語の使用がいい加減で、論旨が混乱しているところがありました。

 沿岸航行と、「渡一海」という表現を用いる航行とが区別されているという
ねたろうさんのご指摘は分かるのですが、では、狗邪韓國〜対馬〜壱岐〜北部
九州へと至る航行と北部九州〜本州へと至る航行とを同列に扱ってよいものかと
いうと、現地を見た人間としては、どうも疑問なのです。

 狗邪韓國〜対馬〜壱岐〜北部九州へと至る航路と同様に、北部九州〜本州へと
至る航路も「海」で隔てられているのだから、「渡一海」という表現が用いられ
ていなければならないとの認識は、どうも現代の日本人の地理感覚を過剰に投影
してしまった結果である可能性が高いように思うのです。

 勿論、この見解は私の主観が強く出ているので、水掛け論になってしまいますが、
ただ、北部九州〜本州への航行の場合は「渡一海」という表現が用いられているはずだ
との見解は、必ずしも自明のことではないと思います。


202

Re: すばやい返事。

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月9日(水)18時25分24秒]

元の発言 [ Re: すばやい返事。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月9日(水)00時16分36秒 ]

なるほど。
つまりおにりんさんは、あの大量副葬をすべて被葬者の持ち物、と考えてあるわけですね。だから三角縁の埋葬には時間差があってその大量輸入時期を240年頃、としてるわけだ。たしかにそれなら時間的に合うし納得できます。
そのことはその時代までの弥生時代の北部九州の後漢鏡にもいえますよね。だいたい製作されてから20年から40年後に副葬されている印象をたしかに受けます。
ただ私は前にも書いたとおり三角縁はその被葬者が死んですぐ新しく製作された、という印象があります。
つまり三角縁の大量一括副葬に関してはその被葬者に対してではなく、その周り、その地域に対して大型鏡によるお祭りをさんざんやったあと、一括して副葬したのではないか。とゆう考えになってきたのですよ。
ちなみに黒塚って行燈山陵の近くにあるんですよねえ。黒塚のほうが先行して作られたのでしょうけど天神山との関係はどうなるんだろう。


203

Re: おはつです。 あのー

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月9日(水)18時38分52秒]

元の発言 [ おはつです。 あのー ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月8日(火)22時28分43秒 ]

おはつです。

>> お二方はあまりにも邪馬台国大和説の信者でありすぎるからそのような(科学的)な結果を信じていらっしゃるのでは?

んー??
言い回しが辺だと思うんだけど。。。
邪馬台国大和説の信者だから(科学的)な結果を信じるの?
はっきり数字はそこに実在するんだもんなあ。
信者だから見えてない信じないっていうならわかるけど。

ところがデータの出所も数字そのものも
変換した数式さえも明らかにしない変な文章を
科学的だと信じてる人が九州説には居るよね。
あなたはどう思います?


>> あと三角縁=魏鏡説を繰り広げる論者の全員が大和説、というのも気になります。

だって魏鏡説だったら九州説にはならないでしょ?
魏鏡説が全員大和説になるのは普通だと思うんだけど。


204

わりこみすいません

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月9日(水)18時44分33秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について) ] お名前 [ 菅原 ] 日付 [ 1月9日(水)18時07分01秒 ]

>>  勿論、この見解は私の主観が強く出ているので、水掛け論になってしまいますが、

私は詳しくありませんが、結局当時の中国人がどれだけ厳密に、またどのように使い分けていたか、文献にあたるしかないのでは?
たとえば黄海を渡ると渡海なのか。
だとすると地続きでも渡海になるし、あくまで地続きは水行なら、よほど日本列島全体の地理を知らなければ分かりません。
マゼランはラプラタ川の河口を海峡と思って遡上していったのだし、間宮海峡が海峡だか河口だかも探検の末分かったことでしょ。
関門海峡が奥深い入り江、またわ閉じた内海への入り口か、陸地を隔てる海峡かどうかはほとんど判断できない。
大海に浮かぶ島へ渡る場合は、問題なく渡海かも知れませんが、陸沿いに進んで狭い海峡をわたって、そこを渡海と表現するか水行と表現するか難しいところと思います。

渡海/水行の記述で地続きかどうか判断するのは、その当時の中国人のグローバルな地理観によほど過剰な期待をしない限り無理と私は思っています。


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申し訳ない実は

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月9日(水)18時56分49秒]

元の発言 [ Re: おはつです。 あのー ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月9日(水)18時38分52秒 ]

私はPC初心者でして、あとからこの書き込みを見るとなんか相手にケンカ売ってるみたいな書き込みかたでした。
みなさんと対立するつもりはございません。反省。
むしろみなさんから納得できる意見をどしどしききたいな。
僕の部屋には考古学の本は10冊もないですよ。むしろそんな素人同然の僕に対して納得できる意見が欲しい。みんなにもわかるようなね。
ちなみに邪馬台国に関しては最初九州説、そのつぎ大和説に考えを変えて、いまでは東遷説に落ち着きました。


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Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ 大和川湖南 ] 発言日時 [1月9日(水)19時24分02秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月9日(水)16時06分12秒 ]


>>  そんなことを主張している、まともな人って、本当にいるの?

>>
 小林行雄のこと?だったら違うと思うけど。
 三角縁神獣鏡が239年ごろから以降の制作で、それが全部1世紀以上伝世しているとすれば、三角縁神獣鏡が出土した古墳は全部339年以降のものだということになる。つまり4世紀中葉以降だ。小林行雄がそんなこと主張している?彼は古墳の出現を、3世紀末から4世紀始めにおいていたんじゃないの?つまり、伝世期間は半世紀かあともう少しぐらいさ。いくらなんでも、1世紀以上の伝世なんて想定していないよ。
 もちろん、数ある鏡の中には、1世紀どころか、何百年も伝世した鏡があったっていいんだけどね。
 全部1世紀以上伝世したなんて誰が言ってんだって聞いてるのさ。


>>
 本当に昔はいたの?本当に高島さんがそんなこと言ってる?





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Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月9日(水)19時34分38秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月9日(水)07時23分55秒 ]

牛頭さん、今晩は。

>> 私が伊都国=前原ではないと考えるのは三世紀には唐津街道は浜島玉島の部分が海で波が崖に直接打ち付けるような状態で通行不能だったらしいからです。
>> 壱岐−唐津間と壱岐−前原間の距離も殆んど変りませんし、壱岐から深江あたりは直接視認出来ます。
>> 前原が卑弥呼の時代の伊都国なら末盧国に立ち寄り、500里陸行する事はありえないことだろうと思います。

私も、そのことは聞き及んでおり、陸行なら荒川峠越えではないかと考えています。
もちろん、地図による推定であり、実際私が通ったのは、整備された有料道路でした。
ただ、伊都国の東に100里行くと、投馬国への水行の起点となる不彌国に着くことが問題ではないでしょうか。
不彌国は、湾頭の国であり、その南に邪馬壹国が接していると読めるからです。
不彌国を博多湾頭に持ってくる限り、伊都国は前原あたりになると考えているのです。
前原の遺跡群は、王の存在を示唆していると思えますし。

>> もちろん倭奴国と伊都国と福岡あたりは強い関連があると思います。
>> 但し、「イト」というクニも時代により大きくなったり、分割されたり、移動したりし
たのではないでしょうか。
>> あるときは博多湾から有明海までを含む大きな国だった。
>> それがあるときは奴国と伊都国に分割されたこともある。

これは、次回別に一項を立てお尋ねしたいと考えていたことですが、
私は、博多湾から有明海までを含む大きな国を「女王国」だと考えています。

二十一国連記の国々が、その余の旁国でなく、卑弥呼の支配領域だとしたら、
戸数と道里が略載されているはずなのです。しかし、里程は邪馬壹国で終わっています。
だとすれば、二十一国の国々への里程もそこで終わっているのではないでしょうか。
つまり、邪馬壹国と二十一国を併せた概念が、「女王国」なのではないかという考えに
行き着いたのです。そこで、もう一度『倭人伝』を読み直しました。
邪馬壹国が官庁のある霞ヶ関中央区、残り二十一国は、新宿・中野・渋谷区…のようなもの
として読んでも全く齟齬はありません。戸数七万を邪馬壹国の戸数ではなく、
「女王国」の戸数と考えれば、道里とともに戸数表記もされていることになるのです。
しかも、狗奴国の位置は、「女王国」の南となって、今までよりはるかに理解しやすい
と考えています。

伊都国と奴国は、もともと一つだったのが、後に分割されたと考えています。
あくまでもアイデアですが、倭奴国から、女王国へ権力の移動があったとすれば
有りうると。

>> 卑弥呼の都が博多湾では畿内派に「それ見ろ九州説も原文改訂しているじゃないか」と反撃の口実を与えることになります。

申し訳ないのですが、意味が解りません。本当です、教えてください。




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Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ 大和川湖南 ] 発言日時 [1月9日(水)19時42分31秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月3日(木)18時52分16秒 ]


 挨拶省略。

>>  + 3. 下賜品ならば棺内にあって然るべき、同じ墓で棺内に丁重に副葬されている鏡があるのに、車輪石や石釧のように棺外に置くのは下賜品でない証拠。

 単なる信念の吐露だよ。そうじゃないと言うのなら、きちんと根拠を示してね。


>>  + 6.  景初三年一月の時点で、景初四年の無いことが分かっていたのになぜ景初四年銘鏡があるのか。

 実は、景初四年がないなんてわかっていなかったからさ。そんなこともわからないの?
 景初四年正月元旦は、明帝の忌日だからさ、改元できないでしょ。実際、景初三年十二月の翌月の朔には改元されてないじゃない。

>>  OKです。§^。^§

 本気?



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Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について)

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月9日(水)20時18分54秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について) ] お名前 [ 菅原 ] 日付 [ 1月9日(水)14時33分30秒 ]

菅原さん始めまして、レスありがとうございます。

>>  うーん、どうなんでしょうねぇ。現代の日本人の、北海道・本州・四国・九州といった
>> 地理的感覚で解釈すると危ういのではないかと思います。ねたろうさんは、関門海峡を
>> ご覧になったことがおありでしょうか?私は一度観光で訪れたことがあり、九州に入った時、
>> 下まで降りてみたのですが、それはもう、本州はまさに目と鼻の先といった感じです。
>> 大河を見慣れた中国人には、一瞬小さな川くらいに見えるかもしれません(実際に間違う
>> ことはないでしょうが)。

>>  北部九州から魏の使者が(魏の官人が中国人から話を聞いたということでもかまわない
>> のですが)、日本海側へ東進するにしても、関門海峡を抜けて瀬戸内海を東進するにしても、
>> はたして狗邪韓國〜対馬〜壱岐〜北部九州の時のように、「渡一海」などと表現する
>> でしょうか?

私も関門海峡行ってきましたし、魏使の通ったであろう行路を車で、なぞろうと試みました。
本当に手が届くのではと思うほどの近さでしたね。
さて、私が問題だと思っているのは、「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑」の表記です。
つまり、中国人は、倭人の住む国を山がちな島だと認識していると思われる点です。
事実九州は島であり、博多湾頭の不彌国を起点として千里東の別の陸地に
上陸したという理解が、中国人に有れば「海を渡る」と表現すると思うのです。

>>  当時の中国人が、海で隔てられた本州島と九州島といった地理的感覚を持っていたか、
>> 疑わしく、北部九州から山陰または瀬戸内への航路は沿岸航行と判断した可能性が高い、
>> と考えるほうが妥当なのではないでしょうか。

私は、短里説を支持していまして、総里程万二千余里の終着点である邪馬壹国を
博多湾岸の国と考えていますので、瀬戸内海の航行はないと考えています。


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Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月14日(月)12時35分53秒]

元の発言 [ Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月14日(月)12時15分08秒 ]

>> そうであれば、銅なんか袖の下次第じゃないんでしょうか?
>> 第一貨幣に使われてもいるんですから。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
如何して、同じにまた一遍に運ぶ必要があるんですか?
後の時代ですけど、銅貨を鋳潰して鍋やたの銅製品を作る例も有る。
そして、どんな時にも闇経済は有る。
まして全国的ならば、其の事に不満を持つ奴も出るし、
其れを利用して設けようとする奴だって多く出てくる。
完全に取り締まるのは、不可能と考えて良いし、
其れが塩だったり青銅鉄などの必需品だと、王朝さえつぶしかねない。

実例だってある。
当然先の見える人は、程度問題で二の足を踏むことだってあると見ますが。

>>
だから、逆方向シナ海方面の海軍司令官なり、
船の艦長なり、補給関係の兵隊なり買収すれば済むことでしょ。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
一族そろって帰りたいと言う悲願なんか持っていればそう不思議でもない。
其の時に、帰国すれば何らかのさわりがあるならね。




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ところで

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月9日(水)20時44分21秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月9日(水)00時37分29秒 ]

うん。布留0式の年代はそんなもんじゃないかな。
おにりんさんは箸墓=卑弥呼の説に賛同ですか?
わたしは箸墓=台与だと思ってますよ。年代的にも合うし、あの墓の主こそ「倭国、また乱れる」を収束させた女性の墓だと思ってます。
日本書紀の名前もヤマトトトヒモモソノヒメだしーヒミコ、ヒメコとは伝えてない。
記紀の編纂者たちはどうしてヒミコを神功皇后に充てたのだろう。邪馬台国論者にとっては必ず解決しなければならない謎のひとつでしょうね。
わたしにとって気になるのは神功陵、五社神古墳が時代は違えどほぼ箸墓とおなじ大きさ、墳長約280mというのが気になります。あれも女性が葬られていたのかなあ。


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(地理的感覚について)

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月9日(水)20時53分58秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について) ] お名前 [ 菅原 ] 日付 [ 1月9日(水)14時33分30秒 ]

>>  うーん、どうなんでしょうねぇ。現代の日本人の、北海道・本州・四国・九州といった
>> 地理的感覚で解釈すると危ういのではないかと思います。ねたろうさんは、関門海峡を
>> ご覧になったことがおありでしょうか?私は一度観光で訪れたことがあり、九州に入った時、
>> 下まで降りてみたのですが、それはもう、本州はまさに目と鼻の先といった感じです。
>> 大河を見慣れた中国人には、一瞬小さな川くらいに見えるかもしれません(実際に間違う
>> ことはないでしょうが)。

>>  北部九州から魏の使者が(魏の官人が中国人から話を聞いたということでもかまわない
>> のですが)、日本海側へ東進するにしても、関門海峡を抜けて瀬戸内海を東進するにしても、
>> はたして狗邪韓國〜対馬〜壱岐〜北部九州の時のように、「渡一海」などと表現する
>> でしょうか?

「女王國東渡海千餘里、復有國」はどう解釈するんですか?

90度方角が狂っていたとして邪馬台国を広く近畿とした時でも北方へ渡海する所は何処ですか?

佐渡ですか?


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Re: おはつです。 あのー

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月9日(水)20時56分19秒]

元の発言 [ Re: おはつです。 あのー ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 1月9日(水)00時38分59秒 ]

>> >> 日本国内の銅や幾つかの主用銅山のデータがぬけて居ると書いてあったような?

>> # その反論が否定されて中国産鉛ということで決着したのが20年ほど前のことですので、相当古い本のようですね。

どうも失礼いたしました。
ただ、データだけだと其の点の説明が抜けていますので出来ますならご説明ください。



213

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月9日(水)21時04分14秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月9日(水)19時34分38秒 ]

その考えには賛同します。うん有明海。
そして「奴国、これ女王国の境界つきるとこなり」とあるでしょう?これなんのことかさっぱりわからなかったのですがある日地図を見てこの奴国とは玉名市にあたるんじゃあないかと思えてきました。つまり菊地川から北が女王国で
南が狗奴国、クコチヒク、すなわち菊地彦ではないかと。
あそこはたしか玉名市の東をはさんで田原坂まで西南戦争、つまり北の勢力と南の勢力が争った場所でもありますしー。


214

Re: Title 本の紹介

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月9日(水)21時15分36秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)03時09分09秒 ]

>> #これは一種の循環論法です。「無難」でない説をトンデモ説と定義するなら、いろいろな「学説」は「無難」に決っております。
>> 「無難」でない説を採用していたのでは職が得られない、ということに違いないと、私は考えています(イエローカードかな)。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
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>>
>>
>>




215

Title倭の国々ってドンナことになってるんでしょう?

投稿者[ バ頭鬼 ] 発言日時 [1月9日(水)21時17分54秒]

失礼します。
なにか私の書きこみが変なところに飛んでいるみたいです。
どうなっているのでしょう。

所で、本題です。

皆さんの議論で思うんですけど、
倭の国々はドンナ領域の決め方に成っているんでしょう?
こんな疑問が沸いてきました。

たとえば、関門海峡ですか、これを支配と言うか領域としていたのはどん国なんでしょう?
大分県の姫島ですかここは、一つの国とも見えますし
沿岸のどれかの国が領有していたのか?
これだけでも、国の数は増えそうですし、
関門海峡は、二国の境だったのか?

海の民族の国だと一つになりそうにも見えますしね。
江戸時代の飛び地みたいなものは、無かったのか?とか。
これだけでも、色々変わりそうですしね。


216

Re: わりこみすいません

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月9日(水)21時35分13秒]

元の発言 [ わりこみすいません ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月9日(水)18時44分33秒 ]

>> 大海に浮かぶ島へ渡る場合は、問題なく渡海かも知れませんが、陸沿いに進んで狭い海峡をわたって、そこを渡海と表現するか水行と表現するか難しいところと思います。

マゼランとはちがい、中国人は倭地が島でなりたっている
ことを知っていました。
ただ、そのことと渡海、水行で区別ができるかは、これは
微妙な問題でしょうね。

ただ、一応分けて書いてあるところもあるので、そういう
事もいえるだろうということはあると思います。
一概にNOとは言えないな。


僕も名古屋から、車で家内の実家まで行きましたので
場所は知っています。現代ではトンネルも橋もあります
のでますます近く感じますが。
行きは夜だったので、知らないうちに九州へ渡っていた
というような感じでした。




217

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月9日(水)21時59分40秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)23時37分47秒 ]

>>  遺跡名と調査次、遺構コードを教えていただければ調査報告書で確認します。
>>
>>
 取り敢えず、ありがとうございます。



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Re: Title 本の紹介

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月9日(水)22時04分52秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)03時09分09秒 ]

なるほど
おにりんさんはぼくとは逆なんだ。ぼくは数年前まで大和説で、いまでは考古学の本を読んだり遺跡をめぐりあるくうちに九州説、というか東遷説に落ち着いたのですよ。だから大和説だったぼくにはおにりんさんのいう「九州説、東遷説はトンデモ系」という発言はよくわかります。ぼくもそう思ってましたよ。九州から奈良にいきなり移るわけがないと。前方後円墳は近畿から全国に展開するのだと。
でもいろんな遺跡、とくに邪馬台国と関連がある遺跡、古墳とか見てあるくうちにおかしいと思ってきました。つまり大和説が成立するには大和勢力の遺跡、遺物が3世紀前半には北部九州や吉備、出雲に及んでなくてはならない。
でも北部九州は箱式石棺の墳墓があちこちあるし、吉備は双方中円墳がつくられ、出雲ではたくさんの四隅突出墳墓が作られる。おなじ時期の巻向ではおおきさは100mあるがいまのとこ石塚と勝山しかないし、墳丘に登った印象ではとても西日本を統率した王の墳墓ではない。まだ出来掛けの段階でそれどころか巻向の墳墓のほうが北部九州、吉備、山陰の影響を受けすぎている。そして3世紀後半に箸墓、西殿塚古墳に大王が成立する。
つまり大和説とは逆じゃあないかとおもえてきましてね。
かといって九州説でもなりたたない。九州説だと北部九州勢力はある時期をもって滅んだ、大和勢力に取り込まれた、というのではならないけどわたしは福岡市に住んでいて、3世紀代の遺跡を調べるうちにどうもこの地域には断絶性がない、むしろ継続性があるなあとおもえてきて、これで九州説にも戻れなくなった。
これを解釈するには東遷説しかない、と思えてきました。
つまり巻向古墳群の被葬者は北部九州の首長ではないかと。その人をささえた勢力が吉備や山陰の人たちだったのではないか。
とくにあれだけ銅鐸を祭っていたひとたちがいきなり鏡の祭祀に切り替えられるのだろうかと。
石塚や勝山はまだ東遷中の出来掛けの遺跡で箸墓でようやく東遷が達成できたのだと。


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Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月9日(水)22時06分33秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月9日(水)19時34分38秒 ]

ねたろうさん 今晩は。

>> >> 私が伊都国=前原ではないと考えるのは三世紀には唐津街道は浜島玉島の部分が海で波が崖に直接打ち付けるような状態で通行不能だったらしいからです。
>> >> 壱岐−唐津間と壱岐−前原間の距離も殆んど変りませんし、壱岐から深江あたりは直接視認出来ます。
>> >> 前原が卑弥呼の時代の伊都国なら末盧国に立ち寄り、500里陸行する事はありえないことだろうと思います。

>> 私も、そのことは聞き及んでおり、陸行なら荒川峠越えではないかと考えています。

かなりの難所ですね。高低差500mもある。
船で行けば1日程度の行程を3日位掛けていかなければならない事になります。
考えにくい事です。

>> ただ、伊都国の東に100里行くと、投馬国への水行の起点となる不彌国に着くことが問題ではないでしょうか。
>> 不彌国は、湾頭の国であり、その南に邪馬壹国が接していると読めるからです。

100里はたった7.5kmですよ。有明海も三世紀にはもっと内陸に海が食い込んでいたでしょう。
筑後川の流れも今とはかなり違っていたでしょう。
有明湾頭にあっても不思議はないし、海に出るにあたって川を使っても良い訳です。

>> 前原の遺跡群は、王の存在を示唆していると思えますし。

そうですね。これは奴国の墓域とすれば良いのではないでしょうか。

>> >> もちろん倭奴国と伊都国と福岡あたりは強い関連があると思います。
>> >> 但し、「イト」というクニも時代により大きくなったり、分割されたり、移動したりし
>> たのではないでしょうか。
>> >> あるときは博多湾から有明海までを含む大きな国だった。
>> >> それがあるときは奴国と伊都国に分割されたこともある。

>> これは、次回別に一項を立てお尋ねしたいと考えていたことですが、
>> 私は、博多湾から有明海までを含む大きな国を「女王国」だと考えています。

>> 二十一国連記の国々が、その余の旁国でなく、卑弥呼の支配領域だとしたら、
>> 戸数と道里が略載されているはずなのです。しかし、里程は邪馬壹国で終わっています。
>> だとすれば、二十一国の国々への里程もそこで終わっているのではないでしょうか。

戸数と道里は邪馬台国への道筋に従って書いてあり、それ以外は書かなかったのでしょう。

>> つまり、邪馬壹国と二十一国を併せた概念が、「女王国」なのではないかという考えに
>> 行き着いたのです。そこで、もう一度『倭人伝』を読み直しました。
>> 邪馬壹国が官庁のある霞ヶ関中央区、残り二十一国は、新宿・中野・渋谷区…のようなもの
>> として読んでも全く齟齬はありません。戸数七万を邪馬壹国の戸数ではなく、
>> 「女王国」の戸数と考えれば、道里とともに戸数表記もされていることになるのです。
>> しかも、狗奴国の位置は、「女王国」の南となって、今までよりはるかに理解しやすい
>> と考えています。

つまり卑弥呼を盟主とする連合国の戸数と範囲と言うことですね。
そういう考えも出来ますね。

>> 伊都国と奴国は、もともと一つだったのが、後に分割されたと考えています。
>> あくまでもアイデアですが、倭奴国から、女王国へ権力の移動があったとすれば
>> 有りうると。

>> >> 卑弥呼の都が博多湾では畿内派に「それ見ろ九州説も原文改訂しているじゃないか」と反撃の口実を与えることになります。

>> 申し訳ないのですが、意味が解りません。本当です、教えてください。

「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳」は對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國などが邪馬台国からみて
北方にあった(多分45度の範囲内)と記しているのであろうと考えています。
末盧國、伊都國、奴國、不彌國が西にあっては具合が悪いのじゃないですか。


220

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月9日(水)22時08分17秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月8日(火)23時34分01秒 ]

>> 私は1)以外にないと思いますってことです。
>>
>> おにりんさんはどれだと思ってるんですか?
>>
>>
>>
 おにりんさんらしくもなく、普通っぽい感覚ですネ。失礼。m(__)m



221

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月9日(水)22時16分37秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月8日(火)23時24分44秒 ]

>> >>  椿井大塚山5号鏡の鉛同位対比は湖南省の鉛に近接してるってんですがネ。
>> まったく根拠不在の伝説がまたひとつ生まれたってことですか?
 科学的な批判をお願いします。
 さもなければ、一言だけ「私は信じない」と仰るだけにすればいいのでは。


222

Re: Title 本の紹介

投稿者[ にゃん7 ] 発言日時 [1月9日(水)22時20分26秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)22時40分25秒 ]

>>  要するに、卑弥呼の共立によって大乱が収まる以前の人たちの古墳ですね。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>




223

Re: Title 本の紹介

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月9日(水)22時36分53秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月7日(月)22時40分25秒 ]

そうかなあ。
二年前と今年の1月3日、巻向古墳群を見て周りましたよ。やっぱり箸墓は大きい。でかい。ただそのほかの古墳に登った印象では全国を統御した王の墓、という印象は無かったな。ホケノ山でも。やっぱり全国を統御した最初の王の墓は箸墓だったのでは・・・・。
ただ箸墓以前の古墳群は他の地域の墳墓にくらべて魏志にいう「径百余歩」の記事に当てはまるきがするんですよ。
わたしは九州説、いや東遷説ですけどね。
だから『径百余歩」の記事だけを重視するなら箸墓以前の巻向のどれかにヒミコが眠っているのではないか・・・。
そういう意味ではホケノ山の被葬者はヒミコでもよいのではないか。そういう論者のひとっています?!


224

Re: ちょっと、一言

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月9日(水)22時44分24秒]

元の発言 [ Re: すばやい返事。 ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月9日(水)18時25分24秒 ]

>> そのことはその時代までの弥生時代の北部九州の後漢鏡にもいえますよね。だいたい製作されてから20年から40年後に副葬されている印象をたしかに受けます。
北部九州の副葬鏡は、冊封した王に対して中華王朝が下賜した装具ですから、当然ですネ。
三角縁鏡の棺外へ副葬のされ方は北部九州には無い、近畿の弥生墓の石製品のやり方じゃないですかネ。
冊封されたことがないから知らなかったのかな?
それにしては棺内に丁寧に副葬された鏡もあるけど、三角縁じゃない。


225

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [1月9日(水)22時50分44秒]

元の発言 [ 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月8日(火)16時13分30秒 ]

牛頭天王さんこんにちは
ごぶさたいたしております。土佐邪馬台国説の山佐留です。
昨年の暮れには、馬頭鬼さんの青玉 、丹の考察や四国東部説など、高知の
ことも話題にとりあげられ、興味深く拝見いたしておりました。
今年は九州説、近畿説だけでなく、四国説についても、大論争でとりあげら
れる機会が増えて欲しいものだと思いつつ投稿しました。

>> 伊都国が前原にあったと考えるから無理せざるを得ないのではないでしょうか?
>> 唐津に上陸し東南へ3,40km行けば佐賀あたりにつきます。吉野ヶ里なんかも伊都国の候補にしてはどうでしょう。
>>伊都国が唐津湾の中にあれば末盧国(唐津)に寄らず伊都国に直接伊都国(前原)に行く筈だからです。

魏志倭人伝の記述に従い、末盧国からは東南に向かうという点で同感です。

土佐邪馬台国説でも、唐津付近に上陸後東南へ向かい、日田が伊都国、次に
東へ向かい九重町付近が奴国、大分付近が不弥国で、日本海側から豊後水道
へ抜けるルートです。
そこから南至投馬国は南九州へ、南至邪馬台国は南四国への水行となります。
そして中村市か、幡多郡のどこかで陸行に変わって高知中部を目指します。

昨年の八月のことでしたが、私の申し上げた
「北部九州から四国へは「南行」と「陸行」によって到達可能です。」
に対するレスで、牛頭天王さんより
「方向を90度変える必要はなく半島−九州間の40度+αくらい。」
とコメントをいただきました。
このときは「南行」の起点を北部九州と書いてしまいましたが、実際はこれが、
別府湾付近となるので、40度+αよりは、すこし南方向になると思います。

古い話ですみませんでしたが、すこし気になっていたので、レスをつけさせて頂きました。
今年も頑張って下さい。



226

Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月9日(水)22時56分58秒]

元の発言 [ 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 1月8日(火)00時07分17秒 ]

>>  結論:No.5徐州銘鏡の素材産地は、江南からは遠く、現在の徐州市に近く、三国曹魏の領域であると推定できます。
 あの論文は「大嘘」ってことですか。


227

Re: ちょっと、一言

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月9日(水)23時27分36秒]

元の発言 [ Re: ちょっと、一言 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月9日(水)22時44分24秒 ]

そう
北部九州にはないですよね。いずれも棺内からだな。三角縁は。安満宮山は棺内だったかな。石塚山はどうだったんだろう。
なるほどオヤヂッチさんは近畿の伝統が棺外への副葬、と見てるわけだ。
その近畿の弥生墓の石製品がわかるHPがあったら教えてもらえませんか。
それにしても鏡の副葬、に関してはよけいに平原墳墓が異常ですよね。日本最大の鏡や鏡群を副葬された墓の棺外にほとんど破砕してたなんてね。なんでだろう。


228

Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [1月9日(水)23時41分44秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月9日(水)22時56分58秒 ]

>>  あの論文は「大嘘」ってことですか。

というか、評価以前でしょう。



229

巴利國

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [1月10日(木)00時16分59秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月8日(火)12時34分59秒 ]

ねたろうさん 始めまして、マルセと申します。

>> 音による推定には、自信ありませんが、伊万里を考えています。
>> 倭(ゐ)+万理(pari)です。音韻に関しては、専門家のおにりんさんに
>> いずれ、お聞きすることになると思います。

#近いところで、佐世保市の針尾島(ハウステンボスがあるところ)とか、筑紫野市針摺(はりすり)とかに比定して置くと、遺跡や古墳があったりするので、ちょっとかっこいいです。
 九州でなくてよいなら、尾張、今治、名張とか「ハリ」のつく地名にしておくと、とりあえず反論されにくいです。


>> 余談ですが、「♯」の使い方を教えてもらえませんか。どういう意味ですか。
>> 本当に解らないのです。

#よくは知らないのですけれど。もともとは、unixのシェルでのコメント行を表すマークです。プログラムの実行に関係のない行という意味です。ここでの常連さんでは、おにりんさんやオヤジッチさんたちは、「独り言」というか「本題からちょっと外れたこと」を書いたときに“#”というルールで書いているようです。
#相手の発言に対するコメントという意味でつけてる人もいます。(マルセもそうですが。)


230

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月10日(木)00時42分18秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月9日(水)22時16分37秒 ]

>>  科学的な批判をお願いします。
>>  さもなければ、一言だけ「私は信じない」と仰るだけにすればいいのでは。

科学的じゃないもんに科学的な批判は無理でしょ?
幽霊話じゃあるまいし、信じるか信じないかはナイよね。

だから、科学的な話をしようよ!
根拠なくて信じるんですか?


231

Re: 申し訳ない実は

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月10日(木)00時55分42秒]

元の発言 [ 申し訳ない実は ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月9日(水)18時56分49秒 ]

>> 私はPC初心者でして、あとからこの書き込みを見るとなんか相手にケンカ売ってるみたいな書き込みかたでした。

やー ケンカ買ったみたいな書き込みしちゃってごめんね。
上のほうで話題の東アジアの古代文化にのった文章よんで
なんか納得いかなかったんですよ。
結論だけはきり書いて理由をぼやかしてるって感じで。

そこで信じる信じないみたいな話になってて
じゃはっきりでてる数字が見えるのが信者だったら
見えないの信じてる人はナニ???って思ったわけですよ。

他意はないの。単なるやつあたり。ごめんね。


245

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月10日(木)07時02分58秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月10日(木)03時16分17秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ところで楽浪鏡って魏鏡なんですか?
238年までは公孫氏の支配下にあったのですから楽浪鏡は魏鏡に入れない方が無難でしょう。

むしろ楽浪鏡の存在は公孫氏の下で三角縁神獣鏡に非常に近いものが作られていた訳で、238年以降に残党が畿内に逃げてきて鏡を作った証だと思いますが。

「師出洛陽」も公孫氏が魏との対立が決定的になる以前に洛陽出身の鏡職人が遼東に来ていて、公孫氏が滅ぼされた時、どさくさに巻き込まれて
この鏡職人も日本に来てしまった。

倣製鏡と言われる鏡は倭人が楽浪から来た鏡職人に教わりながら作った習作と考えれば納得がいきます。
長方形紐穴など山東省の影響を楽浪鏡が受けているのは当たり前でしょう。
近いんですから。



25

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ 大和川湖南 ] 発言日時 [1月14日(月)17時04分06秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月14日(月)00時11分42秒 ]

>> >> >>  #金印は柵封されたことを顕す。
>> >> >>  #それと一緒に送られたのは下賜された装具です。
>> >>  またまた、極めて疑わしい主張なんだけど、根拠はあるの?霍光が東園温明を下賜されたのも死後だよね。
>> >>  魏志倭人伝に収録されている親魏倭王冊封の詔書にも、「国中の人に示せ」とあるのみで、墓に収めろなんて一言もないんだけどね。それに、あそこには卑弥呼への下賜品のリストが載っているけど、霍光が下賜された葬具のリストと比べてみれば内容の違いは歴然としているよね?それでも葬具だと言い張るの?
>>  言い張る。

 そうなんだ。まあ、言い張るのは勝手だけどね。


>>  葬具じゃないと言う根拠はそれ以外のものを含むから?

 そうじゃないよ。ちゃんと書いたじゃない。

1.霍光が東園温明を下賜されたのは死後。しかし卑弥呼が銅鏡百枚を下賜されたのは彼女の生前。

 ちなみに、魏志夫餘伝にも「漢時、夫餘王葬用玉匣、常豫以付玄菟郡、王死則迎取以葬」とあるから、夫餘王への葬具の下賜も死後に行われていたことがわかるんだよね。

2.魏志倭人伝には「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」とあって、墓に入れろなんて一言も書いていない。

3.霍光が下賜された葬具は、「金銭、[糸曾]・絮・[糸粛]被百領、衣五十筐、璧・珠・[王幾]・玉衣、梓宮、便房・黄腸題湊各一具、縱木外蔵槨十五具、東園温明」。(漢書霍光伝)
  卑弥呼への下賜品のうちは貢の直は「絳地交龍錦五匹、絳地[糸芻]粟[网/厂{炎リ}]十張、[艸/倩]絳五十匹、紺青五十匹」、特に下賜する品々は「紺地句文錦三匹、細班華[网/厂{炎リ}]五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠・鉛丹各五十斤」(魏志倭人伝)。
 両者の内容には歴然とした違いがある。下賜する目的が違うからさ。

 あなたが言い張るだけで根拠を示さないなら、後は第三者の判断に任せるだけさ。


>> >> >> >>  魏の明帝が景初三年の正月元旦に死去した。したがって翌年の正月元旦は忌日なのさ。だからその日は改元できない。するとどうなる?当然、景初四年正月元旦を迎えるはずだったのさ。
>> >> >>  #翌年の正月元旦が景初四年だった日は何日?
>> >> >>  #景初三年の正月元旦に逝ったのなら、1日だけ。
>> >> >>  #まだ翌年の年号は決まっていないけど、“景初”じゃないことだけは確か。
>> >>  何か血迷ってない?年の途中で改元された場合、史書なんかでは年頭から新元号を使って記述されたりするけど、当時の実態は、改元までは旧元号を使うんだよ。当たり前のことさ。
>>  その間は、“景初三年”でしょう。

 違うよ。普通、景初三年中には改元できない。自分でも言ってたじゃない。そして、翌年の正月元旦も忌日だから改元できない。でも、歳首を迎えれば年は変わるから、自動的に景初四年になる。だから、

>> >>  景初三年正月元旦に明帝が死去した時点で、翌年の年頭にあたっての改元ができないことは充分予想できた。だから、「景初三年一月の時点で、景初四年の無いことが分かっていた」という主張は誤り。何ヶ月になるかわからないし、あるいは1日だけになるかもしれないけど、景初四年はあると予想されていたのさ。

ということになる。


>>  景初四年はあると予想されていたのは一日だけで実際には無かった。

 景初四年が「実際には無かった」のは、そのとおりで、これは景初三年十二月に歳首の変更と改元が決まったから。だけど、「景初四年はあると予想されていたのは一日だけ」という主張の根拠は何?一月二日に何が何でも改元するという理由はあるのかな?

#景初四年は実在したという説もあるけど、今回は棚上げにしておく。


>>  魏では景初四年が無いことは景初三年になったとたんに分かっていたと言うことですよネ。

 違うよ。上記のとおり。


>>  では、鏡に“景初四年”と鋳込んだのはどういう人でしょうか。
>>  官営工房ではありえないでしょう。

 尚方作だからといって洛陽製とは限らない、っていうのは知っているよね?地方の工官なら、改元の伝達が間に合わずに景初四年正月を迎えたと思っていて作成した可能性はあるよ。もちろん公式には景初三年後十二月とかだったわけだけれど。
 洛陽の官営工房だとしたら、歳首変更・改元の詔が出る以前に、完成品ができるのが翌年になることを見越して原型に景初四年と刻んだ可能性はあるんじゃないかな。


>>  そうか、元旦も休まず作ってたからその一日にに作ったもので

 何か混乱しているみたいだけど、大丈夫?茶化しているつもりなんだろうけど自分の首をしめていない?実際には景初三年十二月に、歳首変更・改元の詔が出ているんだよ。魏の領域内で歳首変更・改元の詔の伝達が間に合わなかった地域があった可能性は認めていると受け取っていい?


>> 「どうせ東夷にやるんだから」ってことにしたのか。

 まあ、いろんな考え方があるだろうね。
 歳首変更・改元の詔がでたのが景初三年の十二月某日だから、その伝達がまにあわずに、景初四年が使用される場合が出てくることはむしろ始めからわかっていたんじゃないかな。だったら、景初四年銘鏡があったって特に忌避すべきものではなかったんだろうと思うよ。

 結局、

>> >>  あらためて尋くけど、このスレッドのかまくら龍氏の投稿内容がOKだと言うのは、本気なの?

には答えられないんだ。まあ、公開の場所での発言だから真に受けておくことにするよ。


>> #さようなら。

 うん。フォローしたくないなら御自由に。
 ただ、同じ主張を繰り返すときは、これだけ批判を受けたことを思い出した方がいいと思うよ。たぶん、あなたが思っているほどには、みんな忘れっぽくはないんだよ。



250

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月10日(木)12時19分52秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月9日(水)21時04分14秒 ]

にゃんさん、始めまして。

>> その考えには賛同します。うん有明海。
>> そして「奴国、これ女王国の境界つきるとこなり」とあるでしょう?これなんのことかさっぱりわからなかったのですがある日地図を見てこの奴国とは玉名市にあたるんじゃあないかと思えてきました。つまり菊地川から北が女王国で
>> 南が狗奴国、クコチヒク、すなわち菊地彦ではないかと。
>> あそこはたしか玉名市の東をはさんで田原坂まで西南戦争、つまり北の勢力と南の勢力が争った場所でもありますしー。

ご賛同、ありがとうございます。
私も菊池川を境界線と考えていますが、音からの推定ではありません。

『宋書』の倭王武の上表文から、九州は衆夷であり、
国の数はおおよそ六十国と考えたのです。
女王の支配国が三十国であれば、残りの三十国は敵対するか中立かの
どちらかだと思われます。
北部九州と、南の投馬国に卑弥呼の支配が及んでいるとすると、
残りの三十国は、九州中部を想定せざるを得ません。
『倭人伝』には、海を渡った東に倭種の国があることや、
おそらく四国の西部にあったと思われる侏儒国など、
九州東部の記述しかありません。九州西部の情報がないのです。
そこで、女王国に敵対する狗奴国は、九州中域西部の熊本あたりが
想定できるのではないかと考えたのです。
音による推定は、考古資料との比較検討の後にすべきかと思います。
自戒も込めて。


251

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月10日(木)12時22分01秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月9日(水)22時06分33秒 ]

牛頭さん、今日は。

>> >> 私も、そのことは聞き及んでおり、陸行なら荒川峠越えではないかと考えています。

>> かなりの難所ですね。高低差500mもある。
>> 船で行けば1日程度の行程を3日位掛けていかなければならない事になります。
>> 考えにくい事です。

その通りだと思います。しかし、現在はこのルートしか思い浮かびません。
どうしても伊都国を有明湾岸にもっていく訳にはいかないのです。

>> >> ただ、伊都国の東に100里行くと、投馬国への水行の起点となる不彌国に着くことが問題ではないでしょうか。
>> >> 不彌国は、湾頭の国であり、その南に邪馬壹国が接していると読めるからです。

>> 100里はたった7.5kmですよ。有明海も三世紀にはもっと内陸に海が食い込んでいたでしょう。
>> 筑後川の流れも今とはかなり違っていたでしょう。
>> 有明湾頭にあっても不思議はないし、海に出るにあたって川を使っても良い訳です。

伊都国を有明湾岸に比定すると、その東南百里に二万戸の奴国(傍線行程)があります。
伊都国の東百里を行けば、水行の起点である不彌国に着きます。
距離は同じですから、不彌国は、奴国のほぼ北に位置するのです。
不彌国は奴国より内陸ですから、南の投馬国(傍線行程)に向かう起点としては、
湾岸の奴国のほうが相応しくなるのです。
不彌国が、筑後川沿岸の可能性も考えましたが、より南に位置する奴国を
通らない訳にはいかないのではないでしょうか。

>> >> 二十一国連記の国々が、その余の旁国でなく、卑弥呼の支配領域だとしたら、
>> >> 戸数と道里が略載されているはずなのです。しかし、里程は邪馬壹国で終わっています。
>> >> だとすれば、二十一国の国々への里程もそこで終わっているのではないでしょうか。

>> 戸数と道里は邪馬台国への道筋に従って書いてあり、それ以外は書かなかったのでしょう。

女王国の領域が、天領のような飛び地であったという仮説を
導入すればよいと考えた時期もありました。
しかし、邪馬壹国迄で全ての行程が終わったとすると、その南の狗奴国とは、
直に境界を接することになるのです。狗奴国との仲は険悪であり、
その国境は紛争地帯であり、最前線になると思うのです。
邪馬壹国は、卑弥呼のいた都であり、国境にあったとは考えにくいと思っています。

>> 「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳」は對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國などが邪馬台国からみて
>> 北方にあった(多分45度の範囲内)と記しているのであろうと考えています。
>> 末盧國、伊都國、奴國、不彌國が西にあっては具合が悪いのじゃないですか。

実際の位置関係はその通りです。しかし、『倭人伝』の旅程は、北の帯方郡治を
出発してから、方角表記は東と南しかなく、現実には倭国を訪れていない陳寿にとって、
最終到着地点の邪馬壹国は、旅程の最も南に見えたのかもしれません。
あるいは、『倭人伝』は、倭国を帯方東南と記すことで、大枠としての方角を記しており、
その枠内をどう移動しようと、邪馬壹国から見れば、全て北からの旅程であると言う
大雑把な捉え方をしたのかも知れません。
奴国と投馬国は傍線行程ですから、投馬国が邪馬壹国より南に位置することを考慮すれば、
後者の考え方のほうが良いのかもと思っています。


252

Re: 巴利國

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月10日(木)12時24分02秒]

元の発言 [ 巴利國 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 1月10日(木)00時16分59秒 ]

マルセさん、始めまして。

>> #近いところで、佐世保市の針尾島(ハウステンボスがあるところ)とか、筑紫野市針摺(はりすり)とかに比定して置くと、遺跡や古墳があったりするので、ちょっとかっこいいです。
>>  九州でなくてよいなら、尾張、今治、名張とか「ハリ」のつく地名にしておくと、とりあえず反論されにくいです。

ご忠告ありがとうございます。しかし、反論されてもかまわないと考えています。
私は、初学者であり、無学であることを自覚しているからです。
特に考古資料に暗いのです。ですから、他の人の討論に、割って入れません。
恥をかきながら、勉強していきたいと思っています。

>> #よくは知らないのですけれど。もともとは、unixのシェルでのコメント行を表すマークです。プログラムの実行に関係のない行という意味です。ここでの常連さんでは、おにりんさんやオヤジッチさんたちは、「独り言」というか「本題からちょっと外れたこと」を書いたときに“#”というルールで書いているようです。
>> #相手の発言に対するコメントという意味でつけてる人もいます。(マルセもそうですが。)

ご親切にありがとうございました。
#そういう意味なんだ。


253

Title「卑狗」は「伯」なのではないですか?

投稿者[ にゃんちゅー ] 発言日時 [1月10日(木)12時46分06秒]

 まず倭国の官と律令制の官が、下に書いた様に同じに読めるものが幾つかあります。

  倭国の官  /  律令制の官 

  率(そつ) /  帥(そつ)
  
  爾(に)  /  弐(に)

  母離(もり)/  守(もり)

  升(しょう)  少輔(しょう)

 それで、現在の所「卑狗」は「日子」に比定されています
が、倭国の官の「卑狗」(ぴく)と読めそうなものを律令制
の官で探しててみたら、神祇官の長官に「伯」とゆうのがあ
りました。「卑狗」は航路で船が途中に寄る国にいるみたい
なので、「天気が悪くならないように」とかを祈った神祇官
の「伯」なのではないでしょうか。「伯」は唐の官にはない
けど周の官に「宗伯」とゆうのがあります。倭人が、周一族
の太伯の後裔であるなら、十分考えられるのではないかと思
います。「伯」は(呉)ヒャクなので「卑狗」と当ててもお
かしくはない様な気がします。
   


254

Re: わりこみすいません

投稿者[ 菅原 ] 発言日時 [1月10日(木)14時47分53秒]

元の発言 [ わりこみすいません ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月9日(水)18時44分33秒 ]

 『三国志』に見える「渡海」または「渡(度)一海」の用例は、
8つありました。ただ、注に引用されている『魏略』「西戎伝」での
用例はよく分からなかったので、省略しています。

 「倭人伝」以外では3例ありまして、遼東半島から河南・山東半島
方面へ向かった2例と、その逆方向の1例があります。恐らく、渤海を
横断したのでしょう。「渡海」または「渡(度)一海」は、地続きか
否かに関わらず、かなりの距離を横断航行することを意味するものと
言えそうです。

 とはいっても、あまり説得力のある議論は展開できそうにないので、
またROMに戻って勉強させてもらいます。


255

Re: (地理的感覚について)

投稿者[ 菅原 ] 発言日時 [1月10日(木)14時48分53秒]

元の発言 [ (地理的感覚について) ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月9日(水)20時53分58秒 ]

>> 「女王國東渡海千餘里、復有國」はどう解釈するんですか?

>> 90度方角が狂っていたとして邪馬台国を広く近畿とした時でも北方へ渡海する所は何処ですか?

 恥ずかしながら、よく分かりません。一応の解釈はありますが、ご都合主義と
反論されるでしょうから、ここでは述べません。これで、私がどんな解釈をして
いるか、大体お分かりでしょうが・・・・・。

 ただ、こちらもご都合主義とおっしゃるかもしれませんが、総合的に考察・検証
して最も妥当性のある仮説を提示すべきで、その仮説においては全ての記述が合理
的に解釈されなければならない、ということはないと思います。
 また、「女王國東渡海千餘里、復有國」から遣使記事の前までは伝聞調の胡散臭い
話が続いていて、例えば遣使記事などと比較して、特に重視したり整合性を要求され
たりすべき箇所ではないと思います。


256

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について)

投稿者[ 菅原 ] 発言日時 [1月10日(木)14時51分27秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について) ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月9日(水)20時18分54秒 ]

>> つまり、中国人は、倭人の住む国を山がちな島だと認識していると思われる点です。

 そもそも、日本列島が山がちな島々から成りますすよね。短里説では瀬戸内海に行か
ないとのことですが、この問題は既に話題になっていますし、私は短里説に疎いので、
他の方に譲ります。

 私も主観の強い反論をしてしまい、申し訳ないと思っているのですが、ただ、九州説
において、よく「倭人伝の特定の記事を素直に解釈すれば、九州説しか(または畿内説
では)ありえない」という主張を見かけるのに対して、はたしてその主張は本当に自明
のことなのだろうか?と思うことしばしばですから、今回疑問を述べました。

 これ以上説得力のある議論を展開できるわけでもないので、またROMに戻って
勉強させてもらいます。


258

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月10日(木)20時57分21秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月10日(木)12時22分01秒 ]

ねたろうさん 今晩は。

>> その通りだと思います。しかし、現在はこのルートしか思い浮かびません。
>> どうしても伊都国を有明湾岸にもっていく訳にはいかないのです。

あらかじめ比定地を決めてそれに合うように原文を改訂するやり方は畿内説と変りません。

>> 伊都国を有明湾岸に比定すると、その東南百里に二万戸の奴国(傍線行程)があります。

私は奴国への行程も傍線行程とは考えません。
あくまでもこの行程は帯方郡から邪馬台国に向かうにあたって必ず通らなければならない道だったのだろうと思っています。

但し、有明湾岸説にとって奴国の処遇は難点ですね。
三世紀中庸において 博多平野に有力な国家があった事は間違いないし、その余の旁国扱いは出来ません。
そうなると奴国は 博多湾から有明海にわたる国で、首都は有明海側にあった。
伊都国は奴国を牽制する為に置かれた軍事基地だった。なんて仮説を考えなければならない。
難しいですね。でもこの案はけっこう気に入ってます。

>> 伊都国の東百里を行けば、水行の起点である不彌国に着きます。
>> 距離は同じですから、不彌国は、奴国のほぼ北に位置するのです。
>> 不彌国は奴国より内陸ですから、南の投馬国(傍線行程)に向かう起点としては、
>> 湾岸の奴国のほうが相応しくなるのです。
>> 不彌国が、筑後川沿岸の可能性も考えましたが、より南に位置する奴国を
>> 通らない訳にはいかないのではないでしょうか。

>> >> >> 二十一国連記の国々が、その余の旁国でなく、卑弥呼の支配領域だとしたら、
>> >> >> 戸数と道里が略載されているはずなのです。しかし、里程は邪馬壹国で終わっています。
>> >> >> だとすれば、二十一国の国々への里程もそこで終わっているのではないでしょうか。

>> >> 戸数と道里は邪馬台国への道筋に従って書いてあり、それ以外は書かなかったのでしょう。

>> 女王国の領域が、天領のような飛び地であったという仮説を
>> 導入すればよいと考えた時期もありました。
>> しかし、邪馬壹国迄で全ての行程が終わったとすると、その南の狗奴国とは、
>> 直に境界を接することになるのです。狗奴国との仲は険悪であり、
>> その国境は紛争地帯であり、最前線になると思うのです。
>> 邪馬壹国は、卑弥呼のいた都であり、国境にあったとは考えにくいと思っています。

邪馬台国はピンポイントではなく、かなりの面積をもっていて狗奴国との間に山や川があって、狗奴国が卑弥呼の宮殿の目の前にあったわけではないと思います。

>> >> 「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳」は對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國などが邪馬台国からみて
>> >> 北方にあった(多分45度の範囲内)と記しているのであろうと考えています。
>> >> 末盧國、伊都國、奴國、不彌國が西にあっては具合が悪いのじゃないですか。

>> 実際の位置関係はその通りです。しかし、『倭人伝』の旅程は、北の帯方郡治を
>> 出発してから、方角表記は東と南しかなく、現実には倭国を訪れていない陳寿にとって、
>> 最終到着地点の邪馬壹国は、旅程の最も南に見えたのかもしれません。
>> あるいは、『倭人伝』は、倭国を帯方東南と記すことで、大枠としての方角を記しており、
>> その枠内をどう移動しようと、邪馬壹国から見れば、全て北からの旅程であると言う
>> 大雑把な捉え方をしたのかも知れません。

大雑把である事は認めますが、「女王国からみて北の国」と言っているので、陳寿はその地図を見ながら、あるいは地図を頭に思い浮かべながら
記述していたのだと思います。
私は当時の晋は割と正確な地理を把握していたと思っています。

>> 奴国と投馬国は傍線行程ですから、投馬国が邪馬壹国より南に位置することを考慮すれば、
>> 後者の考え方のほうが良いのかもと思っています。

「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國」
ですから伊都国が唐津湾や博多湾にあっては「檢察するべき諸國」は海の中しか無くなります。
畿内説の人も前原を伊都国とする人が多くいますがやはり
これは古田先生の言う「共同改訂」じゃないでしょうか。


259

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月10日(木)21時00分28秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月10日(木)01時32分33秒 ]

おにりんさん、今晩は。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
中国では、先帝が薨ずると翌年に改元します。
六月の卑弥呼の貢献を受けたのが小帝であれば、
なぜに、わざわざ明帝の治世年号入りの鏡を送ったのかが
理解できないのです。
卑弥呼は、自国の民に、これらの鏡には、明帝の年号が使われているけど、
実際にもらったのは小帝からだと説明したのでしょうか。
単に、吉祥句でも並べた鏡を送るべきだったのでは、
というのが引っ掛かっているのです。

>> 投馬国へは、一海を渡るの表現がなく、たんに水行二十日の
>> 記述から、九州島沿岸を航行したのであり、九州島内の国である。

>>
>>
>>
まだ読んでいません。何年何月ですか。教えてください。
しかし、投馬国へは傍線行程であることから、方角は、不彌国からみて南になります。
不彌国が博多湾岸であれば、投馬国も当然九州島内と考えるのが普通でしょう。
おにりんさんが、十五世紀の地図を三世紀中国人の認識と考え、
投馬国を山陰の島根あたりに想定したとすれば、
こんどは「女王国東渡海千余里復国在」の説明がつかなくなるでしょう。
つまり、水行であれ、渡海であれ、畿内説では方角の矛盾を説明できないのです。

>> 「南至投馬国水行二十日」の文型は、不彌国を起点とした傍線行程。
>> つまり、位置は不彌国からみて南でも、旅程は邪馬壹国より以北の
>> 行程にあたる。というのが古田氏の理論ですよ。

>>
>>
日野さんの説は、古田氏が、奴国と投馬国を傍線行程としているのは、
『漢書』にその淵源を持つという主張だと思いますが。
古田説の補強にはなりえても否定の根拠には出来ないと思います。
おにりんさんは、最終到着地点の邪馬壹国が、傍線行程で書かれてあるという
日野さんの説をどう解釈されているのですか。

>> あきらかに、短里の証左足り得ると考えます。

>>
荒唐無稽な数値ではないということを申し上げたつもりです。
都から、会稽郡までは晋の統治領域ですよ。
それを万二千余里と考えているわけですから、当然実感を伴う数値です。
遥か彼方の南方というような抽象的な表現ではないということです。

>>
>>
おにりんさんが、その説を支持される筈はないですよね。
卑弥呼の墓では長里説でしたから。

>>
>>
>>
こういう、ご配慮には、素直にお礼申し上げます。

>> 加えて「奴」は、上古音で「な」としているようですが、
>> だいたい上古音を示す韻書はなく、逆に「那の津」の「な」音が
>> 上古音推定の論拠になっていると聞きましたが。
>> 初心者なもので、又聞きですけど実際どうなんですか。

>>
>>
韻書のないことを問題にしているのではなく、
今読んでいる本には、上古音は韓半島や日本の古文献を参考に
推定されていると書いてあるのですけど、「奴」はどうなのか知りたいだけです。
おにりんさんでも判らないのなら諦めますけど。
素人ですから、それ以上の議論をするつもりはありません。

>> 国書に、国名と王名が書かれていたとでもしておきましょう。
>> 王は複数いたようですし。

>>
首長国による連合を考えています。その代表が倭国王帥升でしょう。
卑弥呼の共立と同じでは。

>> 2800キロも蛇腹のように、折りたためば合うというわけですね。
>> さすがに、科学的ですね。

>>
>>
わが国のことを記述した倭人伝でさえ解読できないのに、
高句麗の地名や支配領域を特定できるものでしょうか。
よしんば、できたとして、長里による推定でしょう。
韓半島が短里で、高句麗が長里ですか。
同じ東夷伝の中に、二つの異なる単位が使用されたと考えられますか。

>> 当時から、測量技術が有ったと考えるべきでしょう。
>> おにりんさんは、誇大里数値派ですか?

>>
>>
それは、科学者に考えていただきたい課題ですね。
韓半島、対馬、壱岐に使用された里数値の比率が、
現在の地形の比率とほぼ重なりますから、
測量技術が有ったと考えるべきでしょう。偶然にしてはすごすぎますよ。

>> どこを想定しているのでしょう。奴国は傍線行程で、
>> 伊都国が前原なら方向は東南ですから内陸に向かうと考えられますが。

>>
日野さんのページをご覧ください。

>> 不彌国の南に邪馬壹国があるのです。距離ゼロです。

>>
>>
帯方郡治からの総日程です。良くご存知でしょう。
古田氏の本も全部お読みでしょうから。






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Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 山 ] 発言日時 [1月14日(月)18時05分51秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月12日(土)17時56分32秒 ]

早速、返信いただきありがとうございます。


>> 四国の古墳とか遺跡についてはネット検索してもあまり引っかからず、私のような駆け出しには四国についての情報がよく判らないので教えてもらえるとうれしいです。
>> 讃岐や徳島の遺跡もあまり詳しいものはありませんし、高知は殆んど見つかりません。

>> これらの四国内の比定地に付いてどういう遺跡があるとか教えてもらえませんか。


上記の件については、即答出来るほどの知識がないので、
少し調べて報告なりいたします。


>> それから昨年の八月の私のレスに対する山佐留さんのレスが読めなくなっていますが削除されちゃったのかな?


とりあえず、八月のレスは下記のとうりでしたのでご確認下さい。

  * * * * * * * *

 掲示板への投稿自体が初めてですし、専門的な知識はあまり無いので、要領を得なくてすみません。

>> >>  また、魏志倭人伝の後段において、倭国の地理的な特徴として、「倭の地の周旋は、五千里余りである」との記述もみられ、これも四国の海岸線の長さに合致すると思われることから、里程の問題についていえば、邪馬台国が四国にあった可能性は高いと思われますが、いかがでしょうか。 

>> は一里435mで計算した場合でしょうか。
>> 倭の地周旋はどこまでを範囲に入れるのでしょうか。

 とのご質問ですが、(一里が何mで・・)というような計算をした結果ではありません。
 魏志倭人伝の「倭の地の周旋は、五千里余りである」という記述には前段があります。
 読み下し文から(しかも朝日新聞学芸部編という、少々年季もの)の引用ですが、

「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え或いは連なりて、周旋五千余里ばかりなり。」

というのが全文です。
ここで私の判断としては、「海中洲島の上に絶在し」とは倭の地が島国であり、「周旋五千余里ばかりなり」とは、その島の周囲の長さ(およそ海岸線の長さ)のことだと考えたわけです。
そこで、魏志倭人伝に書かれた「郡より、狗邪韓国まで七千余里」の距離と、日本列島にある島の周囲の長さとを比較した場合、本州はもちろんですが、九州も少し大きすぎるということで、もっとも「周旋五千余里」にちかいのは四国であろうということです。

ということで、倭の地の周旋の範囲も、邪馬台国があった(と私が考えている)四国全体を指すものと思われます。

  * * * * * * * *


と以上でしたが、(一里が何mで・・)と言う件については
その後、魏尺について掲載されているホームページを検索したところ、


* * * * * * * *

魏の場合を例にすると、次のように考えられています。

里=300歩
(歩=6尺)
里=300歩=1200尺
(魏尺=24.12cm←about)
里=1200尺=28944cm=289m
100里=28900m=28.9km
500里=144.5km
1000里=289km
2000里=578km

 * * * * * * * *

という内容のものを見つけました。
先日の土佐説の里程を見て頂くとわかるように、
唐津から日田の 500里=144.5km
日田から九重、九重から大分の 100里=28.9km
などが、実際の距離とほぼ一致するため、土佐説の場合はふつうの魏尺で
よいと考えるようになりました。
したがって「周旋五千余里」についても、1500km位となり、
四国の周囲の長さとそれほど違っていないと思われます。


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Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月10日(木)21時34分52秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ 大和川湖南 ] 日付 [ 1月9日(水)19時42分31秒 ]

大和川さん、こんばんは。

>> >>  + 3. 下賜品ならば棺内にあって然るべき、同じ墓で棺内に丁重に副葬されている鏡があるのに、車輪石や石釧のように棺外に置くのは下賜品でない証拠。
>>  単なる信念の吐露だよ。そうじゃないと言うのなら、きちんと根拠を示してね。
 皇帝が下賜する葬具の一つで、その他に璧などの玉器や棺、槨を作る材料共に下賜された。
 鏡は、東園温明(漆塗りの桶)に入れて下賜され、遺体の上に置いていた。
 もう何度目かも忘れた。

>> >>  + 6.  景初三年一月の時点で、景初四年の無いことが分かっていたのになぜ景初四年銘鏡があるのか。
>>  実は、景初四年がないなんてわかっていなかったからさ。そんなこともわからないの?
>>  景初四年正月元旦は、明帝の忌日だからさ、改元できないでしょ。実際、景初三年十二月の翌月の朔には改元されてないじゃない。
 大きな勘違いです。
 明帝の忌日は景初三年の1月です。服喪中は改元しないのが習わしです。

>> >>  OKです。§^。^§
>>  本気?
 真面目に逝きましょう。


261

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月10日(木)21時41分49秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月10日(木)00時42分18秒 ]

>> >>  科学的な批判をお願いします。
>> >>  さもなければ、一言だけ「私は信じない」と仰るだけにすればいいのでは。
>> 科学的じゃないもんに科学的な批判は無理でしょ?
>> 幽霊話じゃあるまいし、信じるか信じないかはナイよね。
>> だから、科学的な話をしようよ!
>> 根拠なくて信じるんですか?
 鉛同位体比というのは科学的根拠じゃないんですか。
 その数値が間違っていると言う(ALEXさんのような)批判が“科学的な批判”と言うんじゃないですか。


262

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月10日(木)21時50分10秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月10日(木)03時16分17秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
 その過程が何所で起きたのか。
 日本で起きたとするのが「三角縁鏡=倭鏡説」ですよネ。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
 小型鏡で断面が二等辺三角形のものが楽浪の遺構から出土していますでしょうか。

>>
>>
>>
 三角縁鏡に限らず20センチ以上の鏡は中国では稀で、有ったとしたら副葬用の鏡ですね。



263

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月10日(木)21時57分28秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月10日(木)11時12分18秒 ]

>>
>>
>>
 北朝鮮の工作船は鹿児島沖まで来てますヨ。

>>
>>
 原料(インゴット)1トンと銅鏡1トンではどちらが重い?(^。^)



264

Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月10日(木)22時05分08秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 1月9日(水)23時41分44秒 ]

>> >>  あの論文は「大嘘」ってことですか。
>> というか、評価以前でしょう。
 是非「東アジアの古代文化」に反論を載せるて下さい。
 私みたいな初心な人間が無駄な回り道をしないように。(^_^;)


265

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月10日(木)22時26分53秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月10日(木)21時41分49秒 ]

>>  鉛同位体比というのは科学的根拠じゃないんですか。

鉛同位体比って言葉だけじゃ科学的根拠じゃないでしょ?
魏志倭人伝をフーリエ変換したら
「邪馬台国は四国とわかる!」
って言ったら笑わない?


266

Re: ちょっと、一言

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月10日(木)22時32分16秒]

元の発言 [ Re: ちょっと、一言 ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月9日(水)23時27分36秒 ]

>> なるほどオヤヂッチさんは近畿の伝統が棺外への副葬、と見てるわけだ。
 ちょっと違いますネ。
 近畿には中華王朝の下賜副葬品に対する知識が無かった。

>> その近畿の弥生墓の石製品がわかるHPがあったら教えてもらえませんか。
 申し訳ありません。
 HPではありません、書籍でした。ど忘れしてて、時間をいただきます。

>> それにしても鏡の副葬、に関してはよけいに平原墳墓が異常ですよね。日本最大の鏡や鏡群を副葬された墓の棺外にほとんど破砕してたなんてね。なんでだろう。
 平原の被葬者は鬼道(ご託宣or祈祷)に失敗した巫女かもしれませんネ。


267

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月10日(木)22時50分49秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月10日(木)20時57分21秒 ]

ねたろうさん、 牛頭さん、今晩は。

>> >> その通りだと思います。しかし、現在はこのルートしか思い浮かびません。
>> >> どうしても伊都国を有明湾岸にもっていく訳にはいかないのです。
>> あらかじめ比定地を決めてそれに合うように原文を改訂するやり方は畿内説と変りません。
 あはっ。(^。^)

>> 但し、有明湾岸説にとって奴国の処遇は難点ですね。
>> 三世紀中庸において 博多平野に有力な国家があった事は間違いないし、その余の旁国扱いは出来ません。
>> そうなると奴国は 博多湾から有明海にわたる国で、首都は有明海側にあった。
 福岡平野と筑後平野は二日市地狭帯が画期となって分かれています。

>> 伊都国は奴国を牽制する為に置かれた軍事基地だった。なんて仮説を考えなければならない。
>> 難しいですね。でもこの案はけっこう気に入ってます。
 私も全くその通りだ(奴国を牽制する為に置かれた)と考えています。

>> ですから伊都国が唐津湾や博多湾にあっては「檢察するべき諸國」は海の中しか無くなります。
 蛇足ですがタイトルとも関係するので地元として一言、
 伊都国(怡土平野)は唐津湾にも博多湾(那津)にも面していません。
 加布里湾です。


268

Re: 巴利國

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月10日(木)23時09分06秒]

元の発言 [ 巴利國 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 1月10日(木)00時16分59秒 ]

>> >> 余談ですが、「♯」の使い方を教えてもらえませんか。どういう意味ですか。
>> >> 本当に解らないのです。
>> #よくは知らないのですけれど。もともとは、unixのシェルでのコメント行を表すマークです。プログラムの実行に関係のない行という意味です。ここでの常連さんでは、おにりんさんやオヤジッチさんたちは、「独り言」というか「本題からちょっと外れたこと」を書いたときに“#”というルールで書いているようです。
#仰るとおり元々は“REM”です。
#通信速度が極遅(96とか)で料金も高かったパソ通の時代には文字数を減らすため「返信不要」の意味で使われていました。
#正確には“#”ですけど。
#他にも万国共通で2U(to you)、4U(for tou)、?(How are you)、CUL8Rなどがあります(有りましたです)。


269

Re: ちょっと、一言

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月10日(木)23時28分59秒]

元の発言 [ Re: ちょっと、一言 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月10日(木)22時32分16秒 ]

>> >> その近畿の弥生墓の石製品がわかるHPがあったら教えてもらえませんか。
>>  申し訳ありません。
 島の山古墳(古墳前期)でした。


27

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月3日(木)23時18分20秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月3日(木)13時24分00秒 ]

>> おにりん氏によると、イザナギ神話は、淡路島を中心とした海洋系のものだそうですが、してみると、淡路島は、四国東部・東瀬戸内を中心とした海洋的聖地で、それが、大和の神話に採用されたというのは、案外、四国勢力が大和王権の中心となったためかもしれません。

>>
>> つまり、イザナギ神話を奉じていたのは、もともと四国東部・東瀬戸内勢力で、彼らが天下をとったために、ローカルなイザナギ神話が、全国の神話になった、とも考えられるわけです。

>>
>>
>>

その話は,履中紀でしょう。

履中紀五年に,

まず,筑紫の宗像の神が祟りを予告する。

さて,履中天皇が淡路嶋に狩り行った時,
「嶋に居します伊奘諾神」が祝に憑かり,
馬飼等の入れ墨について,
「血の臭きに堪へず」と言う。

また,大虚(おおぞら)に呼ばわる声があり,
皇后の頓死を予告する。
この大虚に呼ばわる声の主も,伊奘諾神らしい。

以上の伝承を鍵にして探ると,


仲哀八年九月に,

「神有して」,
熊襲征討の中止と新羅を服属するように勧め,
その神は「刃に血ぬらずして」と請け合う。
新羅国を空から見下ろしている,とも言う。
しかし,信じなかった仲哀天皇が頓死する。

話の筋が一部,共通するので,

この神は,伊奘諾神のふしがあります。
もしそうなら,仲哀紀に遡って重視しないと。

例えば,仲哀二年二月に,

仲哀天皇が角鹿に行幸,行宮を笥飯宮といい,
その同じ月に淡路屯倉を定めた,
とあります。

笥飯大神の名は,
伊奢沙和気(いざさわけ)大神,ですね。

神功摂政元年二月,
忍熊王らが仲哀天皇の陵を作るふりをして,
淡路島から石を運んでいます。


このように調べていくと,

少なくとも仲哀紀辺りから,
宗像,日向,淡路,北陸,新羅,
伊奘諾神,武内宿祢,孝霊伝承,
なんかが連想される,ってことでしょう。


# おにりんさんは「イ・サン・カ」か?
# とか言ってませんでしたか。


続きは機会があればまた。



273

卑弥呼以前の邪馬台国

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月11日(金)08時42分56秒]

おにりんさんは吉備、出雲、畿内などは広域国家的な国と表現されて
いましたが、畿内は卑弥呼以前にかなりの権力者が存在していたとみていいのでしょうか?

7万戸という数字をほかと比較した場合(数字を信用すると仮定)かなり大きな国家
が卑弥呼以前から存在していたことになりますよね。戦乱があったとされてはいますが
それなりにクニであったことにはちがいないのでしょう。
広域国家ということであれば、文明というと問題がありますが先進技術において有利と
いわれる九州の存在も当然知っていたはずですよね。

その九州をさしおいて、畿内が中国と直接交流できたとすると、どのように想定できるの
でしょう?
卑弥呼以前から大陸と交流できるだけの能力を持っていなければ、つまり船とか通訳、も
ちろん組織ができていたという前提が必要ですよね。

そのあたりがよくわからないのですが、、、



274

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月11日(金)09時21分17秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月10日(木)22時50分49秒 ]

>>  蛇足ですがタイトルとも関係するので地元として一言、
>>  伊都国(怡土平野)は唐津湾にも博多湾(那津)にも面していません。
>>  加布里湾です。

そうでした。舟越湾と言うのもありましたね。
どのあたりで別れているんですか?
湾内湾でしょうか。



279

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月11日(金)11時51分42秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月5日(土)16時06分41秒 ]

>> >> >>  古墳時代の前期古墳。大牟田市黄金町1丁目に所在。
>> >> 古墳時代前期でしょ。弥生時代後期じゃあないですね。
>> 三世紀とある。

>> >> 古墳時代の定義はご存知ですか?
>> >> 全国に前方後円墳(前方後方墳)がどわっとできる時代で
>> >> す。これは、普通、近畿の布留式併行期(詳細な編年だと
>> >> 布留1式以降)をさします。
>>  布留1式が出来たので全国一斉に古墳時代に入ったのでしょうか。
>>  普通、三世紀中葉(正に「倭人条」の時代。私は庄内式併行期と考える)を「古墳過渡期」または、「弥生・古墳併行期」として考えるのとちゃいますか。

>> >> >>  インターネットにここまで載ってるか。
>> >> ね。すごいでしょ。
>>  だから!載ってないでしょうが。
>>  それとも、見つけててレスしなかったのかい。
>>  問われたのは貴方だヨ。

おにりんさんからの回答がありませんね。


288

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ 大和川湖南 ] 発言日時 [1月11日(金)18時57分49秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月10日(木)21時34分52秒 ]

>> >> >>  + 3. 下賜品ならば棺内にあって然るべき、同じ墓で棺内に丁重に副葬されている鏡があるのに、車輪石や石釧のように棺外に置くのは下賜品でない証拠。
>> >>  単なる信念の吐露だよ。そうじゃないと言うのなら、きちんと根拠を示してね。
>>  皇帝が下賜する葬具の一つで、その他に璧などの玉器や棺、槨を作る材料共に下賜された。
>>  鏡は、東園温明(漆塗りの桶)に入れて下賜され、遺体の上に置いていた。
>>  もう何度目かも忘れた。

 それがどうしたの?「下賜された銅鏡は、必ず棺内に置かれた」という主張の根拠にはなってないよ。そのくらいわかるよね?
 だいたい、銅鏡100枚は葬具として下賜されたものじゃないんだよ。


>> >> >>  + 6.  景初三年一月の時点で、景初四年の無いことが分かっていたのになぜ景初四年銘鏡があるのか。
>> >>  実は、景初四年がないなんてわかっていなかったからさ。そんなこともわからないの?
>> >>  景初四年正月元旦は、明帝の忌日だからさ、改元できないでしょ。実際、景初三年十二月の翌月の朔には改元されてないじゃない。
>>  大きな勘違いです。
>>  明帝の忌日は景初三年の1月です。服喪中は改元しないのが習わしです。

 勘違いしているのそちらだよ。
 魏の明帝が景初三年の正月元旦に死去した。したがって翌年の正月元旦は忌日なのさ。だからその日は改元できない。するとどうなる?当然、景初四年正月元旦を迎えるはずだったのさ。
 まだわからない?


>> >> >>  OKです。§^。^§
>> >>  本気?
>>  真面目に逝きましょう。

 単なる誤変換なのか、冗談なのか知らないけれど、この台詞はそのママお返しするよ。結論が九州説なら投稿の中身は何でもOKなのかい?



289

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ 大和川湖南 ] 発言日時 [1月11日(金)19時14分22秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月10日(木)02時25分56秒 ]


>>
 ううむ。疑うようで申し訳ないけど、「弥生後期(100-300年)が最盛期」という話と違う?


>>
 トンデモ系であれば、マトモの範疇には入らないということで....





290

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月11日(金)20時32分41秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月10日(木)20時57分21秒 ]

牛頭さん、オヤジッチさん、今晩は。

>> あらかじめ比定地を決めてそれに合うように原文を改訂するやり方は畿内説と変りません。

そういうつもりはないのです。
奴国、不彌国、邪馬壹国の距離と位置関係からの帰結なのです。

>> 私は奴国への行程も傍線行程とは考えません。
>> あくまでもこの行程は帯方郡から邪馬台国に向かうにあたって必ず通らなければならない道だったのだろうと思っています。

多分、牛頭さんとの議論のずれは、傍線行程の理解と、
万二千余里の解釈の違いにあるのではないでしょうか。
私は、里程に関しては、全面的に古田氏の解釈に依拠しています。
7,000+1,000+800+1,000+600+1,000+500+100+0=12,000里
奴国(伊都国からの)と投馬国(不彌国からの)は、
傍線行程として、万二千余里から除いて計算しています。
対馬、壱岐を半周読法で解釈し、その合計1400里は、
万二千余里に含まれると考えています。
そうすると、不彌国と邪馬壹国間は、距離ゼロになり、
総里程万二千余里が、全て記述されていることになるのです。

以上の里程を考慮のうえ、先の三国の位置関係を考えた場合、
有明湾岸より、博多湾岸が相応しいと考えています。
これは古田説と全く同じなのです。

>> 但し、有明湾岸説にとって奴国の処遇は難点ですね。
>> 三世紀中庸において 博多平野に有力な国家があった事は間違いないし、その余の旁国扱いは出来ません。
>> そうなると奴国は 博多湾から有明海にわたる国で、首都は有明海側にあった。

多分、牛頭さんやオヤジッチさんも狗奴国を熊本あたりとされていると思うのですが、
九州南部の投馬国への行程を、有明からと考えるには、無理があるのではと考えており、
九州東岸廻りが妥当だと思っています。
『倭人伝』には、九州西部の記載がなく、九州中域西岸部の制海権は、
狗奴国に握られていたのではと考えられるからです。

>> 伊都国は奴国を牽制する為に置かれた軍事基地だった。なんて仮説を考えなければならない。
>> 難しいですね。でもこの案はけっこう気に入ってます。

これも位置関係からの仮説でしょうが、私は、伊都国と奴国は、もともとひとつで
後に分割されたと考えているのです。
王の存在が逆であれば、牛頭さん、オヤジッチさんの仮説を支持してもよいのですが。

>> 大雑把である事は認めますが、「女王国からみて北の国」と言っているので、陳寿はその地図を見ながら、あるいは地図を頭に思い浮かべながら
>> 記述していたのだと思います。
>> 私は当時の晋は割と正確な地理を把握していたと思っています。

私が申し上げている北の国と言うのは、
地図上における「女王国から見て緯度が北の国々」ではなくて、
帯方郡治から邪馬壹国迄における行路上に点在する国々のことです。
つまり、伊都国は実際の位置は西にあるけれど、行路で考えれば、
(帯方郡治)北からの行路上にある国であり、
邪馬壹国より(行路の上では)北の国であるということなのです。
なお、以北は、邪馬壹国も含むと考えます。
#解かりにくい文章ですね。

正確な地理は、把握していたかもしれませんが、地図はなかったと考えます。
後に書かれた『後漢書』の記述が、あまりにも混乱しているのが、
弱いながらも、その理由になるのではないでしょうか。

>> 「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國」
>> ですから伊都国が唐津湾や博多湾にあっては「檢察するべき諸國」は海の中しか無くなります。

これも誤解されていると思うのですが、この指摘は私にとって重要です。
この一文を私の仮説(女王国=邪馬壹国+21国)に当てはめて解釈すると、
卑弥呼支配の全ての国(30国)を一大率が検察することになり、
倭国全て(100国)には、その権力が及ばなかったと言う解釈が成り立つと考えられるからです。
陳寿が、倭国と女王国を違う概念で記述していることを窺わせます。

>> 畿内説の人も前原を伊都国とする人が多くいますがやはり
>> これは古田先生の言う「共同改訂」じゃないでしょうか。

古田先生も前原近辺を伊都国に比定されていたと思うのですが…。
どうなっているのか、分からなくなりました。


291

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月11日(金)20時45分46秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月11日(金)13時42分45秒 ]

>>  原料(インゴット)1トンと銅鏡1トンではどちらが重い?(^。^)

>>
>>
インゴットなら取り扱いに特に注意は無用だけど鏡は一枚一枚、大事に梱包しなければならないので銅鏡1トンの方が当然重くなります。
又、かさもはるので大変だったでしょうね。

鏡職人付で原料がやってきたほうが運搬は簡単です。




292

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月11日(金)22時06分01秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月11日(金)20時45分46秒 ]

>> >> >>  原料(インゴット)1トンと銅鏡1トンではどちらが重い?(^。^)

>> >> インゴット運ぶ気になるかなーということです。
>> >> 当時の感覚としてですよ。

>> インゴットなら取り扱いに特に注意は無用だけど鏡は一枚一枚、大事に梱包しなければならないので銅鏡1トンの方が当然重くなります。
>> 又、かさもはるので大変だったでしょうね。

>> 鏡職人付で原料がやってきたほうが運搬は簡単です。

割り込み失礼します。
ちょっと、面白い事に気づいたので、牛頭天王さん、オヤジッチさん。
おにりんさんは、自分の主張の重大性と矛盾点に気づいておられないようですよ。

まず、
おにりんさんに確認します。
魏は、朝鮮半島を完全に海上封鎖したと主張されていますが、間違い有りませんね。
同じに陸上封鎖も。

ことは、非常に重大です。
ここで現代の話をしましょうか。
アフガニスタンですが、パキスタンほかの国境完全に封鎖は、出来てないでしょう。

であるなら、本拠地で敵を迎え撃つ立場の公孫氏は、地元の人々によほど憎まれていたのでしょうか?
ついでに、倭人他の海士人から。

出なければ、海上封鎖なんて出来っこありません。
良く考えてください。
対馬、壱岐は、交易で食料を確保しているんですよ。
とすれば、朝鮮半島の封鎖は、迷惑至極で生存を脅かすものと言えます。

江戸時代の例ですけど、対馬藩主の宗氏は、朝鮮半島との交易による食料確保の為に、
罪も無い家臣を手打ちにするという事をしています。

であるならば、
魏は、この人達を取りこみ手名づけて協力させて置かなければ、
当然のこと、封鎖破りが行われ、地元のゲリラ行動ですから押さえこむのは不可能ということに成ります。

これは、軍事の常識です。
そして、取りこむ必要があるのは、倭国の広範囲に上るでしょう。
つまり、壱岐、対馬は、常識としてマツロ、宗像、住吉、那、伊都、
から出雲、隠岐、姫島、丹後、越前、越後にいたる海洋勢力を押さえることになります。

これからすると、封鎖している人間が人を連れ出すのに不住はないことになりませんか?
そして、この事は、邪馬台国を盟主とする倭国連合にも影響するのですから、
当然の事、卑弥呼も了承していたと考えてもおかしくない。
公孫氏が滅びたとき、其れに協力した倭の勢力がご機嫌伺いに出かけたとするなら?
以前、議論した滅んだ直後の派遣と言うのも筋が通る事になりませんかね?


293

Re: Title倭の国々ってドンナことになってるんでしょう?

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月11日(金)22時16分41秒]

元の発言 [ Re: Title倭の国々ってドンナことになってるんでしょう? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月10日(木)02時16分25秒 ]

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>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
どうもありがとうございます。
なんか、ギリシャとカルタゴを連想しました。
そいえば、小説に良くある設定で日本を世界の雛型にたとえる説がありますね。
其れによると、九州は、アフリカ大陸ですね。
すると、那国はエジプト、伊都やマツラはカルタゴ、
ローマ帝國は、備前辺りと言う事になりますか?

とんでもの戯言ですが、小説一本書けそうな感じです。



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Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月11日(金)22時17分10秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月11日(金)20時32分41秒 ]

今晩は。

>> >> あらかじめ比定地を決めてそれに合うように原文を改訂するやり方は畿内説と変りません。

>> そういうつもりはないのです。
>> 奴国、不彌国、邪馬壹国の距離と位置関係からの帰結なのです。

ちょっと言い過ぎでしたね。私など駆け出しで偉そうな事を言えたものじゃない。
オヤジッチさんにも笑われてしまった。

>> >> 私は奴国への行程も傍線行程とは考えません。
>> >> あくまでもこの行程は帯方郡から邪馬台国に向かうにあたって必ず通らなければならない道だったのだろうと思っています。

>> 多分、牛頭さんとの議論のずれは、傍線行程の理解と、
>> 万二千余里の解釈の違いにあるのではないでしょうか。
>> 私は、里程に関しては、全面的に古田氏の解釈に依拠しています。
>> 7,000+1,000+800+1,000+600+1,000+500+100+0=12,000里
>> 奴国(伊都国からの)と投馬国(不彌国からの)は、
>> 傍線行程として、万二千余里から除いて計算しています。
>> 対馬、壱岐を半周読法で解釈し、その合計1400里は、
>> 万二千余里に含まれると考えています。
>> そうすると、不彌国と邪馬壹国間は、距離ゼロになり、
>> 総里程万二千余里が、全て記述されていることになるのです。

対馬、壱岐を半周と言うのがちょっと。私は余里という言葉の解釈で不彌国と邪馬壹国間の距離は2,300里位しかないのではないかと考えています。

>> 以上の里程を考慮のうえ、先の三国の位置関係を考えた場合、
>> 有明湾岸より、博多湾岸が相応しいと考えています。
>> これは古田説と全く同じなのです。

>> >> 但し、有明湾岸説にとって奴国の処遇は難点ですね。
>> >> 三世紀中庸において 博多平野に有力な国家があった事は間違いないし、その余の旁国扱いは出来ません。
>> >> そうなると奴国は 博多湾から有明海にわたる国で、首都は有明海側にあった。

>> 多分、牛頭さんやオヤジッチさんも狗奴国を熊本あたりとされていると思うのですが、
>> 九州南部の投馬国への行程を、有明からと考えるには、無理があるのではと考えており、
>> 九州東岸廻りが妥当だと思っています。

私は九州は仕事で飯塚に数度と観光で1度行っただけなので九州の地理は陳寿程度かもしれません。
九州東岸廻りだと原文改訂せずに持っていくには末盧国を宗像あたりに持っていって、そこから東南にさがって不弥国が豊前市あたりにあった
としたほうが矛盾がないと思います。

>> 『倭人伝』には、九州西部の記載がなく、九州中域西岸部の制海権は、
>> 狗奴国に握られていたのではと考えられるからです。

>> >> 伊都国は奴国を牽制する為に置かれた軍事基地だった。なんて仮説を考えなければならない。
>> >> 難しいですね。でもこの案はけっこう気に入ってます。

>> これも位置関係からの仮説でしょうが、私は、伊都国と奴国は、もともとひとつで
>> 後に分割されたと考えているのです。
>> 王の存在が逆であれば、牛頭さん、オヤジッチさんの仮説を支持してもよいのですが。

>> >> 大雑把である事は認めますが、「女王国からみて北の国」と言っているので、陳寿はその地図を見ながら、あるいは地図を頭に思い浮かべながら
>> >> 記述していたのだと思います。
>> >> 私は当時の晋は割と正確な地理を把握していたと思っています。

>> 私が申し上げている北の国と言うのは、
>> 地図上における「女王国から見て緯度が北の国々」ではなくて、
>> 帯方郡治から邪馬壹国迄における行路上に点在する国々のことです。
>> つまり、伊都国は実際の位置は西にあるけれど、行路で考えれば、
>> (帯方郡治)北からの行路上にある国であり、
>> 邪馬壹国より(行路の上では)北の国であるということなのです。
>> なお、以北は、邪馬壹国も含むと考えます。
>> #解かりにくい文章ですね。

>> 正確な地理は、把握していたかもしれませんが、地図はなかったと考えます。
>> 後に書かれた『後漢書』の記述が、あまりにも混乱しているのが、
>> 弱いながらも、その理由になるのではないでしょうか。

漢は日本に使いをしていないですからね。
それに対して魏は郡使を常駐させる?まで邪馬台国と関わっていたのです。
しかも266年までは晋との交流が記録されている。
その後の交流は記載されていないがもっと続いていた可能性が強い訳です。
そうなると郡から女王国への行程が一人や二人の報告によって伝えられたいい加減な情報によって出来た物ではありえない訳です。
地理についてもかなり詳しく把握していたのではないでしょうか。

>> これも誤解されていると思うのですが、この指摘は私にとって重要です。
>> この一文を私の仮説(女王国=邪馬壹国+21国)に当てはめて解釈すると、
>> 卑弥呼支配の全ての国(30国)を一大率が検察することになり、
>> 倭国全て(100国)には、その権力が及ばなかったと言う解釈が成り立つと考えられるからです。
>> 陳寿が、倭国と女王国を違う概念で記述していることを窺わせます。

私も倭国と女王国は違うと言う意見には特に異存はありません。

>> 古田先生も前原近辺を伊都国に比定されていたと思うのですが…。
>> どうなっているのか、分からなくなりました。

その通りですよ。古田さんに対して「原文改訂をしないといいながら改訂しているじゃないか。」と少し皮肉を言ったのです。
但し、あらゆる定説を疑ってみると言う古田さんの手法は私の姿勢と一致します。
そして私の仮説も九州説の人からさえ支持されていない事が多いです。
ま、仮説と言うより単なる思い付き程度ですが。


295

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月12日(土)00時00分19秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月11日(金)16時05分25秒 ]

>> >> 魏志東夷伝の冒頭に「内容は不明確で適当である。
>> >> それは、東夷は遠いからだ」ということを陳寿自信
>> >> が明記している。

>> そういう解釈は、初耳です。どの文章を指しているのでしょう。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
これは昔はよく判らなかったが高句麗討伐の結果詳しく知る事が出来たので前史に足らない所を補うのだと言っているのではないですか?



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Re: Title 三枚目の青龍三年鏡(イリヒコさんのページにて)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [1月12日(土)00時04分18秒]

元の発言 [ Title 三枚目の青龍三年鏡(イリヒコさんのページにて) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月11日(金)01時59分22秒 ]


 この鏡、ある女性の御教示を得て、本日見てまいりました。東京国立博物館の平成館1Fで、景初三年・正始元年・赤烏元年などの紀年銘鏡と並べて展示されていました。
 でも、収集家が20年程前に古物商から購入して所有していたってのはなんかすごいですね。そう言えば、景初四年鏡が出土したときも、博物館の収蔵庫から同型鏡が出てきましたね。まだ、どこかに埋もれてる紀年銘鏡とかあるのでしょうね。

#これは埋もれているのとは違うけど、東京国立博物館にも、京大の三角縁神獣鏡目録に載っていない三角縁神獣鏡だの、伝朝鮮出土の三角縁「の」同向式神獣鏡だのが展示されていたりするし。


>>
 そうですかね。むしろ「公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡....是後倭韓遂屬帶方」(魏志韓伝)を裏付ける史料じゃないでしょうか。





3

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月13日(日)23時28分23秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 紀 智明 ] 日付 [ 1月12日(土)11時16分46秒 ]

紀さん、始めまして。遅くなってすみません。

>>   ねたろうさん 
>>   総論的にはあなたと全く同じです。
>>   里程論や博多湾岸説は。

ご賛同ありがとうございます。

>> >> 九州南部の投馬国への行程を、有明からと考えるには、無理があるのではと考えており、
>> >> 九州東岸廻りが妥当だと思っています。
>> >> 『倭人伝』には、九州西部の記載がなく、九州中域西岸部の制海権は、
>> >> 狗奴国に握られていたのではと考えられるからです。

>>   ここのところは、日本書紀の「景行紀」の九州一円平定説話とリンクすると面白いのではと考えます。
>>   勿論、「景行紀」は、完全に他からの切り取りとして。

はい、私もそう考えているのですが、いまだに手をつけていません。
いずれ、検討したいと思います。


301

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月12日(土)06時39分52秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月12日(土)02時02分36秒 ]

>>
>>
>>
魏も西晋も滅びた後なら銅の運搬も簡単ですね。
鏡作り工人とどうがどう時に来たとは限らないでしょう。

さらにどう鐸用のどうはどうしたんでしょう。
あれほど大量に作られていた銅鐸が突然廃棄されて作られなくなりました。
銅は畿内でも余っていたんじゃないですか。
廃棄した銅鐸鋳潰して使用しても良いし。

>>
>>
>>
命からがら逃げるのに女子供を連れていたかどうか。
連れていなければ不自然という訳でもないでしょう。
数人程度で十分です。





302

軍事政治の戦略戦術問題ですが

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月12日(土)08時35分08秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月12日(土)02時02分36秒 ]

>>
>>
>>
>>
可も知れませんね。
ですが、食料を輸入している相手先、または、
食料を輸入するために貿易利益をあげなければならない国が、
そのために貿易する相手先、これが海上封鎖されたら如何うするか。
と言う問題です。
すぐに戦争と言うことも起こって不思議ですか?

封鎖する側でも余計なテマですよ。
有っては困るというより下手すると死活問題でしょ。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
これが大変なんですかね?
封鎖する側ですよ。
城内から抜け出させれば、別に何の苦労も無いでしょう。

封鎖しながら、話をつけてサイドビジネス的に銅を手に入れるのが難しいなんて無いですよ。

鏡職人が如何こうではなく、政治経済軍事が動けば、自然に問題解決と言うレベルの話です。




303

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月12日(土)09時17分43秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月11日(金)01時50分31秒 ]

>>
>>
>>
>>

その辺りのネタを拾ってみました。
(岩波版日本書紀参照)
# 訳あって素材だけ,,,(^^;


(1)古代人の距離感

神功皇后摂政52年9月の記事
「源は谷那の鉄山より出ず。其の遠きこと七日行きて及らず。」


(2)古代人の航行記録

仲哀紀2年3月15日の記事
仲哀天皇,紀伊国の徳勒津宮滞在中,
熊襲反乱の報に接し,穴門へ向け出帆。
また角鹿の神功皇后へ連絡。

仲哀紀2年6月10日の記事
仲哀天皇,豊浦津(山口県)に停泊。
神功皇后,角鹿を発ち渟田門(敦賀〜若狭湾)で食事。

仲哀紀2年7月5日の記事
神功皇后,豊浦津(山口県)に停泊。


# 念のため各自で確認して下さい。



304

Re: 卑弥呼以前の邪馬台国

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月12日(土)09時19分53秒]

元の発言 [ 卑弥呼以前の邪馬台国 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月11日(金)08時42分56秒 ]

畿内派かつ華僑の仲介で説明する岡田説だと,

委奴国王こと伊都国王が,

「184年の黄巾の乱で楽浪郡が無力化したために勢力を失って,
邪馬台国の卑弥呼に取って代わられたもの」
(岡田英弘著『倭国』中公新書第103頁)

だそうです。御参考までに。

時代背景としては,纏向に先行する唐古・鍵遺跡から,
中国ふう楼閣の絵の着いた土器片が出土しているので,
既に華僑が近畿地方一帯で広範に活動していたものか。

それで・・・

という推理になるでしょうね。


305

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 紀 智明 ] 発言日時 [1月12日(土)11時16分46秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月11日(金)20時32分41秒 ]

  ねたろうさん 
  総論的にはあなたと全く同じです。
  里程論や博多湾岸説は。

>> 九州南部の投馬国への行程を、有明からと考えるには、無理があるのではと考えており、
>> 九州東岸廻りが妥当だと思っています。
>> 『倭人伝』には、九州西部の記載がなく、九州中域西岸部の制海権は、
>> 狗奴国に握られていたのではと考えられるからです。

  ここのところは、日本書紀の「景行紀」の九州一円平定説話とリンクすると面白いのではと考えます。
  勿論、「景行紀」は、完全に他からの切り取りとして。



308

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月12日(土)17時56分32秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 1月9日(水)22時50分44秒 ]

>> 牛頭天王さんこんにちは
>> ごぶさたいたしております。土佐邪馬台国説の山佐留です。
>> 昨年の暮れには、馬頭鬼さんの青玉 、丹の考察や四国東部説など、高知の
>> ことも話題にとりあげられ、興味深く拝見いたしておりました。
>> 今年は九州説、近畿説だけでなく、四国説についても、大論争でとりあげら
>> れる機会が増えて欲しいものだと思いつつ投稿しました。

山佐留さんお久しぶりです。

四国の古墳とか遺跡についてはネット検索してもあまり引っかからず、私のような駆け出しには四国についての情報がよく判らないので教えてもらえるとうれしいです。
讃岐や徳島の遺跡もあまり詳しいものはありませんし、高知は殆んど見つかりません。

>> 魏志倭人伝の記述に従い、末盧国からは東南に向かうという点で同感です。

>> 土佐邪馬台国説でも、唐津付近に上陸後東南へ向かい、日田が伊都国、次に
>> 東へ向かい九重町付近が奴国、大分付近が不弥国で、日本海側から豊後水道
>> へ抜けるルートです。
>> そこから南至投馬国は南九州へ、南至邪馬台国は南四国への水行となります。
>> そして中村市か、幡多郡のどこかで陸行に変わって高知中部を目指します。

これらの四国内の比定地に付いてどういう遺跡があるとか教えてもらえませんか。

>> 昨年の八月のことでしたが、私の申し上げた
>> 「北部九州から四国へは「南行」と「陸行」によって到達可能です。」
>> に対するレスで、牛頭天王さんより
>> 「方向を90度変える必要はなく半島−九州間の40度+αくらい。」
>> とコメントをいただきました。
>> このときは「南行」の起点を北部九州と書いてしまいましたが、実際はこれが、
>> 別府湾付近となるので、40度+αよりは、すこし南方向になると思います。

それから昨年の八月の私のレスに対する山佐留さんのレスが読めなくなっていますが削除されちゃったのかな?

>> 古い話ですみませんでしたが、すこし気になっていたので、レスをつけさせて頂きました。
>> 今年も頑張って下さい。



309

Re: 卑弥呼以前の邪馬台国

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月12日(土)18時20分42秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼以前の邪馬台国 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 1月12日(土)09時19分53秒 ]

>> 時代背景としては,纏向に先行する唐古・鍵遺跡から,
>> 中国ふう楼閣の絵の着いた土器片が出土しているので,
>> 既に華僑が近畿地方一帯で広範に活動していたものか。

>> それで・・・

>> という推理になるでしょうね。

ぼくも少し近いのですが、黄巾の乱の影響を九州が
受けたのだろうとは思います。
それで、畿内に取って代わられるとは思わなかった
のですが。
その黄巾の乱の影響で倭国も戦乱の時代になり
九州で卑弥呼が共立されたかなとね。
狗奴国との戦争もあり、疲弊した九州から
畿内へ遷都?というか逃げ出したかな、なんて
思っているんですけどね。

180年から190年ごろの畿内の様子が重要なの
ではないかと思うわけです。
確かに唐子・鍵から楼閣のような絵のついた土器片が
出ていますが、それを信じれば、かなりの権力を持った
勢力が畿内にいたわけです。
それも、おにりんさんの説を信じれば、近畿一円ぐらい
の広さをまとめるくらいの勢力です。
もちろん、尾張や吉備・出雲などとの交流も盛んな
りっぱな国であったであろうと思われます。
なにせすぐ中国に遣使を出せたのですから。

ところがマキムクは以外と新しいんですね。
まだ発掘されていない部分が多いのでなんとも
言えないのですが。

はじめから畿内であれば、九州からきたという
ような記述が記紀に残っているのが、どうしても
不自然に思えるのです。

たとえば、唐子・鍵の権力者の娘が卑弥呼で、
共立されてマキムクに新都をつくったとするなら
何も九州を持ち出す必要がないのです。
瀬戸内の記述はあるのですから、それで十分だと
思うんですがね。



310

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 教育委員会 ] 発言日時 [1月12日(土)18時35分14秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月12日(土)17時23分51秒 ]

>>
>>
 “2ch”の様なレスをするならば逝ってよし。



311

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月12日(土)20時49分47秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月11日(金)17時29分30秒 ]

>>
>>
 見つけててレスしなかったんだ。
 ん?まてよ。
 私がレスしたような詳細について載ってたかと言ったんだけどネ。
 典型的な“偏差値世代”の発言だネ。失礼。m(__)m




312

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月12日(土)21時09分29秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ 大和川湖南 ] 日付 [ 1月11日(金)18時57分49秒 ]

>>  だいたい、銅鏡100枚は葬具として下賜されたものじゃないんだよ。
 #金印は柵封されたことを顕す。
 #それと一緒に送られたのは下賜された装具です。

>>  勘違いしているのそちらだよ。
>>  魏の明帝が景初三年の正月元旦に死去した。したがって翌年の正月元旦は忌日なのさ。だからその日は改元できない。するとどうなる?当然、景初四年正月元旦を迎えるはずだったのさ。
>>  まだわからない?
 #全然。
 #翌年の正月元旦が景初四年だった日は何日?
 #景初三年の正月元旦に逝ったのなら、1日だけ。
 #まだ翌年の年号は決まっていないけど、“景初”じゃないことだけは確か。

>>  単なる誤変換なのか、冗談なのか知らないけれど、この台詞はそのママお返しするよ。結論が九州説なら投稿の中身は何でもOKなのかい?
 #見も知らない相手にタメグチをきく相手には相応しいと思った。
 #なにも敬語を使えとは言わないけど、貴方に合わせただけ。


313

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月12日(土)21時14分07秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月12日(土)17時23分51秒 ]

>> 魏も西晋も滅びた後なら銅の運搬も簡単ですね。
>> 鏡作り工人とどうがどう時に来たとは限らないでしょう。

>>
>>
>>
>>
>>
私は三角縁神獣鏡は4世紀に畿内で作られたと考えていますから全く議論の基盤が違う人になるのかもしれませんが。
違う意見の人と意見を戦わすのが論争です。

>>
>>
中葉とまでは考えていません。布留0を三世紀末くらいです。

>> さらにどう鐸用のどうはどうしたんでしょう。
>>
>>
議論を封じるような言い方は感心しませんね。レッドカードものです。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
銅は鋳直しを繰り返すと融点の違いで錫や鉛が減ってしまう事はご存知ですよね。
錫は以前オヤジッチさんの情報で錫のインゴットが九州で発見されて成分調整をしていた事が判っています。
鉛の成分調整はしなかったのでしょうか?
鉛を輸入して調合していれば銅の産地とは別に判断しなければならないでしょう。

>> 命からがら逃げるのに女子供を連れていたかどうか。
>> 連れていなければ不自然という訳でもないでしょう。
>> 数人程度で十分です。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
弟子が日本人でも良いのじゃないですか?何処に問題があります?
日本人に字を教えれば済む事。あるいは日本人を妻にして子供を作っても良い。

>>
>>
>>
三角縁神獣鏡の需要がなくなっただけだろうと思います。
需要がなくなれば作られなくなります。
中国には痕跡が残っているんですか?

>>
>>
三角縁神獣鏡の元であっても整合すると思います。



314

Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月12日(土)21時17分00秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月11日(金)11時48分27秒 ]

>>  是非「東アジアの古代文化」に反論を載せるて下さい。

>>
>>
>>
>>
 そうですか。
 そういう意味で言うと、他の科学的結論も似たようなものかもしれませんネ。
 私は「標準年輪年代方」を評価してるけど、自分で年輪幅を片対数にプロットした訳じゃないし、
 パターンをもっているのは一人だけで追試をする人も居ない。



315

Re: 間違ってました。m(__)m

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月12日(土)22時09分26秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月11日(金)09時21分17秒 ]

>> >>  伊都国(怡土平野)は唐津湾にも博多湾(那津)にも面していません。
>> >>  加布里湾です。
>> そうでした。舟越湾と言うのもありましたね。
>> どのあたりで別れているんですか?
>> 湾内湾でしょうか。
 厳密な意味で、「加布里湾」は通称のようで、地図にはありませんでした。
 「加布里港」が正しいです。m(__)m
 地図上では「船越湾」の奥、「立石崎−福島(小半島)」で湾形状になっています。


316

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月12日(土)22時33分09秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月11日(金)20時32分41秒 ]

ねたろうさん、牛頭さん、こんばんは。

>> 王の存在が逆であれば、牛頭さん、オヤジッチさんの仮説を支持してもよいのですが。
 「逆」の意味が今一わからないのですが。
 私の仮説は、福岡平野と相良平野を抑えたのが金印をもらった(柵封された)「委奴国王」で福岡平野の「オウ」、
 「倭国大乱」は「玄界灘同盟vs有明海(北部)連合」、奴国から伊都国へ玄界灘沿岸部の覇権が移ったのは伊都国が有明海連合に寝返った(奴国を挟み撃ちにできる)から、
 狗奴国と女王国の仲が悪かったのは、狗奴国が特産品である貝製品の市場を女王国側が青銅製品によって奪ったから、
 奴国から九州西岸へ行くのには、御笠川を遡上して、大宰府(もちろん後の)で宇美川へ乗り換え(?)て下れば久留米で筑後川に出れます。


317

Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月12日(土)22時36分57秒]

元の発言 [ Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月12日(土)17時35分03秒 ]

>>
>>
>>
>>
渤海湾じゃなく東朝鮮湾からでしょう。フンナム興南とかヨンフン永興あたりが候補。ウオンサン元山でもいいかな?

このあたりだと沖に出るとリマン海流が南下していて自然に日本の方に送り出してくれます。
筏程度にのってでも日本にやってこれるのではないでしょうか?
日本の近くまで来ると対馬海流で出雲、丹後、越の方に行くことになります。
高句麗の残党もこのコースを通った筈です。(^^;

>>
>>
>>
>>
>>
逃亡する兵士に巻き込まれて行動を共にする事は有り得る事です。
人質にされていたとか、密告を恐れて監視されていたとか、他にも理由はありえます。





318

Re: 卑弥呼以前の邪馬台国

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月12日(土)23時11分51秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼以前の邪馬台国 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月12日(土)18時20分42秒 ]

「倭国」「女王国」「女王の都する所」
「邪馬台国」という地理について,
その地政学ふう分析も必要である,
という考え方もありますよね。

大袈裟な表現を割り引けば,
どう読んでも,地理的には九州のはずであるが,
実は投馬・邪馬台も遠絶の地ではないのか,
それは近畿一円の地ではないのか,とかなんとか。


さて,

倭迹迹日百襲姫命,倭姫命,などは分かりやすく喩えれば,
新興宗教の女性教祖のような類型で,
共同体の成員を信者としても率いていたようすです。

と,このように考えると,「五斗米道」「黄巾の乱」
などが連想される。

前記岡田説では,例によって,華僑の秘密結社が,
卑弥呼の鬼道を組織化し,倭人諸国の酋長達に認めさせた,
という案ですね。


# 纏向の土抗祭祀跡は,なんとなく遁甲を匂わせる。


谷川説では,支配階級は半島から来た渡来人であり,
武力で征圧した,という説です。


ところで,

日本書紀を読んでいると,けっこう女性達が強いので,
女性も共同体造りに能動的に参画していたのではないか,
と考えられます。

巫女型,女性戦士型,女盗賊型,女性政治家型,
とかの類型に整理する手法も面白いです。

夫である男性とともに,敵や他の家には負けていられない,
という強烈な雰囲気,ライバル意識がある一方,

政略的に老練であったり,小細工を弄したりする。

というわけで,党派意識や自我意識が明瞭であるから,
伊都国王が従うほどの卑弥呼の権力を,
影響力という点で甘く見ないほうがよいかもしれない。

「衆を惑わす」とある相を,
具体的に検討する必要がありそうです。


あるいは,火瓊瓊杵尊の降臨譚を見ると,
各種技術陣に伴われて降臨しています。

一応,九州北部から熊本を通過して,
日向の蘇の国に降臨し,
薩摩方面で活動しています。

天孫降臨と言っても,
人間が空から降ってきたわけではなく,
本家本元の霊地に鎮まっていた神霊が,
鳥や龍神(虹)の姿となって一行を導いた,
具体的には地元の地理に詳しい道案内を雇った,
ということであろうから,
やはり神事や異象の判断,渉外活動ということが,
重要な要素であったのでしょう。


# 外来説については,「傍証」らしき記述をつなげば,
# 実に容易に捻り出すことができますが,
# 分かり良すぎるという欠陥もあり,
# 別の機会があればまた。


木花開耶姫が,土で塗り固めた室で火に包まれ,
三人の皇子を生むが,
これは,溶鉱炉や土器焼成などを連想させる。

火瓊瓊杵尊や彦火火出見という名前自体,
ガラスや鉄の製品を連想させるかもしれない!?

どっちみち,生活用品や祭祀の法の他,
銅や鉄や珠などの「高度文明集団」の中から,
倭人社会の王が生まれているのは確かなんで,

そこが権力を構成してゆくのでしょう。

これらの先進集団としては,原料採集に当たり,
出先の先住集団に贈り物をして渡りをつけるとか,
婚姻関係を結ぶとか,
武力で征圧する必要が出てくるのでしょう。

こうして,先進集団が新拠点を設けると,
出先の先住集団は,例えば,出雲のように,
先進集団への挨拶なしには身動きもできくなる,
という具合に立場が逆転してゆくようです。

ところが,纏向から南九州の土器が出ている,
というし,

元を正すと,御先祖様が九州から来た,
ということであり,

ここを,どう解くかは,諸説あるでしょう。

そんで,どうも,一例として,
伊都国の祭祀を畿内に導入したのだろうかとかなんとか,
そういう雰囲気はあります。




319

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月13日(日)11時15分50秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月11日(金)17時33分47秒 ]

>>  「卑弥呼は古墳時代」でしょうが。(貴方は常々そうレスしてる)
>>
>>
>>
  「古墳過渡期」が一番使われてませんか。
 一昨年の正月に九州歴史資料館で教委の人に言ったら、「過渡期なら良いです」「今、検討会をやってます」と言ってました。
 その時の年表が「年輪年代法」以前のもので、4世紀始めのところで古墳時代を表すものでした。
 これを意識してこの年表は、2月に「3世紀中葉を弥生時代と古墳時代の中間色」に描いてあるものと入れ替えられました。

 「弥生、古墳並行期」も気に入ってます。
 各地のタイムラグを吸収できる名称ですネ。

>>
>>
>>
>>
>>
 古墳は、大王が即位した時点で造られ始めると言う意見もあります。
 天皇陵はそうです。筑後風土記にある磐井討伐の口実は生前に墓を作ったことですネ。



320

注意!

投稿者[ 教育委員会 ] 発言日時 [1月13日(日)11時19分56秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月12日(土)21時09分29秒 ]

>> >>  単なる誤変換なのか、冗談なのか知らないけれど、この台詞はそのママお返しするよ。結論が九州説なら投稿の中身は何でもOKなのかい?
>>  #見も知らない相手にタメグチをきく相手には相応しいと思った。
>>  #なにも敬語を使えとは言わないけど、貴方に合わせただけ。
#古くからの常連さんに相応しくないレスです。
#以後、注意してください。


321

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月13日(日)11時52分49秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月11日(金)13時42分45秒 ]

>>  北朝鮮の工作船は鹿児島沖まで来てますヨ。
>>
>>
 朝鮮戦争は“終戦”してはいません、“休戦”状態です。
 28度線は国境ではなく、軍事境界線です。
 哨戒艇や警戒機で監視しています。
 実際に、海上保安庁に通報したのは海上自衛隊でした。
 3世紀の海上封鎖って?

>>
 いやまったく。(-_-;)

>>  原料(インゴット)1トンと銅鏡1トンではどちらが重い?(^。^)
>>
>>
 銅ではないけど、板状鉄斧はインゴットとして扱われています。




326

Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月13日(日)13時13分12秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月13日(日)12時47分39秒 ]

>>
>>
>>
どうも、そのレスはおかしいですよ。
玉石混淆だといわれるから、ほかの物も似たようなもの
でしょうと言われているだけで、それをなんか見識を
疑うような感じですね。

>>  私は「標準年輪年代方」を評価してるけど、自分で年輪幅を片対数にプロットした訳じゃないし、
>>  パターンをもっているのは一人だけで追試をする人も居ない。

>>
いや、それこそ科学ではないのではないですか?
やはり誰が同じ実験をしても同じ結論が出るようになって
からが本物でしょう。彼がデタラメをやっていなくても
間違っていることだってあるわけです。
追試ができていない以上、あくまでまだ参考としか
いえないというのが科学的思考でしょう。




331

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ 大和川湖南 ] 発言日時 [1月13日(日)13時49分24秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月12日(土)21時09分29秒 ]


>> >>  だいたい、銅鏡100枚は葬具として下賜されたものじゃないんだよ。
>>  #金印は柵封されたことを顕す。
>>  #それと一緒に送られたのは下賜された装具です。

 またまた、極めて疑わしい主張なんだけど、根拠はあるの?霍光が東園温明を下賜されたのも死後だよね。
 魏志倭人伝に収録されている親魏倭王冊封の詔書にも、「国中の人に示せ」とあるのみで、墓に収めろなんて一言もないんだけどね。それに、あそこには卑弥呼への下賜品のリストが載っているけど、霍光が下賜された葬具のリストと比べてみれば内容の違いは歴然としているよね?それでも葬具だと言い張るの?


>> >>  勘違いしているのそちらだよ。
>> >>  魏の明帝が景初三年の正月元旦に死去した。したがって翌年の正月元旦は忌日なのさ。だからその日は改元できない。するとどうなる?当然、景初四年正月元旦を迎えるはずだったのさ。
>> >>  まだわからない?

>>  #全然。
>>  #翌年の正月元旦が景初四年だった日は何日?
>>  #景初三年の正月元旦に逝ったのなら、1日だけ。
>>  #まだ翌年の年号は決まっていないけど、“景初”じゃないことだけは確か。

 何か血迷ってない?年の途中で改元された場合、史書なんかでは年頭から新元号を使って記述されたりするけど、当時の実態は、改元までは旧元号を使うんだよ。当たり前のことさ。
 景初三年正月元旦に明帝が死去した時点で、翌年の年頭にあたっての改元ができないことは充分予想できた。だから、「景初三年一月の時点で、景初四年の無いことが分かっていた」という主張は誤り。何ヶ月になるかわからないし、あるいは1日だけになるかもしれないけど、景初四年はあると予想されていたのさ。


>> >>  単なる誤変換なのか、冗談なのか知らないけれど、この台詞はそのママお返しするよ。結論が九州説なら投稿の中身は何でもOKなのかい?
>>  #見も知らない相手にタメグチをきく相手には相応しいと思った。

 冗談でも、誤変換でもなかったんだ。まあ、いいけどね。
 あらためて尋くけど、このスレッドのかまくら龍氏の投稿内容がOKだと言うのは、本気なの?



333

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について)

投稿者[ 菅原 ] 発言日時 [1月13日(日)14時01分48秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月11日(金)02時17分24秒 ]

 どうも、ご教示ありがとうございます。ROMに戻ると
言いましたが、とりあえずお礼だけでもと思いまして。

 私も数年前までは九州説支持だっただけに、最近の状況は
多少悲しくもあるのですが・・・・・。


334

Re: 卑弥呼以前の邪馬台国

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月13日(日)17時31分03秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼以前の邪馬台国 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月13日(日)13時29分04秒 ]

おっしゃる通りです。

三国時代の宗教結社の他,

その前の後漢には,確か仏教が伝わり,ローマと交流。
甲骨文字や干支などは殷,諸子百家は周,徐福は秦。

東夷伝にも民族宗教の貴重な記事付き。

この点,倭人の風が韓伝等に混入しているのではないか,
という説を,どこかのサイトで見かけましたが・・・確か,
韓国の学者の着想だったはずですが,場所を忘れてしまった。

記紀で見ると,倭迹迹日百襲姫命は,
日本型女性霊能者の元型を思わせる点があるとか,
その元を辿ると,神武天皇が日本型超能力者の元型かとか,
神功皇后も同じ系譜であろうかとか,
豊鍬入姫命や倭姫命は上記とは微妙に違うようだが,
能力面では似た面もあろうかとか・・・

こう見ると,能動的な異能の発揮という面において,
系譜ごとに意外に一貫性があり,
その発生かルーツを探るのは割と簡単かもしれません。
倭(やまと)という国家が,
「伝統ある教団国家」だったようにも見えてきます。

かなり普遍的で由緒を感じさせる系譜であろう,
と考えられます。

これらは,奈良時代以降の「日本」では,
道教の形骸化したくだらない影響や,
仏教,特に密教に席巻されて,
姿を消したようにみえますが,
やはりどうも,混淆しながらも,
神道系の流派として伝わったようです。

そんで,卑弥呼の鬼道とは? なんですが,
倭人伝に詳しい記述がないので分かりません。
倭迹迹日百襲姫命と対応しているのか,
倭姫命と対応しているのか,
神功皇后と対応しているのか,
別のものなのか。
普遍性を持つものなのか地域的なものなのか。

東夷伝の他に較べて詳しい記事がない,ということは,
令亀法の記事と並べて,やはり,
当時流行中の「中国の鬼道」そのものと考えるべきか。
#この点,かなり重要。

巫女と言うと,中世以降の怪しげな神懸かりを連想しますが,
倭迹迹日百襲姫命とか神功皇后などは,
尊敬すべき偉人として描かれています。

実際,隠秘学とか神秘学を扱う書籍を見渡しても,
日本書紀に散見される神秘譚の味わいを超えるものは,
伝承を含め日本では皆無に等しい。


# 山幸彦はヨギふう,または道教ふうでもあるし。


336

Re: Title 本の紹介

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [1月13日(日)19時42分21秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月10日(木)01時15分22秒 ]

そういうものの書き込み方、というか頭ごなしの否定の仕方ほどつまらないものはありません。自己の優越性を強調するような・・・。
そういう否定の仕方は邪馬台国問題、考古学を進めるものではありません。
あなたの論調はすべて相手をバカにしていて、この大論争のコーナーをすごくつまらないものにしています。この大論争は、自己の知識をひけらかすのではなく、お互いの意見をだしきってお互いの知識、理解を高めていくことが主眼のコーナーのはずです。
おにりんさん、出て行ってもらえませんか。もう十分自分の優越性を確認したでしょ?
管理人さん、おにりんさんなんとかならないものでしょうか。このひと一人で大論争、だいなしにしてる。この大論争というHPはお互いの非難中傷のためにあるコーナーではないはずです。+


337

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について)

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月13日(日)20時26分51秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について) ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月9日(水)20時18分54秒 ]

ちょっとわりこさせてもらえますか。
私は福岡市に住んでいて、あちこち鹿さん(バイクの名前)
でツーリングが趣味で、古墳をおとずれるようになり、ついには考古学ファンになり、PCを持ってこのコーナーにきちゃいました。初心者です。よろしく。
この10年そういうことしてるとどこいくにしてもフェリーにのるのですが、そのたびに思うのは日本はつくづく島国だなあ、ということです。九州も、本州も。
そういった意味では魏の人たちも船から見た倭、という感覚で倭人伝に書き残したのでしょう。
参考にしてもらいたいのは博多-大阪のルートです。
陸路なら三つのルートがあります。
山陰、山陽、大分-北四国-淡路。以外なことに北四国ルートがいちばん短く感じました。ただ三つの海をわたらなければず、一番金食いました。もうやんない。
問題は海のルートです。みなさん知ってのとおりここには夜間の大型フェリーが4往復もあって、それもそのはず瀬戸内は内海なため山陰航路が大荒れでも瀬戸内はおだやかに航行できるわけです。
つまり山陰経路は瀬戸内航路にくらべて難所、時間食う。船からすれば。また危険です。
よく大和説のひとは北部九州ー近畿のルートについて山陰経路を持ち出しますが、それはどうか、とツーリングのたびに思ってしまいます。陸路なら都市少ないから行きやすいけどね。 やっぱ昔も今も瀬戸内ですね。
それと豊予海峡のフェリー、5回ほど乗りこみましたがいつも荒れてて船酔いします。あそこは難所ですね。神武東征の神話の意味がよくわかります。
邪馬台国四国説の方、参考までに・・・。


338

Re: Title 本の紹介

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [1月13日(日)20時43分55秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 1月13日(日)19時42分21秒 ]

>> あなたの論調はすべて相手をバカにしていて、この大論争のコーナーをすごくつまらないものにしています。この大論争は、自己の知識をひけらかすのではなく、お互いの意見をだしきってお互いの知識、理解を高めていくことが主眼のコーナーのはずです。


本BBSの趣旨を正しくご理解いただいて感謝します。

管理人は管理人であって主催者ではないので、基本的には裏ガイドライン(非公開)にあることにしか強制力を発動しません。今回も単に理解を訴えるにとどめたいと思います。


おにりんさんには、そのいつものスタイルが、自分は全知全能だと思っている相手の鼻をへしおるときにくらいしか有効でないことを理解いただきたいと思います。

他のみなさんには、彼の鼻をへしおってやる!赤面のあまりヒキコモらせてやる!くらいの気概を期待します。
それには、なにより具体的事実を持ち出すに限ります。

くれぐれも、楽しくケンカしてください。


339

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ に'ゃあ ] 発言日時 [1月13日(日)20時47分04秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 1月9日(水)22時50分44秒 ]

四国説ですか。たびたび行ってますよ。
その可能性、なきにしもあらず!
考古学の怖いとこはひとつの発掘ですべてが変わる可能性があることです。とくに荒神谷の大量出土は。
あれひとつで「出雲神話が史実だなんていう人はトンデモ系」なんてバカにする人、いなくなっちゃいましたからねえ。
四国、特に南四国は過疎地(失礼)だから、発掘が少なく、そのうちとんでもない発見があるかも。三内丸山もそうだったし。
あと個人的に、宮崎にも注目してますよ。あそこも開発してないし。


340

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ にゃ ] 発言日時 [1月13日(日)21時13分35秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月13日(日)11時15分50秒 ]

そうそう
そうでなくとも箸墓の巨大さ、大量の噴き石はどう考えても寿陵でして、死んでから造ったとはおもわれない。むしろ死んでから造ったのは一番上にある五段目の円墳でしょう。
前方後円墳ファンのわたしが箸墓=ヒミコで納得できないのは箸墓のあと西殿塚が築かれてることでして、つまり大王の墳が継続して築かれてることです。箸墓のあとに。つまり間に『倭国、また乱」のあった形跡が墓にはない。これがホケノ山がヒミコで「倭、また乱」のあとに箸墓なら理解できるんですけど。


341

Re: Title 本の紹介

投稿者[ に'ゃあ ] 発言日時 [1月13日(日)21時16分45秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 1月13日(日)20時43分55秒 ]

わかりました。
もうあのひとの相手はしません。
疲れた。


342

西新町遺跡の土器構成

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月13日(日)21時40分18秒]

おにりんさん>> 九州北部で布留0式期(3世紀後半から末)に大和の土器が大量に出ます。弥生第五様式から庄内式も含めて、出るわけですが、その出方は、集落内の特定の住居跡に出るわけで、住居によっては、ほぼ100%が大和の土器で、
オヤジッチ> 遺跡名と調査次、遺構コードを教えていただければ調査報告書で確認します。
おにりんさん>> とりあえず、石野「邪馬台国の考古学」を読んでください。その中に全部あります。
、と言うわけでお約束通り調査報告書を確認しまた。
以下、ご報告いたします。
老婆心ながら、おにりんさんに対する批判でも賛同でもありません。
資料館に入れてもらえると嬉しい、眠れぬ夜に読んでください。(^^♪

「邪馬台国の考古学」(石野博信・吉川弘文舘、2001.3.1発行)の
「各地の外来土器」には、
「三世紀の列島は、土器が激しく動いている」
「外来土器が、三世紀の纏向遺跡では三〇%に及ぶ」とあり、
(地域ごとの検討)「筑紫」に具体例として西新町遺跡で、
「在地系六三%、大和系二五%、出雲系九%、吉備系一%、伽耶系二%」
「すなわち、外来系三七%と高い割合になっており、住居址ごとに在地系主体、外来系主体、中間型に分類できる」
「外来系時主体の住居(D6号・D7号)」とあり、表11(「古墳時代初頭前後の筑前地方」田崎博之・1983から)を示しています」

先ず、住居“D地区6・7号住居跡”と言う表記は田崎氏が説明のために付けたコードで、調査区に“D地区”と言う表記はありませんでした。
“第?次調査”“I(←機種依存文字)〜区”“?地点”と言う表記があって、遺構に対しては遺跡固有の“遺構種コード(住居=SC)+通番号”で表してあります。

当該遺構は、1992年に行われた西新町第五次福岡市教委調査(別に県教委のがある)の(現在は道路の下にある細長い調査区で、竪穴住居跡9棟、土壙1基が検出されました)“SC06-07”のようです。

以下、「」は調査報告書の文言、“”はオヤジッチ注。

SD06
出土品の内、54〜81“28個”は甕、82〜94は壷“12個”で、「全体的には外来系のものが“主体”を占めている」
「折衷形式のものとしては65、79〜81」“4個”
「54〜64、66〜76は畿内系である」“22個”「また胎土分析によれば“加賀南部”の砂礫構成に似るとの結果を得ている」
「82〜94は壷である」“12個”
「82は所謂畿内系二重口縁壷の頚部である」「83、84は小型の二重口縁壷である」「87〜91は畿内系の広口の壷である」“8個%”
「92〜94は山陰系の二重口縁鉢である」
「95,96は大型の二重口縁鉢である」“2個”
「97〜101は高杯である」“5個”
「102〜105は椀である」“4個”
「106、120は器台である」“2個”
「107〜109は小型壷である」“3個”
「110〜119は小型壷である」“10個”
「121〜123は蛸壺である」“3個”
「121〜123は陶質土器である」“3個”
合計=72個、畿内系と明記されているものは42個=58%です。

SD07
「127〜137は甕である」“10個”
「130〜137は外来系の甕である」“8個”
「131は・・・・・在地の調整の影響を残している」“折衷形式と言うこと”
「138は壷である」“1個”
「146は陶質土器である」“1個”
「147〜149は蛸壺である」“3個”
合計=15個、外来と明記されているものは8個=53%です。

SD06、SD07共に明記されているのは、“甕”においては“大部分が外来系”で、“土器全体では過半数”です。

「小結」(調査報告書の時点では全てが調査されているわけではないので“結語”のことをこう言います)で注目される言。
「庄内式新段階〜布留式古段階に併行する9軒の竪穴住居跡」
「9軒のうち8軒で竈を検出した」
「中でもSC09は形態の確実なものとしては最古例に属する」
「在地系の甕においては全面に煤が認められており、竈での使用は考えにくい」
「竈導入の時期と受入れた集団の性格を考えるうえで示唆的な事象である」
「しかし完成された形態のものが“一時期”にまとまって構築されており、“この後広まること無く一旦きえていった”ことが周辺の調査事例から伺える」

一時的な外来人の家であったのでしょうか。
東海の倭種の国から女王国へ来た貿易商人かも。(^o^)丿


343

Re:雑

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月13日(日)21時46分35秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼以前の邪馬台国 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月13日(日)18時06分29秒 ]

>>
>>
>>
 「台与ちゃんが15歳で」とか居てあるけど、「卑弥呼様が?歳で」とはないです。
>>
>>
 「魔女狩り」はこれらを否定するものでしょう。



344

Re: Title 三枚目の青龍三年鏡(イリヒコさんのページにて)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月13日(日)21時54分47秒]

元の発言 [ Re: Title 三枚目の青龍三年鏡(イリヒコさんのページにて) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月12日(土)01時58分18秒 ]

>>
>>
>>
§^。^§
考古資料は出土した遺構、出土層、撹乱層か単純層かなどが分からないと意味がありません。
件の鏡は出土した地方さえ不明。



345

Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月13日(日)22時00分38秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月13日(日)13時34分16秒 ]

>>
>>
>>
 私もそうありたいと思っています。

>> 追試ができていない以上、あくまでまだ参考としか
>> いえないというのが科学的思考でしょう。
>>
>>
>>
>>
 追試がされていないのだから、矛盾があるかどうかは不明。
 そういう意味では、おにりんさんがよく仰る「科学的に証明された」とは言えません。



346

Re: 申し訳ない実は(雑)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月13日(日)22時12分29秒]

元の発言 [ Re: 申し訳ない実は ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月10日(木)02時04分04秒 ]

>>
>>
>>
>>
 「倭人伝の国々」はシンポ本じゃないですか。
 いずれにしろ、出版本は考古資料の「孫引き」、読んでの結論は「曾孫引き」ですネ。
 遺跡を見、調査報告書を読んでみる必要があります。



347

Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月13日(日)22時23分15秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月13日(日)13時34分16秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
僕もそれなりに信頼してよいものであろうとは思いますが
それでもなお追試ができない以上、それぞれのデータ間に
おいて矛盾がなくても(矛盾のないように組み立てること
だって可能というか、矛盾のないようにするのでは)
確定しないところが科学的な思考と思います。




348

Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月13日(日)22時49分14秒]

元の発言 [ Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月13日(日)13時59分06秒 ]

>> 渤海湾じゃなく東朝鮮湾からでしょう。フンナム興南とかヨンフン永興あたりが候補。ウオンサン元山でもいいかな?

>>
>> 高句麗の残党もこのコースを通った筈です。(^^;

>>
>> 逃亡する兵士に巻き込まれて行動を共にする事は有り得る事です。
>> 人質にされていたとか、密告を恐れて監視されていたとか、他にも理由はありえます。

>>
>>
では、封鎖している魏の軍船の指揮官に、鼻薬でも袖の下でも使えば簡単でしょうに。
古来こんな話は、多いと思いますと言うよりありふれすぎてると思いますが。

牛頭サンの意見に賛成です。
このコースは、縄文時代から海人の交易の縄張りです。

これの事を主張していたつもりなんですが、伝え方が良くなかったようですね。
姫島と隠岐と書いたのは、ご存知の通り黒曜石の流通で交流があったことが確かだからですが

ここをふさげば、当然海人族の反発を受ける。
考えたのは、信長による比叡山の焼き討ちです。
秀吉は、封鎖をしながら、人々を逃がしてますが、
この立場に海人族が居たのでは、と言う事なんですけどね。

トすれば、当然其処に調略があったと見るべきでしょう。
大方の見方ですが、中国が海軍で外に出ていって成功しているのは、
陸続きの場所ですね。
其れでも成功例は、非常に少ないと思います。

と言う事は、半島南西部に調略をしかけ成功したと見るべきなんでしょうが、
本島東側まで、考えれば、倭こくの海人族まで取りこむ必要があると考えたと言う事です。

そうであれば、銅なんか袖の下次第じゃないんでしょうか?
第一貨幣に使われてもいるんですから。




349

Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月13日(日)23時06分42秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月11日(金)01時50分31秒 ]

おにりんさん、今晩は、返事遅くなってすみません。

>>
>> 単に、吉祥句でも並べた鏡を送るべきだったのでは、
>> というのが引っ掛かっているのです。

>>
>>
>>
#私は、原文どおり景初二年が貢献年次だと思っています。
年号は天子の治世を表すものであるのに、卑弥呼に送った鏡の中
に、(先の天子)明帝の治世年号入りの鏡が有ること自体が不信
だと言っているのです。貢献年次が景初三年であれば、十二月に
出された証書により、難升米等は、銀印をもらってから、帯方太
守とともに正始元年二月以降に帰国したと考えられます。景初三
年十二月には、夏王朝の暦法に戻すという小帝の詔があり、卑弥
呼への証書を出す時点で、改元は決まっていたことがわかります。
当然「正始」の年号も決まっていたでしょう。では、なぜ正始年
号の鏡だけを作らなかったのかと言う疑問が生まれるのではない
でしょうか。倭国遣使が帰るまでには、閏十二月があり、少なく
とも一月以上の時間があったはずなのです。もし、十二月以前に
鏡が作られたのなら、年号を入れずに吉祥句だけの鏡にすればよ
かったのではないか、と申し上げているのです。

>> こんどは「女王国東渡海千余里復国在」の説明がつかなくなるでしょう。

>>
>>
それだと伊勢湾から関東までの距離が、対馬から壱岐までの距離
と同じになりますよ。さらに、畿内説では、投馬国と女王国は、
不彌国から見て実際の方角は東だけど、これは南と解釈し、女王
国の東千里の国は、原文どおり東と解釈することとなって、方位
に関しては全く恣意的に取捨選択していることになるでしょう。

>> つまり、水行であれ、渡海であれ、畿内説では方角の矛盾を説明できないのです。

>> 日野さんの説をどう解釈されているのですか。

>>
>>
日野さんのような緻密な分析と明快な論証は、私には出来ません。
結論には同意できませんが、立派な論文と評価しています。
私が聞いているのは、日野さんの論文では、不彌国から邪馬壹国
迄の記述「水行十日、陸行一月」も傍線行程として書かれてある
と解釈できますが、それについてどう考えますかと言うことです。

>> 荒唐無稽な数値ではないということを申し上げたつもりです。
>> 都から、会稽郡までは晋の統治領域ですよ。
>> それを万二千余里と考えているわけですから、当然実感を伴う数値です。
>> 遥か彼方の南方というような抽象的な表現ではないということです。

>>
>>
>>
確かに、会稽まで万二千余里と書いてあるわけでは有りません。
しかし、5000里程度と書いてあるのでもありません。
帯方郡から女王国までの里程を考え、これを中国本土に当てはめ
れば、女王国は、会稽の東に位置するであろうと言う意味です。
万二千余里は、都から会稽までの距離と言う意味ではないかも知
れませんが、『東夷伝』に使用された「里単位」と中国本土で使う
「里単位」が異なっていたとしたら、中国本土に当てはめて、会
稽の東にあたると推定することさえできないでしょう。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#魏略には邪馬台国が伊都国の南とある、というのを私は知りません。
「当に会稽の東治の東に在るべし」の意味は、夏后小康の子が会
稽で教えた断髪文身の風習と同じことが、女王国に見て取れるの
は、女王国が、会稽の丁度東に位置することと関係があるのでは
ないかと、陳寿が推測していると言うことでしょう。決して、万
二千余里が間違っていることを示すために持ち出した例ではあり
ません。

#実は、『倭人伝』は短里でなければ解けないが、畿内説だから認
めるわけにはいかず、矛盾している長里説を、矛盾していると知
りながら正しいと書くことを春秋の筆法と言うのではないでしょ
うか。普通に考えれば短里であることは明白ですから。

>> おにりんさんが、その説を支持される筈はないですよね。
>> 卑弥呼の墓では長里説でしたから。

>>
>>
>>
>>
それじゃあ『倭人伝』のなにを信じるのですか。
畿内説では、里程(距離や方角)、国名(大海国、一大国)、人
名(壹与)、貢献年次、会稽東治等みな書き間違いかでたらめな
数字ということになりますよ。

>>
>> 韻書のないことを問題にしているのではなく、
>> 今読んでいる本には、上古音は韓半島や日本の古文献を参考に
>> 推定されていると書いてあるのですけど、「奴」はどうなのか知りたいだけです。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ご教授ありがとうございます。参考にさせていただき、勉強します。

>> わが国のことを記述した倭人伝でさえ解読できないのに、
>> 高句麗の地名や支配領域を特定できるものでしょうか。

>>
>>
>> よしんば、できたとして、長里による推定でしょう。
>> 韓半島が短里で、高句麗が長里ですか。

>>
韓半島と、高句麗は陸続きですよ。同じ『東夷伝』内に書かれた国ですよ。

>> 同じ東夷伝の中に、二つの異なる単位が使用されたと考えられますか。

>>
>>
>>
その特殊な理由を考え出さないと長里説では説明できないと言っているのと同じでしょう。

>>
>>
日数の換算は無いでしょう。里数を知らない倭人の言葉(日数)
を中国人はやすやすと信じたのでしょうか。周囲の国々を夷蛮と
さげすんでいた誇り高き中国人ですよ。不彌国までは、里数で表
記したのに、肝心の邪馬壹国までが日数表記だけなのは、魏使が
邪馬壹国へ行かなかったから、とでも仰るのでしょうか。
私は、里数表記のあるところは、実際に訪れていると思いますが、
日数表記は、倭人からの伝聞と考えます、いかがでしょう。

>>
>>
書き手も読み手も同じ里単位で読むのが当たり前でしょう。
読み手が長里で読むと予想されるときに限り、『三国志』に書い
てある「里」はあなた方の知らない短里で書いていると断りを
入れるものでしょう。
読み手も短里で読むから、中国本土の会稽の東に女王国があると
書かれても納得できるのです。

>>
>>
>>
魏代の里に関しては、文献で求められていないから論争になって
いるのです。考古学的に考えれば、倭人伝の記述から短里使用は
疑えません。三世紀の韓半島から北部九州までの地形が、現在と
大幅に違うと言う証拠でも有れば考えますが。

>>
>>
>>
>>
>>
それに不信を抱いている素人が山ほどいるということです。
学者の言っていることが全て正しいのですか。土器の編年が、近
年めまぐるしく変化するのは、学者の提出した考えが、次から次
へと変化した結果でしょう。学者が言っているから間違いないと
いうのは、唾棄すべき権威主義と考えます。

なお、漢代と唐代の里は、一里三百歩と三百六十歩で、明らかに
違う単位です。

>> それは、科学者に考えていただきたい課題ですね。
>> 韓半島、対馬、壱岐に使用された里数値の比率が、
>> 現在の地形の比率とほぼ重なりますから、
>> 測量技術が有ったと考えるべきでしょう。偶然にしてはすごすぎますよ。

>>
>>
>>
苦しいですね。面積では16〜25倍の誤認ですか。
>>
>> 帯方郡治からの総日程です。良くご存知でしょう。
>> 古田氏の本も全部お読みでしょうから。

>>
>>
>>
>>
>>
#私は、帯方郡治から不彌国までを12,000里と考えますが。
おにりんさんの考え方は、連続式読方であり、日野氏の論文に矛
盾しますし、帯方郡から不彌国までは短里で計算した実際の距離
を採用し、不彌国から邪馬壹国までを長里で換算し、実距離に合
わせていることになります。韓国から北九州までが10500里で、
北九州から畿内大和までが1500里であると本気で主張されるの
ですか。これは、おにりんさんがよく示される1995年より、遥
か昔の古典的長里説ですよね。
#漢代でも日に30里じゃなかったと思いますが。
そして、多くの研究者は、この問題に触れていないのが現状です。
有ったら教えてほしいと何度もお願いしているはずです。

#読みにくい文章とは思いますが、おにりんさんならご理解頂けるでしょう。




350

応急の修復が完了しました。

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [1月14日(月)20時00分40秒]

今後も不安定な状況が発生する懸念が若干残りますので、管理人からのお知らせがあった場合は地帯なく書き込みの一時中断をお願い申し上げます。

今回のトラブルの結果、1月1日〜3日の投稿レコードが破損いたしました。
破損で失われたみなさんの投稿はバックアップ・データから普及可能ですが、復旧作業は今月の定期メンテナンス以降とならざるを得ませんのでご了承ください。

なお、原因は不明ですが、外部からの不正アクセスによるアタックの可能性もあります。


351

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 山佐留 ] 発言日時 [1月14日(月)20時27分55秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ に'ゃあ ] 日付 [ 1月13日(日)20時47分04秒 ]


>> 四国説ですか。たびたび行ってますよ。
>> その可能性、なきにしもあらず!
>> 考古学の怖いとこはひとつの発掘ですべてが変わる可能性があることです。とくに荒神谷の大量出土は。
>> あれひとつで「出雲神話が史実だなんていう人はトンデモ系」なんてバカにする人、いなくなっちゃいましたからねえ。
>> 四国、特に南四国は過疎地(失礼)だから、発掘が少なく、そのうちとんでもない発見があるかも。三内丸山もそうだったし。
>> あと個人的に、宮崎にも注目してますよ。あそこも開発してないし。

にゃあさんこんにちは
高知の山佐留です。ときどき投稿しています。
四国説は現在はどちらかと言えばトンデモ系ですが、九州説、近畿説のいずれにも決め手が無い現状を見ると、
実は本命は四国であるとひそかに確信しつつ自分なりの古代史を構築中です。
四国へはたびたび来られるということですが、四国へ来たなら高知へもよって下さい。


352

申し訳ありません。

投稿者[ 大和川湖南 ] 発言日時 [1月14日(月)21時00分59秒]

元の発言 [ 応急の修復が完了しました。 ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 1月14日(月)20時00分40秒 ]

 ご苦労様です。

 書きこみ中断の指示に気がつかずに、投稿してしまいました。今後このようなことの無いよう気をつけます。上書きされた方の記事も復旧可能とのことで、すこしほっとしています。

>> 今後も不安定な状況が発生する懸念が若干残りますので、管理人からのお知らせがあった場合は地帯なく書き込みの一時中断をお願い申し上げます。

>> 今回のトラブルの結果、1月1日〜3日の投稿レコードが破損いたしました。
>> 破損で失われたみなさんの投稿はバックアップ・データから普及可能ですが、復旧作業は今月の定期メンテナンス以降とならざるを得ませんのでご了承ください。

>> なお、原因は不明ですが、外部からの不正アクセスによるアタックの可能性もあります。



353

そうだったんですか

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月14日(月)21時07分26秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼は「倭国」を支配していなかった(地理的感覚について) ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月13日(日)23時12分04秒 ]

>いつも九四フェリーでして一回だけ八幡浜-別府でして、そんときが一番ひどい酔いでした。
あそこは外洋に近いしただたんにぼくが船に弱いだけかも。
ただ、瀬戸内は長短乗ってて船酔いした経験がないもんで。やっぱ船酔いするのは外洋かな。


354

はいな

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [1月14日(月)21時19分28秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 山佐留 ] 日付 [ 1月14日(月)20時27分55秒 ]

四国も島国ですね。高知は三回行ったのですが、そのたび南九州とおなじ、南国だなあ、とゆう印象があります。
ただ山が険しく、剣山スーパー林道が二回も雪で通れなかった。竜馬も通った装束峠もガケ崩れで通行止めでした。
四国といえば、徳島県から銅鐸がいっぱいでてますよね。
奈良よりも。


355

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ ] 発言日時 [1月14日(月)21時45分43秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月10日(木)11時12分18秒 ]

>>
え〜っと、鏡の出自とは全然関係ない話になりますが・・・

陸上封鎖や海上封鎖って、言葉の上では簡単ですが、
実際は、かなり難しいようです。端的な例が、
ビンラディンを捕らえようとしたトラボラ封鎖ですね。
最新の技術を駆使してもトラボラ封鎖に失敗しています。
ましてや当時の技術・戦術では、どこまで封鎖できた事か・・・

当時の封鎖の主な目的は、集団を通過させない事だったろう
と思います。バラバラとなった個人ならば、かなり容易に、
包囲網をすり抜けられたでしょう。ただし同時に、かなり
容易に、落ち武者狩りの餌食にもなったと思いますが・・・



356

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ ] 発言日時 [1月14日(月)21時46分14秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月10日(木)11時12分18秒 ]

>>
え〜っと、鏡の出自とは全然関係ない話になりますが・・・

陸上封鎖や海上封鎖って、言葉の上では簡単ですが、
実際は、かなり難しいようです。端的な例が、
ビンラディンを捕らえようとしたトラボラ封鎖ですね。
最新の技術を駆使してもトラボラ封鎖に失敗しています。
ましてや当時の技術・戦術では、どこまで封鎖できた事か・・・

当時の封鎖の主な目的は、集団を通過させない事だったろう
と思います。バラバラとなった個人ならば、かなり容易に、
包囲網をすり抜けられたでしょう。ただし同時に、かなり
容易に、落ち武者狩りの餌食にもなったと思いますが・・・



357

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ ] 発言日時 [1月14日(月)21時46分41秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月10日(木)11時12分18秒 ]

>>
え〜っと、鏡の出自とは全然関係ない話になりますが・・・

陸上封鎖や海上封鎖って、言葉の上では簡単ですが、
実際は、かなり難しいようです。端的な例が、
ビンラディンを捕らえようとしたトラボラ封鎖ですね。
最新の技術を駆使してもトラボラ封鎖に失敗しています。
ましてや当時の技術・戦術では、どこまで封鎖できた事か・・・

当時の封鎖の主な目的は、集団を通過させない事だったろう
と思います。バラバラとなった個人ならば、かなり容易に、
包囲網をすり抜けられたでしょう。ただし同時に、かなり
容易に、落ち武者狩りの餌食にもなったと思いますが・・・



358

Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月14日(月)21時47分14秒]

元の発言 [ Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月14日(月)12時49分23秒 ]

>> 如何して、同じにまた一遍に運ぶ必要があるんですか?
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 其れが塩だったり青銅鉄などの必需品だと、王朝さえつぶしかねない。

>>
>> だから、逆方向シナ海方面の海軍司令官なり、
>> 船の艦長なり、補給関係の兵隊なり買収すれば済むことでしょ。

>>
上の件、一気に答えましょう。
幾通りも考えられる事は有りますね。

1.まず、一気に運ぶ場合。
封鎖に加わる条件の一つの報酬に銅隗を要求する。
この場合、皇帝が銅を集めていようが、如何しようが、確実に手に入るでしょうね。
当然、戦優先でしょうから、この程度安いもんです。

2.分割する場合。
この場合少量ずつに成るでしょうね。
第一横流しなんですから、見つからないようにしないと首が飛びますからね。

まずは、海軍の司令官辺りと話をつける。
この場合、少量と言っても2〜30は、可能でしょう。

封鎖が終われば、後は、少しずつ密輸すれば良い。
数キロずつ対馬辺りに運んでもらえば良いでしょうね。
そう難しくも無いでしょう。

>> 一族そろって帰りたいと言う悲願なんか持っていればそう不思議でもない。
>> 其の時に、帰国すれば何らかのさわりがあるならね。

>>
>>
>>
別に、中国で無くとも近世以前じゃ珍しくも無い事ですよ。

謀反に、連座するってのは、特に中国は激しいからですね、刑罰が。
一人が、謀反を企てたとすると、一族が皆殺しですメバ、軽い。
下手すると、その使用人達に婚姻を結んでいた一族まで皆殺しにされかねない。
で、グループのリーダー格が、数人其れにかかわっていたとしたらどうなります。
魏の皇帝に降伏する気には、成れないでしょうね。
少しでも危険だとすれば、

其れで、倭へ逃げた。
けど、魏が滅んじゃった。
そして、大赦が数回行なわれたので帰れるようにになった。
こんな、シナリオならありふれてるでしょう。
謀略に長けた、中国人が戦国で仕掛けるんですから。




359

Re: そうだったんですか

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月14日(月)22時02分58秒]

元の発言 [ そうだったんですか ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月14日(月)21時07分26秒 ]

>> >いつも九四フェリーでして一回だけ八幡浜-別府でして、そんときが一番ひどい酔いでした。
>> あそこは外洋に近いしただたんにぼくが船に弱いだけかも。
>> ただ、瀬戸内は長短乗ってて船酔いした経験がないもんで。やっぱ船酔いするのは外洋かな。

外洋でも船酔いは、不思議にしない事も多いです。
日本カーフェリーで宮崎ー川崎は何回も乗っているんですが、
波の荒いときと静かなとき両極端ですね。
時の状況は。


360

Re: 応急の修復が完了しました。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月14日(月)22時22分33秒]

元の発言 [ 応急の修復が完了しました。 ] お名前 [ 管理人 ] 日付 [ 1月14日(月)20時00分40秒 ]

>> 今後も不安定な状況が発生する懸念が若干残りますので、管理人からのお知らせがあった場合は地帯なく書き込みの一時中断をお願い申し上げます。
>> 今回のトラブルの結果、1月1日〜3日の投稿レコードが破損いたしました。
>> 破損で失われたみなさんの投稿はバックアップ・データから普及可能ですが、復旧作業は今月の定期メンテナンス以降とならざるを得ませんのでご了承ください。
>> なお、原因は不明ですが、外部からの不正アクセスによるアタックの可能性もあります。
 ご苦労様です。
 おかげさまで投稿できます、ありがとうございます。


361

この鉛同位対比の議論、

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [1月14日(月)22時28分21秒]

元の発言 [ 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 1月8日(火)00時07分17秒 ]

過去に銅鐸で似たようなことありませんでした?
銅は中国の銅をつかってる、これは鉛同位対比からもいえるんだって。
あと福岡県の弥生時代の銅鏃も鋳型も出土したのに 銅は中国 のものだって。
神岡鉱山の鉛に関していえば古い時代の採掘と新しい採掘では同位対比が違う、最低でも50のデータがないとこれは神岡の鉛とはいえない との神岡鉱山の技師の話。
日本は過去、世界最大の銅生産国でした。
そして弥生時代、おびただしいまでの銅剣、銅鉾、銅鐸、銅鏡を生産しています。韓にも輸出してます。
つまり・・・・。


362

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月14日(月)22時32分58秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月14日(月)01時55分03秒 ]

>> A〜F区は、田崎氏が勝手につけたのじゃ無くて、2次調査の調査区番号です。
>> ですから5次の住居址とは別です。
 そうだったんですか。
 2次調査の調査報告書を探して見ます。m(__)m

>> それと、西新町の布留系甕を加賀南部産とするのは、かなり異論があるようです。もちろん、畿内産ではなく、地元の製作とする説もあります。
>> あと、西新町遺跡の「畿内系」土器は、よく見ると、畿内のそれと似ても似つかぬものですよ。土器のモデルは畿内系でも、地元で変容して独自変化してしまったようです。これは西新町に限らず、同時期の北部九州の「畿内系」土器のほとんどがそうです。
 ですよネ。
 私も以前(津古生掛の二重口縁壷を見て?)からそう思ってました。
 那津屯倉跡といわれている比恵遺跡の井戸出土の土器も市教委の山崎氏は庄内式と断定したけど、須玖式土器も出てるし、見た目、西新新式と言ってもあながち間違いではないような気がする。

>> だから、「畿内系」が多いからって、畿内の人がその土器の割合でそのままいたと短絡するのは危険です。
>> 特に西新町遺跡では、両方使ってる住居も多いし。
 第五次調査報告書には奥田尚氏の付論「西新町出土土器の砂礫」がありますネ。
 この中に、「形態が同じであれば全て搬入品であるとは言い切れない」、
 纏向逮跡から出土する大和型庄内甕には在地で作られた(1)巻向付近の砂礫からなるものと、搬入された(2)いわゆる河内の胎土、(3)播磨地方の砂礫に酪似する三種類が見られ、人と共に土器が持ち運ばれ、土器が足りなくなればその地で作ったために生じた現象である、と結論付け。
 各地で「時期が僅かに異なって独自に製作され、各地に運ばれた結果の一つが纏向遭跡の土器の出土状況であるといえる」としています。
 西新町遺跡の外来土器も同様な性格のもの、と推論されています。
 この先の観察結果はまだ読んでません。m(__)m

>> ただ、オヤジッチさんの言うように、「貿易商人」が往来しそうな大集落(特に沿岸の)で「畿内系」への変化が早いようです。
>> ある種の都市間の流行かもしれません。
 当該住居(SC06)は布留式古段階に廃棄されたようですネ。
 他の住居も調べる必要がありますが、一時的な東海倭人街だったりして。§^。^§
 竈の導入期にあたる最古例に属する(SC09)、オンドル状の煙道(SC03)、廃棄とそれに伴う祭祀の可能性(SC06)、
「完成された形態のものが一時期にまとまって構築され、この後広まること無く一旦消えていった」、
「西新町遺跡では瓦質土器・陶質土器等の半島系土器が多くみられ、4次調査出土のノミ状鉄製品などからも特異な鉄器を保有していた」など、
 興味深い“古代のロマン”が多いですネ。
 やっぱり調査報告書は勉強になる。
 やたらと蛸壺が出てる、卑弥呼も玄界灘産の蛸を食べたんだろうか。(^。^)

>> ちなみにSD=溝、SC=住居址の略号(記号)です。西新町5次のSD06,SD07はSC06,SC07の間違いです。
 その通りです、何で間違ったんだろう。(^_^;)
 ありがとうございました。m(__)m

>> この時期の九州の土器については、石野氏の本にも引用がありますが(もっとも、研究会発表資料ォ引用してますが)、『庄内式土器研究』19の久住氏の論文を読んで下さい。
 出版本と調査報告書の刷り合わせをしたいです。
 泥沼にはまるかもしれないけど、調査報告書の内容を纏めるだけでも良い勉強になると思います。
 何より頭のクールダウンになる。(^・^)


363

Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月14日(月)22時55分44秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月14日(月)12時13分53秒 ]

>> >> 年輪にはばらつきがあって発掘された木材にも年代が合わない物も多数あるそうです。

>> その情報はどっから出たものですか?
>> どこかに書いてあるんでしょうか。

http://www.st.rim.or.jp/~adachima/sinpou2000.10.7.4.html
「出雲大社境内遺跡(島根県大社町)で出土した杉の巨大柱は、成育が良すぎたため、測定が不可能という珍現象が起こった。」
三本束ねた丸太だったんでしょう?

あるいは樹木の置かれた個々の特殊環境(周囲を他の樹木に覆われて数十年も日照が悪かったのが、周りの樹木が倒れて途中から
発育が良くなったものもありうるとか。

槇や檜は杉や他の樹木にに比べて成長が遅いですから始めは日当たりが良かったのに他の樹の為、途中から成長が悪くなる事もありうるでしょう。
個々の樹木の事情まで推測する事は出来ません。

M氏自身がその辺の事を著書の中で認めていたと思いましたが・・・・
ネットサーフィン中に見かけた記事なので不確かですが。

奈良や飛鳥の遺跡からでた資料でも樹皮に近い部分の残っている事は少なく、限られた資料のなかで使えない物のあることは信頼性を著しく損ないます。


364

Re: 卑弥呼以前の邪馬台国

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月14日(月)23時04分32秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼以前の邪馬台国 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月13日(日)18時06分29秒 ]

次のサイトなんかはどうでしょう?


道教文化の源流
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX1-2.htm


宗教学や文化人類学の御世話にならずとも,
世界の神話,また,特に旧約・新訳あたりを読めば,
おろそかにはできない対象であることは確かです。

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>>
>>
>>
>>
>>

この辺り,日本書紀は合理的あるいは悟性的であり,
なおかつ,中国古典の影響が見られるとは言え,
神秘学的要素についても,
貴重な記事は端的に記録しています。

しかも,皇極紀三年七月の記事にあるように,
「常世の神」なる俗信が流行ったが,
詐欺的であるというので,秦造河勝に討たれる,
というように,ちゃんと基準があることはある。

孝徳紀大化二年八月の勅には,
「万物の内に,人是最も霊(くしひ)なり」とあります。

その常世の神というのは,
青虫であるからヒルコを連想させ,
エビス信仰と通底しているのではないかと疑っています。

エビス信仰は江戸ジャパネスクとして洗練されたので,
それはそれで良いとは思いますけどね。(^◇^)¶

後には儒教的合理精神に長けてくる一方で,
方違えなどの通俗化した術が流行る,
とかの混乱が見られるのは,現在も同じ。






365

Re: 卑弥呼以前の邪馬台国

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月15日(火)01時29分54秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼以前の邪馬台国 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月13日(日)13時26分37秒 ]

>>
>>
>>
なぜ隼人の伝承を記紀がとりいれたのでしょうか?
疑問です。
ヤマト政権の中枢を隼人が握っていたのでしょうか?
隼人がそのような地位についていたとは思えないのだが。
出雲の関連なら多少許されるとは思いますが、こちらは
国譲りで最後にはヤマトの支配に入りますから。
しかし神武は違いますよ。ヤマトの大王でそれも初代です。
これはちょっと納得がいかないですが。


>>
>>
>>
疑問点が多いです。

考古学と記紀との整合性でといわれますが
合わせているだけのように思えますが、、、

>>
>>
>>
遷都に近いものであれば(僕は九州より撤退したに近い
ですが)土器の移動とは関係がなくなります。
ヤマトにはマキムク以前にもそれなりにクニが出来て
いたのですから。
マキムクに新首都が出来てから全国に進出したとすれば
問題はありませんね。






366

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月15日(火)01時40分10秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月14日(月)01時55分03秒 ]

>> それと、西新町の布留系甕を加賀南部産とするのは、かなり異論があるようです。もちろん、畿内産ではなく、地元の製作とする説もあります。
>> あと、西新町遺跡の「畿内系」土器は、よく見ると、畿内のそれと似ても似つかぬものですよ。土器のモデルは畿内系でも、地元で変容して独自変化してしまったようです。これは西新町に限らず、同時期の北部九州の「畿内系」土器のほとんどがそうです。


それがどうして畿内系と呼ばれるのでしょうか?
似ても似つかないものなのに




369

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)07時37分33秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月15日(火)01時40分10秒 ]

「在地系」といわれる北部九州地元の伝統的な形態、技法のものとは、系譜上はつながらず、技法的に、また形態的、セット的に、一応は、畿内からの系譜を引くからです。地元の中からは出てこない。
だから、最初に作りはじめた頃(庄内式のある期)、こそ酷似してますが(比恵遺跡とか博多遺跡で出現)、それが北部九州全域に広まるにつれて、布留式古相のある時期には、微妙に異なる形態、セットとなります。
大まかには「畿内的」なのですが、広まった時期のセットや型式は、畿内のそれそのものではない、と言う問題があります。
だから、「広まった時期」の「畿内系」土器の割合が、そのまま畿内からの人々の割合を示すかと言うと懐疑的にならざるを得ません。
また、このように土器様式がある時間を経て入れ代わる場合、さらに土器の生産が専業的に行われる部分があり、また「市」などで売買されるとすれば、ますます○○系土器の割合がそのままその系統の人々の割合か怪しくなります。西新町遺跡みたいな市のある港町のような遺跡だったらなおさらそうです。
また、内陸部においても、首長層に関わる墓や居館に早く「畿内系」が導入されると言う指摘もあります。
これも、遺跡の連続性等から言えば、在地首長が積極的に新文化を導入したと言う方が事実に近いようです。


37

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月4日(金)13時00分11秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月4日(金)03時21分26秒 ]

>> 古墳って、一般のお墓でもあるのですか?
>> 王とか有力な豪族などのものでしょう。
>> それが一般ですか?
>>
>>
>>
 話をすりかえないで下さい。

>>
>>
 だから!近畿の墓制かどうかをご存知なんですか、と質問されてるんですよ。
 そもそも、潜塚古墳についてどれほど知ってるんですか。

>>
>>
 ほう!近畿には伝統的な“墳丘墓”があるんですか。
 “墳丘墓”と言えば九州で発生したのものだとばかり思ってた。



375

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月15日(火)11時48分19秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月12日(土)01時46分56秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
なんどもお勧めですが、この本絶版で手に入らないんですよ。




377

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月15日(火)12時22分38秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)11時43分38秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
高句麗を滅ぼした時には高句麗を追って半島内を隈なく残党狩りをしたが高句麗はまもなく復活してしまった。
公孫氏には高句麗より厳しい追討がされたんでしょうか?
東夷はかって公孫氏から柵封を受けていました。
彼らの中には公孫氏の逃亡を助ける者もいたかもしれません。
高句麗のように周辺国から嫌われていた国でさえ逃げ切って復活できたんですから、逃げられない筈はありません。

銅は日本にあったんですって。
銅鐸の銅は元々畿内に沢山あったでしょう?
銅鐸の銅の産地は河北も河南も半島もいろいろですから。




379

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月15日(火)13時54分12秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)13時23分19秒 ]

>> なんどもお勧めですが、この本絶版で手に入らないんですよ。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
期待しています。
ところで以下は去年の8月頃に投稿しようとして、升や弓などの韻尾の発音でつまづいて、発表しなかったものですがついでにご批評くださればありがたいです。

******************************************************************************
今日から夏休み。

言語/音韻の世界はずぶのしろうとですが、倭人伝の人名について気になることがあったので、思い切って投稿します。

まず倭人伝に出てくる邪馬台国の官名をみていると、彌馬升、彌馬獲支というのが出てきます。
獲支をワキと呼ぶことにすると、"脇"または"傍"、つまり次官のような意味ではないかと思えてきます。
このあたりで既につまずいているかもしれませんが・・・
伊支馬はどうするのかとか・・・

せっかくの夏休みなので、伊支馬については他で考えることにして、気を取り直して先に進みます。
獲支が次官ならば升は何かの長を意味するのではないかと言うことです。
つまり彌馬升は彌馬"長"のような意味なのではないかと・・・

ここで升をシ(∫i)と読んでみます。
シ(∫i)が何かの長の意味なら、倭人伝の中で何かいえることはないか。
倭人伝中の他の官名で、やろうとすればシ(si/zi/di?)と読み取れる音を持つものは、泄謨觚、 {凹/儿} 馬觚ですが、これも他の機会に考えます。

ここからさき人名に注意してみました。
卑弥呼や卑弥弓呼は、祭祀王の称号と考えられるので、倭人伝中の人名は以下の六名

1.難升米
2.都市牛利
3.伊聲耆
4.掖邪狗
5.載斯烏越
6.壹與/臺與

異論のあるところでしょうが

1.ナシメ
2.トヂゴリ
3.イシギ
4.ヤギャク(ヤギアク?)
5.ソシオワ
6.イヨ/トヨ

と読んでみました。
名前の付け方の感性と言うか、単なる流行かもしれませんが、1.3.5.は二音目がシ(si/∫i/t∫i?)、4.6.を除いて二音目あたりにイ(i)段がそろいます。
4.は無理があるかもしれませんが、イ(gi)段を抜き出せます。
ヂ(di)やギ(gi)の変化はありますが、上二音の○シ(ヂdi/ギgi)は本来何かの役割を表すと考えるのはどうでしょうか。
祭祀王になる前の13歳の壹與/臺與にはそのような役割は冠せられていなかったでしょうから、6.は考えなくても良いでしょう。
祭祀王になれば恐らく卑弥呼と呼ばれたでしょうし。
とくに中国への使いの代表として、大夫と呼び最初に名前の挙がる、1.3.5.がいずれも○シ(si)の音に読めるのは面白いです。
もっとも掖邪狗はその後の使いで、大夫と呼ばれ最初に名前が挙がりますが・・・
そういえば伊聲耆は途中からすっかり見えなくなりますが、生きて帰れなかったのでしょうかね。
都市牛利の場合は、文中二回目以降単に牛利と記されているのは、中国人も何か気付くところがあったのかもしれません。
その場合難升米と掖邪狗はうまく説明がつきませんが、難升米は切離すと音を表すのかどうか分からなくなりそうですし、掖邪狗はそもそも中国人には取りにくい音だったのでは?

さてこれらが全て官名とすると、邪馬台国は官僚国家のように見えてしまいます。
そうでないとするとこの称号、○シを長とする集団は何か。
これが、血縁地縁、職掌などによる集団の長を表すとすると、後世の氏(ウジ)の原型のようなものが有ったのではないでしょうか。
あるいは単に部族と考えるか。
村おさ、共同体の族長か。
もっとも○シは単にある社会的地位を表すもので、その背景に何かの集団を考えるまでもの無いのかも知れませんが・・・
少なくとも彌馬升は族長というより、何かの職掌の長のように思います。

散々研究された倭人伝に関して、門外漢が新味のあることを言うのは無理かもしれません。
もしも同様の説があるようでしたらごめんなさいです。
夏休みのことですから許してください。

さて最後に余談ですが、後漢書東夷伝の帥升はもしかしたら族長名/氏長(うじおさ)名のみが伝わったものかもしれません。
この場合は

7.スシ○○

でス氏/族の長ということに。

何か急におなかが減ってきたので、今夜はこれでおしまい。




38

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月4日(金)13時05分35秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月4日(金)03時23分55秒 ]

>>
>>
 潜塚古墳 くぐりづかこふん
 古墳時代の前期古墳。大牟田市黄金町1丁目に所在。
 付近水田より15mほどの高い独立小丘の頂部に位置する。
 径約25m,高さ6〜6.5mほどの円墳であるが,本来は径約30m、高さ7mほどと思われる。
 墳頂に近く,箱形の組み合わせ石棺が2基,130cmほどの間隔で各主軸を南北にして並ぶ。
 ともに人間1体を入れるほどの大きさであるが,東側の1号棺は,蓋石,両側璧,両小口のすべてが凝灰宕の切り石でつくる。
 棺内から壮年男子人骨が保存よく1体分と,副葬品として神人竜虎画像鏡1面,碧玉製管玉が2個出土。棺外から鉄剣1,刀子2、鉄鎌1,やりがんな1〜2本発見。
 西側の2号棺も,すべて砂岩の一枚石で構築する。棺底に底石もあり,さらに南に小石室を付加している。
 棺内から内行花文鏡片1,棺外から銅鏃47,鍬先1,鎌1,斧2,?2,鉄製品破片少量,土師器壷2を出土。
 両棺の中間から剣身残片1。国指定史跡。

 インターネットにここまで載ってるか。



381

Re: 卑弥呼以前の邪馬台国

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月15日(火)16時00分51秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼以前の邪馬台国 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)09時19分40秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 疑問点が多いです。

>>
必ずしもトンデモでなくても疑問が残るものは
多いですね。

>>
>>
ですから、それもどれだけ信用できるか疑問です。


>>
>>
微妙な年代ですよね。




382

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月15日(火)16時05分21秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ 山 ] 日付 [ 1月14日(月)18時05分51秒 ]


>> >> 四国の古墳とか遺跡についてはネット検索してもあまり引っかからず、私のような駆け出しには四国についての情報がよく判らないので教えてもらえるとうれしいです。
>> >> 讃岐や徳島の遺跡もあまり詳しいものはありませんし、高知は殆んど見つかりません。
>> >> これらの四国内の比定地に付いてどういう遺跡があるとか教えてもらえませんか。
>>
>> 上記の件については、即答出来るほどの知識がないので、
>> 少し調べて報告なりいたします。

期待しています。

>> >> それから昨年の八月の私のレスに対する山佐留さんのレスが読めなくなっていますが削除されちゃったのかな?
>>
>> とりあえず、八月のレスは下記のとうりでしたのでご確認下さい。

有難うございます。
上記の遺跡などのまとめと下記の根拠などについて組み立てをしていけば新しい論争の題になると思います。
頑張ってください。
私も大論争に参加し多ばかりの頃は箸にも棒にも掛からないお粗末な思いつきをここで発表している内に、だんだんと自分の仮説も案外
ありうる事ではないかと少し自信を深めている所です。

>> >> >>  また、魏志倭人伝の後段において、倭国の地理的な特徴として、「倭の地の周旋は、五千里余りである」との記述もみられ、これも四国の海岸線の長さに合致すると思われることから、里程の問題についていえば、邪馬台国が四国にあった可能性は高いと思われますが、いかがでしょうか。 

>> >> は一里435mで計算した場合でしょうか。
>> >> 倭の地周旋はどこまでを範囲に入れるのでしょうか。

>>  とのご質問ですが、(一里が何mで・・)というような計算をした結果ではありません。
>>  魏志倭人伝の「倭の地の周旋は、五千里余りである」という記述には前段があります。
>>  読み下し文から(しかも朝日新聞学芸部編という、少々年季もの)の引用ですが、

>> 「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え或いは連なりて、周旋五千余里ばかりなり。」

>> というのが全文です。
>> ここで私の判断としては、「海中洲島の上に絶在し」とは倭の地が島国であり、「周旋五千余里ばかりなり」とは、その島の周囲の長さ(およそ海岸線の長さ)のことだと考えたわけです。
>> そこで、魏志倭人伝に書かれた「郡より、狗邪韓国まで七千余里」の距離と、日本列島にある島の周囲の長さとを比較した場合、本州はもちろんですが、九州も少し大きすぎるということで、もっとも「周旋五千余里」にちかいのは四国であろうということです。

>> ということで、倭の地の周旋の範囲も、邪馬台国があった(と私が考えている)四国全体を指すものと思われます。

>>   * * * * * * * *

>>
>> と以上でしたが、(一里が何mで・・)と言う件については
>> その後、魏尺について掲載されているホームページを検索したところ、

>>
>> * * * * * * * *

>> 魏の場合を例にすると、次のように考えられています。

>> 里=300歩
>> (歩=6尺)
>> 里=300歩=1200尺
>> (魏尺=24.12cm←about)
>> 里=1200尺=28944cm=289m
>> 100里=28900m=28.9km
>> 500里=144.5km
>> 1000里=289km
>> 2000里=578km

>>  * * * * * * * *

>> という内容のものを見つけました。
>> 先日の土佐説の里程を見て頂くとわかるように、
>> 唐津から日田の 500里=144.5km
>> 日田から九重、九重から大分の 100里=28.9km
>> などが、実際の距離とほぼ一致するため、土佐説の場合はふつうの魏尺で
>> よいと考えるようになりました。
>> したがって「周旋五千余里」についても、1500km位となり、
>> 四国の周囲の長さとそれほど違っていないと思われます。

なるほど中里ですね。以前おにりんさんも中里を提唱していたことがあったような。
#帯方郡から通しで説明できるのかな。

これからもどんどん投稿してください。


384

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)19時38分11秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)10時41分29秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
今の編年状況はかなり異なります。
在地系土器の諸型式(各時期の)との共伴状況、畿内系土器自体の型式の設定と共伴状況から、伝統的五様式土器の北部九州における出現は、庄内式古相併行から、庄内式(庄内甕や精製器種を備えた典型庄内式)は庄内のやや新しい段階から(纏向2式後半以降)に出現し、布留系土器は布留0式併行に出現し、布留1式併行で広がると見られています。ただし、それぞれの系統が、在地系も含め、布留1式平行まで残存することも指摘されています。(新しい時期に残る「在地系」や「5様式系」、あるいは庄内甕は、当初のものから型式変化している)
森岡氏論文もよく読むと、「布留系土器の拡散は北部九州でも独自になされていた可能性がある」旨のことを書いているはずです。だから、「畿内系」の伝播イコール畿内の人間集団の大量移動と見るのは少なくとも短絡的です。
また、集団や社会の中で、土器がどのように生産され(分業され)、流通しているのか、外来系の文化を受容するメカニズムは何か、ということを深く考えずに土器の伝播=人間集団の移動(移住)と直結させるのはいかがでしょうか?また問題となる庄内甕をはじめ、この時期の精巧な土器は、学史的にも専業生産ではないかと言うことが問題視されてきたはずです。
また、倭人伝にも「国々に市有り、有無を交易し」とありますし、、、その意味でも、西新町でのマージナルな土器の出方は示唆的であると思うのですが?
あと、初めに畿内系の精製系統である庄内系、布留系土器を受容した中心は近年の研究では比恵・那珂遺跡群とされており、この遺跡は奴国の中心として弥生中期から巨大な集落で(纏向規模が以前から存在)、集落としては連続するし、庄内系、布留系受容前後の住居址型式も突然変わる分けではなく、漸移的に変わるし、伝統的な住居型式にも畿内系土器はじゅようされるし、、といった事実があります。
 単純に、畿内系集団の大量移住では説明できない事実が多すぎることに注意すべきでしょう。




385

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月15日(火)19時51分11秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)15時18分20秒 ]

>> 銅は日本にあったんですって。
>> 銅鐸の銅は元々畿内に沢山あったでしょう?
>> 銅鐸の銅の産地は河北も河南も半島もいろいろですから。

>>
>>
>>
>>
>>
弥生時代に徐州さんの銅が輸入されていたと考えれば全く問題ないです。



386

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月15日(火)20時43分37秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月15日(火)19時38分11秒 ]

こんばんは。いつも為になる投稿ありがとうございます。

大量の人間の移住があったかどうかはともかくとして、

>> 在地系土器の諸型式(各時期の)との共伴状況、畿内系土器自体の型式の
>> 設定と共伴状況から、伝統的五様式土器の北部九州における出現は、庄内
>> 式古相併行から、庄内式(庄内甕や精製器種を備えた典型庄内式)は庄内
>> のやや新しい段階から(纏向2式後半以降)に出現し、布留系土器は布留0
>> 式併行に出現し、布留1式併行で広がると見られています。

ということは、畿内の土器の変容していくさまがそのまま九州でも反映されて
いる訳で、これはつまり、恒常的な人の移動を示しているのではないでしょう
か。移住が行われたかどうかはともかくとして、庄内を通じて畿内との親密な
交流は続いていたと思いますがいかがでしょう?

それから、第二点目として気になるのは、我々の日常生活から考えて土器とい
うのはかなり保守的な面を持っているのではないか、ということです。我々日
本人は、文明開化以来、西欧化は急速に進み今や江戸時代の生活など見る影も
なくなっています。にもかかわらず、我々は江戸時代と変わらずにご飯を食べ
る時にはお茶わんを使い、みそ汁には、たとえそれがプラスティックであって
も、漆器の風合いのあるものを選びます。特に、甕の場合、その土器に合わせ
て煮炊きの方法まで換えることになります。つまり、土器を換えるということ
は、日常の生活様式を換えるということで、それは非常に大きな変革ではない
かという気がいたします。こういう肌感覚からしますと、九州在地の人々が簡
単に畿内の生活様式を受容していったと考えることにはいささか抵抗を感じま
す。

また、同じ土器でも供献土器などの場合は、ある程度宗教的な色彩を帯びるの
で、供献土器の種類を換えるということは、極端な言い方をすれば、宗教を換
えるということもできます。我々も、神棚用のお神酒徳利は仏前には上げませ
ん。仮に上げれば、非常に奇異な感じをいだきます。これなども単純に在地の
人間が畿内の(宗教)様式を嬉々として受容していったと考えることには抵抗を
感じます。

ひるがえって考えれば、なぜ、重い土器が全国を移動するのかということが不
思議です。土器などは持って歩かないですめばそれに越したことがない訳で、
在地生産の土器でこれまでの生活様式が維持できるならそれにこしたことはあ
りません。したがって、九州で畿内様式の土器が生産されそれが利用できるの
であれば、九州へ行くのにわざわざ重い土器は運ばないでしょう。

これらの点は、結局土器と人間の関り合いがどのようなものであったのかを明
確にしていくという研究を進展させていかなければ、軽軽に

>単純に、畿内系集団の大量移住では説明できない

などといえるようなものではないと考えますが、如何でしょうか。

当然、『土器の比率と同じだけの大量の畿内系住民の移住が行われた』と断ず
ることもできない訳ですが、上述のとおり、畿内の土器の変容に合わせて九州
の畿内系土器も変化しているのであれば、恒常的な交流は疑いのないものであ
ると思われますがいかがでしょう。


387

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月15日(火)20時55分53秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月15日(火)19時38分11秒 ]

>> 在地系土器の諸型式(各時期の)との共伴状況、畿内系土器自体の型式の設定と共伴状況から、伝統的五様式土器の北部九州における出現は、庄内式古相併行から、庄内式(庄内甕や精製器種を備えた典型庄内式)は庄内のやや新しい段階から(纏向2式後半以降)に出現し、布留系土器は布留0式併行に出現し、布留1式併行で広がると見られています。ただし、それぞれの系統が、在地系も含め、布留1式平行まで残存することも指摘されています。(新しい時期に残る「在地系」や「5様式系」、あるいは庄内甕は、当初のものから型式変化している)
>> 森岡氏論文もよく読むと、「布留系土器の拡散は北部九州でも独自になされていた可能性がある」旨のことを書いているはずです。だから、「畿内系」の伝播イコール畿内の人間集団の大量移動と見るのは少なくとも短絡的です。
>> また、集団や社会の中で、土器がどのように生産され(分業され)、流通しているのか、外来系の文化を受容するメカニズムは何か、ということを深く考えずに土器の伝播=人間集団の移動(移住)と直結させるのはいかがでしょうか?また問題となる庄内甕をはじめ、この時期の精巧な土器は、学史的にも専業生産ではないかと言うことが問題視されてきたはずです。
>> また、倭人伝にも「国々に市有り、有無を交易し」とありますし、、、その意味でも、西新町でのマージナルな土器の出方は示唆的であると思うのですが?
>> あと、初めに畿内系の精製系統である庄内系、布留系土器を受容した中心は近年の研究では比恵・那珂遺跡群とされており、この遺跡は奴国の中心として弥生中期から巨大な集落で(纏向規模が以前から存在)、集落としては連続するし、庄内系、布留系受容前後の住居址型式も突然変わる分けではなく、漸移的に変わるし、伝統的な住居型式にも畿内系土器はじゅようされるし、、といった事実があります。
>>  単純に、畿内系集団の大量移住では説明できない事実が多すぎることに注意すべきでしょう。

外国から入ってきた物は外国と直接交流していた証拠、外部から近畿に入って来た物については畿内政権に対する朝貢の証拠
近畿からの流入物については被征服、従属の証拠と言うのが狂信的畿内説ですね。

畿内では半島からの輸入品の入手がままならないですから、先進国たる北九州に色々な物品を持って買い付けに来ていたと考えるのが正しいのでは。


389

Re: この鉛同位対比の議論、

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)21時09分22秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)09時23分36秒 ]

>> 日本は過去、世界最大の銅生産国でした。

>>
寛永通宝の原料は何でしょう。というより、日本国内で自前生産してたのですが。少なくとも古代以降。
近世(江戸時代)において、銅の産出量が世界最大級(曖昧に表現するのは、厳密な統計がないから)であったのは、ちょっと調べれば分かりますよ。
もちろん、弥生時代に産出する技術があったかどうかが問題となります。
その点で、たしか豊前の方の庄原遺跡というところで、弥生時代の銅精錬土坑が検出されているようです。ただし、この分析結果の評価は学界でも分かれているのが問題ですが。
なお、すでに何度か指摘があるかと思いますが、鉛同位体比では鉛の産出鉱山が分かる可能性(慎重な言い回しをするのは、データの統計処理の見方によって、微妙に評価が異なるかのうせいがあるから。馬渕・山崎氏自身が微妙に評価を変化させて来ているし、最近は新井宏さんと言う方が『考古学雑誌』において、馬渕氏らの鉱山比定はおかしいと言う詳細な論文をだしていて、論争になりつつあるから。ただし、新井氏も日本産鉛には否定的)があるだけです。
御承知のように、青銅器は銅を主として、錫、鉛を調合したものです。実は、青銅器の種類によって鉛(や錫)の成分比はかなり異なります。
実際に、鉛成分がほとんどの久里大牟田(でしたっけ、唐津市の遺跡)の銅矛の存在(面白いことに馬渕・山崎氏は日本産鉛の可能性を認め、前出の新井氏は大陸産とする)、吉野ケ里の高純度の錫塊の存在、朝日遺跡(愛知)の高純度の銅滴の存在から、それぞれの原料による調合や付加調整が行われたことも確実です(同時に青銅インゴットと思しき資料もいくつか存在する。これらは分析例では、岡山県高塚遺跡の不明棒状銅製品は中国産鉛とされる)。ですから、鉛の同位体比は基本的にまず鉛の産地が分かる、と言うことを確認しましょう。
ところが、朝日遺跡の銅滴の例は、不純物としての鉛分は中国産とされているので、中国から銅が輸入されていたことも認めて良いでしょう。
銅は、青銅インゴットとして、製品の鋳つぶしとして、銅そのものとして輸入されていたとまず考えていいでしょう。
しかし、一方久野氏の「自然銅説」や庄原遺跡の例があるので、これらは分析例や検出例が少ないこともあり疑問視される向きも多いのですが、検出(分析)例が増えるならば、一部に(あくまでも一部でしょうが)日本列島内で採掘され、精錬された銅もあったと言えるようになるでしょう。これを完全には否定できないし(するべきでないし)、若干の「含み」を持たせておくべきではないかと思います。
なお、鉱山跡があればいいのですが、初めに述べたように、古代以降、大規模に銅を日本列島で採掘するようになるので、あったとしても小規模で露天で採集できる程度であろう弥生時代の採掘跡は、後世にあとかたもなく壊されてしまった可能性が高く、発見するのは困難でしょう。可能性としては、周囲に銅鉱山がある地域の弥生時代の集落で、銅精錬祉を発見できるかどうかにかかっています。



39

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月4日(金)13時19分39秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月4日(金)03時52分12秒 ]

>>
>>
 「もちろん」ですか。
 その出典は?
 どの雑誌に載ってましたでしょうか。
 源典を見てみますので、教えてください。出来れば公式な報告書がみたい。



392

Re: この鉛同位対比の議論、

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)21時27分23秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)09時23分36秒 ]

>> 日本は過去、世界最大の銅生産国でした。

>>
>>
>>
>>
おにりんさんともあろう人が、、、
少なくとも近世に世界最大の銅生産国だったのは事実です(銀とともに)。銀のように世界経済に影響は与えていませんが、中国と韓国に江戸時代(というより中世かららしいが)に輸出してたのは事実です。これってちょっと調べればわかりますよ。
寛永通宝をはじめ、古代(奈良時代)以来、国内の銅原料は自前で産出しています。(最近では、少なくとも飛鳥時代にはもう産出していたのではと言われている。奈良時代の「和銅」は吉祥ごとの好きな当時の社会ゆえであり、それまで本当に銅を産出していなかったかどうかは別問題と思いますが)
ただし、そのことと弥生時代に生産してたかどうかはまた別です。技術の問題が絡みますからね。(一回ここで区切ります)



393

Re: この鉛同位対比の議論、

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)21時28分14秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)09時23分36秒 ]

>> 日本は過去、世界最大の銅生産国でした。

>>
>>
>>
>>
おにりんさんともあろう人が、、、
少なくとも近世に世界最大の銅生産国だったのは事実です(銀とともに)。銀のように世界経済に影響は与えていませんが、中国と韓国に江戸時代(というより中世かららしいが)に輸出してたのは事実です。これってちょっと調べればわかりますよ。
寛永通宝をはじめ、古代(奈良時代)以来、国内の銅原料は自前で産出しています。(最近では、少なくとも飛鳥時代にはもう産出していたのではと言われている。奈良時代の「和銅」は吉祥ごとの好きな当時の社会ゆえであり、それまで本当に銅を産出していなかったかどうかは別問題と思いますが)
ただし、そのことと弥生時代に生産してたかどうかはまた別です。技術の問題が絡みますからね。(一回ここで区切ります)



394

管理人さん、すいません。二つ消して下さい

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)21時32分03秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)09時23分36秒 ]

通信が重いので、更新とクリックを何度かやったら三回入ってしまいました。一つにして下さい。
お手数かけます


396

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)21時44分47秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)21時19分55秒 ]

>>
>>             こういう肌感覚からしますと、九州在地の人々が簡
>> 単に畿内の生活様式を受容していったと考えることにはいささか抵抗を感じま
>> す。

イリヒコさんの疑問にはおにりんさんのレスがある程度答えになるでしょう。
さらに、当時は「重い土器」でなくやたら「軽い土器」が流行ったことに注意して下さい。土器そのものの大地域間移動はありますが、全体としては少数です。なんとか系が多い集落とか、ありますが、地元で再生産してる場合をかなり含めてますので。それで軽い土器の意味を考えますと、一部の専業者が特定の市へ持ってゆき、ある程度広い範囲の消費者が持ってゆくことを考えると都合いいし、商人とか使節とかの持ち運びにはいいし、甕は煮沸効率がいいし(他の器種は別ですが)、何よりも、「軽い」のを好む流行があったのが最大原因かもしれません。
>>、弥生第五様式の移動は、
生活に関わるものとして、人の移動を考えたいところ
です。
五様式系が集中する遺跡と、庄内系、布留系が集中する遺跡がある程度分かれそうなので、その意見は一部ありうると思います。でも、首長層がらみだと簡単にはそうはいきません。ありていに言うと、田舎者の首長は五様式系をもって、当時の都会の土器と勘違いして他の人に先駆けて、それを使うこともありえたでしょうから




397

↑妙なところにレスがついてませんか?

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月15日(火)21時50分35秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月15日(火)21時44分47秒 ]

なんででしょう。


398

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)21時54分32秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 1月15日(火)20時43分37秒 ]

>> こんばんは。いつも為になる投稿ありがとうございます。

>> 大量の人間の移住があったかどうかはともかくとして、


>> か。移住が行われたかどうかはともかくとして、庄内を通じて畿内との親密な
>> 交流は続いていたと思いますがいかがでしょう?

これはその通りでしょう。比恵・那珂遺跡群など福岡平野の中枢勢力が大和と何らかの密接な関係が合ったと言うことでよいかと思います
新しい生活様式と祭具を大和中枢と同じくすることに意味があったと考えます。おそらく土器の専門工人達を招請したのでしょう。あるいは西日本規模で往来する商人のはたらきかけや仲介があったかもしれませんし。
ただ、はじめは在地系土器も混ざるなど、突然の変化ではないので、支配者層が入れ代わったわけでもなさそうです。
あと、一度福岡平野中枢に受容定着したあと、畿内直接というより、それとの関係性において「畿内系」が拡散伝播したと考えた方がよろしいかと思います。
あと、イリヒコさんの後半の疑問については、おにりんさんが適切なレスをしていると思います。明治維新以後欧化、戦後のアメリカ化を考えて下さい。逆に遊牧騎馬民族の中国征服以後の風俗の中国化(遼以降は異なるが)を考えてみて下さい。


399

Re: この鉛同位対比の議論、

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月15日(火)22時05分47秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月15日(火)21時09分22秒 ]

>> もちろん、弥生時代に産出する技術があったかどうかが問題となります。
>> その点で、たしか豊前の方の庄原遺跡というところで、弥生時代の銅精錬土坑が検出されているようです。ただし、この分析結果の評価は学界でも分かれているのが問題ですが。
>> なお、すでに何度か指摘があるかと思いますが、鉛同位体比では鉛の産出鉱山が分かる可能性(慎重な言い回しをするのは、データの統計処理の見方によって、微妙に評価が異なるかのうせいがあるから。馬渕・山崎氏自身が微妙に評価を変化させて来ているし、最近は新井宏さんと言う方が『考古学雑誌』において、馬渕氏らの鉱山比定はおかしいと言う詳細な論文をだしていて、論争になりつつあるから。ただし、新井氏も日本産鉛には否定的)があるだけです。

どうもありがとうございました。
これで納得がいきました。

>> 御承知のように、青銅器は銅を主として、錫、鉛を調合したものです。実は、青銅器の種類によって鉛(や錫)の成分比はかなり異なります。
>> 実際に、鉛成分がほとんどの久里大牟田(でしたっけ、唐津市の遺跡)の銅矛の存在(面白いことに馬渕・山崎氏は日本産鉛の可能性を認め、前出の新井氏は大陸産とする)、吉野ケ里の高純度の錫塊の存在、朝日遺跡(愛知)の高純度の銅滴の存在から、それぞれの原料による調合や付加調整が行われたことも確実です(同時に青銅インゴットと思しき資料もいくつか存在する。これらは分析例では、岡山県高塚遺跡の不明棒状銅製品は中国産鉛とされる)。ですから、鉛の同位体比は基本的にまず鉛の産地が分かる、と言うことを確認しましょう。
>> ところが、朝日遺跡の銅滴の例は、不純物としての鉛分は中国産とされているので、中国から銅が輸入されていたことも認めて良いでしょう。
>> 銅は、青銅インゴットとして、製品の鋳つぶしとして、銅そのものとして輸入されていたとまず考えていいでしょう。
>> しかし、一方久野氏の「自然銅説」や庄原遺跡の例があるので、これらは分析例や検出例が少ないこともあり疑問視される向きも多いのですが、検出(分析)例が増えるならば、一部に(あくまでも一部でしょうが)日本列島内で採掘され、精錬された銅もあったと言えるようになるでしょう。これを完全には否定できないし(するべきでないし)、若干の「含み」を持たせておくべきではないかと思います。
>> なお、鉱山跡があればいいのですが、初めに述べたように、古代以降、大規模に銅を日本列島で採掘するようになるので、あったとしても小規模で露天で採集できる程度であろう弥生時代の採掘跡は、後世にあとかたもなく壊されてしまった可能性が高く、発見するのは困難でしょう。可能性としては、周囲に銅鉱山がある地域の弥生時代の集落で、銅精錬祉を発見できるかどうかにかかっています。

以外と、穴氏の居住区との伝説とうに有るところに発見できそうな感じがしますね。
そこの、神社辺りに。
今後どうなるかは、確かにわかりませんが、
ただ、最近の発見の傾向からすると、どんどん古くさかのぼっていくような気がします。
現在、私達が、考えているよりはるかに進んでいたって言う語が見つかれば、楽しいですね。


4

Re: 伊都国は唐津湾に面していない

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月13日(日)23時31分33秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月12日(土)22時33分09秒 ]

オヤジッチさん、今晩は。遅くなりましてすみません。

>> >> 王の存在が逆であれば、牛頭さん、オヤジッチさんの仮説を支持してもよいのですが。
>>  「逆」の意味が今一わからないのですが。

そんなに深い意味はありません。私は、奴国を倭奴国と考えておらず、
あくまで伊都国(倭奴国)が中心であり、奴国は、倭字を取られて分
割されたと考えているからです。それに奴国には、王の存在が記され
ておらず、反乱するための核がないと思っていますので。

私は、伊都国の戸数が少ないのは、女王国側によって減らされたからだ
と考えています。

>>  私の仮説は、福岡平野と相良平野を抑えたのが金印をもらった(柵封された)「委奴国王」で福岡平野の「オウ」、
>>  「倭国大乱」は「玄界灘同盟vs有明海(北部)連合」、奴国から伊都国へ玄界灘沿岸部の覇権が移ったのは伊都国が有明海連合に寝返った(奴国を挟み撃ちにできる)から、
>>  狗奴国と女王国の仲が悪かったのは、狗奴国が特産品である貝製品の市場を女王国側が青銅製品によって奪ったから、
>>  奴国から九州西岸へ行くのには、御笠川を遡上して、大宰府(もちろん後の)で宇美川へ乗り換え(?)て下れば久留米で筑後川に出れます。

私は、伊都国(倭奴国)を中心とする首長国連合と、邪馬国を中
心とする首長国連合(邪馬壹国は、二十二国の内の一つ)があっ
たと推定しています。後漢時代は、伊都国連合が、「倭国乱」の後、
邪馬国連合に主導権が移動したと考えています。倭奴国の領域は、
糸島平野から早良平野にまで入り込んでおり、卑弥呼の時代には、
前原近辺の千余戸を伊都国王に与え、それ以外を奴国に分割したと
考えているのです。女王国は、奴国の東に接する邪馬壹国を起点とし、
東(どこまでか分かりません)と南(佐賀平野まで)に広がっている
と考えています。
しかし、私自身これが絶対であると確信しているわけではありません。
中国文献のみによる推定ですから、ここまで書いてよいものか、
迷っています。


40

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月4日(金)15時31分41秒]

元の発言 [ Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月2日(水)03時17分20秒 ]

あけましておめでとうございます。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
こう考えると、布留式を250年よりも引き上げるのは都合悪くなる。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
政等以檄告喩壹與のときにはもう戦いは終わっていたのでしょうか。
そもそもどれぐらい争っていたのでしょうか。
卑弥呼のあとの男王は卑弥弓呼とは無関係なのでしょうか。
どうもよく分かりません。
卑弥呼死の理由を含めて余りにも解釈の幅がありすぎてなんとも言えない。
考古学的にももう少し年代が煮詰まってこないと分からないことが多すぎるし。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
この人去年、検証古代日本幻の王国に同じような内容で載せてました。




400

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)22時19分10秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)21時05分48秒 ]

韓式系土器は布留1〜2式段階には西新町遺跡に集中しますが、他からはそこまでは出ません。糸島地方は相変わらず弥生時代以来韓式系が多くの集落(ただし拠点的ないくつかの集落)でやや際立って出ますが、西新町のような集中はないようです。楽浪系土器の三雲遺跡での集中は弥生終末までのようです。福岡平野では、博多、比恵・那珂遺跡群、雀居などでやや際立って出ますが、西新町ほど集中しません。なお、近畿では中河内である程度出ますが、がんばって福岡平野並みの出方で、大和はいまだわずかということも事実です。
なお、面白いのは韓式系土器はこちらで技術移入して在地生産することがほとんどないこと、模倣もあんまりしないこと(在地技術で何となく形をまねすること)、つまりほとんど搬入品ということです。
その解釈はさておき、「辺鄙なところ」ですが、畿内も意外とそうですが(庄内甕多数の集落の数キロ先に五様式多数集落があるとか)、「畿内系」の多少が入り組んでいるので簡単には言えません。福岡平野中部から北部が畿内系への全体的転換が早いのですが、他は、飛び地的です。「五様式系」の出方も「布留式系」の出方も飛び地的です(各地域で最初に多数派となる遺跡の出方、の意味)。ある地域(単位平野)全体をさして辺鄙とはいいがたいのが現状です。
ここでしかし面白いのが、糸島は意外と畿内系への転換が遅いという事実です。布留0式段階にはほとんどまだ無く(少なくとも在地生産がほとんど無さそう)、布留1式に少しずつ布留式系に転換していくものの、高坏など器種によっては在地系をセットの中に残す状況のようです。布留2式にやっと「畿内的」になるような感じです。これは中心の三雲遺跡がそうなのです。問題はこれをどう考えるかですが


401

なんか、書きこみがされず変な事に成ってます。

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月15日(火)22時26分22秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)21時19分55秒 ]

私が、書きこんだところを試しに入ってみると、おにりんさんの書きこみに化けちゃってます。
どうなってるんでしょうか?


402

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)22時34分09秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)21時05分48秒 ]

>韓式系土器ですが、西新町にかなり集中します。ただし、全体の土器からみたら数%の量でしょう。西新町の布留1式併行期で、ちゃんと数えてませんが、何処で作ったか別にして畿内系(北部九州産畿内的土器も含む、というか大半はそれ)50パーセント以上、在地系20〜30 、山陰系10〜20、残り10がその他と言った感じでしょうか。なお住居址によっても同時期でもだいぶ割合が異なります。なお注意しなければならないのは、「畿内系」100パーセントや在地系100パーセントにそれぞれ近い住居はあるけれども韓式系100はない、一遺構でセットにならない、ということです。なお山陰は全体から見ると多いけれども、出方としてはそれのみのセットではなく、「畿内系」に引っ付いて「布留様式」を形成しているようです。西新町さえこのような状況です。他は西新町のような集中はないようです。楽浪系土器の三雲遺跡での集中は弥生終末までのようです。福岡平野では、博多、比恵・那珂遺跡群、雀居などでやや際立って出ますが、西新町ほど集中しません。なお、近畿では中河内である程度出ますが、がんばって福岡平野並みの出方で、大和はいまだわずかということも事実です。
なお、面白いのは韓式系土器はこちらで技術移入して在地生産することがほとんどないこと、模倣もあんまりしないこと(在地技術で何となく形をまねすること)、つまりほとんど搬入品ということです。
一方で、かまどの構築と言う情報が入っている、という分けの分からん状況があるわけです。少なくとも半島の土器工人は来てないが、居住としてかまどを作るという人が来てる、しかしその人は普段は倭人にまぎれて暮らし、倭人の土器を使って滞在している、ということでしょうか。いや、西新町のみにおいてはカマドをまねして作る倭人もいたことでしょう。カマドのある住居には、在地系土器のみのものも、布留式系のみのものもあるのがむちゃくちゃ面白い。
その解釈はさておき、布留式系のなかなか波及しない「辺鄙なところ」ですが、畿内も意外とそうですが(庄内甕多数の集落の数キロ先に五様式多数集落があるとか)、「畿内系」の多少が入り組んでいるので簡単には言えません。福岡平野中部から北部が畿内系への全体的転換が早いのですが、他は、飛び地的です。「五様式系」の出方も「布留式系」の出方も飛び地的です(各地域で最初に多数派となる遺跡の出方、の意味)。ある地域(単位平野)全体をさして辺鄙とはいいがたいのが現状です。
ここでしかし面白いのが、糸島は意外と畿内系への転換が遅いという事実です。布留0式段階にはほとんどまだ無く(少なくとも在地生産がほとんど無さそう)、布留1式に少しずつ布留式系に転換していくものの、高坏など器種によっては在地系をセットの中に残す状況のようです。布留2式にやっと「畿内的」になるような感じです。これは中心の三雲遺跡がそうなのです。問題はこれをどう考えるかですが


403

すいませんまた二重投稿みたいに、、

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)22時42分53秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月15日(火)22時34分09秒 ]

>管理人様
書き直そうと思って、途中で「中止」クリックしたのですが、入ってたみたいです。前のを消して下さい。
重ねがさね、申し訳ありません。


404

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月15日(火)22時53分16秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月14日(月)12時39分22秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
他の部分はともかく張政が魏の滅んだ後まで邪馬台国に留まっていたなど有り得ないことでしょうね。
18年もの間とは非常識。張政は特使ですから。
現在の日本とアメリカのような関係じゃないし、邪馬台国に駐在したのはもっと格下の役人が数年がいいところでしょう。
またあれほどの大きな墓ですから築造には10年以上掛かったことでしょう。
寿陵だったと言うのも頷けます。
仮埋葬の上墓が完成してから本埋葬と言うのもどうですかね。
十年以上仮埋葬のままじゃ遺体は腐って白骨化して臭かったでしょうね。
朱を使って防腐していてもいいとこ半年でしょう。

>>
>>




407

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)23時52分31秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)21時23分15秒 ]

>> 外国から入ってきた物は外国と直接交流していた証拠、外部から近畿に入って来た物については畿内政権に対する朝貢の証拠
>> 近畿からの流入物については被征服、従属の証拠と言うのが狂信的畿内説ですね。

>>
>>
おにりんさんは違うと思いますが、牛頭天王さんの言い方は極端として(「狂信的」とのくだり)、一部の畿内の研究者にこうしたある種のダブルスタンダードがあるのも事実です。
例えば、特殊器台について、吉備と出雲は交流の証だが、吉備と出雲では服属の証とか、前方後円墳の波及を大和の絶対的な政治的影響とみるのに、前方後円墳そのものの起源や諸要素の起源について(以前は極端な例として原田大六氏が、穏健な妥当な検討として寺沢薫氏がや北條芳隆氏が言及しています)、不問としたり、認めても「ただの交流」としたり。銅鐸の分布では畿内中心の勢力を主張すると思えば、破鏡の東漸はただの文物流入としたり、古墳初頭の畿内系土器の伝播を大和政権の勢力拡大と言ったかと思えば、纏向の東海系土器を箸墓古墳を築造させるために徴発した結果と言ったり、、、あるいは土器では前期の遠賀川式土器(北部九州起源)や中期の凹線文(瀬戸内起源)の伝播はただの交流とか積極的摂取と言うのに、同じ中期の櫛描紋(近畿起源)の伝播には政治的背景を見ようとしたり、結構こういう話しあります。
一見同じあるいは類似する事象でも、何を基準に、どういう場合はどういう解釈が妥当かということを究める必要があります。そういう中間理論がないままに、あるパラダイムに都合のよいように解釈されてるきらいがあるのは否めません。だから逆に言うと、「畿内説」を面白くない人から揶揄されるスキがあるのではないでしょうか?
>> 畿内では半島からの輸入品の入手がままならないですから、先進国たる北九州に色々な物品を持って買い付けに来ていたと考えるのが正しいのでは。
 玄界灘沿岸が瀬戸内〜畿内商圏への門戸、交易港群とすれば、あながち荒唐無稽な考えではないと思います(取引物品にもよるが)。そうした解釈も、あり得る状況と思います。(ただ牛頭天王さんの意図は別かもしれませんがね)
>>
ね。
これはどうでしょう。そういうよけいなことを言うからスレッドが荒れるのだと思います(これもよけいだったら謝りますが)。冷静に。
 最後に、モノが入ってないって言いますが、鉄器の質的量的な普及は、3世紀まで北部九州が中心でしょう(佐賀平野、筑紫平野も含む)。(村上恭通『倭人と鉄の考古学』)。まあ、箸墓古墳の頃に多分並ぶでしょうが(その後凌駕してゆくか)。あと、古墳前期でも、ふつう古墳中期に普及する(畿内も含む)U字形鋤先や曲刃鎌が北部九州では少ないながら出現していると言うこともあります。また、鋤崎古墳など半島系の石室を早くに前期後半(末)に導入するということもあるので、単純に畿内に外交や流通が掌握されたわけではなさそうです。(ただ、玄界灘沿岸が中心ですが)。
一般交易の鉄(これを一般交易品目にするのは異論も予想されるが、日常性、大量性、村方鍛冶の普及を考えると、農具、工具、鉄鏃レベルの鉄器とその素材は意外と広く流通しやすいものであったと考えられる)と、鏡のような威信財は別でしょうけどね。





408

Re: 西新町遺跡の土器構成(訂正)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月15日(火)23時58分18秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月15日(火)23時52分31秒 ]


>> 例えば、特殊器台について、吉備と出雲は交流の証だが、吉備と出雲では服属の証とか、
吉備と「畿内」とでは服属の証とか、、、に訂正します


409

Re: 西新町遺跡の土器構成(補足)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月16日(水)00時28分46秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 1月15日(火)20時43分37秒 ]

>>畿内の土器の変容に合わせて九州
の畿内系土器も変化しているのであれば、
(細かくいうと)これが微妙なんですね。庄内甕から布留甕への流れは同じですが、形や変化の方向が異なって来ます。
また、セット的にも少し違うようですし、山陰系土器の入り方(正確には様式への入リ方)も同じでないし、高坏の形が技法は似ててもかなり違うし、
ただ、大きな流れは似てて、特に小型精製器種は形状も型式変化もかなり類似します。しかしそれでも「屈曲口縁鉢」は九州にはあまりないし、、、
以上は補足でした。
>>>単純に、畿内系集団の大量移住では説明できない
などといえるようなものではないと考えますが、如何でしょうか。
 これで説明しようとすると住居址の漸移性、集落の継続性、一部に根強く残る在地系甕棺墓(博多とか比恵・那珂遺跡群のような畿内系の多い集落でも存在する。面白いのは、「畿内系」とされがちな方形周溝墓に付属してあったりする)の存在などが説明できません。また木製品(農具)や鉄器(農具、工具)も基本的に弥生後期以来の九州の地域性を引っ張ります(もちろんこういう時期ですから、多少の外来系統のそれらも定着しますが、あくまで少数派です)だから、違う解釈をする必要があるのです。


41

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ 司馬叡 ] 発言日時 [1月4日(金)17時30分50秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月4日(金)15時31分41秒 ]

>> この人去年、検証古代日本幻の王国に同じような内容で載せてました。

この前田氏はどうやら高校の歴史の先生のようです。
福岡大で院論を出している方のようですね
まあ、専門外分野の職業退職したひとが道楽ではないから
トンデモではない。
それなりに説得力があるのでしょう。でも
掘った事は無いようです。純粋に文献史学のひとですね。
一応ご参考まで。


410

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月16日(水)00時35分22秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月15日(火)21時54分32秒 ]

こんばんは

>> あと、イリヒコさんの後半の疑問については、おにりんさんが適切なレス
>> をしていると思います。明治維新以後欧化、戦後のアメリカ化を考えて下
>> さい。逆に遊牧騎馬民族の中国征服以後の風俗の中国化(遼以降は異なる
>> が)を考えてみて下さい。

そうですか?
いろいろなものを受容していった中で、土器(お茶わん)などは基本的にかわっ
ていないということなんですが。それから、供献土器の問題はどうですか。

それから、軽い土器というのは基本的には持ち運びの便のためではなくて、
熱効率の問題だと思いますが。


411

Re: 西新町遺跡の土器構成(補足)

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月16日(水)00時49分04秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(補足) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月16日(水)00時28分46秒 ]

こんばんは

>>一部に根強く残る在地系甕棺墓(博多とか比恵・那珂遺跡群のような畿内系
>>の多い集落でも存在する。面白いのは、「畿内系」とされがちな方形周溝墓
>>に付属してあったりする)の存在などが説明できません。

どうしてでしょう?
平和的に共存していればかまわないと思いますが。


412

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月16日(水)02時18分58秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 1月16日(水)00時35分22秒 ]

>> こんばんは

>> >> あと、イリヒコさんの後半の疑問については、おにりんさんが適切なレス
>> >> をしていると思います。明治維新以後欧化、戦後のアメリカ化を考えて下
>> >> さい。逆に遊牧騎馬民族の中国征服以後の風俗の中国化(遼以降は異なる
>> >> が)を考えてみて下さい。

>> そうですか?
>> いろいろなものを受容していった中で、土器(お茶わん)などは基本的にかわっ
>> ていないということなんですが。
言いたいのは、文化様式や生活道具が民族、集団が連続していても意外と外来のモノをある条件がそろえば受け入れるということです。
ちなみに中世都市博多では、確かに中国系商人が少なくないのですが(文献上)、二世、三世となり、もともと日本人商人、僧侶、武士が全体としては多いでしょうが、大量の輸入陶磁器はいずれも使っています。遺跡の至る所から満遍なく出ます。逆に土師器のかわらけも同様に、何処でも出るので中国系商人も使ってます。また中世後期の堺は、中国系商人は博多に比べわずかのはずですが、大量の輸入陶磁器を使ってます。また国内のあらゆるところから土器、陶器を搬入しています。
 中世都市をここで持ち出すのは飛躍が過ぎるかもしれませんが、言いたいのは、生活必需物資の分業の進展(各手工業の専業化の進行)、物資流通機構、交易網の整備、市場の存在がある場合には、外で作ったもの、あるいは外来的なものが、全面的に受け入れられやすくなる、ということです。それだからこそ「都市」なのです。その最初の出発点を、倭人伝の時代に考えてみたらどうでしょうか?
>>それから、供献土器の問題はどうですか。
これは祭祀の(外見的)同一性を目指したいうことでいいかと、ただし、内容は不明ですな。また解釈も分かれるでしょう。ただ、まず首長層同志が、ある種の相互作用で、直接的には政治連合や宗教連盟で、祭祀の内容や祭祀用具を一緒にすることはあるでしょう(庶民には後に広まる)。でも、それって、それなら大量移住じゃなくても説明できますね。

>> それから、軽い土器というのは基本的には持ち運びの便のためではなくて、
>> 熱効率の問題だと思いますが。
煮沸土器の甕以外の器種も内面へら削りで薄く軽くする時代です(甕ほど軽く薄くはしないが)。熱効率「だけ」では説明できません。



413

Re: 西新町遺跡の土器構成(補足)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月16日(水)02時21分27秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(補足) ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 1月16日(水)00時49分04秒 ]

>> こんばんは

>> >>一部に根強く残る在地系甕棺墓(博多とか比恵・那珂遺跡群のような畿内系
>> >>の多い集落でも存在する。面白いのは、「畿内系」とされがちな方形周溝墓
>> >>に付属してあったりする)の存在などが説明できません。

>> どうしてでしょう?
>> 平和的に共存していればかまわないと思いますが。
他の根拠と合わせて総合的に考えてみて下さい。
「大量移住」にこだわっている分けではないのであれば。



414

Re: 西新町遺跡の土器構成(補足の補足)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月16日(水)02時41分43秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(補足) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月16日(水)02時21分27秒 ]

ちなみに、比恵・那珂遺跡群や雀居遺跡など、最初に「畿内系」土器に転換してゆく遺跡は、すでに庄内式前夜の弥生後期後半でかなりな規模となり遺構密度が過密化してます。
「畿内系」土器受容の頃、著しくさらに規模が拡大したとか、さらに遺構密度が濃密化したということはなさそうです。
 無人の荒野や散村しかないところに「畿内系」土器の大集落が突然出来たわけではないのです。
 つまり、「大量移住」では説明に窮するということです。住居址の型式の変化の仕方もこれを支持します。
 また確認したいのですが、すでにおにりんさんが気付かれたようなのですが、使われる土器が、全てにおいて家内生産的な色合いの強いものであれば、土器様式の置換的変換が集団の大量移住を意味したり、土器系統の割合が集団の割合にある程度は対応する、と言えないこともないのですが(これすら慎重な言い回しをしておきたいのですが)、土器の一部に専業化が見られると、土器と社会の関係によっては、そうしたことは必ずしも言えなくなると言うことです。大量移住仮説も仮説としてはあり得ますが、矛盾することが多ければ、別の解釈(仮説)を求める必要があろうかと思います。もしかしたら、私の述べた解釈以外にもありうるかもしれませんが。
 私としては、おにりんさんが、こうした事実と解釈を、完全にではないでしょうが、意外とあっけなく受け入れたことが興味深いのですが。まあイリヒコさんも、念には念をと言う意味で突っ込みを入れているのだと思いますが。


415

副作用が出ています。★★★お読みください★★★

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [1月16日(水)06時22分19秒]

トラブル回避にご協力をお願いいたします。
ネストの深いところは(承前)でスレッドを付け替えてください。


416

Re: 卑弥呼以前の邪馬台国

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月16日(水)07時42分06秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼以前の邪馬台国 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月15日(火)16時00分51秒 ]


熊本の有明海や不知火海と言えば,
縄文遺跡の宝庫として知られているようだし,

玉名とか少し上の八女なんかだと,
鉄っぽい話題が。

狗奴国がらみの関心としては,方保田東原遺跡かな。


また九州南部や沖縄の遺跡調査が進んでいて,
縄文から稲作まで,あっと驚くような話題が多い。

なにか分かるようになるかもしれません。

次のサイトで紹介されている遺跡でも鉄斧が出た,とか。


南日本新聞ニュース[1999年12月14日(火)]
/砂丘に弥生−古墳時代の住居跡発見/大崎・沢目遺跡
http://www.minaminippon.co.jp/newsj/1999/12/newj_19991214.htm




418

Re: Title 倭/委 は、歌部ですか微部ですか

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月16日(水)10時15分10秒]

元の発言 [ Title 倭/委 は、歌部ですか微部ですか ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月16日(水)08時57分26秒 ]

こんにちは。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
日本語じゃないとしたら呼は干かもしれませんね。

関係ありませんが国名の不彌はホツミ/フツミとでも読めますか?
例の森教授の本には不も対や末と同じく韻尾の強く残っていた可能性のある字としています。






42

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ ふうらん ] 発言日時 [1月4日(金)20時41分27秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月4日(金)03時52分12秒 ]

>>
>>
>>
>>
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>>
>>
>>
>>
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>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>


>>
#魏の鏡はでていないにしても、後漢末と西晋のものはわかっていて、それらは、連続性がある。つまり、魏の時代だけ、別系統のものがつくられた(洛陽で)というのは、むしろ考えにくいと思います。

#西川氏の議論からすれば、結局、三角縁神獣鏡は遼東・半島系統となるのでしょう?

#年号鏡についていえば、240年頃の年号のものが、240年代の古墳から出土しているのであれば、こうまで揉めないわけです。

#魏の年号を含むタイプものが、後の時代から、大量にでる。だからいろいろ議論か起きるわけです。

#しかも、三角縁神獣鏡に共通する特徴をもった鏡は大陸でたくさんでているのに、三角縁神獣鏡はでていない。このへんが問題です。

#西川氏の宝飾鏡説というのはどうなんでしょうね。文献に「金錯鏡」とかいてない以上、どうかと思いますが。






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Re: Title 倭/委 は、歌部ですか微部ですか

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月16日(水)12時55分13秒]

元の発言 [ Re: Title 倭/委 は、歌部ですか微部ですか ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月16日(水)11時09分29秒 ]

>> 日本語じゃないとしたら呼は干かもしれませんね。

>>
半島南部ではハンらしい。

>>
>>
>>
>>
耳につく発音だったんじゃないですかね。
”きゅんがー”だったらこうは書かないような・・・
吉備/出雲系で、もともとは中国ではなく半島との関わりの強い王権で、その対外関係のなかで成立した称号とか。
滅法怪しいですが、三国史記の卑弥呼とかありますから。
このはなしが出てくるのが173年、帯方群が建安年間以降とするとそれ以前になりますが、どんなもんでしょう。

>> 関係ありませんが国名の不彌はホツミ/フツミとでも読めますか?
>> 例の森教授の本には不も対や末と同じく韻尾の強く残っていた可能性のある字としています。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
こんな記号が書いてあります。

piu∂t
piu∂g

ただしiはIかもしれない。




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Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月16日(水)15時09分14秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月15日(火)23時52分31秒 ]

>> おにりんさんは違うと思いますが、牛頭天王さんの言い方は極端として(「狂信的」とのくだり)、一部の畿内の研究者にこうしたある種のダブルスタンダードがあるのも事実です。
>> 例えば、特殊器台について、吉備と出雲は交流の証だが、吉備と出雲では服属の証とか、前方後円墳の波及を大和の絶対的な政治的影響とみるのに、前方後円墳そのものの起源や諸要素の起源について(以前は極端な例として原田大六氏が、穏健な妥当な検討として寺沢薫氏がや北條芳隆氏が言及しています)、不問としたり、認めても「ただの交流」としたり。銅鐸の分布では畿内中心の勢力を主張すると思えば、破鏡の東漸はただの文物流入としたり、古墳初頭の畿内系土器の伝播を大和政権の勢力拡大と言ったかと思えば、纏向の東海系土器を箸墓古墳を築造させるために徴発した結果と言ったり、、、あるいは土器では前期の遠賀川式土器(北部九州起源)や中期の凹線文(瀬戸内起源)の伝播はただの交流とか積極的摂取と言うのに、同じ中期の櫛描紋(近畿起源)の伝播には政治的背景を見ようとしたり、結構こういう話しあります。
>> 一見同じあるいは類似する事象でも、何を基準に、どういう場合はどういう解釈が妥当かということを究める必要があります。そういう中間理論がないままに、あるパラダイムに都合のよいように解釈されてるきらいがあるのは否めません。だから逆に言うと、「畿内説」を面白くない人から揶揄されるスキがあるのではないでしょうか?

フォロー有難うございます。
畿内説が面白くないのではなく、どちらにも決定的証拠はなく沢山の状況証拠をつきあわせてどちらがより合理的かの論争だと思うのですが、九州説を馬鹿呼ばわりしたりする人に対して不快感があります。
私など考古学には無知ですが直感的に疑問に感じた事などここで議論していくうちに私の勘も捨てた物でもないなと一人ほくそえむこの頃です。
鉛の調合の可能性、銅鐸の元はカウベル、石塚古墳の板切れの件など直感があたっているかもしれない、と。

>> >> >> 畿内では半島からの輸入品の入手がままならないですから、先進国たる北九州に色々な物品を持って買い付けに来ていたと考えるのが正しいのでは。
>>  玄界灘沿岸が瀬戸内〜畿内商圏への門戸、交易港群とすれば、あながち荒唐無稽な考えではないと思います(取引物品にもよるが)。そうした解釈も、あり得る状況と思います。(ただ牛頭天王さんの意図は別かもしれませんがね)

私に特段の意図なんかありませんよ。
大陸交易の基点である北九州に各地のものが集まるのは当然だろうと。
それが畿内から侵略された証拠みたいな論調は納得できないだけです。

>> >> でも、九州には、さらにモノが入っていませんから
>> ね。
>> これはどうでしょう。そういうよけいなことを言うからスレッドが荒れるのだと思います(これもよけいだったら謝りますが)。冷静に。
>>  最後に、モノが入ってないって言いますが、鉄器の質的量的な普及は、3世紀まで北部九州が中心でしょう(佐賀平野、筑紫平野も含む)。(村上恭通『倭人と鉄の考古学』)。まあ、箸墓古墳の頃に多分並ぶでしょうが(その後凌駕してゆくか)。あと、古墳前期でも、ふつう古墳中期に普及する(畿内も含む)U字形鋤先や曲刃鎌が北部九州では少ないながら出現していると言うこともあります。また、鋤崎古墳など半島系の石室を早くに前期後半(末)に導入するということもあるので、単純に畿内に外交や流通が掌握されたわけではなさそうです。(ただ、玄界灘沿岸が中心ですが)。
>> 一般交易の鉄(これを一般交易品目にするのは異論も予想されるが、日常性、大量性、村方鍛冶の普及を考えると、農具、工具、鉄鏃レベルの鉄器とその素材は意外と広く流通しやすいものであったと考えられる)と、鏡のような威信財は別でしょうけどね。



423

Re: Title 倭/委 は、歌部ですか微部ですか

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月16日(水)15時27分10秒]

元の発言 [ Re: Title 倭/委 は、歌部ですか微部ですか ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月16日(水)13時31分06秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
呼は別として、あえて日本語ととると、弓をkungとして(するとなんで江や公や功じゃだめなのか分かりませんが)
ku na kuha(狗の男王)のなまったもの(なまるかな)がkunguhaでそれを表記したとか。
だめかな。やっぱり。

>> 吉備/出雲系で、もともとは中国ではなく半島との関わりの強い王権で、その対外関係のなかで成立した称号とか。

>>
>>
そうでしょ。

>> 滅法怪しいですが、三国史記の卑弥呼とかありますから。

>>
調べます。

>> このはなしが出てくるのが173年、帯方群が建安年間以降とするとそれ以前になりますが、どんなもんでしょう。

>>
>>
>>
>>
そうきますか。
相手が中国勢力とすると半島風の称号はありえないか。




424

Re: Title 結局王の称号

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月16日(水)17時34分37秒]

元の発言 [ Re: Title 倭/委 は、歌部ですか微部ですか ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月16日(水)15時27分10秒 ]

>> ku na kuha(狗の男王)のなまったもの(なまるかな)がkunguhaでそれを表記したとか。
>> だめかな。やっぱり。

>> >> >> 吉備/出雲系で、もともとは中国ではなく半島との関わりの強い王権で、その対外関係のなかで成立した称号とか。

>> >> なんとなく、「呼」が「王」か「汗」か、そんな感じが
>> >> してきますね。

>> そうでしょ。

>> >> >> 滅法怪しいですが、三国史記の卑弥呼とかありますから。

>> >> あれって、「卑弥乎」じゃあありませんか?

>> 調べます。

>> >> >> このはなしが出てくるのが173年、帯方群が建安年間以降とするとそれ以前になりますが、どんなもんでしょう。

>> >> どうせ、干支でしょうから、60年繰りさがって、233
>> >> 年説でいかがでしょうか?
>> >> #いや、もとの資料が、干支で年を表しているだろうから
>> >> #って意味です。これって便利ですね。

>> そうきますか。
>> 相手が中国勢力とすると半島風の称号はありえないか。

なんか、思い出すんですが。
映画「始皇帝暗殺」を見た時、蓁王の政のことを兵士が、呼ぶ言葉が、私には、大王が「タイワン」って聞こえたのですが。
「呼」が「王」、「汗」、オウ、カン、ハーン、ワン、どうなってるんでしょうね。
当時の言葉は。


425

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月16日(水)18時44分43秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月13日(日)12時51分52秒 ]

>>  朝鮮戦争は“終戦”してはいません、“休戦”状態です。
>>
>>
>>  28度線は国境ではなく、軍事境界線です。
>>
>>
>>
>>
 人が悪いナー。
 38度の間違いだってことは分かってるでしょうに。

>>  銅ではないけど、板状鉄斧はインゴットとして扱われています。
>>
 以前にレスしたと思いますが、板状鉄斧=鉄テイですヨ。
 短冊状の鉄板の一端を叩いて広げたものです。
 大和は鉄が少なかったから見たことがないのでしょうか。
 小郡市の花ソゲ古墳には十本も副葬されてました。
 で、五本は九州歴史資料館で、“板状鉄斧”、
 小郡埋蔵文化財センターでは、“鉄テイ”と表示されています。



426

Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月16日(水)19時27分15秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月14日(月)22時55分44秒 ]

http://www.st.rim.or.jp/~adachima/sinpou2000.10.7.4.html
>> 「出雲大社境内遺跡(島根県大社町)で出土した杉の巨大柱は、成育が良すぎたため、測定が不可能という珍現象が起こった。」
>> 三本束ねた丸太だったんでしょう?

考えてみると生育が良かったということは樹木の置かれた環境が理想的で他の木にある個々の特殊事情がなかったということで、
これこそが年輪年代の基準木になりうる木だったのかも。



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Re: 銅出徐州と鉛同位対比

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月16日(水)20時01分01秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月16日(水)19時27分15秒 ]

>> http://www.st.rim.or.jp/~adachima/sinpou2000.10.7.4.html
>> >> 「出雲大社境内遺跡(島根県大社町)で出土した杉の巨大柱は、成育が良すぎたため、測定が不可能という珍現象が起こった。」
>> >> 三本束ねた丸太だったんでしょう?

>> 考えてみると生育が良かったということは樹木の置かれた環境が理想的で他の木にある個々の特殊事情がなかったということで、
>> これこそが年輪年代の基準木になりうる木だったのかも。

こんにちわ
一分同意できるけどモ、現実は如何でしょう?
成句の良い木は、良い建材には成らないと聞いたことがあります。
道具に使うような、木材でも真に良い材料と言うのは、
育ち辛い所で、真に大きくなったものが丈夫で良いと。
大工サンや多くの巧みは、そんな木を好んで探すとも

出雲大社の柱は、去年の正月に見てきたけれど、
凄い大きさでした。
結局、そんな大きさの木は、上の理想を満たそうとすれば見つからないか、
見つかっても切り出せなかったのでしょう。

その大きさで、探してきた木は、生育の良い場所で育った木のみだったのでしょうね。
だとすれば、そんな木はそんな木の(つまりは大木)標準としか使えない事になるんでしょうね。
残念ながら。



428

出雲大社の柱

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月16日(水)21時41分50秒]

元の発言 [ Re: 銅出徐州と鉛同位対比 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月16日(水)20時01分01秒 ]

>> >> 考えてみると生育が良かったということは樹木の置かれた環境が理想的で他の木にある個々の特殊事情がなかったということで、
>> >> これこそが年輪年代の基準木になりうる木だったのかも。

>> こんにちわ
>> 一分同意できるけどモ、現実は如何でしょう?
>> 成句の良い木は、良い建材には成らないと聞いたことがあります。
>> 道具に使うような、木材でも真に良い材料と言うのは、
>> 育ち辛い所で、真に大きくなったものが丈夫で良いと。
>> 大工サンや多くの巧みは、そんな木を好んで探すとも

>> 出雲大社の柱は、去年の正月に見てきたけれど、
>> 凄い大きさでした。
>> 結局、そんな大きさの木は、上の理想を満たそうとすれば見つからないか、
>> 見つかっても切り出せなかったのでしょう。

>> その大きさで、探してきた木は、生育の良い場所で育った木のみだったのでしょうね。
>> だとすれば、そんな木はそんな木の(つまりは大木)標準としか使えない事になるんでしょうね。
>> 残念ながら。

どうも。
年輪年代は気象によって生育が変化し一年毎の年輪の幅が変るから年輪を比較する事により木の伐採年代が推定できると言う物ですから
生育が良すぎて年代が測定できないなどと言うことは有り得ない事です。
生育が悪い木ならその木が日当たりが悪かったり、途中で枝が折れたりとかで生育条件が変った可能性があり、測定不能と言うのもありえますが。

生育が良かったということは理想的な育ち方をしたという事で、これこそが正しい年輪パターンを持っていたのではないかと思うのです。


429

Re: 出雲大社の柱

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月16日(水)21時49分40秒]

元の発言 [ 出雲大社の柱 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月16日(水)21時41分50秒 ]

>> >> 出雲大社の柱は、去年の正月に見てきたけれど、
>> >> 凄い大きさでした。
>> >> 結局、そんな大きさの木は、上の理想を満たそうとすれば見つからないか、
>> >> 見つかっても切り出せなかったのでしょう。

>> >> その大きさで、探してきた木は、生育の良い場所で育った木のみだったのでしょうね。
>> >> だとすれば、そんな木はそんな木の(つまりは大木)標準としか使えない事になるんでしょうね。
>> >> 残念ながら。

>> どうも。
>> 年輪年代は気象によって生育が変化し一年毎の年輪の幅が変るから年輪を比較する事により木の伐採年代が推定できると言う物ですから
>> 生育が良すぎて年代が測定できないなどと言うことは有り得ない事です。
>> 生育が悪い木ならその木が日当たりが悪かったり、途中で枝が折れたりとかで生育条件が変った可能性があり、測定不能と言うのもありえますが。

>> 生育が良かったということは理想的な育ち方をしたという事で、これこそが正しい年輪パターンを持っていたのではないかと思うのです。

成るほど、そうですね。
ですが、先に挙げた理由で曲者ばかり扱っていてまともなのがうまく扱え無いと言うのも、
有得る話ですね、ばかばかしい事ですが、
そうであれば、其れなりに面白いですね。
ですが、実際の歴史のことを考えると笑えませんね。



43

Re: 承前「封土作冢」

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月4日(金)22時27分37秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月3日(木)14時09分33秒 ]

>>  伊都国から先は日本海ルートしか有り得ないということですネ。

吉備の件は別として,
示唆する所の多い伝承としては,


垂仁紀二年に,都怒我阿羅斯等の来朝譚があり,

都怒我阿羅斯等は,日本国目指して穴門までは来たものの,
日本国王を僣称する伊都都比古に出会って臭い思いをしたので,
帰ることにした。

が,道を知らないので,島々浦々を流浪して,
北海から回って出雲国を経て,越国の笥飯浦(角鹿)に至った,と。

というわけで,
「道に迷わなければ,崇神天皇が崩御する前に来られたのに」
とかなんとか垂仁天皇から言われています。

(異伝として,難波または豊国国前郡に至る,と。)


であるから,正直に考えれば,
瀬戸内航路が大和への正しい道であり,
正式航路を割り出す端緒くらいにはなるか,と。

もっとも,見方によっては,
日本海航路も妖しい魅力があるわけで,
上の例だと,投馬=出雲,中継地=角鹿,
とかの比定。

# ただし,躬臣=越説が正しければハズレかな。


吉備の件については,
大和朝廷から徹底的に弾圧された国である,
という諸説が一人歩きしていないかどうか,
といったところ。



430

Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月16日(水)22時00分41秒]

元の発言 [ Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月15日(火)02時04分24秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
魏に帰れなければ、他に逃げる。
たまたま近くが、条件の良い倭国だったでは、いけないのですか。

>>
>>
>>
不自然とも思えませんね。
三国志他なんか読んでると、かかわり無いって言う庶民なのに、
謀略や政争のとばっちりで、一族処刑ってのが、結構有ったと思いますけど。

>>
>>
>>
帰りたい帰りタイで、凝り固まった一族が帰っていったでは行けませんか?




434

Re: この鉛同位対比の議論、

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月16日(水)23時09分11秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月15日(火)21時27分23秒 ]

>> >> >> 日本は過去、世界最大の銅生産国でした。

>> >> これって、寛永通宝の話ですか?
>> >> 銀もメキシコの銀山開発までは、日本が世界の1/
>> >> をしめていて、世界一だったんですよね。
>> >> でも、日本産の銅って知られていないんです。
>> おにりんさんともあろう人が、、、
>> 少なくとも近世に世界最大の銅生産国だったのは事実です(銀とともに)。銀のように世界経済に影響は与えていませんが、中国と韓国に江戸時代(というより中世かららしいが)に輸出してたのは事実です。これってちょっと調べればわかりますよ。
>> 寛永通宝をはじめ、古代(奈良時代)以来、国内の銅原料は自前で産出しています。(最近では、少なくとも飛鳥時代にはもう産出していたのではと言われている。奈良時代の「和銅」は吉祥ごとの好きな当時の社会ゆえであり、それまで本当に銅を産出していなかったかどうかは別問題と思いますが)
>> ただし、そのことと弥生時代に生産してたかどうかはまた別です。技術の問題が絡みますからね。(一回ここで区切ります)



436

Re: Title 結局は王の称号?

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月16日(水)23時33分23秒]

元の発言 [ Re: Title 結局王の称号 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月16日(水)22時54分08秒 ]

>> 「呼」が「王」、「汗」、オウ、カン、ハーン、ワン、どうなってるんでしょうね。
>> 当時の言葉は。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
結局、一つの言葉が方言その他的に変化していったように聞こえるけど、素人には。

王の称号て言うのは、一つの単語が変化していった。
まさかね?





437

Re: この鉛同位対比の議論、

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月16日(水)23時44分49秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月16日(水)23時09分11秒 ]

わたしの発言から対論が発展するとはうれしいやらとまどうやら。
でも私みたいな駆け出しの考古学ファンでも論争参加できるとはうれしく思います(^^)
私はみなさんみたいに知識は豊富じゃありません。かなわない。
ただ、考古学にかんしては、そこにある事実、遺跡をどうみるか、に主眼をおいてます。書物は最近あんまし読まないんですよ。高いせいもありますが、書物とゆうのはつまらなくなった。というのはたとえば大和説としたらその著作の人の主義、というものから遺跡を見てるから、そのほかの事実は受け入れずらくなる。九州説にしても。XX主義というのがいやなんですよね。
だから、いまでは書物読むよりもなるべく多くの遺跡を見るように心がけてます。百聞は一見にしかず、といわれるように一冊の書物よりひとつの遺跡を見て感銘を受けることがあまりにも多かった。
そういった意味ではこの大論争には不向きかもしれませんが、でもこのことはみなさんにもおすすめしますよ。
明日は大牟田の潜塚でも見ようかな。


438

ee0r;q

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月17日(木)00時08分21秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月16日(水)23時44分49秒 ]

>> わたしの発言から対論が発展するとはうれしいやらとまどうやら。
>> でも私みたいな駆け出しの考古学ファンでも論争参加できるとはうれしく思います(^^)
>> 私はみなさんみたいに知識は豊富じゃありません。かなわない。
>> ただ、考古学にかんしては、そこにある事実、遺跡をどうみるか、に主眼をおいてます。書物は最近あんまし読まないんですよ。高いせいもありますが、書物とゆうのはつまらなくなった。というのはたとえば大和説としたらその著作の人の主義、というものから遺跡を見てるから、そのほかの事実は受け入れずらくなる。九州説にしても。XX主義というのがいやなんですよね。
>> だから、いまでは書物読むよりもなるべく多くの遺跡を見るように心がけてます。百聞は一見にしかず、といわれるように一冊の書物よりひとつの遺跡を見て感銘を受けることがあまりにも多かった。
>> そういった意味ではこの大論争には不向きかもしれませんが、でもこのことはみなさんにもおすすめしますよ。
>> 明日は大牟田の潜塚でも見ようかな。



439

いいわすれた

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月17日(木)00時36分46秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月16日(水)23時44分49秒 ]

つまり銅鐸程度の銅に関していえば、そこらへんの自然銅を集めれば、一個くらいできるんじゃないかってこと。
これだけ銅製品が好きで、その製作集団が倭にあった、ということは、当時の日本が銅をたくさん産出するクニであったからではないか、ということがいえるのではないか。
銅の精錬、についてはそれほど高い技術はいらないと思います。
あとそう思うになったのは朱です。ほら、弥生時代にしても古墳にしてもお墓の中に大量の朱が使われてあるじゃないですか。鏡とか朱色がついてるし、岡山の双方中円墳でしたっけ、30kgも入ってたって・・・・。
あの朱、博物館の人に聞いたらなんと水銀と鉛をつかってるそうです。おもに水銀で。
水銀、銅、鉛。当時の倭の技術は高かったと感心させられました。
ただ鉄に関してはそこまで精錬の技術がなかったのか産しなかったのか韓から取り寄せてたそうですけど。そうか、鉄のほうが融点高いですからね。


44

狗奴国=東海 論

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [1月4日(金)23時18分42秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月3日(木)14時29分26秒 ]

 オヤジッチさん どうも明けましておめでとうございます。こちらこそよろしくお願いします。


 マルセは、以前は、邪馬臺國の所在(というか範囲)については保留ですが、狗奴國は肥後方面でよいと思っていましたが、最近は、考えがかわって狗奴國の所在もどこだか保留です。
 例えば、狗奴國=東海というのもちょっと魅力を感じています。

1「東海地方の国造は祖先が饒速日・火明系でまとまっていて、この地域が過去に大きな政治勢力であった可能性がある。」
 国造本紀などを読むと、現在の東海地方(三重・愛知・岐阜・静岡県)で、饒速日=火明系の国造が任命された国は、熊野、伊勢、尾張、三野後、斐陀、参河、遠淡海、久努、珠流河、伊豆の10カ国。そうでない国は、嶋津、伊賀、三野前、穂、素賀、廬原の6カ国です。
 このうち、嶋津は出雲系であり明らかに異なりますが、それ以外の5カ国は、伊賀(伊勢と同祖ともいう)と三野前と廬原は大王家から婿養子を迎えたと見られる国、穂は成立が雄略朝と遅い国、素賀は美志印命という系統不明の国造の国であり、これらの国も、元来は饒速日=火明系の国であった可能性が十分あると思います。
 饒速日尊、火明命という人物が本当にいたかはわかりませんが、共通の祖先の伝承をもつということは、重要なんではと思います。

2「上記の熊野や久努は、狗奴国と名前が似ている。」
3「神道五部書の倭姫命世記にでてくる倭姫を出迎える伊勢の在地神「久求津彦」と「狗古智卑狗」の名前が似ている。」
 倭姫命世記は先月も少し話にでましたが、この中で登場する「ククツヒコ」は気になる名前です。時代が違うかもしれませんけど、何代か前の先祖かも?そういえば尾鷲に「九鬼」という地名もありますね。
 


 それと、狗奴國=東海でも、べつに邪馬臺國=九州は可能で、例えば、
 「狗奴國の直前に出てくる2番目奴國というは、実は奈良盆地にあった『蘆原のナカツ國』のことだった。2番目奴國は、郡から女王の都への道順上にはなかったので、倭人伝では詳しいことは書かれなかったが、実は、官の伊支馬や彌馬升などを出す女王国連合の中枢を担う国であった。神武東征説話というのは、狗奴國の攻撃から2番目奴國を救援するため、女王が派遣した軍の話であり、この現地駐在軍の司令官の子孫が、2番目奴國王家(大物主?)の外戚(ヤマトトトヒモモソ姫のとき?)となり勢力を伸ばし、後の大和政権となった。」
なんていうストーリーはどうでしょう。


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Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月17日(木)03時24分22秒]

邪馬台国大和説をとる人にとってなぜか箸墓=卑弥呼、三角縁=魏の鏡、というのは生命線らしいですね。べつにその二つが否定されても十分大和説を展開できると思うんですがなぜだろう。
さてその一角が崩れるのではないか、ということを発見しました。
尺なんです。
古墳をあちこち廻るとよく墳丘長120mという長さがあって、なんでだろうと思っていましたが、古墳では晋尺が使われているそうなんです。晋尺では120mは500尺になる。おおよそ。
500尺  120m アンド山、中山大塚
600尺  144m 東大寺山、東殿塚、いたすけ
700尺  168m 宇度墓(あんまし思いつかない、なぜ?)
800尺  192m 今城塚、日本武尊陵
900尺  216m オサホ塚、成務陵
1000尺  240m 行燈山陵、仲哀陵
1100尺  264m (ここも思いつかない、作山くらいか)
1200尺  288m にさんざい、仲津姫陵
1300尺  312m 景行陵、見瀬丸山
1400尺  336m 河内大塚山
1500尺  360m 履中陵、造山
1800尺  432m 応神陵
2000尺  480m 仁徳陵

こんなもんですね。もちろん、いまの古墳は多少増減があるでしょう。墳丘がけずりとられたり、墳丘が崩れてながくなったりで。

また当時の尺度は地方によって違ったりでその前の魏尺にしても
   1尺 23.5cm-24cm-24.3cm だったり
晋尺も1尺 24cm-24.2cm-24.5cm だったりするそうです。
ただ時代が変わるにつれ長くなっていくそうです。ちなみに後漢は23.5cm、宋は24.7cmと。

さて箸墓は魏尺か晋尺か。
長さ278mはだいたい1150尺ということか。あれ?
でも前方部の長さは120mですし、前方部幅は140mで、500、600尺と解釈してよいでしょう。
 
私は学者でも専門家でもありませんし、魏尺が箸墓につかわれたのかどうかわかりません。測量もしてないし。資料はぜんぶ机のうえだけ。
ただ考古学者が一致して前方後円墳、とくに巨大な墳墓が後漢でも魏でも宋でもなく晋尺が
つかわれている、ということに注目してるんです。
 
ただそれが箸墓など古い墳墓にまで遡るのかどうか。

宮川 歩(橿原考古学研究所研究嘱託)さんの研究によると
  大王墳設計の源流は箸仲山古墳 だそうです。
古墳の直径を八つにわけて、一区13ヒロ、1ヒロ約150cmだとか。
  大王墳は五区型から八区型まで造営される四つの系列があり・・・
全部紹介できませんがようするに、巨大墳はすべて箸墓を基点として、発展させて設計・企画
されたと。
ちなみにこの人はこの研究の中で箸墓=卑弥呼と考えています。

でも私が先に述べたように巨大墳に晋尺が使われている、ということは、この研究とかさねあわせると、その源流、箸墓にも晋尺が使われているのではないか?!
とゆー結論になりました。魏は266年に終わり、晋に代わる。ということは・・・。
もちろん、卑弥呼が248年に死んで266年に箸墓を造って数年後に葬る、というんなら晋尺が
使われているのも納得できますがでもねえ。遺体を20年もねえ。

もうひとつ。
岐阜県養老郡養老町にある象鼻山1号古墳、長さ40.1mですがこれも晋尺が使われているそうです。ここでは一尺=24.2cmとしてます。
年代は東海廻間3式初め、畿内では布留0式頃。箸墓といっしょですね。
西寄りとはいえ東海地方にもう晋尺が古墳に取り入れられてるとは・・・・。
そして琴柱形石製品が埋葬されてました。琴柱型石製品といえば・・・。

いじょうのことから箸墓は魏尺ではなく晋尺が採用されていたものと考えます。
 つまりぃ・・・・・・・・・。
      意見、どしどしくださいね(^。^)



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Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが

投稿者[ 景虎 ] 発言日時 [1月17日(木)07時45分46秒]

元の発言 [ Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月16日(水)22時00分41秒 ]

>> >> もっと単純に、魏から倭にうつった鏡作りの職人が
>> >> いた、でもいい。もちろん、この場合なぜ彼らが
>> >> 50年くらいして戻ったかが問題になりますけどね。

>> 帰りたい帰りタイで、凝り固まった一族が帰っていったでは行けませんか?

私には、馬頭鬼さんの意見が正しいのか、おにりんさんの意
見が正しいのか分かりませんが、倭に鏡職人が来ていたとし
ても帰ったとは限らないのではないですか?

刀鍛冶の場合だと、鎌倉に幕府が出来た時に刀鍛冶が必要だ
という事で、山城から来派の国綱が、備前からは長船系の国
宗、一文字助真という刀鍛冶が移住してきました。移住して
きたからといって、彼らの生国で刀鍛冶がいなくなった訳で
はなく、山城や備前ではその後も同じ流派の刀が作られてい
ます。
また、山城鍛冶の場合は、粟田口派、来派などは南北朝の戦
乱で地方に移住、消滅しています。
備前長船は天正の大水と呼ばれる吉井川の大洪水で、一瞬に
して町ごと滅亡してしまいました。横山家だけは生き残って
その後も細々と活動していますが。

鏡職人の場合も、似たような事があったかもしれません。
なかったかもしれませんが。


442

Re:重要なことを発見しました。

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [1月17日(木)11時17分14秒]

元の発言 [ Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月17日(木)03時24分22秒 ]

にゃんさん こんにちは。

>> また当時の尺度は地方によって違ったりでその前の魏尺にしても
>>    1尺 23.5cm-24cm-24.3cm だったり
>> 晋尺も1尺 24cm-24.2cm-24.5cm だったりするそうです。

ということならば、魏晋朝では「24cm」の尺を用いていたと見て良いのでは?
#魏の正始弩尺(24.2cm)
#晋の永寧骨尺(24.3cm)

>> いじょうのことから箸墓は魏尺ではなく晋尺が採用されていたものと考えます。
>>  つまりぃ・・・・・・・・・。

・・・・・・・ということには、ならないのでは?




447

Re: 倭/委 は、歌部ですか微部ですか

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [1月17日(木)13時51分00秒]

元の発言 [ Title 倭/委 は、歌部ですか微部ですか ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月16日(水)08時57分26秒 ]

おにりんさん こんにちは。

>>
>>
>>
昨年の今頃、藤堂編「学研 漢和大辞典」の解説「上古漢語の音韻」の諧声音符表では、委は微部に分類されていることをお聞きしたところ、
おにりんさんから、委は、
<Eの母音を主母音とする微部ということをきっちり確認しました>
<いままで、私が勘違いで、倭、委を、歌部とか思っていた>
とのことでしたので、
藤堂漢和が倭/委の上古音を歌部としているのは間違いだと理解していました。

#上古の韻部を中古音から推定することもあるのですか。

>>
>>
>>
諧声音符表には台/臺は之部に分類されていますが、、、




448

Re:重要なことを発見しました。

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月17日(木)14時00分40秒]

元の発言 [ Re:重要なことを発見しました。 ] お名前 [ 大場嘉門 ] 日付 [ 1月17日(木)11時17分14秒 ]

そのとおりです。
ただ、いってるとおり、たいていだれもが 晋尺 を採用している といってるのは考えものです。おもに前期から中期の古墳なんですけどね。黒姫山とか。
この当時の尺度は中国で出土するものからもばらつきがあるにもかかわらず、魏尺、晋尺、宋尺のなかから 晋尺  を選んでいる。どうして?
どうも、学者の方はそう感じているらしい。
古墳には魏尺を採用している、と言う人はわたしが知るかぎりではいない。
むしろ、私も聞きたいんです。どうして晋尺が使われているってわかるんですかって。
どうも、考古学者のかたは墳丘とかの調査で(埴輪の置かれてる間隔などから)見て観察している。そこから感じているらしい。晋尺であるという証拠をもっていると、推測できるんです。学者のかたが。
箸墓が卑弥呼といっている大和説の学者でも箸墓に魏尺が使われている、といった人はなぜかいない。気がつかないのかな。
あれだけの日本列島クラスの古墳ならとうぜん設計、企画があるはずです。あとで気がついたんですが、箸墓は円部が700尺に方部500尺を足してつけたみたいなんですよ。
だから50尺足りないみたい。
だから私は考古学者の推測を重視してるんです。
みんなが晋尺だっていってることに。


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Re: Title 本の紹介

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月5日(土)00時13分03秒]

元の発言 [ Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月4日(金)03時35分34秒 ]

おにりんさん、今年も孤軍奮闘、ご苦労さんです。

>>
>>
#これは一種の循環論法です。「無難」でない説をトンデモ説と定義するなら、いろいろな「学説」は「無難」に決っております。
「無難」でない説を採用していたのでは職が得られない、ということに違いないと、私は考えています(イエローカードかな)。




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Re: 倭/委 は、歌部ですか微部ですか

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [1月17日(木)15時16分38秒]

元の発言 [ Re: 倭/委 は、歌部ですか微部ですか ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)14時46分13秒 ]


>>
>>
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/bbs0101/bbs/265.html

>> #上古の韻部を中古音から推定することもあるのですか。





453

土器の移動

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [1月17日(木)15時33分25秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)13時30分37秒 ]

土器の移動は人の移動です。また文化です。
弥生早期の遠賀川式土器だったかな、それは東北でも発見されています。でもそれは九州人が東北まで制覇したのではなく、稲作文化が北上したものと考えられてます。
土器の移動が征服されたということなら、布留0式の巻向に外来土器が15パーセントもあるということは、大和は外から来た人たちに征服された。あれ ?
あと4世紀の終わりだったか近畿は因幡系土器が流入して拡散して安定化します。そうか、近畿は因幡の人たちに
征服されたのか。 あれ ?

鏡は祭器です。ある意味強烈な宗教なんですよ。
よくピカピカの鏡を祭ってある神社ってありますよねえ。
でも巻向直前の銅鐸、祭ってあるとこなんてないですよねえ。四国に一箇所だけあるそうですけども。徳島だったかな。唐古・鍵遺跡では銅鐸の鋳型、でてます。その遺跡、
巻向の発生と同時に消えちゃうんですよ。滅んだのか。
どこの勢力に?鏡を持つ宗教団体に。
どうして? ちなみに奈良盆地では銅鐸の出土は20個くらいなんですよね。加茂岩倉では一括で32個もでたのに。近江のほうがよく出てるし、東海にはお化け銅鐸も出土してる。

>>
>>
>>
それがある意味九州説の弱点でした。しかし、東遷説がすべてを解決してくれました。
つまり、庄内並行期から、北部九州連合は大東征戦争に突入したのですよ。だから急に副葬品が質素になるわけです。欲しがりません。勝つまでは。太平洋戦争時の日本みたいに。でもそのときの日本ほどではないのは鉄器が豊富にでている。ということはアメリカみたいなものかな。
宇佐を出発した東征連合軍には吉備勢力も参加しました。イギリスみたいなものかな。そして出雲勢力も。ソビエトみたいなものかな。戦いは長期にわたり、一進一退。だから魏になんども使いをだしたんですよ。後ろ盾が欲しかった。巻向は連合軍の拠点だったのでしょう。そしてついに勝利。しかし、長期にわたる戦争の疲弊は卑弥呼の死をきっかけに内乱に。でもトヨのおかげでまた統一しました。
雨降って地固まる。そして平和があるからこそ巨大墳が築かれる。そしてあちこちに北部九州の首長が土着。
よく古墳で頭部に鏡がおかれている。その鏡、中国製の優品だったりします。黒塚とか。
三角縁は別として、その鏡がここに副葬されているということは、その被葬者が北部九州から奪ったものかと私は思ってましたがでも鏡って宝器なんです。また祭器なんですよ。そしてよく鉄刀もすぐれた中国品であることも。
棺の中、鏡や刀はいちど北部九州にもたらされていて、ここにある。それはつまり被葬者が北部九州人であることを意味します。
土器の移動は文化の移動。
鏡の移動は征服・勢力圏の拡大と見ていいでしょう。
 これってトンデモ説。でもうまくできすぎている。(~~)



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Re: 土器の移動

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月17日(木)15時45分36秒]

元の発言 [ 土器の移動 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 1月17日(木)15時33分25秒 ]

>> 鏡は祭器です。ある意味強烈な宗教なんですよ。
>> よくピカピカの鏡を祭ってある神社ってありますよねえ。
>> でも巻向直前の銅鐸、祭ってあるとこなんてないですよねえ。四国に一箇所だけあるそうですけども。徳島だったかな。唐古・鍵遺跡では銅鐸の鋳型、でてます。その遺跡、
>> 巻向の発生と同時に消えちゃうんですよ。滅んだのか。
>> どこの勢力に?鏡を持つ宗教団体に。
>> どうして? ちなみに奈良盆地では銅鐸の出土は20個くらいなんですよね。加茂岩倉では一括で32個もでたのに。近江のほうがよく出てるし、東海にはお化け銅鐸も出土してる。

纒向って2世紀末から3世紀初頭には始まってるでしょ。
東遷があったとしたらその前じゃありませんか?

>> >> これが、庄内並行期って、九州ではまさに空白地帯といえる
>> >> ほどないんですよ。

>> >> 鏡がない。
>> それがある意味九州説の弱点でした。しかし、東遷説がすべてを解決してくれました。
>> つまり、庄内並行期から、北部九州連合は大東征戦争に突入したのですよ。だから急に副葬品が質素になるわけです。欲しがりません。勝つまでは。太平洋戦争時の日本みたいに。でもそのときの日本ほどではないのは鉄器が豊富にでている。ということはアメリカみたいなものかな。
>> 宇佐を出発した東征連合軍には吉備勢力も参加しました。イギリスみたいなものかな。そして出雲勢力も。ソビエトみたいなものかな。戦いは長期にわたり、一進一退。だから魏になんども使いをだしたんですよ。後ろ盾が欲しかった。巻向は連合軍の拠点だったのでしょう。そしてついに勝利。しかし、長期にわたる戦争の疲弊は卑弥呼の死をきっかけに内乱に。でもトヨのおかげでまた統一しました。
>> 雨降って地固まる。そして平和があるからこそ巨大墳が築かれる。そしてあちこちに北部九州の首長が土着。
>> よく古墳で頭部に鏡がおかれている。その鏡、中国製の優品だったりします。黒塚とか。
>> 三角縁は別として、その鏡がここに副葬されているということは、その被葬者が北部九州から奪ったものかと私は思ってましたがでも鏡って宝器なんです。また祭器なんですよ。そしてよく鉄刀もすぐれた中国品であることも。
>> 棺の中、鏡や刀はいちど北部九州にもたらされていて、ここにある。それはつまり被葬者が北部九州人であることを意味します。
>> 土器の移動は文化の移動。
>> 鏡の移動は征服・勢力圏の拡大と見ていいでしょう。
>>  これってトンデモ説。でもうまくできすぎている。(~~)

東征連合軍は纒向勢力と戦ったのですか?
すると唐子鍵の銅鐸勢力ではなく、ホケノ山とかの鏡の宗教のひとたちと戦ったのですか。
なんだか論点がよくわかりません。


455

Re:重要なことを発見しました。

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月17日(木)15時54分19秒]

元の発言 [ Re:重要なことを発見しました。 ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月17日(木)14時00分40秒 ]

>> だから私は考古学者の推測を重視してるんです。
>> みんなが晋尺だっていってることに。

かっての常識では古墳は西晋時代以降にはじまることになっていましたから、当然晋尺であると考えていただけでは?


459

Re:重要なことを発見しました。

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月17日(木)17時47分50秒]

元の発言 [ Re:重要なことを発見しました。 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月17日(木)15時54分19秒 ]

> かっての常識では古墳は西晋時代以降にはじまることになっていましたから、当然晋尺であると考えていただけでは?

そうですよ。でも箸墓が魏尺で設計されている、ということを言わない大和説の人がててこない、ということのほうがおかしくありませんか ?箸墓=卑弥呼 古事記からするとモモソノヒメすぐ葬られた というなら箸墓は250年頃の古墳だとしないとおかしい。おにりんさんはちがうけど、ほかの大和説=箸墓=卑弥呼のかたは箸墓を250年頃としてしまう。これはおかしい。
箸墓は晋尺ならどんなに早く見積もっても266年以降の古墳でしょう。もっと遅いかもしれない。あれだけの巨大墳と当時の技術では築くのにどれくらいかかったのだろう。
箸墓を卑弥呼の塚というのを無理にもっていくと
卑弥呼は遺体を20-30年ほったらかしにされてそして埋葬された。  ということになってしまう。そんなのおかしいでしょ?
箸墓はヤマトヒメの墓です。ヒミコではない。遺体放置論をもちださないかぎり。
卑弥呼の塚は、大和なら250年頃の墳丘墓、古墳にあてるべきです。
卑弥呼の塚はそうするとホケノ山か。あれ?
どうして大和説とる人そういうこといいだす人いないの?
考古学を駆使してるのにさ。

この箸墓=晋尺だとすると、やはり大王墳の発生を250年頃とするのは遡りすぎます。
とすると、あの年輪法とか炭素法とかやっぱり間違ってきませんか?


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Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月5日(土)01時53分21秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 1月3日(木)11時52分38秒 ]

明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

おそらく、ほとんど支持者がいないと思われる狗奴国=吉備説を再度俎板の
上にあげていただいてどうもありがとうございます。
私としては、邪馬台国の所在地論と絡めるとまとまる話もまとまらないので、
邪馬台国の場所は拘束条件、つまり、邪馬台国は大和東南部であるというこ
とを前提として考えた場合、狗奴国はどこに当てることができるか、という
視点でいろんな方に考えていただければと思います。

狗奴国の位置を考えようとした場合、マルセさんが言われるとおり、考古学的
には判断が付かない可能性は当然考えられるわけですが、その一方で、狗奴国
との抗争の断片が考古史料に反映されるという可能性も当然あります。私が狗
奴国=吉備と考える背景には、纒向遺跡出土の吉備系土器が纒向1式から3式に
かけて激減するという事実があります。(最近の調査で変わっていれば別です
が。)吉備系土器は、纒向1式の段階では外来性土器としては、その比率は東海
に次いで二位の位置にありますが、2式、3式と減少し、3式段階では何番目か
もわからないくらいまで減ってしまいます。この事実をどう解釈するかという
ことなんですが、文献のほうを当たると、ちょうどこの時期は、現在広く採用
されている編年では狗奴国との抗争期に対応するので、それなら、吉備を狗奴
国と考えて見てはどうだろうか、ということです。

>考古学的な事物から、国と国との関係を考えるのは相当に無理があると思います。

物言わぬ考古資料から何がしかの結論で断定してしまうことは難しいかとは思
いますが、考古学上の事実から何がしかの推論を行うこと、つまり、可能性を
探ることに全く意味がないとは思いません。特に、魏志倭人伝は孤立文献とい
って良く、他の由来を異にする史料と突き合わせてクロスチェックするという
ことができませんから、たとえ困難でも、文献上の事実が史実であるかどうか
を判断するには考古史料との擦り合わせは不可欠です。狗奴国吉備説はこれま
でほとんど議論されていないと思いますが、可能性すら否定されるのであれば、
何が問題なのかを具体的にあげていただければ幸いですし、また、吉備以外の
どこを狗奴国とし、その背景にはどのような事実があるのかを書いていただけ
れば議論も深まるのではないかと思います。

また、狗奴国吉備説を出した背景には、『特殊器台が埴輪の起源だから、大和
と吉備は連合体であった』という、特殊器台出現以前の状況も吟味せずに短絡
的とも思われる結論が跋扈していることへ、注意を喚起するという意味もあり
ました。おそらく、今でも畿内説といえば大和−吉備連合というのは、ほぼ常
識化しているのではないかと思われますが、特殊器台出現以前の大和−吉備連
合というのは、一体、何を根拠にしているのでしょうか?マルセさんも『相当
に無理がある』といって後ろ向きになるだけではなくて、出土事実から特殊器
台以前、つまり庄内期の吉備と大和という“国と国”の関係について考古資料
から何が言えるのかと言うことを考えていただければ幸いです。


狗奴国の位置を考えるうえでは、

1. 抗争の原因
2. 抗争の重大性

でそれなりの理屈が付かなければならないのだろうと思いますが、この点で、
マルセさんの指摘は非常に重要であると思います。

マルセさんが書かれているとおり、私も魏志倭人伝からわかるのは

>卑弥呼と卑彌弓呼が個人的に仲が悪くて、両者の首長在任中は両勢力が対立していた

ということに賛成です。私は、よく言われているように、狗奴国との抗争が
東西(南北?)二大連合の激突というようには読めません。また、

>狗奴國は倭國の内部の国で

ということにもに賛成できます。ただ、私は卑弥呼共立は3世紀前半と考え
ていますので、共立時から対立がはじまったと考えてもよいのではないかと
思います。


460

Re: 西新町遺跡の土器構成(補足の補足)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月17日(木)18時32分48秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(補足の補足) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)13時14分32秒 ]

>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>
>>
>>
>>
>>
>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
するどい突っ込みですね。お答えしたいと思います。
どこかのレスで書いたと思いますが、五様式系が集中的に出てくる遺跡と、より精製の庄内〜布留系が集中的に出る遺跡は違うのです。
 後者には比恵・那珂遺跡群があり、あるいは雀居遺跡があります。五様式系はあるにはありますが、布留0式から布留1式前半併行では、むしろ少数派の在地系より少ないぐらいです。
こうした遺跡では、少数の土器工人が来て、集落に外来系土器が何らかの理由で広まったと考えた方がよいでしょう。もちろん、土器工人以外の外来者の存在を否定しませんが、過密な遺跡内容の連続性から、累積としても「大量に」来たとは思えません。
 一方、博多遺跡群のように海辺の遺跡は、以前から砂丘上に集落がありますが、終末から少しずつ大きくなります。布留1式併行の時に規模や密度がピークになります。西新町もそうですが、この場合には在地人主体としても、畿内や山陰、西新町の場合は韓国から来た人々なども少なくないことは予想できます。繰り返しますが、これらの遺跡は「布留系」が主体になります。ただし、すでに書いたように、厳密な意味で、各器種の形や、またセットは畿内のそれとはすでに違って来ています。ですから布留1式の時に畿内の人々が大量に来て、そのまま全く同じ生活様式を再現した、というのとは少し異なるのではと思います。
 次に五様式系ですが、典型的には那珂川町松木遺跡のように、在地系が少なく、それらが多い集落が出てくる場合があります。その場合は移住を考慮するべきかもしれません。他の周辺の集落では、五様式系と在地系、また布留式系との関係は様々で、一概にここで言うことはできません。今後の研究に期待します。
 あと、伊都国の三雲遺跡の場合は、かなり時間をかけて在地系から布留式系に変換してゆきます。また妙に長い胴の「布留系甕」が多いなど、在地の生活様式を保持したまま布留式を受容したようです。答えになっているかどうか、、






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Re: 土器の移動

投稿者[ Iにゃん ] 発言日時 [1月17日(木)18時36分03秒]

元の発言 [ Re: 土器の移動 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月17日(木)15時45分36秒 ]

>> 纒向って2世紀末から3世紀初頭には始まってるでしょ。
>> 東遷があったとしたらその前じゃありませんか?

はい。東遷説にも二通りあって、柳田康雄はその時期と考えてるみたいです。そういった意味では東遷説=3世紀初頭=
大和説。でも古墳の被葬者は北部九州の人だと。
私はもっと後。卑弥呼の死後。トヨは北部九州の女の子です。卑弥呼は北部九州にいて大東征戦争をささえ続けた。しかしスキをねらった菊地彦の勢力の圧迫もあって魏になんども使いをだした。
だから卑弥呼の塚は北部九州にあると考えます。
この時代の墳墓は巻向もそうですが、どこも副葬品は質素
ですから案外卑弥呼の塚もそうなのかも。

>> 東征連合軍は纒向勢力と戦ったのですか?
>> すると唐子鍵の銅鐸勢力ではなく、ホケノ山とかの鏡の宗教のひとたちと戦ったのですか。
>> なんだか論点がよくわかりません。

はいな。巻向は連合軍の拠点、出城みたいなものだったの
ではと考えています。そしてそこで日本統一連合祭祀をやってたんですが、当然従来の銅鐸勢力とは軋轢があったでしょう。当然戦いになった。そして戦いに勝利した。

さてこれからは私の想像でしてね。
「男王立つ。国中、これを承服せず。」
これそのままに受け取っていたんですがこの男王、大国主命ではないかと思うようになりました。卑弥呼の死のスキをついて大国主命は
「わが出雲勢力は戦争に貢献した。わたしが大王だ」と。
しかし北部九州と吉備勢力はこれに反発、そして内乱、そしてまた勝利。この戦い以降、敗れた出雲勢力は尻すぼみになってしまう。神として大三輪に祭られることになったのでしょう。
だからあんなに神話に出雲のことがでてるのかと。

数日前までこんなこと考えもしなかったのですが、討論していくうちに自分なりの邪馬台国東遷説がかたまっちゃいましたよ。
  感謝してます。この場所を提供してくれた管理人様に。
おにりんさんにも感謝! あなたが私をけなしてくれなかったらわたしはここまで思いつきませんでした。
けなされたときはくやしくて、見返してやろうかと思って
このことばかり考えてましたよ。



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忘れていませんか?

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月17日(木)18時54分46秒]

元の発言 [ Re: 土器の移動 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月17日(木)15時45分36秒 ]

>> 纒向って2世紀末から3世紀初頭には始まってるでしょ。
>> 東遷があったとしたらその前じゃありませんか?

纒向が2世紀末から3世紀初頭には始まると言うのは早計でしょう。
例の勝山古墳の板切れの年輪年代の件は去年の7月の議論で勝山古墳の年代を表すものでは有り得ないと言う結論になった筈です。
従って勝山古墳の板切れを理由にした古墳年代の繰上げは出来ません。

年輪年代の方法論としては正しくてもまだ奈良文研の測定データそのものが正しいかどうかは確定していません。
これ以外での年代の繰上げの議論はこれからでしょう?



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Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月17日(木)18時59分38秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)13時30分37秒 ]

>> >> でも、九州には、さらにモノが入っていませんから
>> ね。
>
>>
>>
>>
>>
>>
これ、かなり言い過ぎ、です。もう少ししてからまとめて書きますが。ただ、玄界灘沿岸に片寄っているのも事実ですが、、、


>>
>>
>>
>>
>>
那珂八幡古墳はかなり古い可能性があります。念のため(三角縁神獣鏡は主軸のずれた端の方の副次的主体部より出土)。

>>
>>
>>
 前に書いたように、布留式系への変換はそのまま大量移住を示すか疑問です(理由は承前)。移住をある程度示すだろう五様式系は、在地系の海の中では少数派です。遺跡によって集中的出るものがありますが、そういう遺跡は少数で、終末以降の一般集落の中にも出て来ますが、あくまで少数です。全体としては、五様式系が席巻するのではなく、複雑な様相を経て、布留式系に変換するのです。
 さらに五様式系では大和系とは言えません。むしろ、摂津とか播磨とか、畿内(近畿)西部の伝統的五様式系が来たのではないかとも考えた方がよさそうです(甕や高坏の形や、セット関係から)。
 最後の前方後円墳の被葬者が外来者というのは、おにりんさんらしくない単純な発想だとおもいますよ。では、東日本の前方後方墳は全て近江や東海出身の「将軍」でしょうか?そういう考えの考古学者もいるにはいますが、、、
 いくつか反論を書いておきますが、北部九州での頭位傾向は畿内と大きく違います。また伊都国を除き、竪穴式石室は少ないです。在地的な大型箱式石棺を主体部とする古墳もかなりあります。古墳の形も、「纏向型」もどきが妙に残ったり、近畿ではむしろ少数派の柄鏡形前方部がやや多かったり、前方部の長さが近畿の主流より少し短かったりします。逆に伊都国は在地系土器が残ったりして、ことはそう単純じゃないんです。
 外来の被葬者がいないとは言えませんが、じゃあ、どれがそうだと指摘することもまたかなり困難なのです。



464

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月17日(木)19時07分41秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)13時21分58秒 ]

>>
>>
それはバカよばわりしてるのと同じことですよ。おにりんさんの知識には感心しますがその態度はいやだなあ。私は小学生よりアタマはいいと思ってますが、そんな態度はとれません。学校の先生からそんなふうにバカにされたらどんな子供もいやですよ。

そういうところに本当に邪馬台国
>>
>>

鏡って宗教でしてね。
大和に葬られた首長はフランシスコザビエルみたいなものと思っていいでしょう。だから棺の外は北部九州系の要素がかんじられないんです。だから棺も現地産。
その宗教の影響を受けた人たちなんですよ。庄内式土器のひとたちは。だから北部九州に庄内式土器があってもそれはいい意味での交流です。
鏡の本場に行きたかったのかな?
それとも巻向祭祀はこうなんですよ、と新型祭祀を伝えにきたかも知れません。



465

Re: Title 土器作りの経済における革命? 率善さんへ

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月17日(木)19時24分31秒]

元の発言 [ Title 土器作りの経済における革命? 率善さんへ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月16日(水)23時09分50秒 ]

>>
>>
>>
これは単純には言えません。特に弥生時代中期後半前後には、北部九州でも、近畿でも、祭祀用の立派な作りの土器が恐ろしく大量に出土する場合があります。
 ただ、庄内甕や布留甕のような薄い甕は、使いやすい(鍋として早く煮炊きでき、また運びやすい)分、薄いので、ちょっとした衝撃で壊れるでしょうから、甕に限り消費量が増えた可能性があります。また全体的傾向として、甕の容量が小さくなってゆくので(その背景は今は不明としておく)、個数としては多くなったでしょう。実際、特に布留式古相段階では、出土土器中の個体数割合で甕が弥生後期にくらべてかなり多くなっています。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
 近畿ではそうかもしれません。ただ、瀬戸内とか山陰は、もう少し前から漸移的に薄甕化してゆきますので、そのあたりをどう考えるか。また九州は弥生中期にむしろ一回薄くなりますが、後期は粗い作りの土器で、厚い甕です。しかし、拠点集落の規模は大きく、伊都国、奴国は纏向規模の都市的集落は存在し、また手工業の集約性や技術も抜きん出ている、と言う事実があります。ですから、土器だけでは一概に言えません。ただ、より進んだ交換経済と分業制があったので、一度外来の土器作りを受容したら、広がるのも早かった、と言う可能性はあるでしょう。
 土器そのものが精巧な作りであることがイコール専業かどうかは不明です。「専業」の程度にもよりますが、縄文土器のある意味で精巧で装飾性豊かな土器を「専業」とするかは意見が分かれます。逆に、粗野な土器でも、専業はありえます。例えば奈良時代の土師器の甕は厚い粗野な作りですが、農閑期の産業だったとしても、「土師部」による専業品だったわけです。九州の弥生土器に関しては、土器焼成の痕跡と考えられる失敗土器片(外面発破痕土器)や地上式の雲南式泥窯の痕跡とみられるスサ入り焼成粘土塊の出土のありかた、つまりある地域内での各集落での出土傾向の多寡、また拠点集落内部での地区ごとの出土の遍在性が指摘されつつあり、ある程度の分業化(「専業」化への傾向)が進んでいたのではという意見があります。
 ですから、このあたりの議論はかなり難しく、ケースバイケースであり、今後の研究課題でしょう。




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Re: 西新町遺跡の土器構成(補足の補足)

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月17日(木)19時25分41秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(補足の補足) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)13時14分32秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
まったく同感です。巻向はなんてのかな、キャンベラやワシントンみたいな感じがあります。新都ですね。

はじめておにりんさんと意見が合いましたね。うれしいな。
ただ、それをどう見るかによって分かれてしまうんですね。




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Re: 忘れていませんか?

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月17日(木)19時32分13秒]

元の発言 [ 忘れていませんか? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月17日(木)18時54分46秒 ]

>> 年輪年代の方法論としては正しくてもまだ奈良文研の測定データそのものが正しいかどうかは確定していません。
>> これ以外での年代の繰上げの議論はこれからでしょう?

年輪年代を必ずしも積極的に採用しない寺澤年代で3世紀初頭でしょ。


468

Re: 忘れていませんか?

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月17日(木)19時40分54秒]

元の発言 [ 忘れていませんか? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月17日(木)18時54分46秒 ]

>> 纒向が2世紀末から3世紀初頭には始まると言うのは早計でしょう。
>> 例の勝山古墳の板切れの年輪年代の件は去年の7月の議論で勝山古墳の年代を表すものでは有り得ないと言う結論になった筈です。

かってに結論を出さないで下さい。
勝山古墳の年代を断定することは出来ないという話ではあっても、
勝山古墳の年代を表すものでは有り得ないと言う結論にはなっていません。
その可能性も依然あります。


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Re:重要なことを発見しました。

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月17日(木)19時48分18秒]

元の発言 [ Re:重要なことを発見しました。 ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月17日(木)17時47分50秒 ]

>> そうですよ。でも箸墓が魏尺で設計されている、ということを言わない大和説の人がててこない、ということのほうがおかしくありませんか ?箸墓=卑弥呼 古事記からするとモモソノヒメすぐ葬られた というなら箸墓は250年頃の古墳だとしないとおかしい。おにりんさんはちがうけど、ほかの大和説=箸墓=卑弥呼のかたは箸墓を250年頃としてしまう。これはおかしい。

習慣的なものなんでは?
250年ごろと言う説が強まれば、これからでてくるんじゃないかな。
魏尺と晋尺でそれほど変わらないんでしょ。


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Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月17日(木)19時52分51秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)13時43分03秒 ]

>> ここでしかし面白いのが、糸島は意外と畿内系への転換が遅いという事実です。布留0式段階にはほとんどまだ無く(少なくとも在地生産がほとんど無さそう)、布留1式に少しずつ布留式系に転換していくものの、高坏など器種によっては在地系をセットの中に残す状況のようです。布留2式にやっと「畿内的」になるような感じです。これは中心の三雲遺跡がそうなのです。問題はこれをどう考えるかですが

>>
>>
>>
いやいや、そういうと「近畿中心主義」と呼ばれてしまいますよ。畿内系土器のみを基準にしたらそうかもしれませんが、、、
 というのも、柳田康雄氏が力説するように、前期の前方後円墳が異常に多い地域なんですね、糸島は。むしろ福岡平野より多いのです(その後の開発による消失を考慮に入れても差があると思います)。前方後円墳を基準にすれば、むしろ辺鄙とは言えません。三角縁神獣鏡も銚子塚の倣製鏡8枚も含めて、10枚あり、工人系譜が同じかもしれない関連鏡群として権現古墳(志摩町)の二神二獣画像鏡、泊大日古墳(前原市)の神人騎獣鏡2枚があり、三角縁関連では、少なくとも今のところ福岡平野よりはるかに多いですし。
 そういうことがあるので、最近まで畿内系土器が糸島で早く受容されるのではないか、と言う誤解もあったぐらいで、、
 土器の流れと古墳や鏡の流れって単純に一致しないんですよ。だからこそこの時代を解きあかす面白みがあるのですが、、
 あと、西新町のような集中はないですが、あいかわらず糸島では韓国系の土器がいろんな遺跡で出て来ます。また、近年の研究では、原の辻遺跡(壱岐)で使われている古式土師器のかなりの割合が、糸島で作られたものが搬入されているのではという説もあります(胎土分析から)。なおこれはすでに弥生時代からそうだということです(これは重要な結論を導く話であるので、より多角的な検証が必要ですが)。あと、前期末に半島系の横穴式石室を最初に導入するのはこの地域ですし、、、
 そうすると、古墳前期においても韓半島との少なくとも日常的な交易において侮れない地位を占めていたわけで、また三角縁神獣鏡の動向からいっても、政治的にも重要地域だったわけで、、銚子塚の鍍金鏡なんて、他にない装飾鏡ですよ(西川寿勝氏が「銅鏡百枚」の一つの候補にあげている)。
 ですから全く視点を帰れば、あえて言えば、韓半島からみれば、伊都国地域は当時も一大拠点であり、むしろ畿内の方が「辺鄙」と移ったかもしれません、、、あくまで視点のつけ方の問題ですよ。

>>ようするに、交易ルートのメインロードからはずれたところ。
>>だから、「辺鄙でないところ」は当然飛び地になるんでしょう
>>ね。それが、近畿系土器の入るところ。
それはそういう解釈でよろしいかと。ただし山あいではなく、平地でも在地系が残る集落もあったりします。糸島もそうですね。念のため。

 えっと、それと勝手ながらしばらくはROMることにしようと思います(忙しいもので、、すいません)



471

Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [1月17日(木)20時01分50秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)15時59分40秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
なるほど!!そうだったんだあ。
なんか大和説の人たちの思考がやっとわかってきましたよ。どうしてそんな思考をするのか古墳の本とか読んで疑問でしたけど。起点があるのですね。
 
現状のように邪馬台国が大和に確定した段階でみると、

この思考はどうでしょうか。私は邪馬台国東遷説ですが、大和説、九州説も捨てきれません。ただよく思うのは、3世紀だけに限って歴史を見るのはどうかと。2世紀や4世紀、場合によっては1世紀や5世紀の歴史や遺跡を考えないといけないと思っております。つまり幅広く考えてるわけでして。
そういった意味では邪馬台国論争には不向きかも。

私にはおにりんさんみたいな確固たる起点はないんですね。みなさんの知識にはかなわない。
ただアタマの中は年表みたいなものがあって、3世紀がすごく不鮮明でした。
いまいちばん見えるのが東遷説だとおもっています。
そうすると、2世紀、4世紀の歴史がさらに鮮明になってくるんです。 それがわたしのアタマの中身。マンガみたいなものかな。だからトンデモ説なのかな。




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Re:重要なことを発見しました。

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [1月17日(木)20時26分53秒]

元の発言 [ Re:重要なことを発見しました。 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月17日(木)19時48分18秒 ]


>> 250年ごろと言う説が強まれば、これからでてくるんじゃないかな。
あの、たしか箸墓=卑弥呼説を最初にいったのは笠井新也だったとおもいます。たしか戦時中にその論を発表したと聞いてます。でももう50年は経ってるし・・・・。
>>魏尺と晋尺はそう変わらない、習慣的

あの、でも各地で弥生の墳丘墓とかあるじゃないですか。
戦後開発とともに各地で発見されている。最近では妻木晩田とか。河内なら加美の方墳墓とか。あれ3世紀の墓だということです。それならなぜ考古学の人は魏尺がつかわれているといわないのか。
箸墓ができるまでの弥生古墳には尺度がつかわれていなかった、ということを暗示してるのではないでしょうか。だとすると古墳の年代が見えてくる。

わたしが大和説だったらあれには魏尺が使われているっていって、いかに大陸のつながりが近畿は深かったのかを誇示しちゃいます。

時代とともに尺が長くなるからか。学者のかたは何か魏尺でないとかんじているとおもう。
学者のかた、答えてくださいよー。(-.-)




473

Re: Title 土器作りの経済における革命? 率善さんへ

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月17日(木)20時28分40秒]

元の発言 [ Re: Title 土器作りの経済における革命? 率善さんへ ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月17日(木)19時24分31秒 ]

トンデモといわれるかもしれませんが、、、

現在でも備前焼は有名ですよね。歴史的には1000年
程度らしいですが、良い土があることには問題ないと
思われます。
そして、瀬戸内の航海技術を持っていたとするなら
吉備地方は、土器を作って、それを船に積んで交易して
いたのではないか。
大和から九州では距離が遠いので、陸路ではコストが
かかりすぎる。土器は重くて壊れやすいので。

すでに、経済活動として優れた土器を九州へ運んでいた
吉備と協力体制をとった大和が布留式などを九州へ
売っていたりして。



474

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月17日(木)20時29分56秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)13時21分58秒 ]

>>
>>
>>
>>
罵り合いになるのは嫌ですが一つ例えを。
オーム真理教の信者なんか私よりいい大学でてすごく勉強したんでしょうね。
私に比べれば宗教の事もよく知っている。かれらは勉強しているから。
彼らから見れば私なんか無知でどうしようもない不勉強に見えるんでしょう。
私は彼らの論理がよく理解できない。
でも私には彼らの言っている事のほうがおかしいように感じる。
空中浮揚の写真は彼らから見れば真実だが私から見れば有り得ないとしか言いようがない。
というような所です。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
大和の人は何をしに来たのですか?

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
おっしゃる通りなら大和の人は九州から物品を買い付けるにあたって交換する物がなく、人間を輸出したんではないでしょうか?
生口と言うやつ。
じゃなければ先進国に出稼ぎと言うこともありえますね。





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Re: Title 土器作りの経済における革命? 率善さんへ

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月17日(木)20時46分24秒]

元の発言 [ Re: Title 土器作りの経済における革命? 率善さんへ ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月17日(木)20時28分40秒 ]

 ROMに入ろうと思ってましたが、事実を指摘しておきます。
 吉備の土器は意外と北部九州には入って来てません。あるにはありますが、それほど多くなく、また在地の様式に影響を与えていません。弥生後期中頃に、吉備もしくは讃岐の高坏を模倣して、在地の中に定着させますが、他の器種は影響なしとしてもいいでしょう。また、何度も書いたように、北部九州の「庄内式」「布留式」は大部分が形状の違いや胎土の違いから、一見似てはいても、北部九州の中で生産されたものと考えるべきです。畿内からの確実な搬入品は意外と僅かです。
 ただ、ダイナミックな交易活動があったのはおそらく事実でしょう。土器について言えば、別のレスで書きましたが、糸島平野産の弥生土器や古式土師器が大量に壱岐に搬出されている可能性があります(もう少し検証が必要ですが)。また、胎土について言えば、庄内甕やS字甕や特殊器台など、特別な粘土や混和材砂礫自体が5km以上、場合によっては数十km、運ばれているのではないか、という検討もあるようです。考古学的(型式学的)検証とともに、複数の方法による胎土分析による検証の必要がありますが。

 あと、トンデモとうことはないです。意外と考古学者の方が単純だったりします(一部ですが)。外来系土器の受容やある土器様式の伝播を「全て」集団移動で片付けようとしたり、特定の器物の分布範囲を即、ある勢力範囲とみたり、、、柔軟ないろんな可能性を一度思考することがもっと必要と思うのです。もちろん、科学的根拠で一つ一つ検証して、どれがより蓋然性が高いか考える必要はありますが。その点、この掲示板はいつも楽しく見させてもらっています。


476

Re: Title 土器作りの経済における革命? 率善さんへ

投稿者[ ] 発言日時 [1月17日(木)21時26分47秒]

元の発言 [ Re: Title 土器作りの経済における革命? 率善さんへ ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月17日(木)20時28分40秒 ]

>> トンデモといわれるかもしれませんが、、、

いえいえトンデモとか馬鹿にする資格、われわれにはないですよ。むしろそういう態度とると、後が怖い。

大陸移動説をとなえた人、まわりから賛同者いなくて馬鹿にされたそうです。おまえは非科学的だと。
でもいまではその説を否定する人はひとりもいない。

騎馬民族説、いまではすっかり否定されてますが、でも「そんなものはまったく認められない」という態度、とってる人たちがいるがあの態度はどうか。いま陵墓はすべて
発掘できませんが、もし将来発掘して、百済あたりの王とそっくりの遺品がでてきたらどうなるのか。

わたしが東遷説をとる根拠のひとつに倭人には、外から来たひとに王になってもらう習慣があったのではと思ってます。越前から来た景体天皇のように。だから騎馬民族説も馬鹿にはできない。
日産もカルロスゴーン氏を招いて経営再建したし。




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Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月17日(木)21時28分05秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 1月17日(木)20時01分50秒 ]

>> >>> が、現状のように邪馬台国が大和に確定した段階でみると、
>> >> その場合、三角縁神獣鏡は魏鏡であるほうがもっともらしい
>> >> し、また、そうなると、箸墓が、卑弥呼の墓としてもっとも
>> >> ふさわしい、ということです。
>> >> 箸墓が卑弥呼の墓だから、大和に邪馬台国があった、とか
>> >> 三角縁神獣鏡が魏鏡だから、邪馬台国が大和にあったと
>> >> いうことを言っている人はいないでしょう。
>> >> 逆なんです。
>> なるほど!!そうだったんだあ。
>> なんか大和説の人たちの思考がやっとわかってきましたよ。どうしてそんな思考をするのか古墳の本とか読んで疑問でしたけど。起点があるのですね。
 そうなんです。
 大和に邪馬台国があったから、大和を中心に配布された三角縁鏡は「卑弥呼の鏡=魏鏡」なんです。
 で、「以示汝國中人」と言うのを拡大解釈して“鏡だけ”配布したってことです。
 ところで、「記紀」に大王(天皇)が鏡を地方の首長に下賜したと言うような記事がありましたっけ。
 地方の首長が恭順の意味で差し出したと言う記事はありますけどネ。
 大和においては、鏡は上から下へ下賜するものではなく下から上へ捧げるものだったんでしょうネ。
 大王の葬儀のときとかに奉納していたとすれば、棺外からの大量出土の意味も納得できます。デショ。§^。^§


478

Re: 忘れていませんか?

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月17日(木)21時40分09秒]

元の発言 [ Re: 忘れていませんか? ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月17日(木)19時32分13秒 ]

>> >> 年輪年代の方法論としては正しくてもまだ奈良文研の測定データそのものが正しいかどうかは確定していません。
>> >> これ以外での年代の繰上げの議論はこれからでしょう?

>> 年輪年代を必ずしも積極的に採用しない寺澤年代で3世紀初頭でしょ。

寺澤年代で布留0式は280年前後10年くらいじゃなかったですか?



479

Re: 忘れていませんか?

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月17日(木)22時21分58秒]

元の発言 [ Re: 忘れていませんか? ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月17日(木)19時40分54秒 ]

>> >> 例の勝山古墳の板切れの年輪年代の件は去年の7月の議論で勝山古墳の年代を表すものでは有り得ないと言う結論になった筈です。

>> かってに結論を出さないで下さい。
>> 勝山古墳の年代を断定することは出来ないという話ではあっても、
>> 勝山古墳の年代を表すものでは有り得ないと言う結論にはなっていません。
>> その可能性も依然あります。

でもそれは古墳発生時期が2世紀末から3世紀初頭には始まってる事の状況証拠にすらならない事は証明できたと思います。

状況証拠にすらならないもので年代繰り上げしておいて、古墳発生時期を300年前後で決まっているような話の進め方はフェアじゃありません。


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Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月17日(木)22時34分53秒]

元の発言 [ Re: 軍事政治の戦略戦術問題ですが ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 1月17日(木)07時45分46秒 ]

>> >> >> もっと単純に、魏から倭にうつった鏡作りの職人が
>> >> >> いた、でもいい。もちろん、この場合なぜ彼らが
>> >> >> 50年くらいして戻ったかが問題になりますけどね。

>> >> 帰りたい帰りタイで、凝り固まった一族が帰っていったでは行けませんか?

>> 私には、馬頭鬼さんの意見が正しいのか、おにりんさんの意
>> 見が正しいのか分かりませんが、倭に鏡職人が来ていたとし
>> ても帰ったとは限らないのではないですか?

>> 刀鍛冶の場合だと、鎌倉に幕府が出来た時に刀鍛冶が必要だ
>> という事で、山城から来派の国綱が、備前からは長船系の国
>> 宗、一文字助真という刀鍛冶が移住してきました。移住して
>> きたからといって、彼らの生国で刀鍛冶がいなくなった訳で
>> はなく、山城や備前ではその後も同じ流派の刀が作られてい
>> ます。
>> また、山城鍛冶の場合は、粟田口派、来派などは南北朝の戦
>> 乱で地方に移住、消滅しています。
>> 備前長船は天正の大水と呼ばれる吉井川の大洪水で、一瞬に
>> して町ごと滅亡してしまいました。横山家だけは生き残って
>> その後も細々と活動していますが。

>> 鏡職人の場合も、似たような事があったかもしれません。
>> なかったかもしれませんが。

景虎サン感謝します。
ちと頭に血が上っていたようですね。

確かに日本だけではなく多くの国で災害のため色々消えてますね。
日本で有名なのは、別府湾の島が沈んでいてこれは、証明されてますね。
また、秋田十三湊の例、最近になって有名なのは、キカイカルデラで消えた鹿児島の縄文分化

去年だって、榛名山の噴火でしたっけ、これで埋まった古墳が発見されてましたね。

有得すぎますね。



481

Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [1月17日(木)22時59分35秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月17日(木)21時28分05秒 ]


>>  地方の首長が恭順の意味で差し出したと言う記事はありますけどネ。
仲哀紀ですね。
あの記事そのまま下が上に差し出した、と受け取っていたんですがあの記事にはたいへんな示唆があったんだといまごろ気づいちゃいました。
鏡を差し出したのは伊都の国の人なんですよね。つまり、いままで弥生からずっと鏡の国だったとこじゃないですか。そこの国が服属した。仲哀・神功紀は4世紀末のことかとおもわれていますが、このあと北部九州西は古墳が激減しますね。中期以降の古墳の主力は岩井のとこにいきますよね。日本書紀、馬鹿にできない。
もうひとつ。
日本書紀にはダジャレが良く出てきますがこの鏡の件のあと「天皇は五十手をほめられてイソシとおっしゃった。時の人は五十手の本国を名づけて伊蘇国といった。いま伊都国というのはなまったものである」とある。
地名からするとたいてい伊都の国の語源は糸の国、つまり細長い集落を意味するとどこも書かれてる。そうぼくも思ってたんですが吉田東吾・大日本地名でしたっけ、「伊都の語源はイソか」つまり、いまの波多江あたりの岩礁ではないのかと。磯の国ではないかと。
つまり地名の本より書紀のほうが正しく語源を伝えてることになるかもって。日本書紀、恐るべし。


482

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月18日(金)00時01分23秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)13時30分37秒 ]

>> >> でも、九州には、さらにモノが入っていませんから
>> ね。
>> これはどうでしょう。そういうよけいなことを言うからスレッドが荒れるのだと思います(これもよけいだったら謝りますが)。冷静に。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>  最後に、モノが入ってないって言いますが、鉄器の質的量的な普及は、
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
最もとも思えるような説明ですが、パラダイムシフトとも言える状況の説明が、
全くされていないとも言えます。

つまり変化に対する状況説命の説得力が無い。
現状での発掘調査で刃説明付かないのが理由でしょうが。

どのような形で有ろうと、国を率いる以上、何らかの威信材があるはずなのです。
そして国がある以上。

では、一時的にしろ其の時期、九州では、威信材と言うものが全く別物になっているのでは?
この件に付いては、可能性事態も説明されてない。

銅矛、銅鐸其れが鏡に変わったとされていますが、
他のものに換っている可能性は、どうなんですか?

たとえば、ある種の鉄剣または、残りにくい真珠の細工物、
その他、時間がたてば分解されてしまうような、製品、
アルミニュウム製の腕輪だったりして、冗談も混じってますが、
全く、根拠が無いわけでもないです。アルミ製品が古代の墓から出土してるそうですね。中国では。





483

Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月18日(金)00時42分52秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 1月17日(木)22時59分35秒 ]

>>
>> >>  地方の首長が恭順の意味で差し出したと言う記事はありますけどネ。
>> 仲哀紀ですね。
>> あの記事そのまま下が上に差し出した、と受け取っていたんですがあの記事にはたいへんな示唆があったんだといまごろ気づいちゃいました。
>> 鏡を差し出したのは伊都の国の人なんですよね。つまり、いままで弥生からずっと鏡の国だったとこじゃないですか。そこの国が服属した。仲哀・神功紀は4世紀末のことかとおもわれていますが、このあと北部九州西は古墳が激減しますね。中期以降の古墳の主力は岩井のとこにいきますよね。日本書紀、馬鹿にできない。
>> もうひとつ。
>> 日本書紀にはダジャレが良く出てきますがこの鏡の件のあと「天皇は五十手をほめられてイソシとおっしゃった。時の人は五十手の本国を名づけて伊蘇国といった。いま伊都国というのはなまったものである」とある。
>> 地名からするとたいてい伊都の国の語源は糸の国、つまり細長い集落を意味するとどこも書かれてる。そうぼくも思ってたんですが吉田東吾・大日本地名でしたっけ、「伊都の語源はイソか」つまり、いまの波多江あたりの岩礁ではないのかと。磯の国ではないかと。
>> つまり地名の本より書紀のほうが正しく語源を伝えてることになるかもって。日本書紀、恐るべし。

と言うことは伊都国と怡土郡との関わりはないかもしれない訳ですね。
ひょっとすると「伊都国は山の中」と言う私の仮説も理ありになる。


49

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月5日(土)02時14分07秒]

元の発言 [ Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月2日(水)03時17分20秒 ]

マルセさんが書いているとおり、狗奴国を倭国30国の中の一つと捉えれば、
これは、卑弥呼の死後、狗奴国のみならず、狗奴国を含む倭国全体の争いに
発展したと見ることも可能かと思います。




494

Re: 西新町遺跡の土器構成(補足の補足)

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月18日(金)02時14分46秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(補足の補足) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月16日(水)02時41分43秒 ]

こんばんは

慎重な率善中郎将さんには珍しく、はっきりものを言われていると思うのですが、

>>「大量移住」では説明に窮するということです。

と言いきれるまで発掘が進んでいるのかどうか、少々疑いをいだかないではな
いですが、手元にデータがないものですから、このへんで引くことにいたしま
す。

愚問にお付き合いいただき、ありがとうございました。


498

Title もういちど四国東部説

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月18日(金)08時10分08秒]

こんにちは、四国東部説の邪馬四です。
いろいろ勉強していましたが、まあなかなか大変ということで。
(安本氏の本「卑弥呼は日本語を話したか」はまだ見つからない・・・。
氏の他の本はあるだけ目を通したけど。それじゃ駄目だっけ。)
でもまあ、四国東部説はいまだにいい感じだと思うんだけどな〜。

今回は、「理想的な比定」とは次のようなものじゃなかったか
ということです。一応3段階に分けてみました。

第一段階
(a)邪馬台国、投馬国、狗奴国の位置を推定する。
(b)旅程がどのように対応するか地図で表す。
第二段階
(a)旁国21ケ国のラインを推定する。
(b)ライン上において郡郷名で国名と類似するものを挙げる。
(c)ライン上において主要河川などの主要地名と国名と類似するものを挙げる。
(d)ライン上において青銅器出土、主要遺跡などの主要地名で国名と類似するものを挙げる。
第三段階
(a)倭人伝後半の記述との適合の度合いを調べる。
(b)他の史書、文献、遺跡、遺物との関係を調査する。

しかしながら、そのように理想的には事が運ばなかったわけです。
現在の所、第一、第三段階を主に調査しているということでしょうか。
で、第二段階のところは、まあお茶を濁すといった感じですよね。
すなわち、順不同で旁国を比定している。
でも、順不同での比定と順番での比定には違いが大きいので
それを指摘したいと思います。

30ヶ所の郡域があって、15の国名が地名と類似する期待値を
ラフに求めてみましょう。
正確には、一致しない確率やそれより良い類似を考慮すべきですが、
結果としてはほぼ同じです。
1つの地名が類似する確率は、1/100〜1/50としてみます。

まず、順不同、郡名のみ用いる場合、
30!* (1/100)^15〜 (1/50)^15
= 265.25〜8691800
となって、あって当たり前です。

一方、順番通り、郡域の主要地名5個用いる場合、
C(30,15)*(1/20)^15〜 (1/10)^15= 0.000000000004733811〜0.00000015511、
また、郡域の主要地名10個用いる場合、
C(30,15)*(1/10)^15〜 (1/5)^15=0.00000015511〜0.0050828
となり、偶然には難しいということです。

少なくとも、順不同と順番通りの比定は、この場合
15!*15!もの違いがあって、全く別物であるということです。
(順不同の比定の場合は、よほど地名を絞らないといけない。)


それで、次に音の類似という問題に続いていきますよね。
まずは、基本的に上古音で読むべきだと。
大きな問題としては、
1 3世紀の「都」「奴」等の母音は、上代の母音では何に当たるか?
2 「呼」「好」「華」の子音は、「p」「k」どちらに合流したか?

1は、森博達氏の「三世紀倭人語の音韻」を読んでいると、
「あ」「お甲」どちらにも使われた可能性がありそう。
2は分からないので、両方で一応考えましょう。整合性は必要。

ということで、今の所
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/5468/method.html
といった感じで比定しています。(日々刻々と変化します(笑))

1は平安期までしか溯れないようなのが多いから分からない。
2は「p」のほうがいいなあ、という感じです。
(やっぱ、「呼」は王名尊称語尾かな?)


499

Re: Title 土器作りの経済における革命? 率善さんへ

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月18日(金)08時32分18秒]

元の発言 [ Re: Title 土器作りの経済における革命? 率善さんへ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)02時02分50秒 ]

>>
>>
>>
>>
私何か間違ってましたか?
確かに庄内式とか布留式とか考古の方は詳しくありませんが、勝山古墳や箸墓など古墳で話題になるのは布留式で、
寺沢さんが布留式の始まりを280年としているのを信用すれば箸墓が築造されたのは280年以降である。
勝山の土器は底部から50cm浮いた状況なので板材と同時に投棄された時期は280年以降である。
と考えていますが間違いですか
庄内式の事は言った事がありません。




5

重ねて、お詫びいたします。

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月13日(日)23時40分19秒]

元の発言 [ Re: 伊都国は唐津湾に面していない ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月13日(日)23時25分34秒 ]

これも、重複するようならお手上げです。
まことに申し訳ありません。


500

Re: おにりんさん、こちらにレス付けて下さい。

投稿者[ 景虎 ] 発言日時 [1月18日(金)08時43分59秒]

元の発言 [ Re: おにりんさん、こちらにレス付けて下さい。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)14時42分43秒 ]

>> 苦しいですね。面積では16〜25倍の誤認ですか。

>>
>>
>>
どこかのサイトで読んだのですが、秀吉が大陸に攻めて行っ
た時に、明では作戦を一般から募集したそうです。
明では日本が南の方にあると考えていて、シャム(タイ)に
日本を背後から攻撃させるという作戦が採用されて、実際に
シャムの使節に依頼したとか。当然断られたそうですが。

この話が本当なら、15〜16世紀の中国の地理観はいい加
減だったのでしょうね。



501

Re: 忘れていませんか?

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月18日(金)08時49分21秒]

元の発言 [ Re: 忘れていませんか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)01時38分36秒 ]

>> 状況証拠にすらならないもので年代繰り上げしておいて、古墳発生時期を300年前後で決まっているような話の進め方はフェアじゃありません。

>>
失礼しました。その通りです。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
古墳内部の木棺からでた板材で年輪年代測定したのであればそういう可能性も。
もし古墳内部の木棺でも年輪年代測定が他の学者によって検証されない限り100%認めるわけにもいきませんが。



504

Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月18日(金)10時16分30秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)00時59分18秒 ]

>>
>>
>>
>>
実は出雲の人だというトンデモワールドを考えて、漢鏡5期の鏡の分布で苦しんでいる私。



505

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月18日(金)10時23分02秒]

元の発言 [ Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 1月18日(金)08時10分08秒 ]

>> こんにちは、四国東部説の邪馬四です。

こんにちは。

>> (安本氏の本「卑弥呼は日本語を話したか」はまだ見つからない・・・。

絶版です。
私も神田の古書街を足が棒になるまで探したがみつからない。
おにりんさんがおわびに本を書いてくれるそうなので期待しましょう。

by立ち読み人


506

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月18日(金)10時55分14秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月18日(金)10時23分02秒 ]

>> >> (安本氏の本「卑弥呼は日本語を話したか」はまだ見つからない・・・。

>> 絶版です。
>> 私も神田の古書街を足が棒になるまで探したがみつからない。
>> おにりんさんがおわびに本を書いてくれるそうなので期待しましょう。

>> by立ち読み人

なるほど。
僕も神田の古書街とか図書館とか探してみたんだけど
みつからないわけだ。
おにりんさんに期待します(笑)

ところで、期待値の計算とか変なことかいてしまった。
まあ、順不同と順番での比定はずいぶん違うということ
がいいたかっただけでした。


507

Re: この鉛同位対比の議論、

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月18日(金)10時58分25秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月15日(火)21時09分22秒 ]

>> >> >> 日本は過去、世界最大の銅生産国でした。

>> >> これって、寛永通宝の話ですか?
>> 寛永通宝の原料は何でしょう。というより、日本国内で自前生産してたのですが。少なくとも古代以降。
>> 近世(江戸時代)において、銅の産出量が世界最大級(曖昧に表現するのは、厳密な統計がないから)であったのは、ちょっと調べれば分かりますよ。
>> もちろん、弥生時代に産出する技術があったかどうかが問題となります。
>> その点で、たしか豊前の方の庄原遺跡というところで、弥生時代の銅精錬土坑が検出されているようです。ただし、この分析結果の評価は学界でも分かれているのが問題ですが。
>> なお、すでに何度か指摘があるかと思いますが、鉛同位体比では鉛の産出鉱山が分かる可能性(慎重な言い回しをするのは、データの統計処理の見方によって、微妙に評価が異なるかのうせいがあるから。馬渕・山崎氏自身が微妙に評価を変化させて来ているし、最近は新井宏さんと言う方が『考古学雑誌』において、馬渕氏らの鉱山比定はおかしいと言う詳細な論文をだしていて、論争になりつつあるから。ただし、新井氏も日本産鉛には否定的)があるだけです。
>> 御承知のように、青銅器は銅を主として、錫、鉛を調合したものです。実は、青銅器の種類によって鉛(や錫)の成分比はかなり異なります。
>> 実際に、鉛成分がほとんどの久里大牟田(でしたっけ、唐津市の遺跡)の銅矛の存在(面白いことに馬渕・山崎氏は日本産鉛の可能性を認め、前出の新井氏は大陸産とする)、吉野ケ里の高純度の錫塊の存在、朝日遺跡(愛知)の高純度の銅滴の存在から、それぞれの原料による調合や付加調整が行われたことも確実です(同時に青銅インゴットと思しき資料もいくつか存在する。これらは分析例では、岡山県高塚遺跡の不明棒状銅製品は中国産鉛とされる)。ですから、鉛の同位体比は基本的にまず鉛の産地が分かる、と言うことを確認しましょう。
>> ところが、朝日遺跡の銅滴の例は、不純物としての鉛分は中国産とされているので、中国から銅が輸入されていたことも認めて良いでしょう。
>> 銅は、青銅インゴットとして、製品の鋳つぶしとして、銅そのものとして輸入されていたとまず考えていいでしょう。
>> しかし、一方久野氏の「自然銅説」や庄原遺跡の例があるので、これらは分析例や検出例が少ないこともあり疑問視される向きも多いのですが、検出(分析)例が増えるならば、一部に(あくまでも一部でしょうが)日本列島内で採掘され、精錬された銅もあったと言えるようになるでしょう。これを完全には否定できないし(するべきでないし)、若干の「含み」を持たせておくべきではないかと思います。
>> なお、鉱山跡があればいいのですが、初めに述べたように、古代以降、大規模に銅を日本列島で採掘するようになるので、あったとしても小規模で露天で採集できる程度であろう弥生時代の採掘跡は、後世にあとかたもなく壊されてしまった可能性が高く、発見するのは困難でしょう。可能性としては、周囲に銅鉱山がある地域の弥生時代の集落で、銅精錬祉を発見できるかどうかにかかっています。

高校の時の世界地図帖(8万分の1)引っ張りだして見てみたら中国本土で目立った銅の鉱山は皆無なんですね。
徐州(広域)にもない。少量の銅を産している可能性はありますが。
三国時代の高句麗の支配地域と考えられる地域の方に大きな銅の鉱山が2ヶ所ある。
河北だ河南だと中国内だけで銅の産地探していますが朝鮮半島の可能性は?
あ、高句麗は朝鮮半島とは言えないか。
錫は湖南省に二つ、鉛は遼寧省に一つ。平壌近郊にもあります。
蓋馬高原の銅に湖南省の錫、そして平壌の鉛というのは検証されたんでしょうか。
おまけ。
兵庫県には銅と錫が一緒の鉱山があります。これは天然青銅なんでしょうか?


512

Re: Title 結局王の称号

投稿者[ オホヤシマ ] 発言日時 [1月18日(金)12時38分25秒]

元の発言 [ Re: Title 結局王の称号 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月16日(水)22時54分08秒 ]

>>
hag(i) と発音されて、それが、中国人の耳には、「呼」
に聞こえた、という可能性があります。
#当時の倭人が中国語の「王」を中国語の音で称号として使っていたか疑問があります。やはり、「呼」はなんらかの称号を示す倭人語であり、その音を漢字に写したものとみるべきかと思います。
当時使われていた可能性がある尊号で、ハ音で始まるものとして「ハヤ」が考えられると思うのですが、どうでしょうか。ニギハヤヒのハヤであり、何人かの神名や伝説上の人物の名前として共通して使われているものです。

>>
#私は狗奴国を出雲に比定しているのですが、卑弥弓呼は「ヒミカハヤ」と読み、ヒイ川上流のヒイ神社に祭られている「ミカハヤヒ」という神に対応する名前かなと思っています。この段でいくと、卑弥呼は「ヒミハヤ」であり、同じようにひっくり返して「ミハヤヒ」という名前であると考えていますが、どんなものでしょうか。





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逆にしてみました。

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月18日(金)12時46分54秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)15時59分40秒 ]

>>
#で、逆にしてみました。

文献的に考えると、邪馬台国は九州にならざるを得ない。
したがって、「
その時代の九州に邪馬台国であろうことを示す考古学的な
根拠はないし、大和なら、逆にいろいろある
」なら、考古学の(あるいはおにりん史学の?)年代観に
誤りがあると結論できる。
邪馬台国が九州であることは明白なのだから、
三角縁神獣鏡は国産鏡であるほうがもっともらしいし、
ということです。

#鏡の鉛同位対比についての研究の進展が興味深いですね。






514

Re: Title 結局王の称号

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月18日(金)12時52分56秒]

元の発言 [ Re: Title 結局王の称号 ] お名前 [ オホヤシマ ] 日付 [ 1月18日(金)12時38分25秒 ]

>> #当時の倭人が中国語の「王」を中国語の音で称号として使っていたか疑問があります。やはり、「呼」はなんらかの称号を示す倭人語であり、その音を漢字に写したものとみるべきかと思います。
>> 当時使われていた可能性がある尊号で、ハ音で始まるものとして「ハヤ」が考えられると思うのですが、どうでしょうか。ニギハヤヒのハヤであり、何人かの神名や伝説上の人物の名前として共通して使われているものです。

でもそれだと普通payaでしょ。
ハだけがそれ以外のは行と同じ変遷をしなかったとするなら最初から何も問題ないわけです。
以下にホだけは特殊という意見ならあります。



515

Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月18日(金)13時45分43秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)11時32分19秒 ]

>>
>>
帥升の時代よりは下がりますが、山陰/吉備のあたりは大型墳丘墓が
他の地域より目立ちますし、なにより北部九州についで鉄器がでる。
かたまって出ることでは、北部九州以上かも知れないし、
中国とはともかく半島と縁の深い有力な勢力がいたのでしょう。
でもそうすると帥升の国にはならないし。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
妻木晩田あたりを帥升の都にしようにも鏡がでない。
ひとつの考え方として、この地域(中国地方)は早くから青銅器祭祀を
はなれていて、他の地域(北部九州や近畿)と異なって、
鏡に関心が無かったと考えられませんかね。
中国に行ったけれども、鏡は皆他にあげてしまったとか。
半島南部にいっていて、こんなに鏡の無いのも不自然じゃないですかね。

ただ妻木晩田には漢鏡のかけらが出ていて、こんなものだいじにしてたんじゃな・・・
やっぱり苦しい。




516

Re: 逆にしてみました。

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月18日(金)13時49分43秒]

元の発言 [ 逆にしてみました。 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 1月18日(金)12時46分54秒 ]

>> 文献的に考えると、邪馬台国は九州にならざるを得ない。

文献だけで場所がきまるなら、江戸時代いらいの論争にならないんじゃありません?


517

対価は何だったのでしょう?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月18日(金)16時37分05秒]

半島から銅とか鉄とか入手するための対価はなんだったのでしょう?
今とは違うので何ともいえませんが、最低食費?を考えても大和では
かなり遠いので、入手するのに費用がかさみますよね。

よほど良いものが大和にあったのでしょうか?


519

Re: この鉛同位対比の議論、

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月18日(金)19時27分50秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月18日(金)10時58分25秒 ]

いやーわかんないっすね。
ただ日本の鉱石会のHPに質問したら(自然銅で銅鐸つくれますか?)と質問したら、古代はわからない、とのあたりまえの返事でした。残念。
でも奈良の大仏さまの一部は自然銅を使ってるとのこと。えっあんな大きいの? その銅は埼玉とこから獲ってたのこと。
やっぱ倭人が銅製品好きなのは産地だからと思うけど。中国製の鏡っていずれも倭にくらべて小さいんですよね。日本に来てでかくなるのは祭器と産地だからだろう。
いま気づいたけど、倭人伝に祭器の記述ないでしょう。なんか、わかってきたぞ。ふふふ。


520

Re: 西新町遺跡の土器構成(補足の補足)

投稿者[ フリーターのにゃん ] 発言日時 [1月18日(金)19時55分45秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(補足の補足) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)00時45分57秒 ]

おにりんさんは小説家だったんですか?!いいですね。なんかそのおにりんさんとフリーターでしかない僕が論争はれるとはうれしいなあ。

>>
>>
>>
はいな。なんか、そうみたいですね。そしてその時期に銅鐸が埋められると石野博信はいってました。時期は倭国大乱終了時だからですね。

>>
それが、2世紀末にできる。
>>
>>
>>
>>
>>
これは、小説家としてのおにりんさんの発言とはおもえません。戦争に勝った軍隊は母国に引き上げるじゃないですか。そこに大勢住み着く必要があるのでしょうか。当時の三国志の世界はそうじゃないかな。
そこの人たちは鏡の宗教に転向してしまったんですね。だからザビエルだけでよかったのでしょう。でもいきなりは無理だったのかも。
こう考えてくると、巻向は全国の聖地だったのじゃないでしょうか。そんな気がしてきた。
おにりんさんのおかげでますます自分の考えがまとまってきた。ありがとう。
僕外国いったこと無いんですよね。いーなー。

あと石塚墳丘墓ですけど最近本屋で立ち読みして(考古学ここまでわかった)みたいなタイトル 3世紀前半と書いてました。うーんどっちなんですか?



521

Re: 逆にしてみました。

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月18日(金)19時57分31秒]

元の発言 [ 逆にしてみました。 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 1月18日(金)12時46分54秒 ]

>> 文献的に考えると、邪馬台国は九州にならざるを得ない。
>> したがって、「

背理法で文献解釈の誤りが証明されたりして。


522

Re: 忘れていませんか?

投稿者[ フリーターのにゃん ] 発言日時 [1月18日(金)20時12分10秒]

元の発言 [ Re: 忘れていませんか? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)09時48分44秒 ]

年輪法にしても銅遺体、いや 同位体法してもー

どちらも、他の豊富な資料を示してくれないからわれ等は信用できない、といってるわけです。
他の資料を示してくれたら別ですよ。
古い神社とかの木から創建年とか一致してるとか。
銅製品にしてもそうです。

あとあの年輪法、奈良の研究所でやってるから。つまり大和説にかたむきがちな環境。

邪馬台国の時代だけに的をしぼりすぎて研究結果をだすからおかしくなる。

他の時代豊富な資料がないかぎり、いまのとこちょっとねえ。
でもそういう研究はじャンジャンやって欲しい。何か道が開けるかも。
さー買い物いってこよう。


523

Re: 西新町遺跡の土器構成(補足の補足)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月18日(金)20時41分14秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(補足の補足) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)02時37分03秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
 なかなかこちらもヒントになるまとめ方だと思います。ホントに。
 ただ、庄内甕は、むしろ出方が限定的で、精巧な薄さ、タタキの見た目の精美さから、むしろ3)にこれがあたるのではないか。これをもとにした布留甕は、その普及版で、2)にあたるのではと思います。
 布留甕やそのもどき甕は西日本一帯に広がりますが(その意味や背景は、今までの議論のように単一要因にしない方がよいでしょうが)、庄内甕は、大和東南部、中河内、摂津のごく一部、播磨の一部の遺跡、福岡平野中枢といったかなり限定されたところでしか作られていないのです。突然変異的な庄内甕がさきにあって、普及版として布留系甕が山陰系技法とミックスされることにより広まったと考えます。ただ、布留甕(広い意味での布留系甕)は、意外と地域内でも出来の不出来が細かく見るとあるようです(薄さ厚さの違い)。
 あと、祭祀とよく結び付けられる「小型精製器種」の中でも、赤ないし橙色系できわめて精良なみ「水こし胎土」を使い、庄内甕なみに薄くまた表面が細密な横のミガキを行う一群(小型丸底壺や小型器台の超精製タイプ)に関しては、かなり製作が規格的かつ緻密な技術であり、同様に3)の可能性があります。というのも形だけ似せたバッタもの「小型精製器種」もよくあるものですから。
 細かい話ですいません。レスしないと言ってましたが、つい書いてしまいました。



524

Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月18日(金)21時02分11秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)01時02分12秒 ]

>>  ところで、「記紀」に大王(天皇)が鏡を地方の首長に下賜したと言うような記事がありましたっけ。
>>
>>
>>
>>  大和においては、鏡は上から下へ下賜するものではなく下から上へ捧げるものだったんでしょうネ。
>>  大王の葬儀のときとかに奉納していたとすれば、棺外からの大量出土の意味も納得できます。デショ。§^。^§
>>
>>
 少々無謀なくらいが小説ネタにはいいのでは。(^。^)
 事実は小説より奇なりって言うし。
 
 「棺外からの大量出土の意味」についてはどのように考えていらっしゃいます?。



525

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ フリーターのにゃん ] 発言日時 [1月18日(金)21時03分25秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)11時34分02秒 ]

池田のあたりに弥生後期の古墳とかあるとききました。
どのようなものでしょうか?
uit
なにかいいHPあったら教えてください。
東部、銅鐸いっぱいでてるとこなんですよね。
吉野川南岸が自然銅、いっぱい出てるから銅鐸もいっぱいあるそうです。ほんと?


526

Re: 西新町遺跡の土器構成(雑)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月18日(金)21時30分04秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)02時22分25秒 ]

>>
>>
>>
 またまた、人のHNを出してしかも間違った地理感を暴露しちゃいけません。
 最初からもう一度、「糸島=怡土+志摩」です。
 海だったというのはこの間、怡土の中心は今の前原市、井原鑓溝、三雲南小路、平原と王墓があることから「世々王有り」でもありだから前原市が伊都国。
 今の糸島郡は前原市の東側です。塗金の三角縁鏡が出た調子塚古墳は母方の親戚の裏庭。

>>  土器の流れと古墳や鏡の流れって単純に一致しないんですよ。だからこそこの時代を解きあかす面白みがあるのですが、、
>>
>>
>>
>>
 須玖式甕棺の編年精度が20年と言うのは被葬者が「オウ」になったときに鏡を入手して亡くなったら副葬したということと無尽しないことを前提にしています。



527

卑弥呼はあの人

投稿者[ フリーターのにゃん ] 発言日時 [1月18日(金)21時39分12秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)01時02分12秒 ]

>>
>>
]
そのとおり。
きっとあのモモソノヒメの話もうそっぱちだったんですね。あの話3世紀だし。あれ?
それおかしくない?どうしてそこだけの神話が正しくて、ほかのは正しくないの?

神話は、完全に否定するか、肯定するかどちらかしかないでしょう。わたしは、そこにある出来事がすべて作り話だとはおもえません。9割以上は事実。正確な年代は間違ってるけど順番はたいていあってるし。

神話を駆使しない考古学などありえません。神話があるからこそモモソヒノヒメが卑弥呼だといえてるんでしょ。

記紀編集者は卑弥呼は誰だか知っていました。でも、いえなかったんですよ。倭の五王が大王であるのはだれでもわかるのに朝貢の記事がないのと同じ理由で。喚口令がしかれていたのですね。
でも、後世のわれ等にシグナルは残してくれた。この人ですよって。大安麻呂・舎人親王ら編集者からそんな意図を感じるのですよ。

どうして大和説のかた、モモソノヒメなの。違うよ。卑弥呼はこの人ですってあるじゃない。編纂者の意図を感じないのですか?

モモソノヒメの神話はたしかに箸墓が始祖的なことを示唆しています。でもヒミコにくらべれば伝承にさくページが少なすぎます。

卑弥呼はあの人です。もうわかるでしょう。だから一巻も割いている。



528

Re: 西新町遺跡の土器構成(雑)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月18日(金)21時41分01秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)02時28分52秒 ]

>>
>>
 そうなんですか。(^_^;)
 白玄社遺跡を始め春日市周辺の神社の下には遺跡がありますけどネ。
 須玖岡本の熊野神社拝殿下に円墳があることも判ってるし。
 伝承がないのは「神話が消された」ってことかも。
 政治的に敗れた(抹殺した)相手の祟りを恐れて神にした。(^_^?



529

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月18日(金)21時45分53秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月18日(金)00時01分23秒 ]

レスはしばらくしないつもりでしたが、以下は事実誤認ですので指摘しておきたいと思います。
>> アルミニュウム製の腕輪だったりして、冗談も混じってますが、
>> 全く、根拠が無いわけでもないです。アルミ製品が古代の墓から出土してるそうですね。中国では。
 この問題については以下を参照して下さい。おもしろおかしく追跡調査の話が紹介されています。
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0023.html
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0024.html
そもそも、アルミニウムは電気分解が必要なので、古代の技術では無理です。
 あと、おにりんさんの意見は一つの畿内説の代表的見解をまとめている気もしますが、やや極端と思います。北部九州に威信財がない、入っていないということはありません。布留0式以降の古墳に、もちろん鏡の副葬されるものは多くあります(論点としては、独自入手か、一回畿内政権にわたってから「配布」去れたのかという点)。たとえば、最近は晋の鏡ではないかとされる方格T字鏡(以前は倣製鏡説が強かった)は、九州に分布の核がありますし(小型鏡が多く、ちょっと格が落ちますが)。
ただ次の二つのことは言えます。一つは、北部九州独自のものはよく分からない、というか、畿内と共通している(汎日本列島で共通化)。もう一つは、少なくとも布留1式併行期には確実に量的に畿内が中心で、布留0式の時期におそらく逆転しており、庄内式の間で量的中心が遷移する(だろう)ということです。
 ただ問題は、畿内中心となる威信財の種類が、もとから畿内のものはないことです。鏡は北部九州ですでにもっとも重視されていたはずですし。石製品は新たに創出されたものですが、かつての貝輪のイミテーションといえないこともないし。素環頭大刀など大刀のたぐいも、北部九州の弥生後期社会で重視されたものであるし、、、水銀朱なんかも、北部九州や吉備で重視されたものだし、、このあたりは寺沢氏が指摘していますよね、、、あと村上氏が指摘するように、初期の古墳副葬品の重要アイテムの一つの有稜系鉄鏃(定角式など)は北部九州から瀬戸内の技術的背景で成立し、広がるようですし、、、
 あと、立場表明しておくと、邪馬台国は畿内の可能性が高い、と私は思います。が、畿内の弥生後期社会からストレートにそれが育ったとか、北部九州を制圧したとか、そういうこともない、と思っています。卑弥呼は「倭国の女王」であり、邪馬台国は「女王の都するところ」にすぎないことの意味を考えるべきかな、と思います。いずれにしても、畿内の「邪馬台国」に絶対的な力を考えるのはどうかな、と思います。考えとしては、寺沢氏の「王権誕生」に近い立場をとります。


530

Re: 対価は何だったのでしょう?

投稿者[ フリーターのにゃん ] 発言日時 [1月18日(金)21時55分45秒]

元の発言 [ 対価は何だったのでしょう? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月18日(金)16時37分05秒 ]

朝鮮考古学を研究してた藤田亮策さんというかたの話では、(朝鮮時代には倭銅が重視された。古代日本の銅器問題を研究するのに、そのことを度外視しては正しい結果は得られないと思う)といってます。暗に批判してますね。

自然銅を溶かして鉱石にして輸出してたのでしょう。勾玉も輸出してましたしちっちゃな鏡も輸出してますよ。

鋳型はでてるのに銅の鉄ていみたいなもの出土しませんね。なんでだろ。


531

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月18日(金)22時02分48秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)01時46分20秒 ]

>> つまり変化に対する状況説命の説得力が無い。
>>
>> どのような形で有ろうと、国を率いる以上、何らかの威信材があるはずなのです。
>> そして国がある以上。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
先進技術と言うものは、何かしら思想的バックボーンが無いとどうにもならない。
だからと言って其れが何かと聞かれても困りますが。

>>
>>
>>
>> では、一時的にしろ其の時期、九州では、威信材と言うものが全く別物になっているのでは?
>>
>>
>>
>>
国という以上、王で無くともだれか指導的な組織なりリーダーが居たはずです。
其の威信材だとすれば、商業国家カルタゴやギリシャ的に考えると
船と剣などの武具と言う事に成るでしょう。
特に剣、などの研究では銅なんですか

あと、船ですね。
富を生み出す元になりますから。
これも怪しい、が、証拠が出てきていない。と言う事ですね。

>> 銅矛、銅鐸其れが鏡に変わったとされていますが、
>>
>> 他のものに換っている可能性は、どうなんですか?
>>
>>
>>
>> たとえば、ある種の鉄剣または、残りにくい真珠の細工物、
>> その他、時間がたてば分解されてしまうような、製品、
>> アルミニュウム製の腕輪だったりして、冗談も混じってますが、
>>
>>
其の通りです、が、別の時代を考えてみると威信材と言うものが、
何で有ったかが素人には、全く不明としか思えないものです。
奈良時代の、威信材とは、地方の豪族貴族の威信材は?
寺でしょうか?

鎌倉時代は?
室町や戦国時代は?城と言う事でしょうか?

特に江戸時代の第尿の威信材とは?

考古学的に発掘だけで、推測した場合の結論として出てくるものは?

後言う意味もあるんですけどね。




532

Re: 西新町遺跡の土器構成(雑)

投稿者[ フリーターのにゃん ] 発言日時 [1月18日(金)22時15分26秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(雑) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月18日(金)21時41分01秒 ]

>>  須玖岡本の熊野神社拝殿下に円墳があることも判ってるし。
そうだったんですか?初めて知った。
前方後円墳関係の本はあるけど4世紀以前はまだまだ勉強不足だなあ。
いつの時代かな?

古墳と神社の関係も見逃せませんね。大和説とおもってたころ直接は関係ないと思ってたんですが、西谷3号墳見に行ってからは考えかわっちゃいました。
やっぱ本読むのもいいけど遺跡は見にいかないとねえ。
とくに明らかにその古墳を祭ってある『墳のてっぺんとか」祭殿がある西谷3号墳式の神社は見逃せない。

そういった意味ではあの八幡さま、卑弥呼の塚のひとつですよね。墳径は倒卵型だし、中期頃とわかれば候補としてよいのでは。


533

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月18日(金)22時25分03秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月18日(金)21時45分53秒 ]

>> レスはしばらくしないつもりでしたが、以下は事実誤認ですので指摘しておきたいと思います。
>>  この問題については以下を参照して下さい。おもしろおかしく追跡調査の話が紹介されています。
>> http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0023.html
>> http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/clm/yw0024.html
>> そもそも、アルミニウムは電気分解が必要なので、古代の技術では無理です。

どうもありがとうございました。
事実が確認できた事は大変うれしい事です。

かさねて、感謝します。


534

Re: 対価は何だったのでしょう?

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月18日(金)22時43分56秒]

元の発言 [ Re: 対価は何だったのでしょう? ] お名前 [ フリーターのにゃん ] 日付 [ 1月18日(金)21時55分45秒 ]

>> 朝鮮考古学を研究してた藤田亮策さんというかたの話では、(朝鮮時代には倭銅が重視された。古代日本の銅器問題を研究するのに、そのことを度外視しては正しい結果は得られないと思う)といってます。暗に批判してますね。

>> 自然銅を溶かして鉱石にして輸出してたのでしょう。勾玉も輸出してましたしちっちゃな鏡も輸出してますよ。

>> 鋳型はでてるのに銅の鉄ていみたいなもの出土しませんね。なんでだろ。

こんにちは、にゃんサン。
銅に付いては、自然銅ですか、鉱脈を見たくて、秩父の神社に行ってみましたが、
知ろうとが初めてでは、認識できませんでした。

まあ、専門化の穴氏と呼ばれる人々が行った事でしょうから可能性も多いですよね。

でも、勾玉と言っても糸魚川産のヒスイでしょう。
はかは、瑪瑙ぐらいでしょ。
そうなると出雲や越との交易の関係も出てくる。
あとは、丹と真珠、朝鮮半島では貴重と考えられる木材

そして、食料と人間ですか。
でも、砂金やなんかは、如何なんでしょうね。
国際的に商品となる産物が問題ですが、なかでも注目せざる終えないのが、
真珠と青玉テなことになって堂堂巡りしてます。
頭の中で。


535

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ フリーターのにゃん ] 発言日時 [1月18日(金)22時49分47秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月18日(金)21時45分53秒 ]


>>  ただ問題は、畿内中心となる威信財の種類が、もとから畿内のものはないことです。

それ以上に古墳にしても銅鐸にしても、そして3世紀前半にしても、畿内中心といえるのでしょうか。いえない。奈良中心?いえない。 畿内ってなーに?人はいっぱいいたけど。
兵庫県から東というならわかるけど、畿内という観念はおかしい。3世紀後半ならわかるけど。
この考古学状況こそが、わたしが大和説から東遷説へ脱皮させたのです。
畿内という観念は先入観ありすぎ。銅鐸にしても畿内中心とはいえない。

>>  あと、立場表明しておくと、邪馬台国は畿内の可能性が高い、と私は思います。

そうだったとは。
私なんかおにりんさんとの対論でますます東遷説に自信を深めました。もう間違いない。自分自身にびっくり。
中心はどちらかだったんですよ。それを考えていくうちに固まってきた。

この考え出版でもして生計の足しにでもしたいなあ。

一言。
道間違えて、戻るのに一番いいのは元のみちたどることなんですよ。

捜査でも初動捜査が一番大事でしょ?長野県警なんか無関係の民間人捕まえちゃってさ-。

おにりんさん以上に僕の考え大和説の学者にぶつけてみたい。なんか、自信でてきてしまった。



539

Re: 対価は何だったのでしょう?

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月18日(金)23時38分44秒]

元の発言 [ 対価は何だったのでしょう? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月18日(金)16時37分05秒 ]

>> 半島から銅とか鉄とか入手するための対価はなんだったのでしょう?
>> 今とは違うので何ともいえませんが、最低食費?を考えても大和では
>> かなり遠いので、入手するのに費用がかさみますよね。
>> よほど良いものが大和にあったのでしょうか?

青玉、真珠、丹と倭人伝にはあがられていますが、
大和では、せいぜい丹しかない、青玉も真珠も大和の産物では有得ません。
青玉に関しては、以前書いてるので横着して省略。

最近、真珠について色々調べています、絶対に取れないとは言いきれないのですが、
質と量を単純に考えると、産物とは、とても言えるようなものでは、有りません。

では、産物と言える量と質をそろえるには?
交易と言うことになるでしょうが、
真珠を産する各海岸地方の国と越のヒスイを手に入れられるような、
魅力の有る産物を大和は、産出または作り出す事が出来たのか?

有るとすればなんだったのか?
大変な問題が抜けてましたね。


543

Re: 対価は何だったのでしょう?

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月19日(土)00時15分41秒]

元の発言 [ 対価は何だったのでしょう? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月18日(金)16時37分05秒 ]

>> 半島から銅とか鉄とか入手するための対価はなんだったのでしょう?
>> 今とは違うので何ともいえませんが、最低食費?を考えても大和では
>> かなり遠いので、入手するのに費用がかさみますよね。

>> よほど良いものが大和にあったのでしょうか?

「獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」

の中で畿内から輸出可能だったのは男女生口だけですね。

あと畿内で最も可能性の高いのは「朱、丹」じゃないでしょうか?
水銀は鍍金や不老長寿の薬として中国人に喜ばれた可能性が高いでしょう。


544

Re: 対価は何だったのでしょう?

投稿者[ フリーターのにゃん ] 発言日時 [1月19日(土)00時17分49秒]

元の発言 [ Re: 対価は何だったのでしょう? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月18日(金)22時43分56秒 ]

>> こんにちは、にゃんサン。

こんばんは。

>> 真珠と青玉テなことになって堂堂巡りしてます。
>> 頭の中で。

いまの常識からすれば、中国は伝統的に海というか、漁師をきらうとのこと。だからか、倭人が海もぐるのでてるのは。

なして真珠、送ったのか?皇帝は。卑弥呼はそんなのもらってうれしかったのかな?
卑弥呼にしても、のちの大王にしても、ある意味倭の王は
海の王なんですよね。記紀には海にかんすることがよくでる。

いまそこのとこ、倭人伝みたら、ちよっとおどろいた。
皇帝は「あえて汝にやるぞ」っていってるじゃないですか。
学者のかたはどうしてその中の銅鏡百枚だけを重視するのか。そしてすぐ下位の首長に配布したなどと判断するのか。ほかにもプレゼントもらってるのに。卑弥呼自身にあげるっていってるのに卑弥呼が全部もってるとおもわなかったのかな? 先入観ってこわいな。原点に返ろう。

私、三国志って横山光輝のマンガしかおもいうかばないんですよね。
だから明帝は曹操だとばかり思ってましたよ。お孫さんだったんですね。先入観恐るべし。

あしたからお仕事です。僕早朝出勤なんですよ。おやすみー。




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Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月19日(土)00時25分44秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ フリーターのにゃん ] 日付 [ 1月18日(金)21時03分25秒 ]

>> 池田のあたりに弥生後期の古墳とかあるとききました。
>> どのようなものでしょうか?

この時代、四国東部は考古学的に面白いとこですよ。
手元に資料がないので、詳細はあとで書き込みます。

>> なにかいいHPあったら教えてください。
>> 東部、銅鐸いっぱいでてるとこなんですよね。
>> 吉野川南岸が自然銅、いっぱい出てるから銅鐸もいっぱいあるそうです。ほんと?

ここなんてどうですかね。
徳島県埋蔵文化財センター
http://www.tokushima-maibun.or.jp/toppage/top.htm
ここから「普及啓発資料のサンプル公開を始めました。」
のリンクをたどってみてください。

いくつかの遺跡などを見ることができますよ。
徳島には弥生時代の朱の生産地もあったりしますね。


55

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月5日(土)03時04分08秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)02時55分53秒 ]

>このあたりは、どのような文献に書かれているんでしょうか?

石野さんの本の153頁にのっています。



553

Re: 逆にしてみました。

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月19日(土)06時53分26秒]

元の発言 [ Re: 逆にしてみました。 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月18日(金)13時49分43秒 ]

>> >> 文献的に考えると、邪馬台国は九州にならざるを得ない。

>> 文献だけで場所がきまるなら、江戸時代いらいの論争にならないんじゃありません?


讀賣ぶっくれっとNo10『魏志倭人伝と邪馬台国』によると,御存知かと思いますが,

(1)「魏志倭人伝」を読む限りは,白鳥説が妥当だが,
旅程を説明しづらいので,文献史学には限界があること。

(2)考古学の発展によって,卑弥呼時代に,
「大和の政権が極めて有力な勢力になっていた点は動かし難い」(同第39頁)ので,
比定はともかく,考古学的事実を前提とすべきこと。

(3)三角縁神獣鏡については,黒塚古墳の発掘によって,
大和朝廷が250〜260年代に保有していたと認められること。

とかの視点です。


そんで,また,こじつけの代表例は,

(A)笠井新也の日本海交通路説
(B)冨来隆の宇佐説

の二つだそうです。m(__)m


もっとも,(1)の肥後説を補完するには,
次のような手もありか。

投馬国と邪馬台国は,
不弥国から先,南の方角にある。

投馬国へは,西回り航路で,
一大国から水行すると20日であり,
薩摩の辺り。

邪馬台国へは,西回り航路で,
一大国から水行すると10日であり,
末羅国から不弥国経由で陸行すると1ヶ月であり,
熊本辺り。

# 隋書の「南北三月行」を基準。

投馬国が邪馬台国より南になってしまうのが難点だが,
解釈の仕様はあり,単純な錯誤か,
「女王国より以北」を狗邪韓国から不弥国までとする,など。


554

Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月19日(土)07時24分56秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月18日(金)10時16分30秒 ]

>> 実は出雲の人だというトンデモワールドを考えて、漢鏡5期の鏡の分布で苦しんでいる私。

崇神紀六十年七月の記事に,
出雲の神宝と鏡についての話題があり,

「出雲臣等,是の事に畏りて,大神を祭らずして間有り」
という話の続きとして,
# この「大神」というのは,注によると,
# 出雲大神(熊野大社)ということです。


「たまものしずし。出雲人の祭る,真種の甘美鏡(うましかがみ)」
に始まる丹波人の子による不思議な童謡があり,

岩波文庫版(一)の注によると,
「出雲の神鏡が水底に沈んでいる(人々に顧みられないでいる)
ことを訴えたもののように思われる」
(第303頁)とあります。


含蓄の深い伝承のようなので,
前後を味読している最中でして,
今回,紹介だけ。




555

Re: 逆にしてみました。

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月19日(土)08時28分55秒]

元の発言 [ Re: 逆にしてみました。 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 1月19日(土)06時53分26秒 ]


訂正です。

>> 「女王国より以北」を狗邪韓国から不弥国までとする,など。

狗邪韓国から不弥国までとする。

→対馬国から不弥国までとする。


556

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月19日(土)09時52分04秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)23時52分36秒 ]

「先走り発言」に反論します。もっとも、発想は面白く、一部採用させて頂きますが。
まず、岡村編年の漢鏡5〜6期はむしろ九州中心です。よく分布図を見て下さいな。それと、平原遺跡鏡のように、岡村編年では矛盾するものもあるのです。私は倣製鏡説は採りませんが、平原遺跡鏡が型式学的に新しいものとする、最近の報告書の柳田説を支持します。他の要素からも考えて、平原遺跡は庄内式始め頃、九州の終末前半頃と考えます(200年前後)。
あと岡村氏の分布図で騙されては行けないのは、古墳出土鏡も含んでいるのです。岡村氏など畿内中心主義者(?)は、認めたがらないのですが(伝世鏡論だから)、最近は三国以降の「踏返し鏡」がこれらの中にかなり含んでいると言うのが通説になりつつあります(例えば、西川寿勝氏の著作参照)。いずれにしても、「原鏡」の時期と輸入時期は別です。
 問題は漢鏡7期で、複数系統を7期の1、2、3としますが、これは本当は時期の違いではなく、系統の違いです。1グループの画像鏡、き鳳鏡などは6期から出現してるはずですし(型式変化して三国にも存在)、2グループの神獣鏡も、6期には出現してもちろん三国まで続くし、3グループの斜縁神獣鏡にいたっては、三角縁との近縁関係や安満宮山古墳での出方から、むしろ三国前半に時期を置くべきでしょう。ですから、この分布図はある限られた時期の実際の分布図を示すものとは到底考えられないのです。細かく言うと、5〜6期でも方格規矩鏡は平原鏡のような中型以上の鏡の変遷を単純化してますし、また盤龍鏡や双頭龍鳳文鏡(位至三公鏡)、獣首鏡のように、7期や三国に続くものも6期におさめたり、あまりにも単純です。さらに大問題は、特に「5〜6期」の分布図において三国の「倣古鏡」さえ含まれていることです。古墳出土鏡は大部分が「踏返し鏡」と言いました。この分布図ははっきり言って使えない、無意味なものです。
 あと、問題となる画文帯神獣鏡の分布図にしても(福永説)、小山田宏一氏が批判するように新しい型式を含み、実際に出る古墳の時期は古墳前期いっぱいを含み、庄内式(布留0式を含んでも)はホケノ3枚前後、萩原1枚、丸井古墳1枚、安満宮山1枚(ただし少し系統違う鏡)に過ぎないわけです。ホケノ山に関しては、出土した土器の型式や銅鏃の型式観から、本当に箸墓古墳より前か、異論もみられることも注意してよいでしょう。いずれにしても、画文帯神獣鏡の分布図も、新しい時期に輸入したものを含む可能性が高く、福永説は仮説としても、ちょっと安易な分布図の使い方です。
 それで、九州の庄内式併行(布留0式を含む)の鏡は(その時期から出土した鏡の意味、墳墓に限る。鏡の時期は問わない)、平原除いて、20枚(以上)はあります。ちなみに石野氏の本の各地の併行関係や各地の墳墓の時期比定は、要・要検討が多く、そのままでは使えません。近畿では、布留0式の段階で安満宮山とホケノ山(私は箸墓古墳と同じ時期と考える)があるのでかなり多くなりますが(さらに一部で三角縁神獣鏡の副葬が開始される。ただし、黒塚とか5枚以上の大量副葬は全て布留1式から)、布留0式以前の庄内式段階では、むしろまだ北部九州の方がやや多く、瀬戸内とか(特に四国とか)やや目立つ地域もあり、分布がはっきりしないと言うのが本当です。
 九州の前方後円墳は、いろんな理由から在地の首長の墓でいいと言いました。いちおう、「連合」に参加したので、それを表示したと言うことでしょう。ただ、おにりんさんの見方は、なんで力があるのにあまり大きいものを作らなかったのか、と言う説明には有効かな、と思います。国際的に開けていたので、墓の大きさだけに社会的力を注いだりするのが馬鹿馬鹿しかったのかもしれませんね。
 あと、北部九州にも古い古墳ありますので。那珂八幡古墳とか。それと弥生時代後期の「王墓」は平原遺跡にしても墳丘を大きくしないので、偶然の発見に頼るしか、と言う部分があります。いずれにしても、主体部の問題とかから言えば、支配者層が一回断絶して、近畿系の王が来たとか言える根拠はありません。ちなみに後世の開発による削平が免れている粕屋郡では、庄内式併行の小墳丘墓から古墳前期の古墳が連続しますので。


558

Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月19日(土)17時21分30秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月19日(土)00時48分48秒 ]

>>  少々無謀なくらいが小説ネタにはいいのでは。(^。^)
>>
>>
 「記紀」を持って古代史を論じる場合の限界でしょう。

>>  「棺外からの大量出土の意味」についてはどのように考えていらっしゃいます?。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
 消費地に近い所で作って(ブランド品)中国鏡に見せるために銘文を細工するのは当たり前田のクラッカー。
 何処で作られたかは現在の考古学では確定できませんけどネ。
 二年ほど前に和歌山県で土鋳型が発見されてましたが、詳しいことを忘れました。



559

Re: 西新町遺跡の土器構成(雑)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月19日(土)18時25分47秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(雑) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)23時23分44秒 ]

>>  海だったというのはこの間、怡土の中心は今の前原市、井原鑓溝、三雲南小路、平原と王墓があることから「世々王有り」でもありだから前原市が伊都国。
>>
>>
>>
 書き方が悪かったですか。
 怡土と志麻の間に糸島水道があったと言うことです。
 弥生後期〜古墳時代には博多湾側から志登あたりまで内湾、西は浦志まで同じく内湾だったことは確かでしょう。
 江戸時代にも台風のときなどは陸地が水没していたようで恋人同士の悲恋物語が残っているそうです。

>>  今の糸島郡は前原市の東側です。塗金の三角縁鏡が出た調子塚古墳は母方の親戚の裏庭。
>>
>>
 「野北」と言うのは、志摩町内の旧村名で今は字名、志麻半島の北部、玄界灘に面する農漁集落、
 来目皇子の陵墓といわれる跡がある。福岡藩の藩馬生産牧場があった。日刊工業新聞社設立者、増田顕邦氏の出身地。
 だそうです。

>>  須玖式甕棺の編年精度が20年と言うのは被葬者が「オウ」になったときに鏡を入手して亡くなったら副葬したということと無尽しないことを前提にしています。
>>
>>
#墳丘や大石まで瞬間ってことはないけど、即位直後から造らないと間に合わないような前方後円墳を造れるほどの社会余剰は「倭国大乱」で無くなってたもんね。

 私が言ってるのは、大型鏡は「オウ」の権威の象徴として地位に付いたときに入手し、亡くなったときに副葬したとして土器(甕棺)編年を検証して矛盾が無いと言う事です。
 その土器編年と「標準年輪年代法」以前に、「近畿土器編年が上手くすり合わないと言うことが九州の学者から言われていた」との意味のことがお読みになった100冊の中にも書いてあったでしょう。
 で、近畿土器の編年が見直された結果、西新町遺跡から三世紀中葉の庄内式土器が「ザクザク」って仰ってるでしょう。
 「庄内式」と言われている土器が原初大和政権の政治的影響を示すものかどうか。
 かつて弥生初期の土器を「遠賀川式」の名称に一絡げにしていたように、在地系のもの中にも「庄内式」と言われているのがあるように思えるし。
 柏田式土器もかつては「庄内式」「布留式」と言われていた。今は北部九州の弥生土器と土師器の境界に位置する土器であることが分かってる。
 なんだか調べなきゃいけない調査報告書が増えるばっか。(^_^;)スキャナー買い直しといてよかった。
 と言うことで、私のレスもペースダウンっす。§^。^§



560

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月19日(土)18時34分59秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ フリーターのにゃん ] 日付 [ 1月18日(金)21時03分25秒 ]

>> 池田のあたりに弥生後期の古墳とかあるとききました。
>> どのようなものでしょうか?

徳島県の古墳の発生は次の2基とされています。

萩原墳墓1号墳(鳴門市)
径18.1mの円丘部に長さ10.1m、巾4.2m
の未発達な突出部

足代東原遺跡の前方後円形一号墓(三好町)
径11mの円丘部に長さ5.5m、巾4mの未発達な
突出部

いずれも畿内の庄内式段階に並行しています。
足代東原のほうは、弥生終末期の集団墓地内にあって、
墓域は東西180mの範囲。
その中央に砂岩小礫を盛って墳丘を形成しています。

徳島県の古墳は、積石の前方後円墳としてあらわれ、
その後、土盛りの前方後円墳に引き継がれていきます。
年代序列は、
足代東原遺跡積石墓群→足代東原一号墓・萩原一号墓→
奥谷二号墳→丹田古墳→八人塚古墳

規模
奥谷二号墳 19m
丹田古墳 37m 
八人塚古墳 60m 


銅鐸はけっこうでてますね。43個。
出土地点が明瞭なのは15遺跡で、
ほとんどが丘陵の突端あるいは谷頭部で、
平野部は2遺跡のみらしいです。

う〜ん、自然銅、どうかな(笑)
このへんが参考になるかも。

http://www.sanin-chuo.co.jp/news/2001/02/23/08.html

しかし、国名の類似っていってもあんまし
ピンとこないかな〜。
偶然では絶対起こりえないことなんだけどね。
そうじゃないと思う人は、反論は簡単だから
やってみればいいのに。
つまり、どこでもいいから同じくらいの類似
の比定をすればいいだけ・・・でも多分無理。


561

Re: 西新町遺跡の土器構成(雑)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月19日(土)18時36分33秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(雑) ] お名前 [ フリーターのにゃん ] 日付 [ 1月18日(金)22時15分26秒 ]

>> >>  須玖岡本の熊野神社拝殿下に円墳があることも判ってるし。
>> そうだったんですか?初めて知った。
>> 前方後円墳関係の本はあるけど4世紀以前はまだまだ勉強不足だなあ。
>> いつの時代かな?
 本には載ってません。
 分かったのが去年ですし、社殿を壊すわけにはいかないから。
 那珂八幡古墳も主体部は社殿のしたで、灰白色粘土壁を確認しているだけ。
 径21.8Cmの「三角縁神獣鏡」は、社殿脇の2号主体空の出土です。


562

Re: 西新町遺跡の土器構成(雑)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月19日(土)18時48分49秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(雑) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月19日(土)00時30分58秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
 忘れさせられた、おおっぴらには出来ないけど神社だけは作ったってこと。
 磐井も戦前までは朝敵、八女の人は肩身の狭い思いをしていた。
 にもかかわらず、岩戸山古墳の墳頂の神社は、石人山古墳の武装石人は信仰の対象になっていた。
 大和朝廷から独立していた「クニ」などあってはならない、かといっても祟りは怖い。
 結果、伝承の無い神社ができ、後に大手神社フランチャイズに組み込まれる。



563

Title 欠史八代も史実、というよりいた!

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月19日(土)22時22分29秒]

もうほんとにトンデモですね。
でも、ほかの学者が研究しているように、ほんとうにうそっぱちだったのか。
なにかあるはず。
そうおもって自分の東遷説を補強するため欠史八代も事実かどうかというよりいたのかどうかしらべたらなんとあるようなのです!!!!!!!!わたし、狂ってるんでしょうか?神話がすべて史実だなんて。
でも古田武彦のようにすべて否定するかすべて肯定するかどちらかしかない。だから私は邪馬台国を発見できた。そして最後の難問欠史八代まで見つけた。
その古墳、見つけました。宮内庁指定じゃないやつ。あんなとこに。七つまで見つけた。後ひとつですけど無理かもしれない。でもあとひとつで八つ。

しばらく、ここはなれます。
ちよっと、考古学の学芸員の方と相談してきます。
でもここは見てますから、欠史八代に賛成のかただけ返事ください。
おにりんさんはいいよ。もうどんな返事くるかわかったから。トンデモ!


564

3lt@s4

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月19日(土)22時30分14秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(雑) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月19日(土)18時36分33秒 ]

>> >> >>  須玖岡本の熊野神社拝殿下に円墳があることも判ってるし。
>> >> そうだったんですか?初めて知った。
>> >> 前方後円墳関係の本はあるけど4世紀以前はまだまだ勉強不足だなあ。
>> >> いつの時代かな?
>>  本には載ってません。
>>  分かったのが去年ですし、社殿を壊すわけにはいかないから。
>>  那珂八幡古墳も主体部は社殿のしたで、灰白色粘土壁を確認しているだけ。
>>  径21.8Cmの「三角縁神獣鏡」は、社殿脇の2号主体空の出土です。



565

ありがとう

投稿者[ iにゃん ] 発言日時 [1月19日(土)22時38分22秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(雑) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月19日(土)18時36分33秒 ]

わかりました。巻向型古墳だとうれしいですね。

>>  径21.8Cmの「三角縁神獣鏡」は、社殿脇の2号主体空の出土です。

それ以降の鏡がチョイと大きくなるんですよね。
いま計算したんですけど、どっかで見た、9割にすると縁起がよいってみかけたんですが、
晋尺=24.2cmとして9割なら21.78cm。
あれも晋以降じゃないの?
だとすると、晋代の鏡!?!うそ?!じゃ魏の鏡ではない。


566

しばらくじゃあね

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [1月19日(土)23時48分38秒]

元の発言 [ Re: Title 土器作りの経済における革命? 率善さんへ ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)23時19分49秒 ]


>>
>>
>>
>>
>>
>>
おにりんさんは遺跡が見えないのですね。
あるじゃないですか。物的証拠が。なぜ?
おにりんさんは、主義主張を先に固めてしまうから、あとに遺跡がくっつき、たとえば『三角縁は魏の鏡」と決め付け、そしてあれは魏から下賜されたものだと思ってしまう。起点を壊さないからね。
わたしはそれは危険すぎます。初動捜査がだめだとすべてあとのまつり。もう元に戻れない。主義があるからよけいに。
邪馬台国に関して森浩一は、 研究をすべて振り出しにする必要がある
とおっしゃってます。
振り出しに戻せば、なあんだ、こんなことだったのか。いまつくづくそう思ってますよ。

おにりんさん、いやおにりん。なぜ見えない。遺跡が。
自分の遺跡観を造ったことありますか?ないでしょう。
わたしはまず遺跡を見て、遺跡観を造って、そのあとかんがえ 、神話が一致した。
遺跡や資料館に行くたび新しい発見と驚きがある。
あなたの遺跡観は他人の作ったもの。自分自身のモノじゃない。
おなじ読むにしても主義主張の邪馬台国理論より、おなじ時代の遺跡の資料を買え。わたしは古田武彦の本捨てました。あれも主義主張の本だから。そういうのは私には必要ない。歴史資料館に行け。あなたはもう戻れない。主義者だから。
3、4世紀、一時混乱はありましたが、相続制度はありました。なぜ気が付かない。考古学的事実がそこにあるのに。

わたし、この東遷説ひっさげて、学会揺さぶる自信、あります。すべて考古学事実だから。そして一部の学者は他人の遺跡観に振り回され、それを増幅させてる。勝ったね。

しばらくいそがしくなりますので離れます。じゃあね。
でもあなたのおかげで私は勝ち組になれた。うふ。




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Re: 西新町遺跡の土器構成(雑)

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月19日(土)23時53分53秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(雑) ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月19日(土)18時48分49秒 ]

女神は人気なのになぁ。

ところで,

八女に亀甲という所があるそうですが,
古代タミル語では,
亀 → yamai とか。

ははは。



568

Re: 逆にしてみました。

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月20日(日)00時19分11秒]

元の発言 [ Re: 逆にしてみました。 ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月18日(金)19時57分31秒 ]

みなさん、ご意見ありがとうございます。

ピクポポデミ さん、
>> 文献だけで場所がきまるなら、江戸時代いらいの論争にならないんじゃありません?
文献だけで場所を求めた白石も宣長も、実質的な九州説に落ち着きました。
むしろ、考古学者が文献に頼る現状を私は奇妙に感じています。考古学者には、出土物から歴史を再構築してもらいましょう。邪馬台国論争はマニアに任せておいていただいて。

おにりんさん、
>> そういう意味で、きっちりと、現在の考古学的通説を超える
>> ものが、全般的にみて、できるなら、それでよいのではない
>> かと思いますが。
#わたしは相変わらず、なぜ卑弥呼が九州じゃいけないのか理解できません。例え3世紀の九州北部が文化的に見るべきものがなくても、中国に遣使をしていたっていいじゃありませんか。やまとから経済難民がたくさん九州に逃亡してきて住んでいたって、問題ないじゃありませんか。鏡の年代など、オリジナルが作られた1世紀あとに型取りして複製を作ったのかもしれない。

私も考古学に期待しています。
だ〜いぶ以前に「論理と非論理」を説明しますと約束したまま、まだ果たしていませんが、私の非論理は、現在得られる論理ではまったく不足であると主張しているようです。

岡野熊鰐 さん、
>> 背理法で文献解釈の誤りが証明されたりして。
私は、おにりんさんの親記事が私のパロディと同じくらい空疎でしょ、といっているわけです。


57

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月5日(土)10時03分16秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)02時10分12秒 ]

>>  古墳時代の前期古墳。大牟田市黄金町1丁目に所在。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>  インターネットにここまで載ってるか。

>>
おにりんさんはかって30m程度の円墳はないとおっしゃったので、それが何時の時代かの話ではなかったようなきがします。

近畿系とは何を注して言うのでしょう。
前方後円墳ならいざ知らず、前方後方墳でさえ近畿系でない(近畿と対立があったみたいな言い方をする向きがある)といわれている時に円墳を近畿系という理由は?

東北では大和政権が古墳築造を禁止した後の8世紀に前方後円墳が作られています。
これらの墓制が支配従属関係を示す物ではないことは明らかです。
北九州にある前方後円墳でも支配従属関係があった証拠ではないでしょう。




578

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月20日(日)08時26分51秒]

元の発言 [ Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月20日(日)03時04分41秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
長田氏、森氏あたりの文章からの推測で
私はこの説あたりがいいなあと思っています。
au あたりからオ段甲が生まれたのでは、と。

以下、私の音価の推定は長田氏の「3世紀洛陽音(推定)」と
「日本書紀の音訳(α群)」によっています。
安本氏の「二重母音説」の内容を知らないのですが、
だいたい次のようになったのでは、と思っています。
本当は行ごとに見るべきですが、

a, ua → ア段 a
au → オ段甲 o
iOu → オ段乙 IO-IOng
iu → ウ段 yu
iui → イ段甲 i-ie
iOi →イ段乙 IOI
iai →エ段甲 ei
Oi →エ段乙 Λi

口の開き方の変化の違い(ベクトルの向き)が8母音を生んだのではと
素朴に思ってしまいます。(素人なんで勘違いは許して下さい。)
ホームページにその雰囲気を表現しようとした図を載せています。
(安本氏のと一致するのかな?)

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
確かに、ここが難しいなあと思います。
鬼はイ乙でいいと思うんですが。
対と惟はエ行の可能性もあると思っています。

>>
以前から思っていたのですが、どうして「巳」じゃなくて「已」
なのでしょう。語頭に濁音が来るのを回避してなのかなあ?
どうみても「巳」にしか見えないのですけど。

>>
唯一のts。長田氏はこの音の少なさから畿内説の可能性は薄いと
書いてましたね。

>>
>>
ステキな国名!

>>
あれ?zじゃないんですか?
わたしは、「ziOn」からウ段を想像しているのですが。





579

Re: 逆にしてみました。

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月20日(日)09時33分32秒]

元の発言 [ Re: 逆にしてみました。 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 1月20日(日)00時19分11秒 ]

九州説派も多いのだから,
詳しく調べて論戦して貰えると,
見ている方は楽しみが増えます。

本は読み方次第ですから,どう付き合うかであり,
議論も同じ。

激論でも「おにりん式」ならドライな分,
腹にたまらない,という説もある。
# 今の所,オヤジッチさん達が奮戦中。デショ。顛。^

次のなんかは,御存知かもしれませんが,
〜吉野ケ里の時のシンポで古いが〜,
専門家の雰囲気をつかめるでしょう。

特集 古代史シンポジウム「邪馬台国時代のクニ 吉野ケ里遺跡が語るもの」
/シンポジウム−生活戦闘性など浮き彫り
http://www.sagatokimeki.ne.jp/houdou/1/tokusyu/july/toku.html


金関氏(考古学)・・・(畿内説) 
高島氏(考古学)・・・ 邪馬台国は吉野ケ里の楼観から見える場所
門脇氏(日本古代史)・・・ 邪馬台国は菊池川以北
佐原氏(考古学)・・・ 畿内説(鏡の分布から) 


58

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ ふうらん ] 発言日時 [1月5日(土)11時51分38秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)02時29分38秒 ]

>> #魏の鏡はでていないにしても、後漢末と西晋のものはわかっていて、それらは、連続性がある。つまり、魏の時代だけ、別系統のものがつくられた(洛陽で)というのは、むしろ考えにくいと思います。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> #西川氏の議論からすれば、結局、三角縁神獣鏡は遼東・半島系統となるのでしょう?

>>
#西晋鏡についていえば、洛陽はじめ河南で出土していて、(年号鏡はないにせよ)それらは、三角縁神獣鏡と関係がない。つまり、福永・西川氏の議論というのは、西晋時代の鏡のうち、ローカル(遼東・半島)なものが三角縁神獣鏡につながるのではないか、というものになると思います。

#別に、年号は入ってなくても、西晋墓からでたものは、西晋鏡というべきです。(もちろん、伝世したものもあるらしいのですが)


>> #年号鏡についていえば、240年頃の年号のものが、240年代の古墳から出土しているのであれば、こうまで揉めないわけです。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> #魏の年号を含むタイプものが、後の時代から、大量にでる。だからいろいろ議論か起きるわけです。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>

#もちろん、伝世を否定しているというわけではありません。福永氏の議論というのは、240年頃の年号鏡と、260年代後半の年号鏡との併行関係が、形式の編年に対応しているというので、これはかなり説得力があります。

#で、福永氏は、260年代後半以降のタイプを含まない古墳(黒塚)の築造年代を、260年代前半としている。

#しかし、伝世というか、タイムラグを考えると、黒塚の被葬者が260年代前半に鏡を入手したとしても、埋納したのは、もっと、後、ということでもよいわけです。

#さらに、伝世ということでいえば、三角縁神獣鏡の性格にも関わることですが、大和王権が入手して、すぐ配ったのか、しばらくしてから配ったのではないかどうか、とか、生前愛好していたものを埋めたのではなく、葬具として配ったと考え、配布年代=埋納年代ということもできる。いろいろ議論のできるところです。

#古墳の編年との対応というのはどうなのですか。黒塚が三角縁神獣鏡出土古墳の最も古いタイプに属するというのは、問題ないのですか?布留0〜1古墳の相対編年は、人によってかなり違うので、いまいちよくわかりません。

>> #しかも、三角縁神獣鏡に共通する特徴をもった鏡は大陸でたくさんでているのに、三角縁神獣鏡はでていない。このへんが問題です。

>>
>> #西川氏の宝飾鏡説というのはどうなんでしょうね。文献に「金錯鏡」とかいてない以上、どうかと思いますが。

>>
>>
>>

#ただ、西川氏は、文献に金錯鏡とでてくるのを根拠にしてるわけですよね。まあ、箸墓から宝飾鏡がでてくれば、決まり、という感じですが。






582

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月20日(日)17時02分41秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月20日(日)15時19分01秒 ]

>>
>>
森浩一氏編集の本「倭人伝の世界」のなかにあります。
長田氏のすべて「a」とする説に対して反論してて
ある音訳例から「cの逆の発音記号」くらいに傾いていたのでは
ないかということだったと思います。(資料が手元にないです。)

>> 以下、私の音価の推定は長田氏の「3世紀洛陽音(推定)」と
>> 「日本書紀の音訳(α群)」によっています。

>>
>>
まず、上代語(日本側)の母音の音価がだいたいなにか、
ということが知りたいのでこれは問題ないと思うのですが。
(長安音の音価が不鮮明ということですか?)

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そういわれて表を眺めると、中古の声母も悪くないですね。
(例外は、「支」あたりですか。これが多いですからね。)
で、私としては長田氏あたりの音価が適当に感じるのですが。

>> 安本氏の「二重母音説」の内容を知らないのですが、
>> だいたい次のようになったのでは、と思っています。

>>
>>
『「季刊・邪馬台国#59」(安本美典・上代特殊仮名遣いの正体は二重母音だ)
を参考にしたものもあります。』
とか書いている文章を見てしまったので。
これを誰か紹介してください!
僕と同じ認識かどうか知りたいので。

>> 本当は行ごとに見るべきですが、

>>
>> a, ua → ア段 a
>> au → オ段甲 o
>> iOu → オ段乙 IO-IOng
>> iu → ウ段 yu
>> iui → イ段甲 i-ie
>> iOi →イ段乙 IOI
>> iai →エ段甲 ei
>> Oi →エ段乙 Λi

>>
>>
>>
>>
>> 口の開き方の変化の違い(ベクトルの向き)が8母音を生んだのではと
>> 素朴に思ってしまいます。(素人なんで勘違いは許して下さい。)
>> ホームページにその雰囲気を表現しようとした図を載せています。
>> (安本氏のと一致するのかな?)

>>
>>
>>
長田氏が当ててある音を、上代の8母音であらわすならばどうなるか、
ということです。私は韻尾が大事だと思っています。
(介音+主母音)→韻尾
という変化こそが、8母音の正体であって、実態は4母音という考えです。
ところが、この不安定さに耐えられなくなって、今の音韻に行きついたのかなと。
二重母音が嫌われるのもこれで説明できますよね。

>>
>>
>>
ぜひ5世紀となる理由を教えてください。

>> >> 已百支 i pa ki         いはき

>> 以前から思っていたのですが、どうして「巳」じゃなくて「已」
>> なのでしょう。語頭に濁音が来るのを回避してなのかなあ?
>> どうみても「巳」にしか見えないのですけど。

>>
>>
上古だと同じようですが、時代が下ると「巳」だと「ziOi」では?
「巳」を「い」と読まれると辛いので。

>> >> 躬臣 k(y)O ngi (nu)       こぎ(ん)

>> あれ?zじゃないんですか?
>> わたしは、「ziOn」からウ段を想像しているのですが。

>>
>>
韻尾が「i」ではないので、ウ段が適当な気がします。





583

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ kouji ] 発言日時 [1月20日(日)17時23分36秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月14日(月)12時39分22秒 ]

 おにりんさん、どうもです。


>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
 引き合いに出していただいて恐縮ですが、私の考えはだいぶ違います。
 ことの順序は、魏志倭人伝にありますとおり、
卑弥呼の死→張政の来倭(卑弥呼の墓築造中)→男王即位・国中不服→臺与即位→張政帰還
でよいのだろうと思います。
 また、晋書に「及文帝作相、又數至」とあり卑弥呼の死後、魏末の複数回の遣使が伝えられておりますので、張政の帰還が西晋代まで降ることはないと思います。卑弥呼の死がA.D.247年ごろ、臺与の即位・張政の帰還がA.D.250年代後半ぐらいでしょうか。
 ちなみにホームページのほうでは次の様にまとめております。

-------------------------------------------------------------

景初三年 倭の女王卑弥呼、始めて魏へ遣使する。

 ○この間、魏と倭の比較的頻繁な交渉。

正始八年頃 卑弥呼の死。

 ○この間、卑弥呼の墓の造営・男王の即位とそれを契機とする国内騒擾。魏と倭の交渉が疎遠になる。

景元四年頃 臺與の即位と魏への遣使。

 ○この後、魏と倭の頻繁な交渉が再開し、西晋泰始二年の朝貢へ至る。

-------------------------------------------------------------

 ただし「景元四年」につきましては、ホームページのほうの訂正はサボっておりますが(申し訳ない)、マルセさんの指摘を受けたことなどにより、大論争上では正元二年(A.D.255年)以降であると訂正いたしております。






584

Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ 早良武彦 ] 発言日時 [1月20日(日)19時50分46秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月19日(土)17時21分30秒 ]

こんちは。
明日、副館長に会いに行こうかと思ってます。
そのことで、相談したいのですけど。
             naoh@jcom.home.ne.jp
にゃー


585

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ こんちは ] 発言日時 [1月20日(日)19時57分08秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月19日(土)09時52分04秒 ]

相談に乗ってください。
あした、柳田さんに会いにいこうかと思ってますので。
         にゃー
メールください     naoh@jcom.home.ne.jp



586

Re: 西新町遺跡の土器構成(雑)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月20日(日)20時16分07秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(雑) ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 1月19日(土)23時53分53秒 ]

>> 女神は人気なのになぁ。
>> ところで,
>> 八女に亀甲という所があるそうですが,
 龍ケ原と言うところもあります。


587

Re: 西新町遺跡の土器構成(雑)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月20日(日)20時19分59秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(雑) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月20日(日)01時16分54秒 ]

>>  忘れさせられた、おおっぴらには出来ないけど神社だけは作ったってこと。
>>  磐井も戦前までは朝敵、八女の人は肩身の狭い思いをしていた。
>>
 文字になってるもんネ。
 文字になってなくて言い伝えるのが憚られたら残らない。
 現に、神社の下が墳丘や古墳だった例が結構ある。



588

Title

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月20日(日)21時17分30秒]

>> A〜F区は、田崎氏が勝手につけたのじゃ無くて、2次調査の調査区番号です。
>> ですから5次の住居址とは別です。
>> 詳しくは福岡市埋蔵文化財センターで聴くといいでしょう。
 市教委ので、区をアルファベット表記しているのはないみたいですが?
 県教委の、
 「福岡市高速鉄道関係埋蔵文化財調査報告II
  西新町遺跡
  福岡市埋蔵文化財調査報告書第79集(1982)」でしょうか。
 これには“A〜区”が付いています。住居記号は“J-”で、D区6号竪穴住居は「D-J-6」となっています。

>> それと、西新町の布留系甕を加賀南部産とするのは、かなり異論があるようです。もちろん、畿内産ではなく、地元の製作とする説もあります。
>> あと、西新町遺跡の「畿内系」土器は、よく見ると、畿内のそれと似ても似つかぬものですよ。土器のモデルは畿内系でも、地元で変容して独自変化してしまったようです。これは西新町に限らず、同時期の北部九州の「畿内系」土器のほとんどがそうです。
>> だから、「畿内系」が多いからって、畿内の人がその土器の割合でそのままいたと短絡するのは危険です。
 2001年出版の書籍に、まだ「西新町式土器編年」が曖昧で、曖昧に「西新式」、「近畿系」と呼称していたかもしれない時代の資料をつかうか。(^_^;)
 上記の市教委第五次調査のほうが十年新しい(1992年)調査だし、土器も纏まって出土しています。
 また、同調査報告書の付論で奥田尚氏は、
 「大和型庄内甕は大和で作られ、各地に運ばれた甕ではなく、播磨地方特産の甕といえる。
 同様に、吉備系の甕は岡山市付近で、東海系の甕は三重県津市から鈴鹿市付近にかけての地域で、
 かって備讃瀬戸系といわれた阿波系の甕は徳島市付近で、
 布留系の甕は加賀南部で、時期が僅かに異なって独自に製作され、
 各地に運ばれた結果の1つが纏向遭跡の土器の出土状況であるといえる。
 西新5次出土の土器で纏向遭跡と同じようなことが言えるのではないかと考えて考察した」
 と述べています。
 早良区、特に西新・藤崎周辺の開発状況を見るとバブル期十年の考古学的成果は非常に大きいですネ。


589

Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月20日(日)21時40分23秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月20日(日)01時04分15秒 ]

>>
>>
>>
 ブランド物のTシャツが全盛のころ、韓国で作ってロゴをプリントしてましたよネ。
 ロゴを入れる前の横流しが全く同じ素材(当たり前だけど)で十分一位の値段になって柳橋辺りで売りよったゲナ。



59

Re: Title 本の紹介

投稿者[ ふうらん ] 発言日時 [1月5日(土)11時59分49秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)03時09分09秒 ]

結局、邪馬台国=弥生X期という前提での議論が、御破算になってしまったのでしょう?

邪馬台国=弥生X期と考えるなら、九州説の方がいいわけなんですけどね。

むしろ、従来の邪馬台国論議というのはなんだったのか、という気がしますね。

20年ぐらい前には、現在の年代観の骨格はできていたようなのですが。


590

Re: 明の軍事って?

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月20日(日)22時29分27秒]

元の発言 [ Re: おにりんさん、こちらにレス付けて下さい。 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 1月18日(金)08時43分59秒 ]

>> どこかのサイトで読んだのですが、秀吉が大陸に攻めて行っ
>> た時に、明では作戦を一般から募集したそうです。
>> 明では日本が南の方にあると考えていて、シャム(タイ)に
>> 日本を背後から攻撃させるという作戦が採用されて、実際に
>> シャムの使節に依頼したとか。当然断られたそうですが。

>> この話が本当なら、15〜16世紀の中国の地理観はいい加
>> 減だったのでしょうね。

アチャー
まず面白い話に感謝します。
でも、明の軍事情報ってどうなってるのかな?
官僚支配の弊害かな?
鄭和の航海があるんだから南に無いって事ぐらいわかりそうなもんでしょうに。

いけない、鄭和の記録は、焚書されたと以前何かで読んだような。
でも、現実に倭寇に悩まされてたのに似せ者の方が多いと聞いてますが。
本物が出てるところまで、全く調査されてないとは?
滅んだ理由がわかるような気がします。


591

Re: この鉛同位対比の議論、

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月20日(日)22時42分30秒]

元の発言 [ Re: この鉛同位対比の議論、 ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月18日(金)19時27分50秒 ]

>> いやーわかんないっすね。
>> ただ日本の鉱石会のHPに質問したら(自然銅で銅鐸つくれますか?)と質問したら、古代はわからない、とのあたりまえの返事でした。残念。
>> でも奈良の大仏さまの一部は自然銅を使ってるとのこと。えっあんな大きいの? その銅は埼玉とこから獲ってたのこと。

秩父の銅山の事でしょう。以前行った事が有るのですが。
色々聞いてみると本とにはじめてか疑わしいですね。

大仏さまなら 以前 星野 宣 先生のヤマタイカで変な事欠いてありましたがほんとでしょうか。
豊の国やと言うより九州から大量の銅が運ばれて使われたと。
つながってきそうな、違うような?

ヤマタイカでは、銅鐸を使ったことになっているけど。
これ以外と当っているかも?

>> やっぱ倭人が銅製品好きなのは産地だからと思うけど。中国製の鏡っていずれも倭にくらべて小さいんですよね。日本に来てでかくなるのは祭器と産地だからだろう。
>> いま気づいたけど、倭人伝に祭器の記述ないでしょう。なんか、わかってきたぞ。ふふふ。



592

Re: おにりんさん、こちらにレス付けて下さい。

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月20日(日)22時58分15秒]

元の発言 [ Re: おにりんさん、こちらにレス付けて下さい。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月17日(木)14時42分43秒 ]

おにりんさん、今晩は。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
私も、そんなに簡単に出来るものとは思っていません。ですから、
卑弥呼の貢献後に特鋳されたという三角縁が、卑弥呼の鏡とは考
えられないのです。さらに、明帝と小帝の治世年号入りの三角縁
が混在するのは、三角縁が卑弥呼の鏡ではないことを証明するの
ではないかと疑っているのです。おにりんさんの主張は、三角縁
は卑弥呼に送られた鏡の一部と言うことですが、他にはどんな鏡
をお考えでしょう。それをお聞きして、この件は終わりにしたいと
考えています。私自身、これ以上主張すべき根拠を示せないと思い
ますので。

>> それだと伊勢湾から関東までの距離が、対馬から壱岐までの距離

>>
>>
おにりんさんは、一体里程をどう考えているのでしょう。
千里430キロで以下の文を解釈してみてください。

1 韓の方四千里
2 狗邪韓国(おにりんさんは、金海でしたね)から対海国(対馬)までの千里
3 対海国の方四百里
4 対海国から一大国(壱岐)までの千里
5 一大国の方三百里
6 一大国から末盧国(松浦郡、つまり九州北岸)までの千里

以上は、『三国志』の中で、地名と現在地が比定できると考えら
れている例です。畿内説論者にも異論はないと考えます。この六
例は、現在の地図と距離の比率が合っており、ここに記された
「里」は、短里であると考えなければ、説明できません。おにり
んさんの言うように、「魏では、一里430メートルに決まって
いる」とは言えない訳です。ところが、おにりんさんは、こうも
言うわけです。「 実際のところ、魏志倭人伝だけでなく、あっ
ちこっちの里程と、比定地を比べると、1里が、いろいろな距離
になるようです。60メートルくらいから、80メートルくらい、
100メートルくらい、150メートルくらい、300メートル
くらい。」長里で解釈できると言いながら、他の里単位が使用さ
れていると言うのは、明らかに矛盾した論理でしょう。しかもこ
れは、中国に長里以外の里単位など存在しない根拠として、私に
避雷針さんのサイトを紹介したのに、避雷針さんのサイトの論文
には、中国では、明らかに長里以外の里単位使用の事例が紹介さ
れていると、私が指摘した後に展開された論理です。挙句の果て
が「春秋の筆法が使われているから、でたらめである。」という
ことのようです。しかし、春秋の筆法では、読者にとって矛盾は
明らかでなければなりません。しかし、『三国志』の読者の多くは、
倭国に実際来ているわけではなく、『倭人伝』の里程と中国本土
の里と比較する術がないのです。つまり、『三国志』の読者が『倭
人伝』の里程は、荒唐無稽な数字であると認識できる筈がないのです。
それを知るには、『倭人伝』の中で、ここに記した里は、中国本土
の里とは違うと言う但し書きが必要なのです。しかし、その但し
書きがあれば、春秋の筆法であると言う根拠はなくなるのです。
さて、春秋の筆法で、上記六例の距離の比率が、現在の地形の比
率と酷似していることの説明が出来るものでしょうか。しかし、
私の興味は、最初の論理「魏では、長里に決まっている。」の方
にあります。春秋の筆法を持ち出す以前に、再三再四お伺いした
のですから。お願いします、是非長里でご説明ください。

おにりんさんは、高句麗伝は長里により、その場所を特定できる
と主張されていますが、どこからどこを指すのか具体的地名を挙
げて指摘してください。さらに、色々な里の例を『三国志』中よ
り示してください。もちろん、現在の地名を示し、その地に間違
いないことの明確な理由も添えていただければ、助かります。私
は、無理だと考えていたので、強く要求しなかったのですが、今
回は是非お願いします。これらを示すべきは、おにりんさんの方
なのです。私の方は既に、上記六例により、短里で解釈すべき理
由があると示しました。今回は、是非お願いします。

#出来れば、間違いの訂正もお願いします。魏略に、邪馬壹国は
伊都国の南と言う記述はないですよね。

>> 私が聞いているのは、日野さんの論文では、不彌国から邪馬壹国
>> 迄の記述「水行十日、陸行一月」も傍線行程として書かれてある
>> と解釈できますが、それについてどう考えますかと言うことです。

>>
>>
私は既に、不彌国―邪馬壹国間は距離ゼロで、日数表記は総日程
だと申し上げたはずです。奴国は伊都国から、投馬国は不彌国か
らの傍線行程であると言う日野さんの論旨には、同意しますが、
不彌国―邪馬壹国間も傍線行程とは主張できないと、私は考えて
います。日野さんの論文を持ち出したのは貴方ですから、おにり
んさんの考えと言うものを示していただけませんか。出来れば、
もう少し古田説を検証して頂いてからの方がありがたいですね。
よくご存じないようですから。

>> 確かに、会稽まで万二千余里と書いてあるわけでは有りません。
>> しかし、5000里程度と書いてあるのでもありません。

>>
断定されるなら、紹介していただけませんか。自信がおありなのは
解りますが、間違いってこともあるでしょう。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
(以下は、投稿本文の別の位置から移動して記しています。)
>> 苦しいですね。面積では16〜25倍の誤認ですか。

>>
>>
>>
足しげく倭国を訪れ、「里を知っていた」半島の人達の知識が、
十五世紀の地図に表れているのですか。元寇はそれ以前の出来事
です。元は実際に倭国と戦火を交えたのですよ。韓半島は、倭国
攻略の拠点と言ってもよいくらいであり、面積に25倍もの錯誤
のあろうはずがないと考えますがいかがでしょうか。

>>
>>
>>
考古学的に証明されていると言うのは、どの遺跡遺物を指すもの
ですか。金石文でも残っているのでしょうか。

>> 学者の言っていることが全て正しいのですか。土器の編年が、近
>> 年めまぐるしく変化するのは、学者の提出した考えが、次から次
>> へと変化した結果でしょう。学者が言っているから間違いないと
>> いうのは、唾棄すべき権威主義と考えます。

>>
>>
>>
不思議ですね。科学者であるおにりんさんは、当然この部分に関
して、同意されるものと思っていました。侮辱ものと仰るのは、
自分が権威主義者であるということを、お認めになると言うこと
ですか。まさか、偉い学者の言うことに間違いなしと言うような、
非科学的な言動はなさらないと思いますが…。

>>
>>
>>
>>
>>
その百冊以上の本の中で、長里説によって万二千余里を説明して
いる本が、ありましたか。いかに考古資料に詳しくなったとして
も、文献にそぐわなければ、意味がないでしょう。もちろん、そ
の努力が無駄だと言っているのではありません。ただ、卑弥呼と
結び付けて考えるのは、回り道だと申し上げているのです。九州
に都があれば、今までの研究を再検証しなくてはならないのですよ。
今一度申し上げますが、里程に関して、古田説より合理的な里程
論を展開している畿内論者(長里説)の本を、一冊で結構ですか
らご紹介ください。出来れば、1995年以降でお願いします。
残念ながら、私の貧しい経験では、畿内説で里程をまじめに考察
している本を見たことがないのです。おにりんさんほどの読書家
であれば、ご存知でしょう。




593

Title女王国は邪馬壹国ではない

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月20日(日)23時05分58秒]

皆さん今晩は。
今回は、邪馬壹国と女王国の領域を考察し、「狗奴国」の位置を特定したいと思います。
 
前回の私の主張は、
・ 二十一国連記の国は、その余の旁国ではなく、卑弥呼の支配国である。
・ 卑弥呼が支配したのは、(倭国)百余国の内のわずか三十国にすぎない。
(根拠として)倭国伝でないことや、倭女王と女王の書き分けにより、推定出来る。

・ 倭国の領域は、九州と中国・四国の西半部である。
(根拠として)『宋書』倭王武の上表文からは、そう読み取れる。
と言うものでした。

残念ながら、畿内説の方からは、反応そのものがない状況です。そこで、九州説の一部の方に披露させて頂いた、新たな仮説を加え、改めて提言させていただきます。

さて、前回の仮説「二十一国連記の国は、その余の旁国ではなく、卑弥呼の支配領域である。」との仮説が正しいとすれば、当然、その道里や戸数が記されていなければならないのです。しかし、(邪馬壹国までの)途中の里程に、その形跡はありません。つまり、終着点である邪馬壹国の里程表記を以って、二十一国の里程も併せて表示していると考えられるのです。ここで、女王国と邪馬壹国は、別の概念ではないかとの疑いが生まれたのです。標題は、「女王国とは、邪馬壹国と二十一国を足したものであり、邪馬壹国そのものを指すのではない。」と言う仮説を表すものです。ここで、少し整理してみます。

1 邪馬壹国は、卑弥呼が都する国である。
2 女王国は、邪馬壹国と二十一国を併せた国である。
3 卑弥呼の支配する国は、狗邪韓国、対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国と女王国を併せた三十国である。
4 倭国は、卑弥呼の支配する三十国とその余の旁国七十余国を併せた概念である。
 
では、この仮説を導入すれば、以前と比べ何が明らかになるのでしょうか。
まず、従来九州説に不利であるとされていた、戸数問題が解決されます。戸数七万は、邪馬壹国の戸数ではなく、女王国(邪馬壹国+二十一国)の戸数だからです。さらに、これまで帰属のはっきりしなかった二十一国は、女王国を形成する国々であり、重複かとも考えられていた、二十一カ国連記最末の奴国は、戸数二万の奴国とは別国であると確定できるのです。

さて、私は『倭人伝』の総里程万二千余里は、部分里程の総和に等しいと言う古田氏の提言を強く支持するものです。その帰結としての、女王国博多湾岸説を、全面的ではないにせよ支持しています。そのことは、『宋書』の倭王武の上表文によって裏付けられると考えます。では、2番の女王国の領域を考えてみましょう。邪馬壹国は女王国の入り口に位置します。女王国は、邪馬壹国を起点として、東と南に広がっていると考えられます。北には、博多湾頭の不彌国があり、西には戸数二万の奴国があったと考えられるからです。しかも、これは九州島を出るものではありません。海を渡った東に、別の倭種の国が、記載されているからです。つまり女王国は、福岡平野にのみ限定される国ではなく、北部九州全域に及ぶ可能性も否定できなくなったのです。
#二十一国には、「蘇」字を含むものも多く、近くに阿蘇山があることを考えれば、その周辺に求めるのも、あながち不当とも言えないと考えています。
 
次に、3番の卑弥呼の支配領域は、狗邪韓国から女王国までの海峡と北部九州、さらに九州南部にある投馬国、と言うことになります。投馬国は、戸数五万の大国ですから、卑弥呼の勢力は、九州南部の広い地域に及んでいたと考えるべきでしょう。ここで気づくのは、九州中部の記載がないことです。考えてみれば、『宋書』の記載から九州内部には六十六国あると考えられるのですから、卑弥呼は、九州の半分を掌握していたに過ぎないのです。つまり、卑弥呼の支配の及ばない三十余国の大半が、九州中域にあると考えられるのです。そこが、狗奴国です。

その南に狗奴国あり、です。その南とは文面上、奴国の南とも、女王国の南とも採れますが、女王国が北部九州を扼していたのですから、どちらで解釈しても、狗奴国の所在地は、九州中域を指し示していると考えられるでしょう。また、『倭人伝』の記述には、九州東部の情報はあるが、九州西部の記録がありません。南の投馬国へは、熊本を通る陸路もあったと考えますが、それは記されていません。つまり、投馬国へは、九州東岸を水行したのであり、九州西岸は、狗奴国に制海権を握られていた可能性があるのです。以上の点を考慮すれば、狗奴国は、九州西部中域の熊本あたりに比定できると考えます。

また3番の記述は、『隋書』の内容に対応していると考えられます。これまで「竹斯国以東は、皆俀(たい)に附庸する。」の記述は、対馬や壱岐が俀国(たいこく)に属していないと読め、その内容に疑いの目を向ける方もありました。しかし、私の仮説を導入し、俀国を女王国と同じ意味にとれば、俀王の時代においても、卑弥呼の時代と同様の領域区分が、遺存したものと考えられるでしょう。これは、『隋書』解読の重要な視点となると考えますが、いかがでしょうか。

以上が、今回の私の仮説です。もちろん全部正しいと強弁するつもりはありません。ただ、私の仮説が『倭人伝』解釈の一助になればと願うものです。


598

Re: 明の軍事って?

投稿者[ 景虎 ] 発言日時 [1月21日(月)08時44分33秒]

元の発言 [ Re: 明の軍事って? ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月20日(日)22時29分27秒 ]

>> >> どこかのサイトで読んだのですが、秀吉が大陸に攻めて行っ
>> >> た時に、明では作戦を一般から募集したそうです。
>> >> 明では日本が南の方にあると考えていて、シャム(タイ)に
>> >> 日本を背後から攻撃させるという作戦が採用されて、実際に
>> >> シャムの使節に依頼したとか。当然断られたそうですが。

>> >> この話が本当なら、15〜16世紀の中国の地理観はいい加
>> >> 減だったのでしょうね。

>> アチャー
>> まず面白い話に感謝します。
>> でも、明の軍事情報ってどうなってるのかな?
>> 官僚支配の弊害かな?
>> 鄭和の航海があるんだから南に無いって事ぐらいわかりそうなもんでしょうに。

>> いけない、鄭和の記録は、焚書されたと以前何かで読んだような。
>> でも、現実に倭寇に悩まされてたのに似せ者の方が多いと聞いてますが。
>> 本物が出てるところまで、全く調査されてないとは?
>> 滅んだ理由がわかるような気がします。

詳しくは知りませんが、倭寇=日本人という解釈はどうやら
違うようです。後期倭寇は中国人の方が中心だったようです
し、日本人中心の前期倭寇でもモンゴル人と思われる名前が
出て来たりするそうです。どうも元崩壊後に半島に残った元
の人の中に倭寇に加わった人達がいたらしいです。
さらに元末の群雄の中には、倭寇と繋がりがあった人達もい
たとか。
また、倭寇関係の史料の中には倭人と日本人を区別している
物があるそうで、倭寇というのは最初は日本人が多かったの
でしょうが、かなり無国籍な人達の集団のようです。

中国側としては、日本政府に対して倭寇の禁圧を求めていま
すから、日本の事は日本にまかせるという事だったのでしょ
う。
しかし、南北朝時代などは南朝の懐良親王が倭寇のパトロン
だったという説もあるようなので、かなり複雑というか、国
際的というか・・・。

歴史家でも倭寇に詳しい人はあまりいないらしいので、倭寇
関係はこれからの研究に期待してます。


599

Re: Title 承前 ねたろうさんへ、

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月21日(月)10時16分36秒]

元の発言 [ Re: Title 承前 ねたろうさんへ、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)02時47分46秒 ]

おはようございます

>>
>>
googleでドメイン指定したら近いことができるんじゃないでしょうか。




6

Re: 西新町遺跡(追加)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月13日(日)23時55分00秒]

元の発言 [ 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月13日(日)21時40分18秒 ]

同報告書の重要な部分を忘れてましたので追加します。

「SC02出土の板状鉄斧については、・略・
板状鉄斧と鉄テイを結ぶ過渡的形態を示すもの他考えられ・略・
西新町出土例と時期的に最も近いものとして宗像市久原瀧ヶ下遺跡出土例があげられ・略・
鉄生産ないしは鉄器製作を目的とした工人集団の存在が想定されている」

同報告書、「西新町遺跡出土の砂礫」(奥田尚)
「大和型庄内甕には少なくとも3っつの砂礫種構成がみられる」
「大和型省内甕は大和で作られ、各地に運ばれた甕ではなく、播磨地方特産の甕と言える。
同様に、吉備系の甕は岡山市付近で、東海系の甕は三重県津市から鈴鹿市付近にかけての地域で、かって備讃瀬戸系といわれた阿波系の甕は徳島市付近で、“布留系の甕は加賀南部”で時期がわずかに異なって独自に製作され、各地に運ばれた結果の1つが纏向遺跡の土器の出土じょうきょうであるといえる」


60

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月5日(土)13時15分36秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)02時52分39秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
 「狗邪韓」も倭国に加えるんですか。



601

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月21日(月)10時18分51秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月20日(日)15時29分55秒 ]

>> 難升米 na (nu) si (ng)u mi/me   なし(ぐ)め

>>
>>
陽類の韻尾ngなのですが、ウェブをみていたら以下のような例がありました。
琉球方言の男の子"をぐな"

woguna = wo + n + kuna ( 男 + の + 子 )

これにならって

na tsi/tsO ng me/mi = na tsi/tsO + n + ku/ki me/mi (ナシ/ソ + の + クメ/キミ)

意味不明ですが・・・
あと

伊声耆は

i tsi/tse ngi = i tsi/tse + n + gi(イシ/セ + の + ギ)

柄渠觚は

pingoko = pi + n + goko(ヒ + の + ゴコ)

弥馬升は

mi ma tsi ng = mi ma tsi + n + ku(ミマシ + の + ク(男?))

なんてのはどうでしょ。
地雷踏でますか?





604

Re: Title 承前 ねたろうさんへ、

投稿者[ 紀 智明 ] 発言日時 [1月21日(月)11時22分48秒]

元の発言 [ Title 承前 ねたろうさんへ、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)01時14分04秒 ]

>>
  青龍三年鏡の書体について、古田武彦氏は、4〜5世紀の書体であり、3世紀のものではないと言っている。
  古田武彦氏は、親鸞研究を通じて、書体については、専門家と言って良いでしょう。
  以下に、その抜粋を記しますので、意見を。


   この鏡の「龍」という字が誠におかしな書体で書かれている。
   本来は旧漢字であり、若い人にはなじみがないが行書体の「龍」が本来の龍である。
   ところが、安満(あま)宮山古墳の青龍三年鏡の旁(つくり)は[大]である。
   ここに書かれているのは跳ねあがりがない止めてある「大」という字体である。
   こんな龍の字は書では、観たことがない。
   これと同型鏡が出ていた。似ているが少し違う鏡が京都府弥栄町大田南5号墳から出た、
   青龍三年銘方格規矩四神鏡である。
   そこの「龍」の旁は似ているが少し違って点があり「犬」です。

   龍の字の旁(つくり)も「犬」の点が取れて「大」になった。
   それで問題は、中国の書の歴史において、このような龍の字があったか。
   中国において、このような変な字があったのか。
   これが問題となります。
   鏡の書体そのものは、元々の「龍」の字の行書体を略した形である。
   旁(つくり)に「尤」という字に3本横棒を入れた字がある。

   これは3世紀以前の漢・魏・西晋の字である。
   ところが旁が「大」や「犬」という書体は私の調べたところ、4・5世紀北朝の北魏、
  東魏、西魏にならないと出てこない。
   南朝も東晋の4・5世紀にならないと現れない。
   今までになかった字が四・五世紀に現れる。
   有名な異体字の時代である。
   中国清代の学者羅振玉(らしんぎょく)の『増訂碑別字』にまとめられている。

   なぜこのような変わった字が現れたのか。
   これには有名な歴史の切れ目がある。
   西暦316年である。
   316年鮮卑・凶奴が南下して、西晋の首都洛陽を占領し(北)魏を造る。
   (西)晋の一派は洛陽から逃れて建康(南京)に移り(東)晋を建てた。
  南北朝の時代が始った。
   こうなれば特に北朝は、武力はあるが文字を余り知らない北方の鮮卑・凶奴が支配者、
   文字を知っている以前の(西)晋の人々が被支配者となる。
   そうすると、どんな字が現れるか、興味ある問題だが、実例がたくさん現れた。
   今までになかった字がたくさん現れる。
   316年以前と以後では、書体が一変する。
   当時は全て魏であり、晋である。
   北魏、東魏、西魏、西晋、東晋も後の呼び名です。
   (西)晋が、異民族である鮮卑・凶奴に追われて、首都を洛陽・西安から建康(南京)に
  移したのが(東)晋であり、(北)魏から別れて、(西)魏・(東)魏になりました。

   「唐や宋に連なる北朝の北魏や東魏が正統の魏であり、時代は前だけど3世紀の魏は曹操
  が盗んだ魏である」という意識であり、(曹)魏と名付けた。
   旁(つくり)に三本横棒が消えたら、「尤も龍」の書体となる。
   316年以前は「尤も龍」も三本横棒が入った字でなければ、「龍」でなかった。
   しかし元の意味を忘れて三本横棒が無くなり、旁が「尤」となった。
   さらに乱暴な話だが、旁は「犬」になり、「犬龍」になる。
   しかしこれはまずいのではないか。
   龍は犬の一種であると言っても誰も信用しない。
   この鏡は旁(つくり)が「犬」ではまずいので点を取って、「大」になったのではないか。
   「青龍3年」の銘そのものは、(曹)魏の年号であると思う。
   しかし書体は4・5世紀である。
   古墳も4・5世紀である。






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Re: Title

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月21日(月)12時12分15秒]

元の発言 [ Title ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月20日(日)21時17分30秒 ]

>> >> A〜F区は、田崎氏が勝手につけたのじゃ無くて、2次調査の調査区番号です。
>> >> ですから5次の住居址とは別です。
>> >> 詳しくは福岡市埋蔵文化財センターで聴くといいでしょう。
>>  市教委ので、区をアルファベット表記しているのはないみたいですが?
>>  県教委の、
>>  「福岡市高速鉄道関係埋蔵文化財調査報告II
>>   西新町遺跡
>>   福岡市埋蔵文化財調査報告書第79集(1982)」でしょうか。
>>  これには“A〜区”が付いています。住居記号は“J-”で、D区6号竪穴住居は「D-J-6」となっています。

 よく見て下さい「福岡「市」埋蔵文化財調査報告書」ですよね。あと、「SC」は福岡管内で「住居」を呼ぶ時の通称(記号)で、「J」も住居の略でしょうが、田崎氏など、論文で二次使用する時は、各報告の「住居」を「SC」としています。

>> >> それと、西新町の布留系甕を加賀南部産とするのは、かなり異論があるようです。もちろん、畿内産ではなく、地元の製作とする説もあります。
>> >> あと、西新町遺跡の「畿内系」土器は、よく見ると、畿内のそれと似ても似つかぬものですよ。土器のモデルは畿内系でも、地元で変容して独自変化してしまったようです。これは西新町に限らず、同時期の北部九州の「畿内系」土器のほとんどがそうです。
>> >> だから、「畿内系」が多いからって、畿内の人がその土器の割合でそのままいたと短絡するのは危険です。
>>  2001年出版の書籍に、まだ「西新町式土器編年」が曖昧で、曖昧に「西新式」、「近畿系」と呼称していたかもしれない時代の資料をつかうか。(^_^;)
>>  上記の市教委第五次調査のほうが十年新しい(1992年)調査だし、土器も纏まって出土しています。
>>  また、同調査報告書の付論で奥田尚氏は、
>>  「大和型庄内甕は大和で作られ、各地に運ばれた甕ではなく、播磨地方特産の甕といえる。
>>  同様に、吉備系の甕は岡山市付近で、東海系の甕は三重県津市から鈴鹿市付近にかけての地域で、
>>  かって備讃瀬戸系といわれた阿波系の甕は徳島市付近で、
>>  布留系の甕は加賀南部で、時期が僅かに異なって独自に製作され、
>>  各地に運ばれた結果の1つが纏向遭跡の土器の出土状況であるといえる。
>>  西新5次出土の土器で纏向遭跡と同じようなことが言えるのではないかと考えて考察した」
>>  と述べています。
 知っています。だから、それに対して異論があることを紹介したのです。理由は、根本の加賀の布留系甕
と西新町の布留系甕(ちなみに博多59次の調査報告でも奥田氏は同じことを言ってますが)とは、口縁部の形態や調整など、型式的に異なるからです。なお、韓国南部に行ってるとされている北陸系土器とされるものも、西新町や博多の布留系甕とむしろ同じと言う意見もあるようです。ここでの胎土分析は、胎土中の砂礫の岩石・鉱物鑑定ですが、微少な砂礫をどこまで同定できるか、胎土の精選や調合過程で地元の河川流域で一般的な砂礫構成と異なるものに化ける可能性もあるなど、一定の有効性は持ちつつも(胎土中の砂礫が比較的大きく、胎土があまり精選されてない場合にはかなり有効)、まだ若干の問題を残します。あるいは、庄内甕や布留甕のように、この時代の特殊な作りの土器は、胎土を他の器種と異なり特別なものをやや遠くから選んで運んでる可能性もあります。その場合、在地の河川流域では一般的でない砂礫が入る可能性も考慮すべきです。蛍光X線分析など他の方法での検証が必要なのです。あと、北部九州の庄内甕は、このように播磨の甕とする意見もありますが、石野氏の「邪馬台国の考古学」に紹介されているように、「筑前甕」であり地元のものであるという有力な意見があります。そう言えば、福岡市埋蔵文化財センターの受付で庄内式土器研究のバックナンバーの一部を売ってましたので、見られてはいかがでしょうか。


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Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月21日(月)12時12分55秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)02時24分57秒 ]

私は倭人伝の音訳語の音価を次のように調べています。
(1)倭人伝での音を
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/5468/on.jpg
(長田夏樹氏「邪馬台国の言語」3世紀洛陽音の推定)とし、
(2)それがそのまま上代につながった場合に、8母音にどのように対応するかを
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/5468/8boin.html
(森博達氏「上代特殊仮名遣いに就いて」)を各行ごとに各段を比べ推定する。

長田氏
『魏・晋の洛陽の音韻体系・・・(略)この洛陽音が、「切韻」で代表される中古中国語の音韻体系
ではなく、大矢透博士の言われた周代古音、すなわち詩経から後漢に至る詩の押韻が代表する上古中
国語の音韻体系であるに指摘することにとどめておこう。ここで問題とする「魏志」倭人伝に表れた
訳音を訓むためには、再構された魏・晋の洛陽音の体系によらなければならないとする論拠を理解し
ていただけるだろう。』

森氏の批判
『長田氏は、中国人の学者の説を参照して擬定した上古音と中古音とを見比べ、その中間的な音を三世紀
(氏は、上古後期ともいう)の洛陽音と見なしている。当時の韻文の押韻例を利用しているのは「魚」・
「虞」・「模」三韻にとどまる。また、胡語音訳例を利用しているのは「魚」・「模」二韻に限られている。
・・・(かなり略)
右の例からもうかがえるように、三世紀の韻母の音価推定は容易ではない。』

というわけで倭人語の音価推定は困難です。しかし、できるだけ近い音を知るためには、
このような方法しか今のところ思いつきません。
少なくとも、いわゆる中古音、上古音をそのまま使うよりは近い音になっていると思うのです。
(新たに他言語での音訳例を増やせばいいのだけど・・・。専門家じゃないしなあ。)

>> 長田氏が当ててある音を、上代の8母音であらわすならばどうなるか、
>> ということです。私は韻尾が大事だと思っています。
>> (介音+主母音)→韻尾

>>
>>
日本語の8母音が二重母音のようなものの性格によるものだとすれば、
中国語の韻尾も重要だということです。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ア段かオ段甲かといえば、万葉集でもア段のほうが使用率が高いし、
基本的にア段なのでしょうけど。
でも、決めつける訳にもいかない雰囲気ですよね。
転訛まで考慮すると「都」は、「た−と」としかいえないのかな。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そのように考えるのが妥当だと思います。(でも定説ではないんですよね。)

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
「載」「対」「鬼」「惟」が使用されているので、
私は単純に「すでに3世紀にあったのか」と思ってしまいます。
想像力が働きませんです。

>> 上古だと同じようですが、時代が下ると「巳」だと「ziOi」では?
>> 「巳」を「い」と読まれると辛いので。

>>
語頭に濁音が来るとまずいのと「巳」と「己」の両方が用いられたので、
簡単に切替えられたのかな、なんて思っています。
「己百支」は広志の逸文からですか、う〜ん。
「已百支」と読めるものを、見たことがないので。

>> 韻尾が「i」ではないので、ウ段が適当な気がします。

>>
>>
>>
>>
>>
「躬」のほうもそうでした。「ク」が近いような。
それで「臣」ですが、(2)でザ行をみると
エ一 iεi オ乙 iO
イ一 iOI ウ yu

長田氏の音価だと「ziΘn」なので、
「ジ」=「巳」=ziOiと対比と
母音変化の様子からは「ずん」が近いと思えるのです。
現代の音でいうと「じゅん」みたいな感じですけど。



608

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ↑ミス

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月21日(月)12時21分10秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 1月21日(月)12時12分55秒 ]

あれ、変なこと書いてた。
森博達氏の本は
「古代の音韻と日本書紀の成立」です。
書き直したとおもってたのに。


609

Re: Title 承前 ねたろうさんへ、

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月21日(月)12時39分52秒]

元の発言 [ Re: Title 承前 ねたろうさんへ、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)10時18分32秒 ]

>>
>>
googleなら、キャッシュを見れば大概読めるかと。

Not foundなのは、おそらく過去ログが壊れているからで、検索エンジンでは
どうしようもないと思いますが。




61

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月5日(土)13時23分11秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月4日(金)03時18分16秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
 そんなことより、根拠を示さぬ断定、相手のレスに対する愚弄、威圧的命令形の文末などを慎んでください。
 私の知る限り新人さんたちの参加が少なくなったのは、貴君の上述のようなレスがアップされだしてからです。

>>
 そのような遺跡がないことは、福岡県教委の方に聞いたことを以前レスしています。



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Re: 逆にしてみました。

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月21日(月)13時07分18秒]

元の発言 [ Re: 逆にしてみました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月20日(日)00時58分17秒 ]

こんにちは。

>>
>>
>>
#それが本当なら、たいへん結構ですが。
私は考古学の先生には、糸島平野を伊都国、福岡平野を奴国と呼ぶのさえはばかるくらいストイックであってほしいと思っています。
ましてや、文献にありもしない早良国を、そういう概念を提唱するのはよいのですが、文献にある伊都国、奴国と同列に論じるのは研究者の良心に恥じないのかな〜、と思っています(寺澤薫のことです)。

>>
>>
>>
#これはいい傾向ですね。わたしも、アンチテーゼのつもりで「前方後円墳の被葬者は記紀の天皇ではない」と主張してみたら、それがとても当然のことだと気が付きました。

>>
>>
>>
>>
#過去のおにりんさんの発言をも考慮すると、大和と玄海灘諸国には活発な経済的、交流がある(もしかしたら政治的にも、よその国から勲章をもらったり)。したがって、玄海灘諸国は女王国の版図ではありえない、とお考えのようですね。でも、活発な経済的交流を行っていた主体は、政治的には卑弥呼の元でまとまっていたという可能性が、なぜ否定できるのですか。卑弥呼がどこにいたか(政治の中心)はおいておいて、経済の中心は明らかに玄海灘諸国だった。

>>
>>
>>
#玄海灘諸国は大和の勢力範囲だというおにりん説も、インチキさ加減は似たようなもの ;;;; ^ ^)__




611

Re: 逆にしてみました。

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月21日(月)13時10分11秒]

元の発言 [ Re: 逆にしてみました。 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 1月20日(日)09時33分32秒 ]

>> 九州説派も多いのだから,
>> 詳しく調べて論戦して貰えると,
>> 見ている方は楽しみが増えます。
# そうですね。わたしはひたすら不勉強で、ちゃちゃを入れるだけです。
考古学が論じられるのは、オヤジッチさんしかいないみたい。


616

Re: Title 承前 ねたろうさんへ、

投稿者[ 紀 智明 ] 発言日時 [1月21日(月)14時59分17秒]

元の発言 [ Re: Title 承前 ねたろうさんへ、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)11時42分51秒 ]

>>
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/bbs0107/bbs/301.html


 議論になっていないではないでしょうか。
 (曹)魏または(西)晋に、このような書体があったなどという論証はどこにもない。



618

Re: Title

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月21日(月)17時24分53秒]

元の発言 [ Re: Title ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月21日(月)12時12分15秒 ]

先ず、上述のレスは卒善さんへの反論では有りませんので、悪しからず。

>> >>  県教委の、
>> >>  「福岡市高速鉄道関係埋蔵文化財調査報告II
>> >>   西新町遺跡
>> >>   福岡市埋蔵文化財調査報告書第79集(1982)」でしょうか。
>> >>  これには“A〜区”が付いています。住居記号は“J-”で、D区6号竪穴住居は「D-J-6」となっています。
>>  よく見て下さい「福岡「市」埋蔵文化財調査報告書」ですよね。あと、「SC」は福岡管内で「住居」を呼ぶ時の通称(記号)で、「J」も住居の略でしょうが、田崎氏など、論文で二次使用する時は、各報告の「住居」を「SC」としています。
 県教委の棚にありました。地下鉄工事に伴う一連の調査報告書の一つです。
 福岡「市」“が”ではなく“の”なんだナ。と思って見たんですが、山陽新幹線新幹線関係も同様の表題でしたので、私の勘違いでしょう。

>>  知っています。だから、それに対して異論があることを紹介したのです。理由は、根本の加賀の布留系甕
>> と西新町の布留系甕(ちなみに博多59次の調査報告でも奥田氏は同じことを言ってますが)とは、口縁部の形態や調整など、型式的に異なるからです。なお、韓国南部に行ってるとされている北陸系土器とされるものも、西新町や博多の布留系甕とむしろ同じと言う意見もあるようです。ここでの胎土分析は、胎土中の砂礫の岩石・鉱物鑑定ですが、微少な砂礫をどこまで同定できるか、胎土の精選や調合過程で地元の河川流域で一般的な砂礫構成と異なるものに化ける可能性もあるなど、一定の有効性は持ちつつも(胎土中の砂礫が比較的大きく、胎土があまり精選されてない場合にはかなり有効)、まだ若干の問題を残します。あるいは、庄内甕や布留甕のように、この時代の特殊な作りの土器は、胎土を他の器種と異なり特別なものをやや遠くから選んで運んでる可能性もあります。その場合、在地の河川流域では一般的でない砂礫が入る可能性も考慮すべきです。蛍光X線分析など他の方法での検証が必要なのです。あと、北部九州の庄内甕は、このように播磨の甕とする意見もありますが、石野氏の「邪馬台国の考古学」に紹介されているように、「筑前甕」であり地元のものであるという有力な意見があります。そう言えば、福岡市埋蔵文化財センターの受付で庄内式土器研究のバックナンバーの一部を売ってましたので、見られてはいかがでしょうか。
 重要情報をありがとうございます。
 こちらにお住まいのご様子、今後もよろしくご教授下さい。
 私は春日市の住人です。一度お会いしたいものです。


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Re: 率善さんへ、

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月21日(月)17時50分16秒]

元の発言 [ Re: 率善さんへ、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)14時15分34秒 ]

脇からすみません。m(__)m

>>
>>
>>
>>
>>
 1)の筑後方面の土器には八女を中心とする、ジョッキ形土器があるんだったナ。
 2)については何か特徴的なものがありますでしょうか。
  西ノ迫あたりの土器が面白いのかナ。
 3)については以前レスした通り、
  狗奴国南部九州説の根拠の一つだと思うけど、
  三世紀前後の南部九州は筑紫とは異質で、免田式土器の文化圏でしょう。

 詳しくは、率善さんのレスをお待ちします。
 素人が踏込んではならない袋小路じゃなければ良いけど。(^_^;)



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Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月5日(土)13時31分38秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月5日(土)10時03分16秒 ]

>> >> >>  古墳時代の前期古墳。大牟田市黄金町1丁目に所在。
>> >> 古墳時代前期でしょ。弥生時代後期じゃあないですね。
 「卑弥呼は古墳時代」でしょうが。(貴方は常々そうレスしてる)

>> >> 古墳時代の定義はご存知ですか?
>> >> 全国に前方後円墳(前方後方墳)がどわっとできる時代で
>> >> す。
 いまは三世紀の円墳を議論してる。

>> >> >>  インターネットにここまで載ってるか。
>> ね。すごいでしょ。
 は!?

>> おにりんさんはかって30m程度の円墳はないとおっしゃったので、それが何時の時代かの話ではなかったようなきがします。
>> 近畿系とは何を注して言うのでしょう。
>> 前方後円墳ならいざ知らず、前方後方墳でさえ近畿系でない(近畿と対立があったみたいな言い方をする向きがある)といわれている時に円墳を近畿系という理由は?
 は!?

>> 東北では大和政権が古墳築造を禁止した後の8世紀に前方後円墳が作られています。
>> これらの墓制が支配従属関係を示す物ではないことは明らかです。
>> 北九州にある前方後円墳でも支配従属関係があった証拠ではないでしょう。
 は!?
スレッドの流れを無視し、私の論点を自分のもののようにすり替えるおつもりか。


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Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月21日(月)18時12分01秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月19日(土)00時09分03秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
 合議制の範囲が、「同一水系の各集落単位」から「隣接する水系にまたがる範囲」「一平野全体に及ぶクニ」へと次第に広がっていったと言うことでしょう。
 以前レスした、
 「装飾具=当番腕章→副葬品」じゃないでしょうか。
 王になった時点で威信財を持ち、墓に持っていく、次の王にはまた王になった時点で威信財が集る。
 ある時、他人に譲りたくない王が出現して秩序を(大)乱す。

>>
>>
 私も半分乗った!
 ただ、そうなると考古学的には困るかも。(^。^)



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Re: Title 承前 ねたろうさんへ、

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月21日(月)18時34分42秒]

元の発言 [ Re: Title 承前 ねたろうさんへ、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)13時38分11秒 ]

こんばんは

>>
>>
そうですか。
だとしたら、過去ログが移動してデータがまだ更新されてないんですね。
その場合、Not foundのURLの~andreusを~k-saltに書き換えれば読めるはずです。
たいした手間ではないですが、まあ、いくらかめんどくさいかもしれませんね。




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Re: 率善さんへ、

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月21日(月)18時36分45秒]

元の発言 [ Re: 率善さんへ、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)14時15分34秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
難しい質問です。というのも、北部九州は様式的に後期終末でも(在地系は)まだ一定の斉一性を保っているから、見分けつかないのです。特に、筑前と筑後や佐賀平野をぱっと見て区別できる人がいたらこちらが教わりたいものです。ただ、詳しく見れば本当は、単位平野ごとで地域色があるかもしれません。しかしそこまで研究が進んでいません。また、胎土で、これは違う流域のものではないかと感じても、さあどこかと言うと他を見てなければなんとも言えません。ましてや、仮に吉野ケ里のあたりの人や八女あたりの人が福岡に来て土器を作っても、多分見分けがつかないでしょう。その点、むしろ近い糸島の方が福岡平野に対して弥生中期以来、地域色を若干持っているので、少し区別できます。答えにならないですね。とりあえず、搬入品があれば胎土上分かるので、そういうものはあまりない(多少あるが多くはない)だろうと答えておきますか。あと、それだけ様式上同一性を保っていると言うことは、人の行き来は常にある、とも言えるでしょう。ただ、それがどれぐらいか、土器からでは分かりません。
 
 それに対して、豊前豊後は、同じ北部九州様式圏と言っても、西瀬戸内との交流による相似要素も多く、もし福岡あたりで出土すればある程度分かります。実際、いくつか指摘できます。彼の地の人が来て作っても多分分かるでしょう(実際に胎土は在地だが、特徴は豊前系とかある)。ただし、これはそう多いものではありません。なお、豊後でも日田のあたりは、筑後川流域ですから、筑前、筑後との共通性がおおきいのですが。
 肥後とか日向とか南九州になると、様式的にかなり違ったものとなるので、見分けられると思います。しかし、これはほとんどないと思います。(わずかにあるが)。
 ただしここで気をつけなければならないのは、人の往来や移動は土器や土器様式の移動を伴う場合が一応は多いと思われるものの、そうではないこともありうるのです。例えば、玄界灘沿岸の特異な形態の石錘は日本海沿岸の若狭湾まで広がり、海人の移動が考えられます。また、後期の九州は土器様式を広げませんが、九州系の鉄器そのもの、その技術が広がることも事実ですし、広形銅鉾は四国に多くでますし、小型倣製鏡も広く分布しますし、破鏡の風習はやはり北部九州起源でしょうし、、北部九州の人間は、あるいは土器のスタイルにそもそもこだわっていなかった集団かもしれないので、、、つまり、仮に移動してもその地の土器を使用することで事足りるとか(九州系石錘が広がっても土器は広がらないことから、特に海人集団にそういう傾向があったかもしれませんね)。
 考古学では、土器がいっぱい出るので、また編年の基本なので、どうしても土器を重視しますが、土器で全てがわかるわけではないこともまた注意すべきことだと思います。
 あと、これは庄内式以降ですが、仮に畿内の中心的大集落である纏向や中河内の遺跡群が北部九州の代表者として行き来するのは伊都国の三雲遺跡か、奴国の比恵・那珂遺跡群でしょう。前者については北部九州の在地系土器がしばらく保持されますが、後者は、ある時期以降、急速に「畿内化」するわけです。ですから、もし、そうした時期の比恵遺跡の土器が纏向とかにもたらされたとしても(これを博多の、とか、西新町の、とか言い換えても同じ)、まあ少ないでしょうがあったとしても、多分、現在の研究レベルでは、あちこちの土器を見まくっているごく一部の研究者以外は、その違いを区別することはかなり困難だと思います。今までは、そういう目で見る人が全くいなかったので、あるいは、纏向には北部九州の土器が全くないとされていることも今後変わってくるかもしれません。じっさい、布留0式から布留1式の時期は、あちらこちらで布留系甕が作られますが、それらを全て見分けられる人は多分いないと思います(よく見れば、それぞれ地域ごとに特徴があるが、微妙な違いだったり、バリエーションの幅に別の地域の甕のバリエーションの幅が重複してしまう)。また、胎土の砂礫構成で見分けようとしている人もいますが、ある程度うまくいってるのですが、型式的な違いとあわない場合があり(承前)、それもまだ問題が多く残っているのです。
 このように、土器の研究は奥深く、またまだまだ分かっていないことが多いということです。

 答えになっているかどうか。





623

Re: 西新町遺跡の土器構成(雑)

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月21日(月)18時50分53秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成(雑) ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月20日(日)01時14分13秒 ]

>>
>>
>>
 あは、褒められてしまった。(^_^;)m(__)m
 どちらかと言うと考古学の“裏話”の方を面白く思うタイプで、率善さんの足元にも及びません。
 裏話として、昨年の春日市の調査で須玖岡本の次世代の首長墓が有ったのではないかと言う遺跡が見つかりました。
 自衛隊病院を作ったときに大々的に削平された丘に残された一画ですけど、
 立派な甕棺と麓から重なった銅鏡片が出土。
 殆ど無傷だった甕棺からは、タバコの吸殻と、軍手が出土。(^。^)



625

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月21日(月)19時52分35秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)19時17分34秒 ]

変な事に気づいたんですが。
実験考古学の立場からすると、彼の土器は、どのように使われ、
本当に、優秀だったのでしょうか?
宗教や考え方でも換ってくると思うんですけど、
実際に使い良くなければ、普及は一時的な流行でしかないと考えますが?


626

Re: 明の軍事って?

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月21日(月)20時04分31秒]

元の発言 [ Re: 明の軍事って? ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 1月21日(月)08時44分33秒 ]

>> >> アチャー
>> >> まず面白い話に感謝します。
>> >> でも、明の軍事情報ってどうなってるのかな?
>> >> 官僚支配の弊害かな?
>> >> 鄭和の航海があるんだから南に無いって事ぐらいわかりそうなもんでしょうに。

>> >> いけない、鄭和の記録は、焚書されたと以前何かで読んだような。
>> >> でも、現実に倭寇に悩まされてたのに似せ者の方が多いと聞いてますが。
>> >> 本物が出てるところまで、全く調査されてないとは?
>> >> 滅んだ理由がわかるような気がします。

>> 詳しくは知りませんが、倭寇=日本人という解釈はどうやら
>> 違うようです。後期倭寇は中国人の方が中心だったようです
>> し、日本人中心の前期倭寇でもモンゴル人と思われる名前が
>> 出て来たりするそうです。どうも元崩壊後に半島に残った元
>> の人の中に倭寇に加わった人達がいたらしいです。
>> さらに元末の群雄の中には、倭寇と繋がりがあった人達もい
>> たとか。
>> また、倭寇関係の史料の中には倭人と日本人を区別している
>> 物があるそうで、倭寇というのは最初は日本人が多かったの
>> でしょうが、かなり無国籍な人達の集団のようです。

>> 中国側としては、日本政府に対して倭寇の禁圧を求めていま
>> すから、日本の事は日本にまかせるという事だったのでしょ
>> う。
>> しかし、南北朝時代などは南朝の懐良親王が倭寇のパトロン
>> だったという説もあるようなので、かなり複雑というか、国
>> 際的というか・・・。

>> 歴史家でも倭寇に詳しい人はあまりいないらしいので、倭寇
>> 関係はこれからの研究に期待してます。

確かに、真倭は、10中1ト書かれたものを読んだ気がします。
でも、其の前の元は、日本に攻めこんでますから、
幾等なんでも、お粗末そぎますね。

何か、情報を歪曲する事で、利益を得ていた人達でも居るのでしょうか?
そんな気がして成りません。

実際の軍事情報にもされるはずの歴史書が役立たずなんて、
日本には、一面ありがたい事ではあるかもしれませんがね。


627

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月21日(月)20時22分08秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 1月19日(土)18時34分59秒 ]

こんばんわ。
ちょっと失礼します。

この感じですと、句那国は、やはり海洋民族的国になると思いますし。
実際に沿うじゃないかと思います。

でひとつきになったことがありまして。
貴説では、姫島や、別府湾に有った島をどのように位置付けているのでしょうか。

姫島は、縄文時代からの交易拠点の一つ。
もう一つは、現在不明ですが、
やはり公益拠点の一つになり得る存在です。
実際、戦国時代に拠点が置かれており、
湊としては非常に優れた環境を持っていたようです。

もし、縄文時代から存在した島なら可能性は、非常に高いと想像できますが。


628

魏尺晋尺

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [1月21日(月)20時37分22秒]

 現存する魏の尺定規には甘粛省博物館蔵の骨尺ほか数点が知られていますが、これらは1尺23.8cmであります。一方、西晋の尺定規は24cm超であります。
 1尺の長さは一貫して微増傾向にありますが、それでは何時の時点で最も24.0cmに近づいたのでしょうか。

 晋書律暦志によれば、魏景元四年(263)に劉徽が王莽の桝の深さを測って現在の1尺より4分5厘短かく、魏尺で9寸5分5厘と記しておます。現存する王莽の桝は容量と寸法がともに銘打たれているものが多数あり、紀元前後の度量衡を正確に再現できます。複数の王莽桝から王莽尺が23.08cmと判明しておりますので
 23.08÷0.955=2.416754
で、当時の1尺は約24.2cm弱です。
 2.416754×0.045=1.087539,2.416754−1.087539=23.08
で、4分5厘短かいことも整合しています。
 ただ、ここで王莽の銅製一丈物差し229.2cmを基準にしますと
 229.2÷10÷0.955=2.400
が求められます。この物差しの現物は3つに折れていますので、計測時の接合の狂いあるいは計測誤差かもしれません。

 以上から、24.0cmに最も近い魏尺が伝来し得るのは、魏−倭の交流が記されている正始年間に比較的近い時期である可能性が高いものと推定できます。

 倭人伝所載の詔書によれば、親魏倭王の叙任とともに下賜された品目の中に多数の繊維製品があります。これらを、外藩王の印綬を帯びるに相応しい中国式の礼法に則った身支度が事実上要求されたものとみる見解がありますが、正鵠を射たものと思います。
 この見解を敷延すると、仕立ての技術と用具としての物差しが時を経ず伝来した可能性を想定することになりますが、中国式の度量衡が伝来し得る契機としては考慮しておくべきではないでしょうか。

 これら古墳に24.0cm尺が使用されていた可能性があるならば、三角縁神獣鏡銘の紀年、漢鏡及び土器編年による年代観、C14やデンドロの測定値との整合性を考慮すると、大変意味深いものと思います。
 しかしながら、1尺の上で2mmの差が全長120m級の古墳にして、1mの差でありますから、古墳の現況が往時のままではないという点、さらに測量誤差(古墳建造時、及び古墳調査時の双方にある)を考慮しますと、魏尺か晋尺かを弁別することは些か困難であろうと思います。ましてや魏晋朝は制度的にはシームレスに続いているのですから。

 ここで目を転じて、三角縁神獣鏡の面径統計を見てみます。出所は京大目録に大古墳展出典資料で修正を加えたものです。舶載分のみ抽出し標準偏差をとると、平均22.2mm±1.2mmに大部分が収まるようですので、その範囲の面径と面数を掲げます。

21.0−*:1
21.1−**:2
21.2−***:3
21.3−*********:9
21.4−*****:5
21.5−*****************:17
21.6−***********:11
21.7−*****************:17
21.8−************************:24
21.9−*****************:17
22.0−***************************:27
22.1−************************:24
22.2−**************:14
22.3−****************:16
22.4−******************:17
22.5−**************:14
22.6−**************:14
22.7−**********:10
22.8−***:3
22.9−**:2
23.0−********:8
23.1−***:3
23.2−******:6

21.5mmと22.7mmに有意な境界があることが見てとれると思いますので、10面超の事例を取り上げることにしましょう。ここで一見21.3mmの鏡は9面と多いように見えますが、個々に見るとほとんどの鏡に21.5mm超の同型鏡があり、仕上げの研磨による縮小か踏み返しの可能性があるので捨象します。

(有意とした分布21.5〜22.7mm)
抱朴子に基づきこれらを9寸以上の鏡であると見なして0.9で割り戻すと
21.5mm÷0.9=23.89mm
21.6mm÷0.9=24.00mm

この24.0mmを基準に据えると
24.00÷22.7mm=0.946
24.00÷22.8mm=0.950
で、9寸5分以内となります。

以上から、三角縁神獣鏡は魏景元以前に使用されていた尺度で製作されている可能性があります。逆にいえば、1尺=24.2cmが完全に定着した魏末あるいは西晋代に入ってからの製造開始である可能性は希薄であると思われます。
 ここで正始五年銘弩機望山から復元された魏尺が既に24.2mmであることにやや不整合を感じますが、この時期は過渡期と位置づけることが可能です。あるいは銅鏡には飛び道具の照準器なみの精度は要求されなかったであろうとも思います。冒頭で述べたとおり23.8の骨尺も出土していることですし、ここは依然としてやや古めの定規を使用している職人を想定してみましょう。十分に可能性の範囲内であろうと思います。
 正始年間というのは、明帝が巨大モニュメント製作のために各地から招集した鋳造工が、明帝崩御に伴う政策変更で突然一気に暇になってしまった時期であります。霊末に破壊された尚方は復興していたものの、かき集められたのは二級の工人でしょう。軍需品を担当した師匠らと鏡師では投入された人材の質も違ったであろうことは想像に難くありません。

 結論を急ぐ意図はありません。古墳から出土するその他遺物の中に中国のいかなる単位が見出し得るか?こんな切り口はいかがでしょうか。


629

Re: 逆にしてみました。

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月21日(月)20時51分04秒]

元の発言 [ Re: 逆にしてみました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)14時06分13秒 ]

>>
#全然通じてない。ストイックであるべきだ、といっているのです。
「伊都国」と呼んだら、それだけで文献にバックアップされた膨大なイメージが伝わってしまうでしょ。考古学者はそれに甘えちゃいけないんじゃないですか。

>>
>>
>>
>>
#全然通じてない。
早良国があたかも文献の伊都国や奴国と同様の実体を持ってしまうでしょ。実態があったことを綿密に論証する手間を省いているわけです。シェアウェアをただで使っているようなもんです。
要するに、私の腹立ちがおにりんさんに通じないことが、「あたなの」問題点なんですよ。専門家にいいかげんに扱われている、それすら感知できないほど洗脳されているんです。おにりん考古学は、やばいですよ。大本営発表の垂れ流しになっているんじゃないかな〜。

>>
 ・・・
>>
>>
>>
#名前はひとり歩きするから、これはいけません。「それ以上の意味」が必ず付いてしまう。
前にも書いたけど、森浩一が仁徳天皇稜-->仁徳稜古墳-->大山古墳と、自分の中での呼び名を変える心の遍歴を書いています。なんとナイーブな、と思ったけれど、これはきっと非常に重要なことなのです。

(以下は、別項にて)




63

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月5日(土)13時39分15秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月4日(金)03時18分16秒 ]

>>  蛇足)「吉備あるいは瀬戸内海西部」だというのは馬具だよネ。
>>     鳥栖・小郡が玄海灘じゃないことと同様。
>>
>>
 妙な追加を「蛇足」と言います。吉備は瀬戸内海西部じゃないし。




630

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月21日(月)21時06分47秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)13時36分35秒 ]

>> (1)倭人伝での音を
>> http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/5468/on.jpg
>> (長田夏樹氏「邪馬台国の言語」3世紀洛陽音の推定)とし、

>>
ひとつの方法くらいに見たほうがいいのでしょうけど。
でも、魚部に対応する日本側の音が全てagだったというのはあまり考え
られないので、上古−中古折衷案みたいなことはしないといけないよう
に思うんですよね。a(弱いg)−auくらい。

ところで、森博達氏が「模」韻の音価が「逆c」と推定する理由です。
『三世紀の西晋以後、各時代の訳経者が梵語の各子音字母をいかなる
漢字によって音訳したかを示した一覧表である「切韻音系」所載の
「圓明字輪譯文表」において見出される。
梵語の各頭子音を漢字によって音訳しようと意図したものだが、
頭子音のみでは音訳できないため、母音/a/を添えた音節を
音訳している。用いられた音訳文字の韻部は、原則として
「歌」韻と「麻」韻を用い、「模」韻はいっさい用いていない。
これから「模」韻が奥舌的性格を持っていたことが推測される。』

「あ」と断定するのは、やはり危険でしょうね。
あと、中古音に傾きつつあったことを物語っているのでしょう。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
「対海」とか「一大」の音訳は、地理的な条件を考えると
3世紀をかなりさかのぼってもおかしくはないですよね。

>> 日本語の8母音が二重母音のようなものの性格によるものだとすれば、
>> 中国語の韻尾も重要だということです。

>>
>>
>>
長田氏は上古中国語後期では韻母が中古音にかなり
移行していたとしているわけです。
たとえば、推古朝の文献で之韻の<意>、<己>、<止>、<已>、<里>が
オ・コ・ト・ヨ・ロのオ列乙類をなしているのは、
この上古中国語後期の音韻の影響だとしています。
他の研究者の説も参考にしているようですし、ひどく間違ってるとは
思いません。

>>
>>
>>
>>
これは違うような気がします。
森博達氏のいわれるように、
イ、エの甲乙は中核母音が前舌か非前舌かの対立で
オの甲乙は、母音の奥舌と中舌の対立でしょう。
もちろん、微妙な音は介母音も関係するでしょうけど。



631

Re: 三角縁神獣鏡が魏鏡でなく、倭鏡である根拠はなに?

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月21日(月)21時25分09秒]

元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡が魏鏡でなく、倭鏡である根拠はなに? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)03時05分03秒 ]

>>  ブランド物のTシャツが全盛のころ、韓国で作ってロゴをプリントしてましたよネ。
>>  ロゴを入れる前の横流しが全く同じ素材(当たり前だけど)で十分一位の値段になって柳橋辺りで売りよったゲナ。
>>
>>
>>
>>
>>
 卓見です。感服しました。
 だとしたら、「卑弥呼の時代に大和に大和朝廷の萌芽があった」とは言えても、
 「それが邪馬台国だ」とは断定できないのでは?
 「だから九州にあった」などとも言えませんけどネ。
 



632

Re: 魏尺晋尺

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月21日(月)21時37分38秒]

元の発言 [ 魏尺晋尺 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 1月21日(月)20時37分22秒 ]

>>  結論を急ぐ意図はありません。古墳から出土するその他遺物の中に中国のいかなる単位が見出し得るか?こんな切り口はいかがでしょうか。

お聞きしたい事がありまして。
去年、発見されて残念ながらすぐ壊された、古墳がありましたね。
火山の噴火で埋もれ、出来たばかりの形を残していた奴です。
これは、やはり晋尺で作られた物なのでしょうか?

この古墳こそ、残しておくべきものなのに、おろかな連中には、困ったものです。



633

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月21日(月)21時56分58秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月21日(月)19時52分35秒 ]

>> 変な事に気づいたんですが。
>> 実験考古学の立場からすると、彼の土器は、どのように使われ、
>> 本当に、優秀だったのでしょうか?
>> 宗教や考え方でも換ってくると思うんですけど、
>> 実際に使い良くなければ、普及は一時的な流行でしかないと考えますが?
 少しピントが外れますが、
 庄内式甕なるものを最初に見たとき「粗製濫造」の印象がありました。
 北部九州の土器は須玖式土器のもの以来無駄な装飾がなく、
 叩き目を丁寧に丹塗磨研あるいはナデケシしていますし、
 西新町式も古いものは叩き目をナデケシしているのに、新しいものは叩き目が“そのまま”です。
 何らかのブランド品、大量生産品? 


634

Re: ありがとう

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月21日(月)22時02分24秒]

元の発言 [ ありがとう ] お名前 [ iにゃん ] 日付 [ 1月19日(土)22時38分22秒 ]

>> わかりました。巻向型古墳だとうれしいですね。
 以前おにりんさんに対してレスしましたが、
 平成3年の調査で、前方部にトレンチを入れて前方部を調査、
 定型タイプの「前方後円墳」である墳丘と周溝が確認されました。


635

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月21日(月)22時10分23秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月21日(月)20時22分08秒 ]

>> こんばんわ。
>> ちょっと失礼します。

こんばんわ。どうぞよろしくです。

>> この感じですと、句那国は、やはり海洋民族的国になると思いますし。
>> 実際に沿うじゃないかと思います。

けっこういいでしょ(笑)
でも、ここは大杉氏の受け売りですけど。

>> でひとつきになったことがありまして。
>> 貴説では、姫島や、別府湾に有った島をどのように位置付けているのでしょうか。

>> 姫島は、縄文時代からの交易拠点の一つ。
>> もう一つは、現在不明ですが、
>> やはり公益拠点の一つになり得る存在です。
>> 実際、戦国時代に拠点が置かれており、
>> 湊としては非常に優れた環境を持っていたようです。

>> もし、縄文時代から存在した島なら可能性は、非常に高いと想像できますが。

中国−瀬戸内、近畿間の交易を考えると、瀬戸内海航路は重要であったし、
もちろん途中の島々も重要であったはずです。
ここで本音をいうと「塩飽諸島」=「巳百支」の範囲がよく分からないのです。
現代ではHPの地図で表したような範囲なのですが、
もしかすると瀬戸内海のかなり広域にわたる範囲の可能性もあります。
姫島あたりまではいるかもしれません。
もちろん、そうなると旁国というには不適当ですけど。
(でも島々の結束ってのがあってもいいですよね。)

それから「巳百支」には意味があるかもしれないと思っています。
「一支」との対比を考えると、「百の島々」という意味です。
もちろん、国名はほぼ単なる音訳だとは思うのですが、
「百」はあまり音訳で使われる文字ではないし、なぜ「巴」を使わなかったか
ということもあります。
きっと魏使は多島美に喜んだのではないか、と想像するのも悪くはないですよね。

姫島ですが、縄文時代からの交易拠点であったならば、
四国西部に比定している投馬国に向かうときには必ず立ち寄ったでしょうね。
やはり銅矛圏にあたるのでしょうね。

ところで豊予海峡を渡るときには、佐賀関−佐田岬が古来から使われたんでしょうか?
あと、瀬戸内海航路と比べるとどのくらい大変なのでしょうね。


636

Re: 逆にしてみました。

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月21日(月)22時57分30秒]

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月21日(月)13時10分11秒]
>> # そうですね。わたしはひたすら不勉強で、ちゃちゃを入れるだけです。
>> 考古学が論じられるのは、オヤジッチさんしかいないみたい。

# 先頭にします。


畿内説の場合,記紀や考古学から,大胆に目星をつける,
といった感じだったが,遺跡の発掘や編年が進み,
強みが出てきたわけです。

その雰囲気は,次のサイトで際だっています。

シンポジウム/「伊都国とヤマト政権」
http://kyushu.yomiuri.co.jp/ido/ido.htm


ところが,

端から見ると,九州説がムリを重ねていたように見えるが,
手法としては,九州説に手堅い感じのがあって,
倭人伝,記紀・伝承,考古学から綿密に詰めてゆく型。

安本氏の「邪馬台国の会」や谷川健一氏などです。

非常に興味深い材料が増えてきたので,
九州説対畿内説で戦うより,
碁石を置いてゆくと,自然に全体像が見えてくる感じ。




637

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月21日(月)23時39分12秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月21日(月)21時56分58秒 ]

>> >> 変な事に気づいたんですが。
>> >> 実験考古学の立場からすると、彼の土器は、どのように使われ、
>> >> 本当に、優秀だったのでしょうか?
>> >> 宗教や考え方でも換ってくると思うんですけど、
>> >> 実際に使い良くなければ、普及は一時的な流行でしかないと考えますが?
>>  少しピントが外れますが、
>>  庄内式甕なるものを最初に見たとき「粗製濫造」の印象がありました。
>>  北部九州の土器は須玖式土器のもの以来無駄な装飾がなく、
>>  叩き目を丁寧に丹塗磨研あるいはナデケシしていますし、
>>  西新町式も古いものは叩き目をナデケシしているのに、新しいものは叩き目が“そのまま”です。
>>  何らかのブランド品、大量生産品? 

お答えありがとうございます。
ただ、昔の人のやってる事には以外と無駄が無いものだと思いますので
庄内式甕と須玖式土器は、使用目的が違うか、条件または、
使い方が事なると考えるべきだと思うんでっすが?
確かに、大量生産品でアルかもしれません。
でも、其の必要が無かったか、叩き目を利用していた可能性は?


638

Re: ありがとう?

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月21日(月)23時46分27秒]

元の発言 [ ありがとう ] お名前 [ iにゃん ] 日付 [ 1月19日(土)22時38分22秒 ]

>> 晋尺=24.2cmとして9割なら21.78cm。
>> あれも晋以降じゃないの?
>> だとすると、晋代の鏡!?!うそ?!じゃ魏の鏡ではない。

あのねー(^^;
魏尺=24.2cmって大場嘉門さんが証拠あげてるじゃないですか。


64

↑レスの付く位置が変

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月5日(土)13時43分36秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月5日(土)13時31分38秒 ]

牛頭さんへのれすではありません。
上のおにりんレスにレスしたのにここに付いちゃいました。


642

Re: 率善さんへ、

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月22日(火)01時48分06秒]

元の発言 [ Re: 率善さんへ、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月22日(火)01時13分53秒 ]


>> その点、むしろ近い糸島の方が福岡平野に対して弥生中期以来、地域色を若干持っているので、少し区別できます。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
前にも書きましたが、永留氏の本は、単に北部九州系と言う意味で、「奴国」系と書いてるだけでしょう。伊都国(糸島)の地域色があまり分からない段階での本だと思います。原ノ辻の弥生〜古式土師器は、全てではないですが、搬入品もかなり含みそうで、しかも糸島系がかなり多いようです。

>>  それに対して、豊前豊後は、同じ北部九州様式圏と言っても、西瀬戸内との交流による相似要素も多く、もし福岡あたりで出土すればある程度分かります。

>>
>>
>>
 けっこうあります。宇佐では小部遺跡と言う庄内〜布留古相の首長居館を含む拠点があります。駅館川対岸に、赤塚古墳や、庄内期の墳丘墓の川部遺跡(八禽鏡など出土)があります。大分市あたりでは、下郡遺跡群や守岡遺跡が著明です。これらは、周囲の集落より外来系土器の搬入が多いことや、「畿内系」様式の受容が早い点で注意されます。豊前北部では、川の上墳丘墓群がありますし(庄内期に鏡数面)、少し地域が異なりますが、石塚山古墳などの前提となります。
 ただ、都市的とも言えるほどの巨大集落は無さそうです。並みの拠点集落が各小地域にある程度ですかね。下郡遺跡が少し大きそうですが。
 あと、豊後でも日田の方では、小迫辻原遺跡と言う、弥生時代的な方形環濠から(ただし環濠外にも住居があるので、特定の人たちの区画)、古墳時代初めの整備された首長居館への変遷が分かる遺跡があります。ここも「畿内系」土器が多数出土し、周囲の他の遺跡と異なる様相です。


>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ただ、マツロ国が4千戸で、伊都国が千戸とは、、ちょっと納得いかない。糸島は遺跡密度がかなり濃いですし。戸数は、実際は誇張された相対表示だと思います。私は魏略の萬余戸説を支持しますが。奴国も、南は筑紫野市あたりまでで、それより南は津古生掛があるなど、別の「国」がいくつもあると思います。
倭人伝にあるかは別ですが。
>>このあたりでね、庄内式や布留式の時代において、纏向遺跡の外来土器がどうのこうのというときに、九州のものだけが、「そもそも、近畿系土器に近くなっちゃったから近畿系土器と区別がつかない」ってことになっちゃうと、じゃあ、ほかの地域は、土器の一斉化からとりのこされているのか?ということになるじゃないですか。、瀬戸内海、四国、山陰、北陸、東海などなどは、それぞれ独自性のある土器をもっているわけでしょ。
 
 まず九州も一斉にかわる分けではないことは承前。ただそれでも、九州の拠点と畿内中枢が土器様式の上で同一化(大きく見た場合)するのは注意されていいでしょう。あと、そういう遺跡が(「畿内的土器様式化」する遺跡)、瀬戸内回廊の沿岸の港湾的な拠点集落に飛び地的にいくつか存在するようです。また北陸南部(加賀)あたりにもあります。その意味をどう考えるかですね。吉備や山陰や東四国や、近江なんかは布留古相までは独自色を残しますが、布留中頃から新相にかけて斉一化します。
 あと、東海以東は、なんか土器の製作技法体系も異なるというか、台付甕が多く残ったり、なかなか斉一化しません。生活様式と言うか、文化がかなり違うような、、それでも無理矢理斉一化する時期はと言えば、古墳時代中期まで待たねばなりません。




644

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月22日(火)07時49分11秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月22日(火)00時55分16秒 ]

>> これは違うような気がします。
>> 森博達氏のいわれるように、
>> イ、エの甲乙は中核母音が前舌か非前舌かの対立で
>> オの甲乙は、母音の奥舌と中舌の対立でしょう。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
この表を参考にします。
中国語原音による音訳と考えられるので価値があります。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/5468/8boin.html

基本的にイ段甲はieであり、イ列乙はIOIです。
また、エ段甲はeiであり、エ列乙は∧iです。
ただし、ハ、バ行のイ列乙は、Ieとなっています。
(「之」韻は唇音字をもたないので、唇音の
「ヒ乙」「ビ乙」「ミ乙」には使えない。)
これらから導き出せる結果は、イ段エ段の甲乙の
対立は中核母音の前舌か非前舌か、ということになると思います。

森博達氏の服部氏に対する批判
『服部氏の説く如く、中核母音が共通であり、子音の口蓋化と
非口蓋化にその弁別的特徴が認めたのならば、甲類に「支」「脂」
両韻のA字類を用いるα群の表記者は、乙類にはそれぞれのB字類
を用いて、主母音の異なる「之」韻字は用いなかったはずである。
ところが実際には、声母による制限を受けない「キ乙」「ギ乙」
両音節において、B字類が用いられずC類である「之」韻字のみが
用いられている。イ類の甲類と乙類との違いは、音韻論的にも
中核母音の前舌対非前舌の違いと見ざるを得ない。』

>> もちろん、微妙な音は介母音も関係するでしょうけど。

>>
>>
>>
>>
>>
森博達氏
『以上、オ列乙類の各音節を検討して、「魚」「登」両韻の出現
の偏りや比率の違いの理由が明らかになった。「魚」韻は拗介音
をもつ点で、「登」は-ng韻尾が耳立つ点で、それぞれオ列乙類
に最適とは言い難いが、他にもっと適当な韻類がないので、この
両韻を用いざるを得なかったのである。・・・(略)したがって、
オ列の甲類と乙類は、主母音が奥舌であるか中舌であるかによって
弁別されたと推測される。』

詳細は量があるので書けません。
「古代の音韻と日本書紀の成立」の受け売りですが、相当に
説得力があります。



648

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月22日(火)19時00分16秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 1月21日(月)22時10分23秒 ]

>> >> この感じですと、句那国は、やはり海洋民族的国になると思いますし。
>> >> 実際に沿うじゃないかと思います。
>> けっこういいでしょ(笑)
>> でも、ここは大杉氏の受け売りですけど。
>> >> でひとつきになったことがありまして。
>> >> 貴説では、姫島や、別府湾に有った島をどのように位置付けているのでしょうか。
>> >> 姫島は、縄文時代からの交易拠点の一つ。
>> >> もう一つは、現在不明ですが、
>> >> やはり公益拠点の一つになり得る存在です。
>> >> 実際、戦国時代に拠点が置かれており、
>> >> 湊としては非常に優れた環境を持っていたようです。
>> >> もし、縄文時代から存在した島なら可能性は、非常に高いと想像できますが。

>> 中国−瀬戸内、近畿間の交易を考えると、瀬戸内海航路は重要であったし、
>> もちろん途中の島々も重要であったはずです。
>> ここで本音をいうと「塩飽諸島」=「巳百支」の範囲がよく分からないのです。
>> 現代ではHPの地図で表したような範囲なのですが、
>> もしかすると瀬戸内海のかなり広域にわたる範囲の可能性もあります。
>> 姫島あたりまではいるかもしれません。
>> もちろん、そうなると旁国というには不適当ですけど。
>> (でも島々の結束ってのがあってもいいですよね。)

姫島は、ご存知の通り黒曜石の産地です。
縄文時代からの通路でしょう。

>> それから「巳百支」には意味があるかもしれないと思っています。
>> 「一支」との対比を考えると、「百の島々」という意味です。
>> もちろん、国名はほぼ単なる音訳だとは思うのですが、
>> 「百」はあまり音訳で使われる文字ではないし、なぜ「巴」を使わなかったか
>> ということもあります。
>> きっと魏使は多島美に喜んだのではないか、と想像するのも悪くはないですよね。

ありえますね。

>> 姫島ですが、縄文時代からの交易拠点であったならば、
>> 四国西部に比定している投馬国に向かうときには必ず立ち寄ったでしょうね。
>> やはり銅矛圏にあたるのでしょうね。

>> ところで豊予海峡を渡るときには、佐賀関−佐田岬が古来から使われたんでしょうか?
>> あと、瀬戸内海航路と比べるとどのくらい大変なのでしょうね。

豊予海峡は、2度ほどフェリーで渡ったここが有ります。
ここは、天候が良ければ、潮流を利用できれば、結構楽に渡れるようです。
が、荒れやすい事も確かです。
外洋の影響も内海に比べると大きいので一般的には難所と言えるでしょう。
やはり内海とは、安定度は、比べ物にならないと考えます。


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なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月22日(火)19時16分08秒]

黒塚にあったように、大量に棺外におけるほど舶来の三角縁神獣鏡を畿内の勢力は
買えたということになりますよね。

かなりの権力の集中がなければ出来ないことですし、朝鮮や中国がそれの対価となる
ものを邪馬台国が持っていなくてはいけないのです。

何を持っていたら鏡が買えたのでしょうね?

中国や半島で食いはぐれた工人が倭国に来ていたのなら、彼らの食い扶持の代わりに、
米とか魚とかで買うことは出来るだろうけど。
買い出しに行くとなると、先方が必要な物を持って行かなくてはなりません。
それも、船に積んで持っていくわけでしょう。
今のように、円とかドルってわけにはいかないので、何を持っていったのでしょうね。

その疑問が解けないうちは、どうも国産の可能性が捨てきれないんですよね。
まあ、国産といっても倭人が作ったと言っているわけではないですが。



65

Re: 承前 「シンポジウム 邪馬台国が見えた」学生社

投稿者[ ふうらん ] 発言日時 [1月5日(土)13時45分30秒]

元の発言 [ 承前 「シンポジウム 邪馬台国が見えた」学生社 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)02時02分28秒 ]

#予備知識のある人が読めば問題ないのでしょうが、そうでないと、かなりわかりにくいですよね。

#包括的な年代観を各論者が示し、その点を議論するようにしてくれないと、困る。

#ちなみに、83年のシンポジウム「三世紀の九州と近畿」はかなり生産的で、当時、邪馬台国=弥生X期と思われていたのが、石野氏や柳田氏が集まったところ、庄内併行ということで一致したと、いうんですね。

#この年代観もすぐに主流となったわけではないようですが。



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Re: 率善さんへ、

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月22日(火)19時56分34秒]

元の発言 [ Re: 率善さんへ、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月22日(火)11時07分59秒 ]

>>
>> 前にも書きましたが、永留氏の本は、単に北部九州系と言う意味で、「奴国」系と書いてるだけでしょう。伊都国(糸島)の地域色があまり分からない段階での本だと思います。原ノ辻の弥生〜古式土師器は、全てではないですが、搬入品もかなり含みそうで、しかも糸島系がかなり多いようです。

>>
>>
>>
>>
その本、読んでないですが、中期後半の丹塗土器の特徴や、弥生終末〜古式土師器は糸島系の臭いがかなり濃いですよ。壱岐は。

>>  あと、豊後でも日田の方では、小迫辻原遺跡と言う、弥生時代的な方形環濠から(ただし環濠外にも住居があるので、特定の人たちの区画)、古墳時代初めの整備された首長居館への変遷が分かる遺跡があります。ここも「畿内系」土器が多数出土し、周囲の他の遺跡と異なる様相です。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
 それ、前に批判した、前方後円墳が近畿系支配者と言う解釈と同じで単純過ぎです。小迫辻原の最初の二つの方形環濠は、突出部の付き方など、佐賀平野の弥生後期以来の特定環濠区画のあり方にそっくりです。吉野ケ里の内郭とかね。隣の丘陵に吹上遺跡と言う弥生中期から後期後半の拠点集落があり、環濠集落ですが、すでに内部区画がありそうですし(断片的ですが)、終末になって地元の首長が「飛び出した」と言う方が正解でしょう。
 畿内系土器の入り方も、徐々にですし、(庄内古相併行段階で」様式系を受容するが、在地系がはじめまだ多い)、五様式系ではあっても、首長層が「畿内」との結びつきを誇示するために積極受容したと言う解釈の方がよさそうです(庄内甕を取り入れるほどインフラがなかったか)。布留0式以降、布留系が流行ると、それをすぐ取り入れるし(ただし福岡平野のそれに似ている)、、、しかし一方、この遺跡の住人が葬られたと考えられる草葉第2遺跡は、弥生終末から古墳はじめの在地系甕棺墓が多いし、、、住居形態も漸移的で、まだ出土鉄鏃などの鉄器も九州在来の系統が多いですし、、
 ちなみに「方形環濠」や「居館」周囲の竪穴住居には、おそくまで在地系も残るし、面白い遺跡です。ですが、先ほど述べたように、支配者層を近畿系の人とするのはまさに「先走り」しすぎです。
 何度も言いますが、土器から移住とか、ましてや支配者層の交代などを述べる場合には、他の事象も合わせて総合的に検討する必要があります。
 



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Re: なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう?

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月22日(火)21時06分09秒]

元の発言 [ なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月22日(火)19時16分08秒 ]

>> 黒塚にあったように、大量に棺外におけるほど舶来の三角縁神獣鏡を畿内の勢力は
>> 買えたということになりますよね。


もらい物ならタダでしょう。


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Re: 逆にしてみました。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月22日(火)21時17分23秒]

元の発言 [ Re: 逆にしてみました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月22日(火)01時49分20秒 ]

>>
 おいっおいっ!(^_^;)
 「博多んもんな〜横道もん、青竹割ってヘコいかくう」
 って言うか、「大和じゃないナ〜」てのが強くなる一方。
 「じゃあ何処か」とひつこく聞かれれば、
 伊都の人と同じく、
 いささか辟易して「だけん!八女タイ(邪馬台)!」と答えるだけ。§^。^§




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Re: 三角縁神獣鏡が魏鏡でなく、倭鏡である根拠はなに?

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月22日(火)21時21分44秒]

元の発言 [ Re: 三角縁神獣鏡が魏鏡でなく、倭鏡である根拠はなに? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月22日(火)10時38分26秒 ]

>>  だとしたら、「卑弥呼の時代に大和に大和朝廷の萌芽があった」とは言えても、
>>  「それが邪馬台国だ」とは断定できないのでは?
>>
>>
>>
>>
 三角縁鏡は根拠ではない、倭鏡でもかまわないと仰ったのでは?



654

Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月22日(火)21時30分13秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月21日(月)23時39分12秒 ]

>> 庄内式甕と須玖式土器は、使用目的が違うか、条件または、
>> 使い方が事なると考えるべきだと思うんでっすが?
>> 確かに、大量生産品でアルかもしれません。
>> でも、其の必要が無かったか、叩き目を利用していた可能性は?
 竈の出現が影響した可能性を考えてます。
 西新町遺跡からは竈に造り付けしたらしい甕(所謂、庄内系)が出てるようです。
 ガスコンロが普及する前後では鍋釜の様式がずいぶん違うようなものかも。
 ただ、須玖式土器は祭祀土器が中心で生活具としてのものは不勉強です。


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Re: なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう?

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月22日(火)22時17分02秒]

元の発言 [ Re: なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう? ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月22日(火)21時06分09秒 ]

>> >> 黒塚にあったように、大量に棺外におけるほど舶来の三角縁神獣鏡を畿内の勢力は
>> >> 買えたということになりますよね。

>>
>> もらい物ならタダでしょう。

まだ下賜鏡だと思っているんですか?
おにりんさんさえ下賜鏡ではないと思っているし、魏鏡であったとしても下賜鏡ではないというのが考古学会の主流になっていますよね。



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Re: 対価は何だったのでしょう?

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月22日(火)22時24分32秒]

元の発言 [ Re: 対価は何だったのでしょう? ] お名前 [ フリーターのにゃん ] 日付 [ 1月19日(土)00時17分49秒 ]

>> いまの常識からすれば、中国は伝統的に海というか、漁師をきらうとのこと。だからか、倭人が海もぐるのでてるのは。
>> なして真珠、送ったのか?皇帝は。卑弥呼はそんなのもらってうれしかったのかな?

さて、如何でしょう?
ただ、ほんとかどうか判りませんが、日本の真珠は、質は、良いが、
比較的ですが、粒が小さい
と言う定説のようです。
だとすると、大きいものだけをえらんで送ったと思います。
これなら喜んだかも、量も多かったようですし。
そう言えば、戦国時代、遣欧使節が、
バチカンで真珠を枢機卿に一握りずつ送ったと言う話もありましたね。

>> 卑弥呼にしても、のちの大王にしても、ある意味倭の王は
>> 海の王なんですよね。記紀には海にかんすることがよくでる。

>> いまそこのとこ、倭人伝みたら、ちよっとおどろいた。
>> 皇帝は「あえて汝にやるぞ」っていってるじゃないですか。
>> 学者のかたはどうしてその中の銅鏡百枚だけを重視するのか。そしてすぐ下位の首長に配布したなどと判断するのか。ほかにもプレゼントもらってるのに。卑弥呼自身にあげるっていってるのに卑弥呼が全部もってるとおもわなかったのかな? 先入観ってこわいな。原点に返ろう。

確かにそうです。

>> 私、三国志って横山光輝のマンガしかおもいうかばないんですよね。
>> だから明帝は曹操だとばかり思ってましたよ。お孫さんだったんですね。先入観恐るべし。

玉なんですが、面白い記事を見つけました。
ヒスイの偽者にガーネット(柘榴石)があるそうです。
透明な緑色のもので「トランスバール・ヒスイ」と言うそうです
大和で取れたとすれば、これかもしれません。
あと、青く透明な、ガーネットは、現在、有名な産地が北米で非常に硬化だそうです。
以前も書いたのですが、卑弥呼が、送ったのは、上の二つのどちらか可も知れませんね。



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Re: 対価は何だったのでしょう?

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月22日(火)22時35分54秒]

元の発言 [ Re: 対価は何だったのでしょう? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月19日(土)00時15分41秒 ]

>> >> よほど良いものが大和にあったのでしょうか?

>> 「獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」

>> の中で畿内から輸出可能だったのは男女生口だけですね。

>> あと畿内で最も可能性の高いのは「朱、丹」じゃないでしょうか?
>> 水銀は鍍金や不老長寿の薬として中国人に喜ばれた可能性が高いでしょう。

確かに丹は、そうですね。
あと、砂金の可能性は、無かったのでしょうかね?
日本で、金の名がつくところは、砂金が取れたところだと聞いたことがあります。

東北から初めて、金が出た記述これ怪しくありませんか?
砂金の収集の方が、見つければ、はるかに簡単ですからね。


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Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月22日(火)23時05分08秒]

元の発言 [ Re: 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月22日(火)21時30分13秒 ]

>> >> 庄内式甕と須玖式土器は、使用目的が違うか、条件または、
>> >> 使い方が事なると考えるべきだと思うんでっすが?
>> >> 確かに、大量生産品でアルかもしれません。
>> >> でも、其の必要が無かったか、叩き目を利用していた可能性は?
>>  竈の出現が影響した可能性を考えてます。
>>  西新町遺跡からは竈に造り付けしたらしい甕(所謂、庄内系)が出てるようです。
>>  ガスコンロが普及する前後では鍋釜の様式がずいぶん違うようなものかも。
>>  ただ、須玖式土器は祭祀土器が中心で生活具としてのものは不勉強です。

ありがとうございました。
ですが、テレビで見たニューギニアの、人面土器
粘土は、其れに有ったものを、秘密の場所から一日かけて取ってくると言う。
また、色々の彫刻と種まきのときに聖なる土をまく、など
昔は、日本にもあったんじゃないかなど考えさせられました。
特に土は、同じではと?


66

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月5日(土)13時51分04秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)02時10分12秒 ]

>>  古墳時代の前期古墳。大牟田市黄金町1丁目に所在。
>>
 「卑弥呼は古墳時代」でしょうが。(貴方は常々そうレスしてる)

>> 古墳時代の定義はご存知ですか?
>> 全国に前方後円墳(前方後方墳)がどわっとできる時代で
>> す。
>>
>>  インターネットにここまで載ってるか。
>>
 は!?
 インターネットにここまで載ってたんですか。



660

Re: 魏尺晋尺

投稿者[ にゃん ] 発言日時 [1月22日(火)23時11分45秒]

元の発言 [ 魏尺晋尺 ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 1月21日(月)20時37分22秒 ]

晋尺24.2cmを九寸にすると21.78cmですよ。
黒塚古墳の平均値は21.8です。
この結果からは晋尺といえます。
また九寸とする道教思想は南方のものですし、これらの結果から三角縁は倭鏡といえます。
まだみなさんわかんないの?


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Titleまだみなさん論争中?

投稿者[ クロネコちゃん ] 発言日時 [1月22日(火)23時35分29秒]

もうぼくはすべてわかっちゃいましたよ。

もし記紀の編者が卑弥呼のことを知っていたらとしたら?
そして卑弥呼への祭祀が奈良時代まで続いてるとしたら?
そしてそのこと自体か゛当時タブーだったとしたら?(朝貢した女王のため)
そのことや卑弥呼のことを記紀に残すわけにはいかなかったとしたら?
でも後世にはわかってもらいたいと思い恣意的にこの人が卑弥呼ですよといわんばかりの
記事を載せているとしたら?
こういう推論はできないのでしょうか。
記紀の編者はみな知っていたんです。

神話は神話。すなおに読めばいいのに。
神話の記事を 1.すべて事実
       2.一部真実
       3.たんなる伝承
       4.信じられない記事がおおい。
2,3、4を選択した時点であなたたちは間違っておられるのです。
森浩一先生は耶麻台国論について すべての研究を振り出しに戻す必要がある  
といっておられます。   まさにそのとおり !!
欠史八代もデタラメだなんてみんなたいてい思っている始末。
これではいつまでたっても論争が終わるわけではない。

わたしはもう女王の都を見つけました。こんど確認に行こうっと。塚もそこにある。

みんなもっと記紀の編者の立場にたって神話よめばいいのに。

もしわたしのいってることになにか直感が働く人がいる方、メールください。

どうしてみんなわかんないのかなあ。
みんなで原点に返ろうよ。いつまでもおわんないよ。
今年中には耶麻台国論争終わらせましょうよ。
みんな深く掘り下げすぎだよー。


663

Re: 卑弥呼はあの人

投稿者[ クロネコちゃん ] 発言日時 [1月22日(火)23時43分53秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼はあの人 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月18日(金)23時06分28秒 ]


>>
>>
どっちにせよ、三世紀の話は日本書紀のなかにほとんど残って
>>
>>
あーあ。
そう思った時点であなたは負けているのです。
原点に戻れないのですね。
今年か来年、卑弥呼の塚が発掘されたらどーすんのさ?
いままであなたが強弁してたことすべて無駄になる。
もうぼくは卑弥呼の都見つけちゃったよ。
じゃあね。
なんかおにりんさんかわいそう。



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Re: Title 里程について

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月22日(火)23時47分15秒]

元の発言 [ Title 承前 ねたろうさんへ、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月21日(月)01時14分04秒 ]

おにりんさん、今晩は。

里程に関する過去の論争を拝見しました。おにりんさんが、いらだつのも多少理解できます。同じことの繰り返しに感じられても不思議ではないですね。次回からは、気をつけます。よろしく、ご指導ください。

さて、『三国志』中、確実に長里で記述されていると思われる例として、以下の五例を見つけました。いずれもkouji さんの指摘されたものです。

1 魏志明帝紀
洛陽・遼東間が四千里。1,740kmになります。現在の洛陽・遼陽間で直線距離はほぼ1,180kmです。
司馬懿を公孫淵討伐に向かわせるときの明帝の言葉、いわゆる四千里征伐です。

2 魏志夏候淵傳
長安・[業β]間が二千里。870kmになります。現在の西安・臨西間にあたり直線距離はほぼ660kmです。

建安十九年(A.D.214年)、馬超が祁山を囲んだため、祁山の姜敍等が、朱靈・路招等を率いて長安に駐屯する夏候淵のもとに救援を求めました。曹操の指令を待つべきだという意見に対しての夏候淵の発言に、「曹公は[業β]にいて、往復四千里もある。指示を待っていたら姜敍たちは必ず敗れるであろう。急を救うことはできない」(公在[業β]。反覆四千里。比報、敍等必敗。非救急也)とあります。

3 魏志王昶傳
苑・襄陽間が三百余里。130.5km余になります。現在の南陽・襄陽間で直線距離がほぼ125kmです。

正始年間に、王昶が、襄陽から遠すぎるという理由で宛から新野へと駐屯地を移そうとしたときの発言が、「現在駐屯している苑は襄陽から三百余里である」(今屯苑、去襄陽三百余里)です。

4 玄菟・夫餘間が千里。435kmになります。現在の撫順・農安間で直線距離はほぼ300kmです。

5 遼東・高句麗間が千里。同じく435kmになります。現在の遼陽・集安間で直線距離はほぼ270kmです。

以上五例は、いずれも長里使用の例であり、魏晋朝短里説は成立しないのだというわけですね。つまり、

ア 『三国志』には、漢代の長里を変更したとの記載がない。
イ 実際『三国志』本文には、長里が使用されている。
ウ ところが、「韓伝」・「倭人伝」には、長里では理解できない短い里が使用されている。

畿内説では、アとイが正しくて、ウは陳寿の勘違いであり、正確な記述ではないとしています。
対して、九州説では、アとウが正しくて、イは解釈の違いであり、実際は『三国志』全編短里で理解できる(古田説)と考えるのでしょう。

畿内説は、『三国志』の記述に対しての不信から、九州説は、陳寿の記述を重視する立場からの帰結でしょう。

さて、私の立場は九州説ですが、先の三点はいずれも矛盾しないと考えます。つまり、魏朝長里、晋朝短里説だからです。
長里の例としてあげた1,2,3は、いずれも会話文であり、魏代の出来事です。対して、「韓伝」・「倭人伝」の里表記は、地の文であり、晋代の人陳寿の執筆時点での里表記でしょう。重要なのは、魏代の出来事の記述と陳寿執筆時点の里表記の弁別ではないでしょうか。

問題は、4と5です。私の仮説では、同じ「東夷伝」中の記事であり、地の文であることを考えれば、これらも短里表記と考えざるを得ません。
韓国と高句麗は接しており、その境界は、共有されています。同様に夫餘も高句麗に接しています。「韓伝」が短里であれば、高句麗も短里で記されるはずであり、夫餘も短里で書かれていると言えるのではないでしょうか。

4番の地名比定の理由は、見当たりませんでしたが、5番については、ALEXさんの詳細な説明がありました。しかし、遼陽が当時の遼東郡治−襄平であると言う主張は、坂口さんとの対論で否定されており、遼東郡治の所在は確定できないとされています。積石塚の分布が、高句麗領域を決定する資料になるとされていますが、長里で二千里の範囲に合わせた使用であり、地名比定の根拠とするには、さらなる検討が必要と考えます。九州に銅鐸が出たからと言って、畿内から九州が一つの国家を形成していたと断定できないのと同じだと考えます。

よって、4、5は短里使用の事例と考えますが、いかがでしょう。
#はたして、魏朝長里、晋朝短里説成立の余地はあるのでしょうか。


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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月5日(土)14時06分13秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 1月5日(土)11時51分38秒 ]

「東アジアの古代文化109号」で阿部久雄氏が、
おにりんさんのお好きな「科学的根拠」を元に、
「これらのことを勘案すれば、三角縁神獣鏡群は魏の領土や魏の時代とは関係のない鋳造工房で紀年鏡銘よりも後代に鋳造されたものであると鑑定するのが自然である。
・・・・・・・・・故に鋳造地は日本と帰納するのが自然である」と結論付けています。
ぜひ、科学的データに基づく反論をお願いします。


670

これ変なところにレスついてます

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月23日(水)00時23分46秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼はあの人 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月23日(水)00時04分56秒 ]

レスの位置がおかしいか、タイトルと内容が合わないか、あるいはリンクがおかしいみたいですよ。何度リロードしても、おかしいです。


671

Re: 魏尺晋尺

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月23日(水)00時28分30秒]

元の発言 [ Re: 魏尺晋尺 ] お名前 [ にゃん ] 日付 [ 1月22日(火)23時11分45秒 ]

>> 晋尺24.2cmを九寸にすると21.78cmですよ。

>> まだみなさんわかんないの?

魏尺が24.2mmなんですけど・・・
大場さんもALEXさんも詳しく書いてますが読んでないんですか?



672

Re: Title 里程について

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月23日(水)00時48分27秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月23日(水)00時11分11秒 ]

>> #はたして、魏朝長里、晋朝短里説成立の余地はあるのでしょうか。

>>
>>
>>
蜀は、漢の正当な後継者と考えていたわけですから、長里でしょう。晋に統一されてから、短里使用が始まったと考えていますが。

>>
>>
>>
会話文を短里にしなかったのは、臨場感を殺ぐからでは。

>>
>>
まず、論証してみてください。それから、考えましょう。




674

Re: Title 里程について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月23日(水)09時17分36秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月22日(火)23時47分15秒 ]

ねたろうさん今日は。

>> 4 玄菟・夫餘間が千里。435kmになります。現在の撫順・農安間で直線距離はほぼ300kmです。

>> 5 遼東・高句麗間が千里。同じく435kmになります。現在の遼陽・集安間で直線距離はほぼ270kmです。

>> 以上五例は、いずれも長里使用の例であり、魏晋朝短里説は成立しないのだというわけですね。つまり、

>> 問題は、4と5です。私の仮説では、同じ「東夷伝」中の記事であり、地の文であることを考えれば、これらも短里表記と考えざるを得ません。
>> 韓国と高句麗は接しており、その境界は、共有されています。同様に夫餘も高句麗に接しています。「韓伝」が短里であれば、高句麗も短里で記されるはずであり、夫餘も短里で書かれていると言えるのではないでしょうか。

>> よって、4、5は短里使用の事例と考えますが、いかがでしょう。
>> #はたして、魏朝長里、晋朝短里説成立の余地はあるのでしょうか。

の件は
「夫餘は長城の北にあり、玄菟を去ること千里、南は高句麗と、東は婁と、西は鮮卑と接す」
「高句麗は遼東の東千里にあり、南は朝鮮・貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接す」
であり、首都間の距離ではなく国境までの距離をしめしていると考えれば問題なく理解できます。
いずれも「接す」が末尾についています。

魏朝長里、晋朝短里説には感銘しました。まさにこれしかありません。


676

ちゃちゃです

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月23日(水)09時25分27秒]

元の発言 [ いえ、論争は終了しました。もう心配はいりません。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月22日(火)23時48分57秒 ]

>>
火はポなんでしょ。




68

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月5日(土)14時54分01秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 1月5日(土)11時51分38秒 ]

>> #ただ、西川氏は、文献に金錯鏡とでてくるのを根拠にしてるわけですよね。まあ、箸墓から宝飾鏡がでてくれば、決まり、という感じですが。
今の所、もっとも高貴な宝飾鏡は「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」ですけどネ。



681

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月23日(水)09時43分01秒]

元の発言 [ Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月20日(日)03時04分41秒 ]

お礼が遅れましたが、音訳例ありがとうございます。

>>
ところで
掖は中古音ベースで入声に入るので韻尾のkを残す音訳が多いようですが、この点はどうお考えですか?

ya ku ya ku やくやく
ya ki ya ku やきやく

PS おや 卑弥弓呼 ありませんね





682

Re: Title 重要なことを発見しました。

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月23日(水)10時02分25秒]

元の発言 [ Re: Title 重要なことを発見しました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月20日(日)01時29分58秒 ]

>> 鏡に関心が無かったと考えられませんかね。

>>
九州はそれでも平原がありますから、2世紀中までは鏡がいっぱいあったんでしょ。
それに3世紀になって全くなくなるわけでもないみたいですし。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
出雲の場合は威信材として青銅器を使わない文化になったのでは?
その段階からむしろ動員力は上がっているように思います。
そのてんは吉備も同じですね。

>> 中国に行ったけれども、鏡は皆他にあげてしまったとか。
>> 半島南部にいっていて、こんなに鏡の無いのも不自然じゃないですかね。

>>
>>
やっぱり何かの文化・祭祀の有り方とおもいます。

>>
>>
>>
この点で大和勢力は北部九州の影響を受けたかと思います。
ただ大阪湾岸と北部九州には、弥生中期に銅カがあって、古くから何かの共通性はあったのかな。
青銅祭祀が早くから消える、吉備と出雲はかなり異質なんじゃないでしょうか。
このあたり古典的青銅祭祀と反青銅祭祀の争いがあって、銅鏡祭祀も青銅祭祀の流れを汲むんではないかと思います。

>> ただ妻木晩田には漢鏡のかけらが出ていて、こんなものだいじにしてたんじゃな・・・
>> やっぱり苦しい。

>>
>>
>>
かけらもなければ、何とかトンデモいけるかと思ったのですがね。




683

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 景虎 ] 発言日時 [1月23日(水)10時54分08秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月22日(火)19時00分16秒 ]

>> 豊予海峡は、2度ほどフェリーで渡ったここが有ります。
>> ここは、天候が良ければ、潮流を利用できれば、結構楽に渡れるようです。
>> が、荒れやすい事も確かです。
>> 外洋の影響も内海に比べると大きいので一般的には難所と言えるでしょう。
>> やはり内海とは、安定度は、比べ物にならないと考えます。

内海=安全、外海=危険という考え方があるようですが、本
当にそうなのでしょうか?海の事はよく知りませんが、以前
読んだ雑誌に、シ−カヤックで瀬戸内の水軍城(芸予諸島)
を調査した話が載っていました。

それによると、潮流は湾口や瀬戸では速く、大洋では遅い。
来島を目指した時は、嵐の翌日の川のような海があり、潮の
流れがおさまる『潮止まり』を待って船出したそうです。
それでも、帰りは引き潮の真っ最中になりかなり苦労したと
か。

その他にも、

大島〜能島は潮は速いが、潮流に乗った為に短時間で移動可
能。

鳴門海峡と芸予諸島周辺は日本で1、2を争う程潮が速い。

島が入り組んだ海域には危険な岩礁も多い。

大舟は潮流が速いと身動きがとれなくなるが、小舟は転回が
効く。水軍は8〜10丁櫓の船足の速い小舟を使ったらしい。

平均水深30mの瀬戸内海と違って、駿河湾は陸地から少し
離れるだけで、水深1000mを越える。

西伊豆の海は潮の流れが遅く、潮流に阻まれる事はないが、
冬は海が荒れる。その為、波の影響を受けない湾を背景にし
て水軍城がある。

西伊豆沿岸には、舟が隠せるような洞窟が無数にある。

平安末期、紀伊半島の熊野水軍もそのような洞窟から壇ノ浦
に出陣したという話がある。

などの話があります。
実際、瀬戸内海はかなり舟が沈んでいるらしくて、今でも稀
に漁師の網に備前焼の皿などが入っている事があるようです。


685

Re: 里程について

投稿者[ kouji ] 発言日時 [1月23日(水)13時08分46秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月22日(火)23時47分15秒 ]


 どうも、名前が出てきたので少し失礼します。

(前略)
>> 以上五例は、いずれも長里使用の例であり、魏晋朝短里説は成立しないのだというわけですね。つまり、

>> ア 『三国志』には、漢代の長里を変更したとの記載がない。
>> イ 実際『三国志』本文には、長里が使用されている。
>> ウ ところが、「韓伝」・「倭人伝」には、長里では理解できない短い里が使用されている。

>> 畿内説では、アとイが正しくて、ウは陳寿の勘違いであり、正確な記述ではないとしています。

 ちょっと違います。「陳寿が利用した史料に誤りが含まれていた」が正しいと思う。


>> 対して、九州説では、アとウが正しくて、イは解釈の違いであり、実際は『三国志』全編短里で理解できる(古田説)と考えるのでしょう。

 それは、九州説の中でも特に変な説なんじゃないかな?この時期の中国で「短里」が公式に採用されていたなんて主張しているのは、変な人とその信者だけだと思いますよ。


>> 畿内説は、『三国志』の記述に対しての不信から、九州説は、陳寿の記述を重視する立場からの帰結でしょう。

 まあ、本人の自己申告は当てにならない、ということは覚えておいたほうがいいと思います。


>> さて、私の立場は九州説ですが、先の三点はいずれも矛盾しないと考えます。つまり、魏朝長里、晋朝短里説だからです。
>> 長里の例としてあげた1,2,3は、いずれも会話文であり、魏代の出来事です。対して、「韓伝」・「倭人伝」の里表記は、地の文であり、晋代の人陳寿の執筆時点での里表記でしょう。重要なのは、魏代の出来事の記述と陳寿執筆時点の里表記の弁別ではないでしょうか。

 以前に取り上げられた例の中に、こんなのもあります。

蜀志先主伝『曹公以江陵有軍實、恐先主據之、乃釈輜重、輕軍到襄陽。聞先主已過、曹公將精騎五千急追之、一日一夜行三百餘里、及於當陽之長坂。』(襄陽から當陽まで三百餘里×435m=130.5km以上。直線距離では、140km程)

 地の文だけど、あなたのいう「長里」ですよね。


>> 問題は、4と5です。私の仮説では、同じ「東夷伝」中の記事であり、地の文であることを考えれば、これらも短里表記と考えざるを得ません。
>> 韓国と高句麗は接しており、その境界は、共有されています。同様に夫餘も高句麗に接しています。「韓伝」が短里であれば、高句麗も短里で記されるはずであり、夫餘も短里で書かれていると言えるのではないでしょうか。

 発想を逆転した方がいいんじゃないかな。陳寿は中国人ですよね。だから中国国内を起点に考えてみてください。中国国内が「長里」で記述されていれば境を接する高句麗も夫餘も「長里」で記されているはずであり、それらと境を接する沃沮・[手邑]婁の諸伝も同じ。実際にそうなっています。従って、韓伝・倭人伝もまた「長里」で書いてある。そこに現実の地理と乖離した里数値が存在するとすれば、それは「史書の記述に誤りがある」というありがちな現象が起こっていることを意味しているのです。


>> #はたして、魏朝長里、晋朝短里説成立の余地はあるのでしょうか。

 残念ながら、ありません。



687

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月23日(水)14時44分59秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月23日(水)11時53分43秒 ]

>>
>>
お忙しそうですね。
とてもほかのことやってる暇無いくらい。
すると余計掲示板とかに書き込みたくなるのですよね。
わかります。



688

Re: 逆にしてみました。

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月23日(水)19時38分31秒]

元の発言 [ Re: 逆にしてみました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月22日(火)01時49分20秒 ]

>>
>>
>>

白石説とは逆みたいですね。

>>
>>
>>

安本説の記紀再構築作業には,
若干,強引なものを感じますが,
墓制の件などは重みがあるでしょう。

谷川説の場合,旧事紀なども参照しているらしいけど,
フィールドワークから見えてくる相を配置してゆく手法のようです。

>>
>>
>>

興味深い点は,

伊都国と壱岐国の関連なんかは,
調査の進展に期待しています。

# 特に壱岐国の実体。


それと,雲南式泥窯の件とか。


あと,土(胎土)については,
神武天皇の天八十平瓮の件とか,
武埴安彦と妻吾田媛の件にあるように,
古代の感応呪術と絡むと言う。

>>

東遷説という線もあるかな?

九州説という場合,南遷論なんてのも面白いけど。


--



689

管理人さんへ

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月23日(水)21時44分22秒]

元の発言 [ 卑弥呼はあの人 ] お名前 [ フリーターのにゃん ] 日付 [ 1月18日(金)21時39分12秒 ]

この方、「にゃん」さんって、同一スレッドやこの同じ掲示板内で、何度もハンドルを替えてませんか?
 にゃん、にゃあ、クロネコの〜、早良武彦、に、、、内容から同一と判断できるけど、こういうのって反則じゃないですか?(違う方がもし入っていたらすいません)。
 東アジアの古代文化の方の「討論室」では、推定同一人物が「中払」と名乗っているようですが、、
 まあ、よその掲示板で違うハンドルを使うのは構わないとは重いますが、同じ掲示板では、仮に書き込みから同一者とわかっても、同じハンドルを使うのが最低限のマナーではないでしょうか。様々な理由で、途中でハンドルをかえるのは、ちゃんと宣言するならよいとは思いますが、、
 管理人さんの判断を仰ぎたいと思います。
 それと、「にゃん」さん、今までの議論も何も無視して、私は卑弥呼の墓を見つけたとか、都を見つけたとか、もし言うならば、それは何処なのか、また、それはどう言う根拠に基づいて言うのかをはっきり書くべきです。そうじゃないと、誰も相手にすることができません。また、例えば、おにりんさんをただの妄想だと言ったりするだけなら、また何度もハンドルを替えて、そのような書き込みだけをするなら、これはルールに反した荒らし行為と同じではないでしょうか。おにりんさんは、いろいろ調べた上で言ってるのです。もちろん、たまにやや人を小馬鹿にするようなこと言ったり、また極端な「先走り」発言もままあるし、おいおい、と思うことはありますし、反発もあるみたいです。でも全体的に言って、ちゃんと建設的に議論になっているのではないでしょうか。オヤジッチさんとのやり取りも面白いですし。でも、今のままでは、にゃんさんにはそういうことは無理でしょう。
 管理人さん、ちょっときついことを書いてしまいました。不適当なら、削除してもかまいませんので。いずれにしても何らかの判断を仰ぎたいと思います。


69

Re: Title承前「封土作冢」

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月5日(土)16時06分41秒]

元の発言 [ Re: Title承前「封土作冢」 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)02時10分12秒 ]

>>  古墳時代の前期古墳。大牟田市黄金町1丁目に所在。
>>
三世紀とある。

>>
>>
>>
>>
 布留1式が出来たので全国一斉に古墳時代に入ったのでしょうか。
 普通、三世紀中葉(正に「倭人条」の時代。私は庄内式併行期と考える)を「古墳過渡期」または、「弥生・古墳併行期」として考えるのとちゃいますか。

>>  インターネットにここまで載ってるか。
>>
 だから!載ってないでしょうが。
 それとも、見つけててレスしなかったのかい。
 問われたのは貴方だヨ。



690

Re: 管理人さんへ(おわびと訂正)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月23日(水)22時06分44秒]

元の発言 [ 管理人さんへ ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月23日(水)21時44分22秒 ]

>> この方、「にゃん」さんって、同一スレッドやこの同じ掲示板内で、何度もハンドルを替えてませんか?
>>  にゃん、にゃあ、クロネコの〜、早良武彦、に、、、内容から同一と判断できるけど、こういうのって反則じゃないですか?(違う方がもし入っていたらすいません)。
東遷説の「にゃあ」さんと、神功皇后=卑弥呼説の「にゃん」さんは別みたいですね。「にゃあ」さんは「しばらくじゃあね」と去りましたが、一応は議論になりかけてたし、「にゃん」さんとは違うみたいですね。そういうわけで、おそらく人違いの「にゃあ」さんには謹んでおわびいたします。クレームは「にゃん」さんの方へです。


691

Re: 管理人さんへ(おわびと訂正)

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月23日(水)22時15分04秒]

元の発言 [ Re: 管理人さんへ(おわびと訂正) ] お名前 [ 率善中郎将 ] 日付 [ 1月23日(水)22時06分44秒 ]

>> >> この方、「にゃん」さんって、同一スレッドやこの同じ掲示板内で、何度もハンドルを替えてませんか?
>> >>  にゃん、にゃあ、クロネコの〜、早良武彦、に、、、内容から同一と判断できるけど、こういうのって反則じゃないですか?(違う方がもし入っていたらすいません)。
>> 東遷説の「にゃあ」さんと、神功皇后=卑弥呼説の「にゃん」さんは別みたいですね。「にゃあ」さんは「しばらくじゃあね」と去りましたが、一応は議論になりかけてたし、「にゃん」さんとは違うみたいですね。そういうわけで、おそらく人違いの「にゃあ」さんには謹んでおわびいたします。クレームは「にゃん」さんの方へです。
 でも、何度も他のスレッドの内容を読み返してたら、どれが誰か分からなくなって来ました。少なくとも、紛らわしいハンドルを使ってる人がいるみたいです。上の中に。あれっ?
 管理人様、何度もすいません。


692

Re: Title 里程について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月23日(水)22時48分19秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月23日(水)09時32分13秒 ]

>> であり、首都間の距離ではなく国境までの距離をしめしていると考えれば問題なく理解できます。

>>
>>
読者に中国からの国境が解りやすくなるように郡治から国境までの距離を書いているんでしょう。
どうも学者も含めて邦のことを点でしか考えない人が多いようですが国は面積を持っており、国境があるんです。
特に地理上の記載が軍事的意味を持っていたと思われ、首都間の距離よりも国境の画定が重要ではなかったかと思うのです。

<序文>「以接前史之所未備焉」前史に欠けている東夷(北狄は解っている?)の地理や性格(俗)を述べその脅威に備える。
と言うものではないでしょうか?

>>
>>
>>
>>
夫餘も高句麗も首都については記載がありません。

>> いずれも「接す」が末尾についています。

>>
読んだ結果です。




694

Re: 里程について

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月23日(水)23時04分47秒]

元の発言 [ Re: 里程について ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 1月23日(水)13時08分46秒 ]

koujiさん、はじめまして。

おにりんさんに教えていただいた過去ログで、具体的に長里の事例を記したものが、koujiさんの投稿でした。無断で拝借したこと、お許しください。

>> >> ア 『三国志』には、漢代の長里を変更したとの記載がない。
>> >> イ 実際『三国志』本文には、長里が使用されている。
>> >> ウ ところが、「韓伝」・「倭人伝」には、長里では理解できない短い里が使用されている。

>> >> 畿内説では、アとイが正しくて、ウは陳寿の勘違いであり、正確な記述ではないとしています。

>>  ちょっと違います。「陳寿が利用した史料に誤りが含まれていた」が正しいと思う。

私は、「韓伝」・「倭人伝」内の里表記が、現在の地形との比較において、その比率がほぼ同じであることに注目しています。一点、二点ではありません。前回おにりんさんに示したのは、確実と思われる六点なのです。この六点の里表記は、ほぼ連続しており、なおかつ実地形に対応しているのです。当然一つのルールによって書かれたものと考えます。それはすでに、「陳寿が利用した史料」にも適用されていたルールであると思います。私は、それを短里と呼んでいるのです。誤りであることを証明するには、原史料を復元するか、その可能性を示す仮説が必要ではないでしょうか。

>> >> 対して、九州説では、アとウが正しくて、イは解釈の違いであり、実際は『三国志』全編短里で理解できる(古田説)と考えるのでしょう。

>>  それは、九州説の中でも特に変な説なんじゃないかな?この時期の中国で「短里」が公式に採用されていたなんて主張しているのは、変な人とその信者だけだと思いますよ。

私は、信者ではないのですが、支持しています。できれば、そういう言い方はやめていただけませんか。

>> >> 畿内説は、『三国志』の記述に対しての不信から、九州説は、陳寿の記述を重視する立場からの帰結でしょう。

>>  まあ、本人の自己申告は当てにならない、ということは覚えておいたほうがいいと思います。

すみません、本人とは誰のことでしょう。本当にわかりません。

>> >> さて、私の立場は九州説ですが、先の三点はいずれも矛盾しないと考えます。つまり、魏朝長里、晋朝短里説だからです。
>> >> 長里の例としてあげた1,2,3は、いずれも会話文であり、魏代の出来事です。対して、「韓伝」・「倭人伝」の里表記は、地の文であり、晋代の人陳寿の執筆時点での里表記でしょう。重要なのは、魏代の出来事の記述と陳寿執筆時点の里表記の弁別ではないでしょうか。

>>  以前に取り上げられた例の中に、こんなのもあります。

>> 蜀志先主伝『曹公以江陵有軍實、恐先主據之、乃釈輜重、輕軍到襄陽。聞先主已過、曹公將精騎五千急追之、一日一夜行三百餘里、及於當陽之長坂。』(襄陽から當陽まで三百餘里×435m=130.5km以上。直線距離では、140km程)

>>  地の文だけど、あなたのいう「長里」ですよね。

書き方が悪かったと反省しています。これは間違いなく長里です。諸葛亮伝の会話文の中にも、「軽騎一日一夜行三百余里」とあり、馬での行軍能力を示すものと考えます。地名比定するまでもなく、同じ距離を表しており長里です。蜀朝は、漢の後継を自認しており、短里使用はあり得ません。私が問題としているのは、これが「建安十二年の記事」の地の文であり、「魏代の出来事だ」という事なのです。対して「夷蛮伝」の地の文は、「陳寿執筆時点の記述(晋代)」であり、私の説と矛盾しないと考えています。

魏志、蜀志、呉志は全編長里であっても、問題ないと考えます。また、列伝ごとに考えれば、同一伝内で短里、長里の混在は考えにくく、混在する場合は、魏代の出来事を記した後に、「これは、今のどこそこから、どこまでのことである。何百里(短里)。」と言う書き方をしたのではないかと思います。

>> >> 問題は、4と5です。私の仮説では、同じ「東夷伝」中の記事であり、地の文であることを考えれば、これらも短里表記と考えざるを得ません。
>> >> 韓国と高句麗は接しており、その境界は、共有されています。同様に夫餘も高句麗に接しています。「韓伝」が短里であれば、高句麗も短里で記されるはずであり、夫餘も短里で書かれていると言えるのではないでしょうか。

>>  発想を逆転した方がいいんじゃないかな。陳寿は中国人ですよね。だから中国国内を起点に考えてみてください。中国国内が「長里」で記述されていれば境を接する高句麗も夫餘も「長里」で記されているはずであり、それらと境を接する沃沮・[手邑]婁の諸伝も同じ。実際にそうなっています。従って、韓伝・倭人伝もまた「長里」で書いてある。そこに現実の地理と乖離した里数値が存在するとすれば、それは「史書の記述に誤りがある」というありがちな現象が起こっていることを意味しているのです。

「史書の記述に誤りがある」ことは、認めます。ただ、「韓伝」・「倭人伝」の里表記の数の多さが問題だと思います。あれだけまとめて間違えることを、ありがちな現象と言えるのかどうか。私には疑問です。
「韓伝」・「倭人伝」には、ある一定のルールで書かれていると考えざるを得ない状況が見て取れます。だとすれば、それと境界を接する高句麗や夫餘も、そのルールで解釈すべきだと考えますが、いかがでしょう。

レスしていただき、ありがとうございます。


696

Re: Title 里程について

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月23日(水)23時19分27秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月23日(水)09時17分36秒 ]

牛頭さん、今晩は。

過分にお褒めいただきありがとうございます。ただ、畿内説の方が、私の説を支持しないことは、判っていますので、反論された後に撤回するかもしれません。その時は、ごめんなさいして、また次の説を立てるつもりです。その程度の仮説です。

>> >> 4 玄菟・夫餘間が千里。435kmになります。現在の撫順・農安間で直線距離はほぼ300kmです。

>> >> 5 遼東・高句麗間が千里。同じく435kmになります。現在の遼陽・集安間で直線距離はほぼ270kmです。

>> >> 以上五例は、いずれも長里使用の例であり、魏晋朝短里説は成立しないのだというわけですね。つまり、

>> >> 問題は、4と5です。私の仮説では、同じ「東夷伝」中の記事であり、地の文であることを考えれば、これらも短里表記と考えざるを得ません。
>> >> 韓国と高句麗は接しており、その境界は、共有されています。同様に夫餘も高句麗に接しています。「韓伝」が短里であれば、高句麗も短里で記されるはずであり、夫餘も短里で書かれていると言えるのではないでしょうか。

>> >> よって、4、5は短里使用の事例と考えますが、いかがでしょう。
>> >> #はたして、魏朝長里、晋朝短里説成立の余地はあるのでしょうか。

>> の件は
>> 「夫餘は長城の北にあり、玄菟を去ること千里、南は高句麗と、東は婁と、西は鮮卑と接す」
>> 「高句麗は遼東の東千里にあり、南は朝鮮・貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接す」
>> であり、首都間の距離ではなく国境までの距離をしめしていると考えれば問題なく理解できます。
>> いずれも「接す」が末尾についています。

私も国境までの距離と考えています。「高句麗は、遼東郡治の東方千里にある」と言っているのですから、その間千里は遼東郡治の支配領域です。起点が遼東郡治なのは明らかだと考えます。ちなみに、「接」は位置関係を表す字で、距離ゼロであることは自明です。

ただ5番の、遼東郡治と丸都城の位置が正しければ、短里で計算すると(75×3000=225キロ)、丸都城は国境の外に出てしまうことになると、なみさんという方が計算されています。しかし、「東夷伝」内の記述であり、韓から北の国は、全て陸続きなのが致命的なのです。普通に考えれば、共有している国境が、北と南、東と西で異なることは無いと言えるからです。
方二千里とあれば、四角四面に正方形であると考える必要はないと思いますが、その可能性も否定できず、地形的に特定できる山や川や海が国境でない限り、大陸内で、その領域を特定するのは至難と考えます。


697

Re: はい、論争は終了しました。もう心配はいりません。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月23日(水)23時27分26秒]

元の発言 [ いえ、論争は終了しました。もう心配はいりません。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月22日(火)23時48分57秒 ]

>>
>>
 百〜二百の業書をお読みになったおにりんさんの最近のレス、
 卑弥呼の時代の北部九州は千進地帯で、威信財など必要としなかった、
 と言うのには感服しました。
 起)北部九州は強権を必要としない原始共和制の「クニ」だった。
 承)そのころの大和には巨大墳墓を次々と造る原初大和政権があった。
 転)女王国は複数の男王による権力闘争を終結させるため「一女子共立」を行った。
 結)共和制によって弱体化した女王国は、強権国家の九州進出によって消滅した。
 続)大和政権も大きくなるに従って権力をめぐる内部闘争が起き始めたとき、
   かつての先進国の体制を見習って、
  有力氏族の上に調停役としての大王を君臨させ、統治は合議制とした。(^。^)



698

Re: なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう?

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月23日(水)23時32分36秒]

元の発言 [ Re: なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月22日(火)23時32分54秒 ]

>> まだ下賜鏡だと思っているんですか?

>>
>>
>> おにりんさんさえ下賜鏡ではないと思っているし、魏鏡であったとしても下賜鏡ではないというのが考古学会の主流になっていますよね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
北九州では結構 倭鏡を鋳造していたでしょう。
10cMくらいの鏡の石製鋳型が複数見つかっていたんじゃなかったですか?
大きいのは粘土型なので消えてしまった。
明らかに稚拙な物は「イ方」製鏡とされていますが、出来のいいものは漢鏡になっていたりするかも。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
生口が輸出品の可能性もありますが生口10人で鏡100枚は無理でしょう。
壹與が行った「獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」のどれかが候補。
の中で畿内からは「男女生口三十人 」だけで北九州なら全てが可能でしたが。

>>
>>
>>
>>
>>
工人一家が衣食住を保証されるだけで十分だったんじゃないですか。



699

Re: 逆にしてみました。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月23日(水)23時41分30秒]

元の発言 [ Re: 逆にしてみました。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月22日(火)22時16分45秒 ]

>>  いささか辟易して「だけん!八女タイ(邪馬台)!」と答えるだけ。§^。^§
>>
>>
>>
 うんにゃ。
 磐井君は「越のオオドが大王げな、その上韓に出兵せれてや。
 そげなことが聞かるっか、そげな横道が罷り通るとやったら元女王国ん筑紫な独立すっ!」
 と言った。(下のレスの“続々)”として読むと一続き)



7

Re: 卑弥呼の鏡

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月14日(月)00時11分42秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡 ] お名前 [ 大和川湖南 ] 日付 [ 1月13日(日)13時49分24秒 ]

>> >>  #金印は柵封されたことを顕す。
>> >>  #それと一緒に送られたのは下賜された装具です。
>>  またまた、極めて疑わしい主張なんだけど、根拠はあるの?霍光が東園温明を下賜されたのも死後だよね。
>>  魏志倭人伝に収録されている親魏倭王冊封の詔書にも、「国中の人に示せ」とあるのみで、墓に収めろなんて一言もないんだけどね。それに、あそこには卑弥呼への下賜品のリストが載っているけど、霍光が下賜された葬具のリストと比べてみれば内容の違いは歴然としているよね?それでも葬具だと言い張るの?
 言い張る。
 葬具じゃないと言う根拠はそれ以外のものを含むから?

>> >> >>  魏の明帝が景初三年の正月元旦に死去した。したがって翌年の正月元旦は忌日なのさ。だからその日は改元できない。するとどうなる?当然、景初四年正月元旦を迎えるはずだったのさ。
>> >>  #翌年の正月元旦が景初四年だった日は何日?
>> >>  #景初三年の正月元旦に逝ったのなら、1日だけ。
>> >>  #まだ翌年の年号は決まっていないけど、“景初”じゃないことだけは確か。
>>  何か血迷ってない?年の途中で改元された場合、史書なんかでは年頭から新元号を使って記述されたりするけど、当時の実態は、改元までは旧元号を使うんだよ。当たり前のことさ。
 その間は、“景初三年”でしょう。

>>  景初三年正月元旦に明帝が死去した時点で、翌年の年頭にあたっての改元ができないことは充分予想できた。だから、「景初三年一月の時点で、景初四年の無いことが分かっていた」という主張は誤り。何ヶ月になるかわからないし、あるいは1日だけになるかもしれないけど、景初四年はあると予想されていたのさ。
 景初四年はあると予想されていたのは一日だけで実際には無かった。
 魏では景初四年が無いことは景初三年になったとたんに分かっていたと言うことですよネ。
 では、鏡に“景初四年”と鋳込んだのはどういう人でしょうか。
 官営工房ではありえないでしょう。
 そうか、元旦も休まず作ってたからその一日にに作ったもので「どうせ東夷にやるんだから」ってことにしたのか。 
#さようなら。


70

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月5日(土)16時17分18秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月5日(土)14時06分13秒 ]

>> 「東アジアの古代文化109号」で阿部久雄氏が、
>> おにりんさんのお好きな「科学的根拠」を元に、

これって不思議なことに科学的根拠がまったく書かれていないんですけど、なにを根拠に科学的根拠というんですか?


703

Re: Title 里程について

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [1月24日(木)03時38分54秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月22日(火)23時47分15秒 ]

>> 4番の地名比定の理由は、見当たりませんでしたが、5番については、ALEXさんの詳細な説明がありました。しかし、遼陽が当時の遼東郡治−襄平であると言う主張は、坂口さんとの対論で否定されており、遼東郡治の所在は確定できないとされています。


# なにか誤解されているようですが、坂口さん(正確には坂口さんを通じての山形さん)との対話で、定説となっている襄平の位置が否定された事実はありません。

山形さんの発言を略載します。
>『通鑑巻百八十二隋紀六』においては「漢・晋以来、遼東はみな『襄平に治す』、けだし城郭は遷徙することあり」と記録されており、この遼東郡の治所が「襄平城」もしくは「襄平県」に置かれていたことに間違いはありません。
>現在の「遼陽」に「襄平」が置かれたのは二世紀末ないし三世紀からです。

 ということは、魏志の記載にあらわれる襄平が現在の遼陽であるということです。

 また、丸都に関しては意思疎通に行き違いがあったようです。

> 定説の「平壌北方・山城子山城=丸都山城」説は、既に否定されております。
> 上記読売新聞報道の遺址は、「丸都山城」の遺址というよりも、むしろ渾江北岸に存在したという「卒本西城・五女山城」の遺址かと思われます。

 この山形さんの所見は正しく、平壌北方の山城子山城は丸都山城ではありません。
しかしそれは当然で、もちろん「平壌北方・山城子山城=丸都山城」説というような定説はありません。定説は「集安北方・山城子山城=丸都山城」です。
同名の城なので話が入れ違ったのでしょう。

 このように、襄平ならびに丸都の位置について定説を否定し得るような議論は存在しません。玄菟郡治は現在の撫順近郊で遺跡が残っています。扶餘の都は農安説と長春近郊説がありますが、いづれにしても魏尺に基づく正常な1里=約435mで記述されていると言えるでしょう。


704

Re: Title 里程について

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [1月24日(木)03時49分03秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月22日(火)23時47分15秒 ]

>> ア 『三国志』には、漢代の長里を変更したとの記載がない。


>> さて、私の立場は九州説ですが、先の三点はいずれも矛盾しないと考えます。つまり、魏朝長里、晋朝短里説だからです。
>> 長里の例としてあげた1,2,3は、いずれも会話文であり、魏代の出来事です。対して、「韓伝」・「倭人伝」の里表記は、地の文であり、晋代の人陳寿の執筆時点での里表記でしょう。重要なのは、魏代の出来事の記述と陳寿執筆時点の里表記の弁別ではないでしょうか。

>> はたして、魏朝長里、晋朝短里説成立の余地はあるのでしょうか。

# さきごろ魏尺晋尺の項で詳述いたしましたが、魏景元四年(263)に劉徽が王莽の桝の深さを測定した結果が、王莽尺(=23.08cm)が現在(当時)の1尺より4分5厘短かく、魏尺で9寸5分5厘であったことから、史料的に魏尺の実寸24.2cm(算出値は24.1675cm)が判明しています。この数値が、正始五年銘弩機から求められた魏尺と一致しますので、魏中期から末期に使用された尺度について史料及び遺物の両面から明証が得られた結果となっています。

 晋泰始九年(273)、荀[冒力](学者・政治家としてより、私たちにはむしろ、陳壽に辛く当たった人物として記憶されていると思います)が古楽器の調律のため古尺を復元しますが、このとき基準になったのが同じく王莽桝の1尺=23.08cmであります。彼は今尺が莽尺1尺4分7厘としており
 23.08×1.047=24.1648
ですから、晋初の1尺も魏景元四年(263)と同じであったことがわかります。

 このように、魏から受禅した晋は基本的に先代の制度を踏襲しております。先代と体系の異なるあらたな1里の単位を採用したという記録は一切ありません。

 千七百有余年のあいだ、中国のあらゆる政治史、制度史上に換算率が記載されなかった幻の単位を想定することが現実的でしょうか?斐松之をはじめ、誰ひとり註釈をつけないのは何故でしょうか?

 短里は幻想です。


705

Re: 訂正させてください

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月24日(木)08時09分09秒]

元の発言 [ Re: 里程について ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月23日(水)23時04分47秒 ]

koujiさん、おはようございます。

おにりんさんに指摘されたので、訂正させてください。

書き方が悪かったと反省しています。これは間違いなく長里です。諸葛亮伝の会話文の中にも、「軽騎一日一夜行三百余里」とあり、馬での行軍能力を示すものと考えます。地名比定するまでもなく、同じ距離を表しており長里です。蜀朝は、漢の後継を自認しており、短里使用はあり得ません。私が問題としているのは、これが「建安十二年の記事」の地の文であり、「魏代の出来事だ」という事なのです。対して「夷蛮伝」の地の文は、「陳寿執筆時点の記述(晋代)」であり、私の説と矛盾しないと考えています。

上を
書き方が悪かったと反省しています。これは間違いなく長里です。諸葛亮伝の会話文の中にも、「軽騎一日一夜行三百余里」とあり、馬での行軍能力を示すものと考えます。地名比定するまでもなく、同じ距離を表しており長里です。蜀朝は、漢の後継を自認しており、短里使用はあり得ません。私が問題としているのは、これが「建安十二年の記事」であり、「晋代より前の時代(後漢代、魏代)の出来事だ」という事なのです。対して「夷蛮伝」の地の文は、「陳寿執筆時点の記述(晋代)」であり、私の説と矛盾しないと考えています。

とさせてください。最初の引用時点から間違えており、お恥ずかしい限りです。

もう一つ、

魏志、蜀志、呉志は全編長里であっても、問題ないと考えます。また、列伝ごとに考えれば、同一伝内で短里、長里の混在は考えにくく、混在する場合は、魏代の出来事を記した後に、「これは、今のどこそこから、どこまでのことである。何百里(短里)。」と言う書き方をしたのではないかと思います。

蜀志、呉志は全編長里であっても、問題ないと考えます。また、列伝ごとに考えれば、同一伝内で短里、長里の混在は考えにくく、混在する場合は、魏代の出来事(会話文になると考えられます)を記した後に、「これは、今のどこそこから、どこまでのことである。何百里(短里)。」と言う書き方をしたのではないかと思います。

に変更させてください。本当に申し訳ありません。


706

Re: 公孫氏短里南北東西説

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月24日(木)08時15分28秒]

元の発言 [ 公孫氏短里南北東西説 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月23日(水)23時42分49秒 ]

おにりんさん、おはようございます。

>> >>  それは、九州説の中でも特に変な説なんじゃないかな?この時期の中国で「短里」が公式に採用されていたなんて主張しているのは、変な人とその信者だけだと思いますよ。

>> 私は、信者ではないのですが、支持しています。できれば、そういう言い方はやめていただけませんか。

>>
>>
>>
>>
私は、『三国志』全部が短里とは言っていません。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
短里でない部分を認めたのではなくて、長里だろうと言っているのです。呉志、蜀志は、おそらく全部長里でしょう。ただ、魏志は混在しています。その判定基準が、魏代の出来事か、晋代の記述によるものかと言うことではないでしょうか。「東夷伝」は、陳寿執筆時点における、東夷の国の領域や旅程が書かれており、晋代の短里で表記されたと考えています。

>>
>>
>>
>>
そんなことは言っていないのですが…。短里で解釈可能といっているのではなく、大陸内では、国境が特徴のある山や川や海でない限り、その領域を特定できないだろうと言っているのです。

>> 書き方が悪かったと反省しています。これは間違いなく長里です。諸葛亮伝の会話文の中にも、「軽騎一日一夜行三百余里」とあり、馬での行軍能力を示すものと考えます。地名比定するまでもなく、同じ距離を表しており長里です。蜀朝は、漢の後継を自認しており、短里使用はあり得ません。私が問題としているのは、これが「建安十二年の記事」の地の文であり、「魏代の出来事だ」という事なのです。対して「夷蛮伝」の地の文は、「陳寿執筆時点の記述(晋代)」であり、私の説と矛盾しないと考えています。

>>
これは、確認しませんでした。後漢代ですね。「晋より前の時代の出来事だ」と訂正させてください。ご指摘ありがとうございます。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
卑弥呼の即位年や死亡年は判りかねますが、景初二年も正始八年も魏代です。卑弥呼の墓のことをお考えでしょうが、晋代の読者に墓の大きさを説明しているのですから、陳寿執筆時点の記述であり、短里に連動する短歩です。

>>
>>
>>
>>
もっと反証を挙げてください。出来る限り、お答えしますので。




708

Re: なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう?

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月24日(木)09時54分53秒]

元の発言 [ Re: なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう? ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月23日(水)23時59分28秒 ]

>> 北九州では結構 倭鏡を鋳造していたでしょう。

>>
>>
>> 明らかに稚拙な物は「イ方」製鏡とされていますが、出来のいいものは漢鏡になっていたりするかも。

>>
>>
>> 生口が輸出品の可能性もありますが生口10人で鏡100枚は無理でしょう。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
そうですか。

>> 工人一家が衣食住を保証されるだけで十分だったんじゃないですか。

>>
>>
職人気質で意気に感じるってやつがあったかも。
人はパンのみにて生きるにあらず。
自分の技術や知識を必要とし評価してくれる所に行くのじゃないですか。



71

Re: 狗奴国=東海 論

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月5日(土)16時50分07秒]

元の発言 [ 狗奴国=東海 論 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 1月4日(金)23時18分42秒 ]

マルセさん、こんにちは。
>>  それと、狗奴國=東海でも、べつに邪馬臺國=九州は可能で、例えば、
>>  「狗奴國の直前に出てくる2番目奴國というは、実は奈良盆地にあった『蘆原のナカツ國』のことだった。2番目奴國は、郡から女王の都への道順上にはなかったので、倭人伝では詳しいことは書かれなかったが、実は、官の伊支馬や彌馬升などを出す女王国連合の中枢を担う国であった。神武東征説話というのは、狗奴國の攻撃から2番目奴國を救援するため、女王が派遣した軍の話であり、この現地駐在軍の司令官の子孫が、2番目奴國王家(大物主?)の外戚(ヤマトトトヒモモソ姫のとき?)となり勢力を伸ばし、後の大和政権となった。」
>> なんていうストーリーはどうでしょう。
 二番目の奴国が奈良盆地とするとは「元奴国(福岡平野)の首長層が創った亡命殖民地」とする方が物語りとしては面白いでしょう。
 玄界灘同盟の盟主国であった奴国から覇権を奪うために有明連合国が伊都国を寝返らせて挟み撃ちにし、窮した奴国王が「金印だけは渡すまい」と志賀島に隠し、
 当時は壱岐対馬の海人族の後塵を排し不満を持っていた宗像海人族とともに新天地を求めて東へ遁走した。
 巨大墳墓の造作に夢中で鉄製武器の貧弱だった大和を征服、後に“日本”と名乗り「倭奴国」の正当な後継者たることを主張するが、唐の役人は疑った。
 っていうストーリー。(^。^)


710

Re: なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう?

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月24日(木)18時50分49秒]

元の発言 [ Re: なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう? ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月24日(木)09時54分53秒 ]

>> >> なにがかなしうて、倭まできますかねー。っていうのが
>> >> あるんだけど。

>> 職人気質で意気に感じるってやつがあったかも。
>> 人はパンのみにて生きるにあらず。
>> 自分の技術や知識を必要とし評価してくれる所に行くのじゃないですか。

去年の暮れにやっていた「聖徳太子」のテレビで
百済から倭国へ、飛鳥寺の瓦をつくるために工人が
やってくる場面がありましたが。
仏像を作ることができた人間が準主役でした。
鏡を作る工人がやってきていてもおかしくないでしょう。

戦乱の世を嫌って、倭国で鏡造りで金になれば、
十分渡来するだけの価値はあると思いますがね。



711

Re: はい、論争は終了しました。もう心配はいりません。

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月24日(木)21時13分50秒]

元の発言 [ Re: はい、論争は終了しました。もう心配はいりません。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月23日(水)23時53分57秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>  起)北部九州は強権を必要としない原始共和制の「クニ」だった。
>>  承)そのころの大和には巨大墳墓を次々と造る原初大和政権があった。
>>  転)女王国は複数の男王による権力闘争を終結させるため「一女子共立」を行った。
>>  結)共和制によって弱体化した女王国は、強権国家の九州進出によって消滅した。
>>  続)大和政権も大きくなるに従って権力をめぐる内部闘争が起き始めたとき、
>>    かつての先進国の体制を見習って、
>>   有力氏族の上に調停役としての大王を君臨させ、統治は合議制とした。(^。^)
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
 なんば言ヨっと。「一女子共立」ば原始共和制って書いとろーが、
 レスばよーと読まんね。
 王ば立てんで“姫巫女”ば調停役にしたとが「女王国」やろうが、
 「女王国」って表記も「倭王(女王)」に授爵したとは魏のかって、
 中華帝国には理解でけんって、
 それば利用した横道もんが覇権ば得ろうとしたかどうかは知らんバッテン。

>>
>>
>>
 九州の地理も知らん人に言われとうなか。(^。^)m(__)m



712

Re: Title 里程について

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月24日(木)21時48分57秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 1月24日(木)03時49分03秒 ]

ALEXさん、はじめまして。レス頂きまして、ありがとうございます。

>> >> 4番の地名比定の理由は、見当たりませんでしたが、5番については、ALEXさんの詳細な説明がありました。しかし、遼陽が当時の遼東郡治−襄平であると言う主張は、坂口さんとの対論で否定されており、遼東郡治の所在は確定できないとされています。

>> # なにか誤解されているようですが、坂口さん(正確には坂口さんを通じての山形さん)との対話で、定説となっている襄平の位置が否定された事実はありません。

>> 山形さんの発言を略載します。
>> >『通鑑巻百八十二隋紀六』においては「漢・晋以来、遼東はみな『襄平に治す』、けだし城郭は遷徙することあり」と記録されており、この遼東郡の治所が「襄平城」もしくは「襄平県」に置かれていたことに間違いはありません。
>> >現在の「遼陽」に「襄平」が置かれたのは二世紀末ないし三世紀からです。

>>  ということは、魏志の記載にあらわれる襄平が現在の遼陽であるということです。

上記のお説、よく理解しました。私は、山形さんとの対論の最後に、

#ご教示ありがとうございます。近世のものもチェックしてみます。

とあり、城郭の位置が特定できないものと考えたのです。いずれにしろ、現在の遼陽に存在したこと、理解しました。前言を撤回させてください。申し訳ありませんでした。

では、遼東が現在の遼陽、丸都城が現在の集安としてお尋ねします。

「高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、wai[扁水旁歳]貊、東與沃沮、北與夫餘接。都於丸都之下、方可二千里、…」(ALEXさんのホームページから引用させて頂いております。)

の解釈ですが、ALEXさんは、遼東の東千里は、直線距離で約250kmだが、これは道のり距離で約400kmであるとされています。はたして、これは道のり距離でしょうか。『倭人伝』の記述に照らしてみれば、道のり距離であるには、方角+動詞+距離でなければならないのではないでしょうか。また「〜在、方角+距離」の文型で、道のりを示すと考えられる例はあるのでしょうか。私は、この文型を直線距離と考えていますが、不当でしょうか。

次に、方二千里可りは、領域(面積)を表していると思います。面積を表すのに、道のり距離を使うとは思えないので、これは直線距離だと思います。さて、ALEXさんは、高句麗の東限を、今の延吉あたり(実際の方角は、集安から見て東北です)で、直線距離にして約160kmと想定されています。そうすると、長里では、方二千里=435m×2000=870kmですので、高句麗の西限は、集安より710km西になります。東西軸を集安―延吉の延長上で見れば、その西限は、遼東半島の先端の旅順さえ超えるのではないでしょうか。
この長大な東西軸と同等の南北軸を考えたとき、はたして長里で高句麗の版図を考えることの正当性があるのでしょうか。当然遼東は、高句麗内部に消えてしまうのです。
また、挹婁伝に「挹婁在夫餘東北千餘里、濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。」
とあり、東と東北は書き分けてあると思われ、東限を延吉に比定すべき理由もないのです。いずれにしても、長里で考えるには、二千里は大きすぎると思われます。

私に地名比定は出来ませんが、「東夷伝」は短里だと思っています。

>> # さきごろ魏尺晋尺の項で詳述いたしましたが、魏景元四年(263)に劉徽が王莽の桝の深さを測定した結果が、王莽尺(=23.08cm)が現在(当時)の1尺より4分5厘短かく、魏尺で9寸5分5厘であったことから、史料的に魏尺の実寸24.2cm(算出値は24.1675cm)が判明しています。この数値が、正始五年銘弩機から求められた魏尺と一致しますので、魏中期から末期に使用された尺度について史料及び遺物の両面から明証が得られた結果となっています。

>>  晋泰始九年(273)、荀[冒力](学者・政治家としてより、私たちにはむしろ、陳壽に辛く当たった人物として記憶されていると思います)が古楽器の調律のため古尺を復元しますが、このとき基準になったのが同じく王莽桝の1尺=23.08cmであります。彼は今尺が莽尺1尺4分7厘としており
>>  23.08×1.047=24.1648
>> ですから、晋初の1尺も魏景元四年(263)と同じであったことがわかります。

漢代では、六尺を一歩とし、三百歩で一里となると聞いています。ALEXさんの仰る通り、魏、晋の尺に変化は無いのでしょう。勉強になります。しかし、尺と歩が晋代においても連動する単位であれば、一尺一歩とし、三百歩で一里としたのではないかと推定します。

>>  このように、魏から受禅した晋は基本的に先代の制度を踏襲しております。先代と体系の異なるあらたな1里の単位を採用したという記録は一切ありません。

『晋書』の完成は唐代であり、六朝時代や隋末の動乱を経ており、史料散逸の可能性があるのではないでしょうか。短里使用が晋代のみであれば、北朝系の隋や唐に取って代わられてからは、その事実の記憶さえも残らなかったのではないでしょうか。

>>  千七百有余年のあいだ、中国のあらゆる政治史、制度史上に換算率が記載されなかった幻の単位を想定することが現実的でしょうか?斐松之をはじめ、誰ひとり註釈をつけないのは何故でしょうか?

斐松之は、短里を知っていたから注釈しなかったと考えています。知らなければ、「其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在り」に、注をつけたと思われます。

>>  短里は幻想です。

生意気なようですが、どうしても短里を棄てられません。

レス付けて頂いて結構ですが、お返事は月曜日以降にさせてください。申し訳ありません。


713

Title卑弥呼の使節派遣前後の状況

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月24日(木)22時25分57秒]

えーと
そろそろ、歴史的事実と皆さんと議論して、大方、判明しいる事をられつして考えてみる。

1.其の当時の交易に付いては、朝鮮半島南部だけでなく、東部かなり北方まで倭国との交易があった。交易は活発であったようだ。

2.倭国の方では、九州だけでなく出雲、事によると北陸辺りまでの勢力が、交易している。

3.朝鮮半島には、倭から交易に来た人達も大勢居た。2.の人達も含まれる

4.南部から東部かなり北方までにかけて居住者も居た。

5.公孫氏も倭と盛んに交易していて縁が深い。

6.当時、魏は、呉と結んだを攻撃して滅ぼしている。

7.魏は、6.の軍事行動にさいし、陸上と海上から封鎖し、皆殺しにしている。

8.高句麗は、この時、一時は,良好であった。公孫氏と対立、魏に協力。

9.卑弥呼が、使者を派遣したのは、公孫氏が滅んだ2ヶ月後である。

10.九州の伊都国辺りには中国の出張所的なのがあり、中国の役人も居た。

て、言うような感じに事実を羅列してみる。(抜けと足りない点が、山ほどだが)
と、いま、一般的な常識に対する。矛盾がいくつも出てくる。

このような環境で、本当に、海上封鎖や陸上封鎖が、可能か?

この事実に対して、いろんな意見が出てるんですが、
さて、色々矛盾するような意見がおおくでてる。

句奴国と連合女王国の対立は、上記の影響なのか?
其れとも、倭内部のことなのか?

1.倭国大乱の続き?
2.政治経済上の問題?
3.文化や民族的な部族の争い?

影響があるとすると、呉と公孫氏と句奴国に魏と連合女王国として対立していたのか?
てな、疑問に成るんですが。

当然、抜けだらけだから、追加したい事なんか山でしょうが、如何考えますかね?




714

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月24日(木)22時37分25秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月22日(火)10時54分39秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
慎重に考えるとそうなってしまいますね。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
似たような国名「奴国1」「奴国2」「彌奴」「蘇奴」
「華奴蘇奴」「姐奴」「鬼奴」「烏奴」「狗奴」や
単純地形名「斯馬」「邪馬」「邪馬壹」とかあるあたり、
この時代の女王の統率力のゆるやかさ、あるいはそれぞれ
の国々の独自性を感じます。
いちおう「奴」は「ナイ」(大地か川とか?)という語源
になんでしょうかね。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
uaがオ段甲類っぽい理由を教えてもらえませんか。
私としては、このあと
a,ua→ア段、
au→ア段orオ段甲類
かなあと推論してしまうんですけど。
ハ、バ、マ、ラ、ワ行では、ア段がuaなので、
単純に考えるとそうかなあと。




718

Re: Title 承前 ねたろうさんへ、

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月25日(金)01時01分28秒]

元の発言 [ Re: Title 承前 ねたろうさんへ、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月23日(水)23時08分39秒 ]

こんばんは

>>
>>
>>
bbs0008は大丈夫だったんですけどね。いつの間にやら古いものはそうなって
るみたいですね。これだと検索のたびに全文読み出していては大変ですから、
サーバー側で切り出してもらわないとしょうがないですね。

もっとも、これだと、ローカル保存が一番いいかもしれませんが。




72

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ ふうらん ] 発言日時 [1月5日(土)17時46分10秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月5日(土)14時06分13秒 ]

>> 「東アジアの古代文化109号」で阿部久雄氏が、
>> おにりんさんのお好きな「科学的根拠」を元に、
>> 「これらのことを勘案すれば、三角縁神獣鏡群は魏の領土や魏の時代とは関係のない鋳造工房で紀年鏡銘よりも後代に鋳造されたものであると鑑定するのが自然である。
>> ・・・・・・・・・故に鋳造地は日本と帰納するのが自然である」と結論付けています。
>> ぜひ、科学的データに基づく反論をお願いします。

#その論文はわたしも読みました。

#阿部氏は、単に三角縁神獣鏡が江南の銅でつくらていることを論証しているだけで、それが、年代や製造地の根拠になることについては何も示していません。

#銅原料から、魏鏡かどうかを論じるには、まず、三世紀の中原・遼東・半島製の鏡の銅原料がいかなるものかを調べなければ、意味がないと思います。



721

Re: 里程について

投稿者[ kouji ] 発言日時 [1月25日(金)02時32分31秒]

元の発言 [ Re: 訂正させてください ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月24日(木)08時09分09秒 ]


 私はとても遅筆なので、レスが遅くなります。お許しください。

>> おにりんさんに教えていただいた過去ログで、具体的に長里の事例を記したものが、koujiさんの投稿でした。無断で拝借したこと、お許しください。

 問題ありません。というよりも、名前を挙げていただいのは過分のことと思っております。


>> >>  ちょっと違います。「陳寿が利用した史料に誤りが含まれていた」が正しいと思う。

>> 私は、「韓伝」・「倭人伝」内の里表記が、現在の地形との比較において、その比率がほぼ同じであることに注目しています。一点、二点ではありません。前回おにりんさんに示したのは、確実と思われる六点なのです。この六点の里表記は、ほぼ連続しており、なおかつ実地形に対応しているのです。当然一つのルールによって書かれたものと考えます。それはすでに、「陳寿が利用した史料」にも適用されていたルールであると思います。私は、それを短里と呼んでいるのです。誤りであることを証明するには、原史料を復元するか、その可能性を示す仮説が必要ではないでしょうか。

 韓伝・倭人伝の「短里」説は成り立つでしょうか。

 「自郡至女王國萬二千餘里」の過半を占める「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」の行程については以前、ALEXさんが考証されています。以下に引用してみます。

「帯方郡治の比定地として有力な沙里院は、大同江河口に注ぐ大河のほとり程近くにあります。「從郡至倭、循海岸水行」で出発している限り「七千餘里」の始点は南浦のやや上流を措定すべきでしょう。南浦より海州まで現代の航路で300km。同じく海州より仁川まで220km。さらに同じく仁川より木浦まで346km。木浦より釜山まで現在のいくつかの観光船航路に準じてキルビーメーターで計測すると概ね450kmを数えます。総計で1,316kmほど。」

 ALEXさんの考証はさらに詳細ですが、とりあえずこの1,316km を魏の里に換算してみましょう。1,316km÷435m≒3,025里。この時点ですでに、帯方郡−狗邪韓国間七千餘里がいわゆる「短里」ではあり得ないことは明かです。しかもこれは現代の航路の話です。古代の航路では、極めて入組んだ朝鮮半島の西及び南側の海岸に対し、さらに密に沿って水行したと考えられますから、二倍強の距離が計上されるのはむしろ当然でしょう。つまり、この七千餘里は明かに「長里」なのです。
 これに対して、韓国内は陸行したと主張される方もおりますが、文章としてはそのように読める筈もなく、例の「水行十日・陸行一月」を郡−女王国間の全行程であるとこじつけるための曲解に過ぎません。

 次に「伊都國…東南至奴國百里」について考えてみましょう。百里×435m≒44km。この両国については考古史料の出土状況と古地名を重ね合わせれば、伊都国の中心部は前原市三雲・井原あたり、奴国の中心部は春日市須玖あたりに求めるのが妥当であり、通説化しています。両者の直線距離はおよそ20kmほどです。奴国の中心部については最近は比恵も注目されているようですが、こちらを採っても直線距離はほぼ変わりません。直線距離約20kmとすれば、道のり百里(≒44km)は概ね妥当といえます。伊都・奴両国間百里は明かに「長里」なのです。
 ねたろうさんはこの両国の比定地に異論があるかもしれませんが、その比定地について「短里」説以外の根拠を挙げることができるでしょうか?「短里」だけによって行われた比定地を「短里」の根拠とすることはできません。

 少なくともこの二箇所については、「長里」でほぼ妥当な記述がなされていると見ることができます。また不彌國は比定地に定説というほどのものがありませんからなんとも言えませんが、例えば支持者の少なくない穂波説を仮に採るとすれば、奴國からの直線距離が25km程ですから、これも「長里」の「奴國…東行至不彌國百里」で妥当ということになります。

 では、狗邪韓國−對馬國−一支國−末盧國間の渡海各千餘里は「短里」だと言えるでしょうか。これについても、ALEXさんの考証がありますが、それ以外にも、海上行程は一昼夜二千里という換算基準が一部にあったこと知られていますから、この種の換算基準が適用されたとも考えられます。この換算基準は「短里」とは関係なく成立したもので、一言で言ってしまえば単なる勘違いなのですが、実際にこの換算基準によって里程を記述されたと考えられる東南アジア方面の地理記述が存在しており、これは呉の時に編纂された「南州異物志」という書物に由来する可能性が高いことが考証されています。

 「末盧國…東南陸行五百里到伊都國」については、末盧國の中心部を唐津市付近と考えると、伊都國までの直線距離は30km足らずですから、この五百里は確かに誇大です。海岸沿いのルートは古くは存在しなかったそうですから、私は「草木茂盛、行不見前人」というような状況の山越えルートが距離感を誤らせたのかと思っておりますが、いかがでしょう。

 いずれにせよ、「「韓伝」・「倭人伝」内の里表記が、現在の地形との比較において、その比率がほぼ同じである」とはとうてい言えないものと考えます。ちなみに、韓伝の「方可四千里」は、帯方郡−狗邪韓国間七千餘里から概算されたものでしょう。


>> >> >> 対して、九州説では、アとウが正しくて、イは解釈の違いであり、実際は『三国志』全編短里で理解できる(古田説)と考えるのでしょう。
>> >>  それは、九州説の中でも特に変な説なんじゃないかな?この時期の中国で「短里」が公式に採用されていたなんて主張しているのは、変な人とその信者だけだと思いますよ。
>> 私は、信者ではないのですが、支持しています。できれば、そういう言い方はやめていただけませんか。

 ねたろうさんは、「『三国志』全編短里で理解できる」ことを否定されたのですから、もはや支持していないのではありませんか?


>> >> >> 畿内説は、『三国志』の記述に対しての不信から、九州説は、陳寿の記述を重視する立場からの帰結でしょう。
>> >>  まあ、本人の自己申告は当てにならない、ということは覚えておいたほうがいいと思います。
>> すみません、本人とは誰のことでしょう。本当にわかりません。

 「自分は陳寿を信じ通した」とか「自分は原文を忠実に読みとおした」などと、ことさらに強調するような人の言うことは、眉に唾して聞いた方がいいということです。


>> 書き方が悪かったと反省しています。これは間違いなく長里です。諸葛亮伝の会話文の中にも、「軽騎一日一夜行三百余里」とあり、馬での行軍能力を示すものと考えます。地名比定するまでもなく、同じ距離を表しており長里です。蜀朝は、漢の後継を自認しており、短里使用はあり得ません。私が問題としているのは、これが「建安十二年の記事」であり、「晋代より前の時代(後漢代、魏代)の出来事だ」という事なのです。対して「夷蛮伝」の地の文は、「陳寿執筆時点の記述(晋代)」であり、私の説と矛盾しないと考えています。

 しかし、魏志東夷伝の記述対象は「長里」である筈の魏代の東夷であり、当面の対象とする読者が西晋の人々であることも蜀志と同じです。
 また、「魏朝長里、晋朝短里説」にとって致命的であるように思われる史料に、次のものがあります。

『漢書』地理志如淳注「如墨委面。在帶方東南萬里。」

 如淳は魏の人だそうですので、「長里」である筈の魏でも倭までの里数は、魏志倭人伝とほぼ同じ里数として把握されていたわけです。これは、倭人伝の里数が「短里」とは無関係であることの証拠ではないでしょうか?
 まあ、「萬里」なんていう大雑把な里数は当てにならないと言ってしまえばそれまでですが。


>> 「史書の記述に誤りがある」ことは、認めます。ただ、「韓伝」・「倭人伝」の里表記の数の多さが問題だと思います。あれだけまとめて間違えることを、ありがちな現象と言えるのかどうか。私には疑問です。

 間違えた記述が生じた理由を考えることは重要です。しかし、まとめて間違えたといえるのは、渡海の計三千餘里ぐらいだと思いますし、短里とは関係ないでしょう。


>> 「韓伝」・「倭人伝」には、ある一定のルールで書かれていると考えざるを得ない状況が見て取れます。だとすれば、それと境界を接する高句麗や夫餘も、そのルールで解釈すべきだと考えますが、いかがでしょう。

 アプリオリに設定したルールを前提に解釈しようとするのは誤りです。高句麗・夫餘・沃沮・[手邑]婁伝の里が「長里」であることは、これを「短里」で解釈するためにはアクロバティックな曲解を積み重ねなければ不可能であることが遺憾なく証明しています。


>> レスしていただき、ありがとうございます。

 こちらこそ。真摯なレスをいただき、ありがとうございます。
 ALEXさんが詳細なレスを入れているのも多分あなたの真摯な態度に感じるところがあったのだと思います。おにりんさんも、口は悪いですが、多分あなたに期待しているのだと思います。


>> おにりんさんに指摘されたので、訂正させてください。
(中略)
>> に変更させてください。本当に申し訳ありません。

 ケアレスミスはよくあることで、お互い様というものです。



722

Re: Title 里程について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月25日(金)08時05分25秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月23日(水)23時19分27秒 ]

おはようございます。レスが遅くなりました。

>> 過分にお褒めいただきありがとうございます。ただ、畿内説の方が、私の説を支持しないことは、判っていますので、反論された後に撤回するかもしれません。その時は、ごめんなさいして、また次の説を立てるつもりです。その程度の仮説です。

過去の論争で『今屯苑、去襄陽三百余里』が短里では説明がつかなくて困りましたが「会話」の中で出てきた距離は長里であるという仮説は目からウロコでした。
これで短里が確定したという思いです。

>> 方二千里とあれば、四角四面に正方形であると考える必要はないと思いますが、その可能性も否定できず、地形的に特定できる山や川や海が国境でない限り、大陸内で、その領域を特定するのは至難と考えます。

は対馬国を方八百里としていますから正方形でなくてもいいでしょう。
対馬国の方八百里の面積も短里で計算するとピッタリでしたよ。


724

Re: Title卑弥呼の使節派遣前後の状況

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月25日(金)11時43分33秒]

元の発言 [ Title卑弥呼の使節派遣前後の状況 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月24日(木)22時25分57秒 ]

>> 1.其の当時の交易に付いては、朝鮮半島南部だけでなく、東部かなり北方まで倭国との交易があった。交易は活発であったようだ。
>> 2.倭国の方では、九州だけでなく出雲、事によると北陸辺りまでの勢力が、交易している。

北九州を介さず独自のルートがあったか?
交流というからには半島からの流入品だけでなく、これらの地方からの半島へ同量の流出品が示されなければなりません。
さもなければ一方的流入だけになってしまいます。

>> 3.朝鮮半島には、倭から交易に来た人達も大勢居た。2.の人達も含まれる
>> 4.南部から東部かなり北方までにかけて居住者も居た。

東沃沮なんかも含むのかなあ。
「問其耆老、「海東復有人不」、耆老言國人嘗乘船捕魚、遭風見吹數十日、東得一島、上有人、言語不相曉、其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中、純女無男。又説得一布衣、從海中浮出、其身如中(國)人衣、其兩袖長三丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得之、與語不相通、不食而死。其域皆在沃沮東大海中。」
なんて記述をみると活発な交流とは程遠いような。
「嵐に遭い数十日吹かれ、東に一島を得る」って日本列島?
「一國亦在海中、純女無男・・・」は竜宮伝説?

>> 5.公孫氏も倭と盛んに交易していて縁が深い。

「倭は公孫氏に属す」と書いてありますからね。

>> 6.当時、魏は、呉と結んだを攻撃して滅ぼしている。
>> 7.魏は、6.の軍事行動にさいし、陸上と海上から封鎖し、皆殺しにしている。
>> 8.高句麗は、この時、一時は,良好であった。公孫氏と対立、魏に協力。
>> 9.卑弥呼が、使者を派遣したのは、公孫氏が滅んだ2ヶ月後である。

「2ヶ月後」は「2ヶ月前」の誤り?
定説では10ヶ月後とされていますが原文通り解釈した方が面白い。

>> 10.九州の伊都国辺りには中国の出張所的なのがあり、中国の役人も居た。

>> て、言うような感じに事実を羅列してみる。(抜けと足りない点が、山ほどだが)
>> と、いま、一般的な常識に対する。矛盾がいくつも出てくる。

>> このような環境で、本当に、海上封鎖や陸上封鎖が、可能か?

4萬人位の軍隊で1000kmを越すような国境と海上を封鎖出来る筈はないし、皆殺しも不可能だったでしょう。

>> この事実に対して、いろんな意見が出てるんですが、
>> さて、色々矛盾するような意見がおおくでてる。

>> 句奴国と連合女王国の対立は、上記の影響なのか?
>> 其れとも、倭内部のことなのか?

>> 1.倭国大乱の続き?
>> 2.政治経済上の問題?
>> 3.文化や民族的な部族の争い?

>> 影響があるとすると、呉と公孫氏と句奴国に魏と連合女王国として対立していたのか?
>> てな、疑問に成るんですが。

公孫氏は既に滅んでいて残りは呉ですが、ないともいえないし、あるともいえない。
ただ、海を隔てて遠いですから軍隊を送ってくれる事はないし心理的影響くらいでしょうね。

>> 当然、抜けだらけだから、追加したい事なんか山でしょうが、如何考えますかね?




725

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月25日(金)13時17分21秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月24日(木)23時45分32秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
助詞の「の」ですか。
可能性は少しはあるんだろうけど、ちょっと嫌だなあ。

>> いちおう「奴」は「ナイ」(大地か川とか?)という語源
>> になんでしょうかね。

>>
>>
アイヌ語だとトンデモっぽくなりますか。
まあ、大地の「ナ」にしときます。

>>
>>
>>
面白さではこっちが上ですね。
そういえば、私の比定でも第二奴国は「ナーガ国」です。
これでいくと、華奴蘇奴国は「ふぁーがなーがさーがなーが国」ですか。
少なくとも日本には、なさそうですね・・・。

>> uaがオ段甲類っぽい理由を教えてもらえませんか。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
奈良時代の音韻法則は、中心音の推定からかなり理解が
できるのでしょうね。
この時代aとoならuaに近いのはoだったということは、
oと区別するためにaは低い音の割合が小さくなっていたのかも。
で、問題は8母音にたどりついた経過ですよね。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
なるほど。
私としてはもっと沢山考えたいなあと思うのです。
試案ですけど以下のような感じ。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/5468/kodaion.gif
でも、なかなかうまくは書けない。

>>
>>
>>
>>
「狗」は ko-kO あたりの音だったと推定してるので、
変化なしに近いように思えるのですが。
「ク」に近いのは「躬」「弓」ではないかと。

>>
>>
これはどの時代の変化なんでしょうか?
細かくやると、aO -> o,  au -> O 。
口形と舌の変化で理由を簡潔に書けるといいのだけど。
このあたりの議論は、実証手段がほとんどなさそうだから、
法則を簡潔に記述できるかどうか、ということになるんでしょうか。



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Re: なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう?

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月25日(金)14時05分44秒]

元の発言 [ Re: なぜあんなにたくさんの鏡が買えたのだろう? ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月24日(木)18時50分49秒 ]

>> >> 人はパンのみにて生きるにあらず。
>> >> 自分の技術や知識を必要とし評価してくれる所に行くのじゃないですか。

>> 去年の暮れにやっていた「聖徳太子」のテレビで
>> 百済から倭国へ、飛鳥寺の瓦をつくるために工人が
>> やってくる場面がありましたが。
>> 仏像を作ることができた人間が準主役でした。
>> 鏡を作る工人がやってきていてもおかしくないでしょう。

>> 戦乱の世を嫌って、倭国で鏡造りで金になれば、
>> 十分渡来するだけの価値はあると思いますがね。

現代でもブラジルやアルゼンチンにバレーボールのコーチに行った人たちが特段の待遇受けて行った訳でもなく、
必要とされ望まれたから喜んで行ったのだろうと思います。

わざわざスカウトに行かなくても「鏡がそんなに好きならワシが行って作り方教えたる。」と売り込んできたかもしれませんね。


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Re: はい、論争は終了しました。もう心配はいりません。

投稿者[ ねこちゃん ] 発言日時 [1月25日(金)18時32分23秒]

元の発言 [ Re: はい、論争は終了しました。もう心配はいりません。 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月24日(木)21時13分50秒 ]

ちわっす
不安定なのでセットアップしたらオヤジッチさんのアドレスまで消えていました。
よろしければ、メールください。
やっぱ東遷は二回あった。


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Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月25日(金)19時12分12秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 1月23日(水)10時54分08秒 ]

>> 内海=安全、外海=危険という考え方があるようですが、本
>> 当にそうなのでしょうか?海の事はよく知りませんが、以前
>> 読んだ雑誌に、シ−カヤックで瀬戸内の水軍城(芸予諸島)
>> を調査した話が載っていました。

>> それによると、潮流は湾口や瀬戸では速く、大洋では遅い。
>> 来島を目指した時は、嵐の翌日の川のような海があり、潮の
>> 流れがおさまる『潮止まり』を待って船出したそうです。
>> それでも、帰りは引き潮の真っ最中になりかなり苦労したと
>> か。

部分的に潮の流れの速いところもあるでしょうが全般的には内海が安全である事は間違いないでしょう。
伊勢湾近くを見たとき太平洋に面した海水浴場なんか殆んどありません。
湾内には沢山ありますが。

>> その他にも、
>> 大島〜能島は潮は速いが、潮流に乗った為に短時間で移動可
>> 能。

行きに半分、帰りに2倍ではトータルすると1.25倍になります。

>> 鳴門海峡と芸予諸島周辺は日本で1、2を争う程潮が速い。

潮の流れは一日で2回〜4回反転しますから潮目を読めば高速航行が可能です。

>> 島が入り組んだ海域には危険な岩礁も多い。

まあ、その通りですね。
だったら何故ここの畿内説の皆さんは韓半島を3000kmも水行したと強弁なさるんでしょう。
珍島物語で有名な潮の満ち干の激しい、岩礁だらけの海を水行したとおっしゃっています。

>> 大舟は潮流が速いと身動きがとれなくなるが、小舟は転回が
>> 効く。水軍は8〜10丁櫓の船足の速い小舟を使ったらしい。

>> 平均水深30mの瀬戸内海と違って、駿河湾は陸地から少し
>> 離れるだけで、水深1000mを越える。

>> 西伊豆の海は潮の流れが遅く、潮流に阻まれる事はないが、
>> 冬は海が荒れる。その為、波の影響を受けない湾を背景にし
>> て水軍城がある。

>> 西伊豆沿岸には、舟が隠せるような洞窟が無数にある。

>> 平安末期、紀伊半島の熊野水軍もそのような洞窟から壇ノ浦
>> に出陣したという話がある。

>> などの話があります。
>> 実際、瀬戸内海はかなり舟が沈んでいるらしくて、今でも稀
>> に漁師の網に備前焼の皿などが入っている事があるようです。

だから邪馬台国畿内はないと九州説は主張しているのです。

出来るだけ海を渡る回数、距離を少なくしたいですから。
そういう意味で四国の方が有利かも。


73

Re: Title 本の紹介

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月5日(土)19時10分11秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 1月5日(土)11時59分49秒 ]

こんにちは。

>> 結局、邪馬台国=弥生X期という前提での議論が、御破算になってしまったのでしょう?

>> 邪馬台国=弥生X期と考えるなら、九州説の方がいいわけなんですけどね。

邪馬台国=弥生X期で良いんじゃないですか?
そして邪馬台国が魏や晋と交流していた頃、畿内では古墳の築造が始まっていた。



730

ワナサ−ナ国

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [1月25日(金)22時05分21秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月25日(金)13時34分56秒 ]

こんばんは 割り込みごめんなさい。

>>
>>
>>
>>
#これについては、「ワナサのナ國」の意なんじゃないかと思っています。「ワナサ」というのは「海」の古語の「わた」とか「わさ」のさらに古い形?もしくは、方言なのかも知れません。
 丹後風土記の羽衣伝説の「ワナサ」の翁と媼とかありますし、延喜式神名帳の阿波国に「和奈佐意富曾神社」というのがあって、これもどうやら海に面していたらしいです。
 阿波国の南半分は、長国造の国だったのですけれど、ここは後に海部郡と那賀郡になっていて、あやしい場所です。「和奈佐意富曾神社」も海部郡にあります。




731

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月25日(金)22時14分32秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月25日(金)19時12分12秒 ]

>> 部分的に潮の流れの速いところもあるでしょうが全般的には内海が安全である事は間違いないでしょう。
>> 伊勢湾近くを見たとき太平洋に面した海水浴場なんか殆んどありません。
>> 湾内には沢山ありますが。

>> >> その他にも、
>> >> 大島〜能島は潮は速いが、潮流に乗った為に短時間で移動可
>> >> 能。

>> 行きに半分、帰りに2倍ではトータルすると1.25倍になります。

>> >> 鳴門海峡と芸予諸島周辺は日本で1、2を争う程潮が速い。

>> 潮の流れは一日で2回〜4回反転しますから潮目を読めば高速航行が可能です。

内海であろうと、潮読みと天候の推測は大事だったのでしょうね。

熟田津爾船乗世武登月待者
潮毛加奈比沼今者許芸乞菜 (額田王)

”熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな”

おだやかそうな松山あたりでこうだったみたいですから。

>> だから邪馬台国畿内はないと九州説は主張しているのです。

>> 出来るだけ海を渡る回数、距離を少なくしたいですから。
>> そういう意味で四国の方が有利かも。

う〜ん、四国説って、折衷案なんですよね。
だから、インパクトないかも。

ただ、いずれの説にしても思うのは、24ケ国の比定域を
はっきりしてくれんかなあ、ということです。
それが遺跡や遺物、地名の上でも妥当であれば、自分も
この説を投げ出すのですが。


732

Re: はい、論争は終了しました。もう心配はいりません。

投稿者[ 彦九郎 ] 発言日時 [1月25日(金)22時32分30秒]

元の発言 [ Re: はい、論争は終了しました。もう心配はいりません。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月25日(金)00時29分56秒 ]


>>  九州の地理も知らん人に言われとうなか。(^。^)m(__)m

>>
>>
>>
#この人は人の言うことを良く理解しようとしないですね。オヤジッチさんはそんなことを言っているのではありません。独り善がりの激しい人だ。



733

Re: Title 里程について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月26日(土)06時59分08秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月23日(水)22時58分03秒 ]

>> 特に地理上の記載が軍事的意味を持っていたと思われ、首都間の距離よりも国境の画定が重要ではなかったかと思うのです。

>>
当時の国境に対する概念はどうだったのかはよくわかりませんね。それぞれの国人の住む範囲くらいですかね。
入り混じって住んでいたりすると解らなくなる。
でも現代と違って人口が少ないですから自然に入り混じって生活する事は少なかったと思われます。

>>
>>
>>
はっきりとした線を引いて国境としなくても勢力範囲程度の認識があり、租税徴収をしていた筈と思いますが。

>> <序文>「以接前史之所未備焉」前史に欠けている東夷(北狄は解っている?)の地理や性格(俗)を述べその脅威に備える。
>> と言うものではないでしょうか?

>>
>>
>>
はい、短里がなければ邪馬台国は大東島とか沖ノ鳥島になってしまいますから。



736

Re: ワナサ−ナ国

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月26日(土)19時24分38秒]

元の発言 [ ワナサ−ナ国 ] お名前 [ マルセ ] 日付 [ 1月25日(金)22時05分21秒 ]

>> #これについては、「ワナサのナ國」の意なんじゃないかと思っています。「ワナサ」というのは「海」の古語の「わた」とか「わさ」のさらに古い形?もしくは、方言なのかも知れません。
>>  丹後風土記の羽衣伝説の「ワナサ」の翁と媼とかありますし、延喜式神名帳の阿波国に「和奈佐意富曾神社」というのがあって、これもどうやら海に面していたらしいです。
>>  阿波国の南半分は、長国造の国だったのですけれど、ここは後に海部郡と那賀郡になっていて、あやしい場所です。「和奈佐意富曾神社」も海部郡にあります。

そうそう、ここは結構あやしいとこですよ。←ナーガ国=長国
若杉山遺跡という10ヘクタールにも及ぶ弥生後期〜古墳初頭の
朱の採掘・砕石遺跡がありますし。
徳島県では、桑野川流域は鮎喰川流域に次ぐ銅鐸出土地域ですから。

和那佐っておもしろい地名ですよね。
どんな意味があったんでしょうね。
そういえば、志和岐(巳百支の音に類似)とかいう地名も
日和佐・由岐町のほうにありました。

でも僕としては、旁国は「次々に」比定しないと駄目だと思います。
倭人伝にはそう記述されているのだし、それを守らないと
恣意的になってしまうから。


737

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月26日(土)19時26分13秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月25日(金)13時34分56秒 ]

>> 上古魚部去声の -g が落ちるとすれば、
>> 「わなさな」と読む。しかし、対応する地名は現在の
>> ところ、ありませんので、「昔そんなところがあったの
>> さ」で済ますっていうのも一つの手ではあります。

>>
>>
>>
う〜ん、相当苦しいですね。「蘇」だけ「sag」ですか。
そして「な(助詞)」が省略されていると。
音の省略や追加、清濁以外の子音交替は、
基本的に認めたくないんですが。

>>
>>
>>
>>
>>
そうでした。
母音調和を考えると候補が絞られますね。



739

Re: ワナサ−ナ国

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月26日(土)22時56分33秒]

元の発言 [ Re: ワナサ−ナ国 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月26日(土)20時42分04秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
これは大変重要な点です。
私は里程記事に関しては、史書の一般的な里程の表記を調べた高橋善太郎氏の
「魏志倭人伝の里程記事をめぐって」を参考にしています。
そこでは「復」「又」「次」があるかどうかが重要であることが述べられています。

さて「韓伝」ですが、これは「復」「次」「又」は用いられていません。
だから、この場合には順番でなくても記述とは矛盾しません。

三国志(あるいは他の史書)のなかで「復・・復・・」「又・・又・・」
「次・・次・・」という記述があって、事実はそうではないことが一般的ならば、
順番でないだろうと推測できます。
しかし、多くの里程記事を調査した高橋氏は決してそうは述べていません。

順番であれば、旁国は比定できるかもしれません。
順番でなければ、新たな文献が得られない限り旁国の比定は難しいと思います。
つまり、その地名群の類似が統計的に意味があるとはいえなくなるでしょう。



741

Re: ワナサ−ナ国

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月27日(日)07時10分41秒]

元の発言 [ Re: ワナサ−ナ国 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月27日(日)00時49分07秒 ]

>>
>>
>>
一番可能性が高いのは地理的な順番でしょうね。
史書の一般的な用法もこれでしょう。
また倭人伝では、旁国を述べた後で「此女王境界所盡」ともあります。
正確な文章が今書けないのですが、高橋氏は
「直線ではなくても何らかの道筋があり、結局周辺をぐるぐるまわる
ような感じだったかもしれない」と述べていたように思います。
基本的な良い論文だと思いますので、今度きちんと引用します。
港と港をつなぐような飛び飛びの可能性なども考えられます。

規模、戸数による順番は「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、
不可得詳」とあるので多分なさそうです。
地位という可能性は、どのように順番を決めたかはかりかねますので
考えたくないです。




742

Re: Title 里程について

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [1月27日(日)08時50分36秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月24日(木)21時48分57秒 ]

>『倭人伝』の記述に照らしてみれば、道のり距離であるには、方角+動詞+距離でなければならないのではないでしょうか。また「〜在、方角+距離」の文型で、道のりを示すと考えられる例はあるのでしょうか。私は、この文型を直線距離と考えていますが、不当でしょうか。

# 『倭人伝』の記述に照らせば、いづれの文型も道のりです。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」
書かれているのが道里であって直線距離などではないことが読み取れると思います。


>方二千里可りは、領域(面積)を表していると思います。

# 古代中国人の意識では、封建制下では、確保した領地の東西南北に封と呼ばれる標識を建てます。方○○里とは、その封から封の道里にあたることになります。
 また現実的には、距離の表記は軍事的な意味を持ちます。これらは何日で援軍が駆けつけられる距離か等を判断する指標でありまして、直行できない直線距離には意味がありません。
 そもそも直径という言葉が最短距離の道のりという意味であります。天体観測ならいざ知らず、地誌上の距離は人の移動に沿って把握するのが基本と言えるでしょう。

 東夷傳の高句麗の大きさと襄平−丸都の距離は、道里に沿ってほぼ妥当な数字であります。


>『晋書』の完成は唐代であり、六朝時代や隋末の動乱を経ており、史料散逸の可能性があるのではないでしょうか。短里使用が晋代のみであれば、北朝系の隋や唐に取って代わられてからは、その事実の記憶さえも残らなかったのではないでしょうか。

# 暦法、天文から詩賦まで多数の記録が残っているのにですか?
 里や歩など大変生活に密着した制度の変更は多方面に影響が大きいものです。

>斐松之は、短里を知っていたから注釈しなかったと考えています。知らなければ、「其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在り」に、注をつけたと思われます。

# 知っていることを知らない人の為に付けるのが注釈であります。
 公孫淵は呉と遼東の距離感を「江南海北有萬里之限」と書いています。帯方から倭人の都まで1万2千余里(実質約9千里)が丁度会稽東治(福州))の東にあたるという感覚と合致すると言えるでしょう。

また、既にkoujiさんが指摘していますが、魏の臣である如淳が漢書の註に倭人を「在帶方東南萬里。」と書いています。

 つまりこの地理感は魏晋共通なのです。また「百里」と言えば県の代名詞なのは漢魏晋共通の常識です。


 その他はどうでしょうか?

 晋に仕えた皇甫謐の「帝王世記」によれば光武帝陵は洛陽の北東15里です。正しい魏の1里で考えれば故洛陽城から孟津に現存する光武帝陵への距離に概ね相当するものですが、「短里」で約1kmなどという近い位置ではありえません。

 また晋書羊[示古]傳の会話には曰「江夏去襄陽八百里」とあり、正しい魏の1里では直線距離の倍弱。道のりとしては妥当といえる範囲内ですが、「短里」では解釈不能です。

 同じく王濬傳の会話中には「十四日至牛渚、去秣陵二百里」とあり、これも直線距離としては魏里では長すぎるが逆に「短里」ではとどきません。苟晞傳では「エン州去洛五百里」とあり、これもこれも直線距離では魏里では長すぎ逆に「短里」では遥かにとどきません。

 これらはすべて軍事行動等にからんだ、実際に行く人のための距離把握ですから、“実際には走ることの出来ない直線距離で、なおかつ実距離より大幅に短い”地理感が適用できないことは言うまでもありません。当然に道路の走行距離と考えるべきで、魏里(=晋里)で妥当ということになりましょう。

 もう一つ見ましょう。同じく晋書紀瞻傳では、何もかもかなぐり捨てて急遽撤退するさまを「乃與榮及陸玩等各解船棄車牛、一日一夜行三百里、得還揚州。」と描写しています。三国志にあらわれる有名な董卓の「晝夜三百里來」と一致します。これが大童で駆け抜けるスピードです。
 このように、後漢−魏−晋の1里は不変なのです。

 「短里」は幻想です。


743

あれ!

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月27日(日)13時05分23秒]

元の発言 [ Re: ワナサ−ナ国 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月27日(日)00時49分07秒 ]

>> そこでは「復」「又」「次」があるかどうかが重要であることが述べられています。

>>
>> 順番であれば、旁国は比定できるかもしれません。

>>
>>
>>
これほんとに順番なんじゃないですか。
斯馬ー>島根郡(出雲風土記)
巴百支(廣志)ー>伯耆
伊邪ー>因幡(イだけが残った)
都支ー>丹波/但馬(タだけが残った)

とか

巴利ー>播磨
支惟ー>吉備(この場合はキだけ)
烏奴ー>穴門
奴ー>那可

とか
奴ー不彌ー投馬ー邪馬台
の系列の記述ができるまえに、国のリストをぐるっと地理的にまわしたものかも。
近畿のあたりは相当にいりくんでいるかもしれませんが。
古いといわれる廣志を重視してのはなしですけど。
陳寿はこのふたつを単純の合わせたので、奴が二つになってしまったとか。

ちょっとこの可能性を追求してみようかな。






744

Re: ぜんぜん関係ないけど、、

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月27日(日)16時46分20秒]

元の発言 [ ぜんぜん関係ないけど、、 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月25日(金)10時16分59秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
おにりんさん>> うちは、ノギタとかいう場所のはずだけど、いったことない
おにりんさん>> からわかんない。
 「野北」と言うのは、志摩町内の旧村名で今は字名、志麻半島の北部、玄界灘に面する農漁集落、
 来目皇子の陵墓といわれる跡がある。福岡藩の藩馬生産牧場があった。日刊工業新聞社設立者、増田顕邦氏の出身地。
 だそうです。
 というやり取りはどうなったんでしょう。
 志摩町は怡土ではありませんヨ。



745

Re: ぜんぜん関係ないけど、、

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [1月27日(日)19時52分46秒]

元の発言 [ Re: ぜんぜん関係ないけど、、 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月27日(日)16時46分20秒 ]

ちわっす

さらに関係ないけど近くに「西の浦」ってあるでしょう。あの集落のほとんどの苗字は「宋」なんですよね。対馬の宗氏と関係あるのかな?

あと箸墓より古いとされる御道具山古墳の場所わかりますか?いついってもわからずじまいなんです。
また志摩町の開古墳、案内板はあるけどどれが古墳なのかわかんない。どれなんでしょう。


746

論争は終了したという人はいるけど

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月27日(日)21時58分35秒]

どうも、すっきりしないんですよね。
どれほど畿内から考古学の遺物が出てきても、それが
邪馬台国という証明は出来ていない。同時代のもので
あろうということしか言えないのですよね。
それで、論争は終了したと決めつける人もいるのですが、
どうですかね。

どうしても、魏志倭人伝の記載から、畿内へもっていって
ほかの国が、まあ特に狗奴国ですけど、ここの地理関連が
納得できないんですよ。
まあ、書き間違いですませば、それでおしまいですが。

畿内を邪馬台国にすれば、狗奴国はその南ですから
つまり東になるわけですよね。
とすれば、三重県もしくは愛知県。

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種となると
これは、畿内の北に海があって、その先に国があると。

琵琶湖を海と認識したかどうかですが、関門海峡を
海とは言わないと言われているのですから、琵琶湖は
やはり湖と認識しているでしょう。

女王国ですから、邪馬台国連合として考えて、一番
東が邪馬台国で、残りの国は、それより北ですから
西にあることになりますよね。

となると、若狭湾より北に国があることになりますが
佐渡は全然方向が違うと思うのです。

まだ、納得出来ないんだけどな。




747

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月27日(日)23時08分44秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 1月23日(水)10時54分08秒 ]

影虎さん、レス送れて済みません。
私も海には、疎い方ですが。

>>>> 豊予海峡は、2度ほどフェリーで渡ったここが有ります。
>>>> ここは、天候が良ければ、潮流を利用できれば、結構楽に渡れるようです。
>>>> が、荒れやすい事も確かです。
>>>> 外洋の影響も内海に比べると大きいので一般的には難所と言えるでしょう。
>>>> やはり内海とは、安定度は、比べ物にならないと考えます。
>>内海=安全、外海=危険という考え方があるようですが、本当にそうなのでしょうか?海の事はよく知りませんが、以前
>>読んだ雑誌に、シ−カヤックで瀬戸内の水軍城(芸予諸島)
>>を調査した話が載っていました。
>>それによると、潮流は湾口や瀬戸では速く、大洋では遅い。
>>来島を目指した時は、嵐の翌日の川のような海があり、
>>潮の流れがおさまる『潮止まり』を待って船出したそうです。
>>それでも、帰りは引き潮の真っ最中になりかなり苦労したとか。
>>その他にも、

事実、外海に面した浜と、湾内や、瀬戸内海、別府湾の内海の浜で見た波では、
完全に、外の方が荒いと思いますね。
>>大島〜能島は潮は速いが、潮流に乗った為に短時間で移動可能。
波も静かだと思います。

>>鳴門海峡と芸予諸島周辺は日本で1、2を争う程潮が速い。
>>島が入り組んだ海域には危険な岩礁も多い。
其の通りです。
ですが、潮をつかむと非常に便利な海、そして経験さえつめば岩礁も避けられますよね。
波も外海ほど酷くない。
そして、潮を利用すれば、黒潮と同じ、海のハイウエイトなるでしょうし、
時間さえ見れば、黒潮と違い、戻るのも自由ですね。

>>大舟は潮流が速いと身動きがとれなくなるが、小舟は転回が
>>効く。水軍は8〜10丁櫓の船足の速い小舟を使ったらしい。
>>平均水深30mの瀬戸内海と違って、駿河湾は陸地から少し
>>離れるだけで、水深1000mを越える。
>>西伊豆の海は潮の流れが遅く、潮流に阻まれる事はないが、
>>冬は海が荒れる。その為、波の影響を受けない湾を背景にして水軍城がある。
>>西伊豆沿岸には、舟が隠せるような洞窟が無数にある。
>>平安末期、紀伊半島の熊野水軍もそのような洞窟から壇ノ浦
>>に出陣したという話がある。
>>などの話があります。
>>実際、瀬戸内海はかなり舟が沈んでいるらしくて、今でも稀
>>に漁師の網に備前焼の皿などが入っている事があるようです。

象牙の化石などは、聞いていますが、面白いですね。
ありがとうございます。


749

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月27日(日)23時17分31秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 1月25日(金)22時14分32秒 ]

>> 熟田津爾船乗世武登月待者
>> 潮毛加奈比沼今者許芸乞菜 (額田王)

>> ”熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな”

>> おだやかそうな松山あたりでこうだったみたいですから。

>> >> だから邪馬台国畿内はないと九州説は主張しているのです。

>> >> 出来るだけ海を渡る回数、距離を少なくしたいですから。
>> >> そういう意味で四国の方が有利かも。

>> う〜ん、四国説って、折衷案なんですよね。
>> だから、インパクトないかも。

ですが、史書の記述からすると、そうじゃないかと思ってしまう場所ですよ。

>> ただ、いずれの説にしても思うのは、24ケ国の比定域を
>> はっきりしてくれんかなあ、ということです。
>> それが遺跡や遺物、地名の上でも妥当であれば、自分も
>> この説を投げ出すのですが。

投げないで下さいね。
私は、ご存知の通り、玉や産物から検討していますが、
意外なほど、有っちゃうんですから。



75

Re: 狗奴国=吉備国論

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月5日(土)20時14分57秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)20時00分17秒 ]

一つの推理として,

狗邪韓国は女王に貢を納めていたかもしれないが,
狗奴国は納めていなかったものか,
と考えられます。

# 狗邪韓国は崇神紀の任那かどうか?


750

Re: ぜんぜん関係ないけど、、

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月27日(日)23時44分51秒]

元の発言 [ Re: ぜんぜん関係ないけど、、 ] お名前 [ にゃあ ] 日付 [ 1月27日(日)19時52分46秒 ]

>> ちわっす

>> さらに関係ないけど近くに「西の浦」ってあるでしょう。あの集落のほとんどの苗字は「宋」なんですよね。対馬の宗氏と関係あるのかな?

>> あと箸墓より古いとされる御道具山古墳の場所わかりますか?いついってもわからずじまいなんです。
>> また志摩町の開古墳、案内板はあるけどどれが古墳なのかわかんない。どれなんでしょう。

行った事ありませんが
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/iseki/bzmap.htm

で上の方の左に開古墳、真ん中、上から2番目に御道具山古墳がありますね。


754

Re: 論争は終了したという人はいるけど

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月28日(月)01時44分03秒]

元の発言 [ Re: 論争は終了したという人はいるけど ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)00時49分01秒 ]

>>
どうしてですか?
南を東に読み替えるのなら、

自女王國以西(北)、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、
次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、
次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、
次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、
次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、
次有奴國、
此女王境界所盡。
其東(南)有狗奴國

ですから、
やっぱ東に狗奴国でしょ。

>> とすれば、三重県もしくは愛知県。

>> 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種となると
>> これは、畿内の北に海があって、その先に国があると。

>>
うそ、大陸になるでしょ。これならでかい!!





755

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ yaohide ] 発言日時 [1月28日(月)01時49分52秒]

元の発言 [ Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)00時17分18秒 ]

九州の地名があまりないんだけど。
そうなると九州の邪馬台国連合以外の有明海近辺の国
とか豊前や南九州などの国を一大卒で管理できたんだ
ろうか?




756

Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月28日(月)06時30分31秒]

元の発言 [ Re: Title 魚魚魚魚魚魚魚 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)00時33分32秒 ]

>>
>>
>>
どうもありがとうございます。
タイトルとは少し話がかわってきたので、そちらに移動した方が
よさそうですね。

しかし、邪馬台国の問題は難しいなあと思います。
いろんな知識がないと変なことをしてしまう。(自分もそうだけど)

比定に必要だと思われる知識
1 史書、記紀等の資料+それらの記述方法
2 中国における上古−中古の漢字音
3 日本における上代−現代の音韻の変遷
4 各地域の地名
5 各地域の考古学遺跡
6 知識を吸収する際に正否をきちんと判断する能力。

4、5はローカルな知識なので、日本全体を網羅するのは
相当に難しいですね。
何よりも6がないとすべて駄目になってしまう。
結局、科学的な態度が大事なんでしょうね。




758

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 景虎 ] 発言日時 [1月28日(月)11時52分49秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月27日(日)23時08分44秒 ]

>> >>鳴門海峡と芸予諸島周辺は日本で1、2を争う程潮が速い。
>> >>島が入り組んだ海域には危険な岩礁も多い。
>> 其の通りです。
>> ですが、潮をつかむと非常に便利な海、そして経験さえつめば岩礁も避けられますよね。
>> 波も外海ほど酷くない。
>> そして、潮を利用すれば、黒潮と同じ、海のハイウエイトなるでしょうし、
>> 時間さえ見れば、黒潮と違い、戻るのも自由ですね。

それだけの航海術があったかどうか?という事でしょうね。
あったとすれば戦は別としても、後世の水軍に匹敵する海
の専門家がいたという事でしょう。

いたと仮定してみると、かなりの力を持っていた可能性が高
いのではないかと思います。後世の話ですが、水軍後進地方
の東国に対して水軍先進地方の西国、特に中国地方は水軍を
掌握する必要がありましたからね。


759

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月28日(月)12時44分20秒]

元の発言 [ Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)00時17分18秒 ]

#「奴」のつく地名を抜き出してみると、

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
#「野」にあてているものがかなりありますが、「野」は「な」ではありえない。あまりにもご都合主義で、論ずるに足りる議論とは思えませんが。
奴が野だというなら、逆に「奴=儺の県」が成り立たない。
苦しいな〜、おにりん主義は。



76

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月5日(土)20時18分12秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 1月5日(土)03時04分08秒 ]

むふふ。確認です。

孝安紀に孝安天皇の母が尾張系とあります。

次の孝霊紀に,倭迹迹日百襲姫命,吉備津彦命,
稚武彦命が生まれ,
四道将軍の件で,吉備と関連してきます。

その言われるところの纏向1式の頃,
倭迹迹日百襲姫命+吉備津彦命+稚武彦命の黄金期があり,

狗奴国との抗争の頃には,
既に彼らの時代が終わった後だったので,
関係が薄くなった,

みたいな視点で考えたことはありますか?

といっても,土器の件が正しいとした場合のことですが。


崇神,豊城命,豊鍬入姫命,
倭姫命の線では,大和東方としての濃尾方面と,
さらなる結びつきを感じさせます。



760

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月28日(月)12時49分53秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 景虎 ] 日付 [ 1月28日(月)11時52分49秒 ]

>> >> >>鳴門海峡と芸予諸島周辺は日本で1、2を争う程潮が速い。
>> >> >>島が入り組んだ海域には危険な岩礁も多い。
>> >> 其の通りです。
>> >> ですが、潮をつかむと非常に便利な海、そして経験さえつめば岩礁も避けられますよね。
>> >> 波も外海ほど酷くない。
>> >> そして、潮を利用すれば、黒潮と同じ、海のハイウエイトなるでしょうし、
>> >> 時間さえ見れば、黒潮と違い、戻るのも自由ですね。

>> それだけの航海術があったかどうか?という事でしょうね。

有ったと思わざる終えませんね。
現に、縄文の黒曜石については、
伊豆諸島の石が使われ交易されている節も有ります。

姫島、壱岐の黒曜石から、朝鮮半島のかなり上まで流れているようですし。

>> あったとすれば戦は別としても、後世の水軍に匹敵する海
>> の専門家がいたという事でしょう。

居たでしょうね。

>> いたと仮定してみると、かなりの力を持っていた可能性が高
>> いのではないかと思います。後世の話ですが、水軍後進地方
>> の東国に対して水軍先進地方の西国、特に中国地方は水軍を
>> 掌握する必要がありましたからね。

そうですね。
弥生の新来の人々でも、そんな、縄文以来の人たちを、
敵には回したくないでしょうし。

小説で、読んで有りうるかなと思う物に、大海人氏、和迩氏、住吉氏、宗像氏など
有力な、海人族の集団でしょう。


761

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月28日(月)13時35分18秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 1月28日(月)12時44分20秒 ]

>> #「野」にあてているものがかなりありますが、「野」は「な」ではありえない。
あまりにもご都合主義で、論ずるに足りる議論とは思えませんが。
>> 奴が野だというなら、逆に「奴=儺の県」が成り立たない。
>> 苦しいな〜、おにりん主義は。

おにりんさんが反論するのを待ってもいいのですが、気づいたことをいくつか。

第一に、おにりんさんが主張しているわけではないです。
第二に、三世紀の日本語の「な」や「の」は、現代と同じというわけではありません。
そして「奴」が「野」=noに転訛する可能性は決して低くはありません。
第三に、三世紀の中国語原音による音訳であると推測されていて、
noに近い音価であろうと「奴」を使った可能性は排除できません。
第四に、「対海」から「不彌」あたりまでは、上古音による音訳であって、
その他の音訳と時代が異なる可能性もあります。


762

Re: 論争は終了したという人はいるけど

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月28日(月)13時46分04秒]

元の発言 [ Re: 論争は終了したという人はいるけど ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月28日(月)01時44分03秒 ]

>> 自女王國以西(北)、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
>> 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、
>> 次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、
>> 次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、
>> 次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、
>> 次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、
>> 次有奴國、
>> 此女王境界所盡。
>> 其東(南)有狗奴國

>> ですから、
>> やっぱ東に狗奴国でしょ。

>> >> >> とすれば、三重県もしくは愛知県。

>> >> >> 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種となると
>> >> >> これは、畿内の北に海があって、その先に国があると。

>> >> 北海道でいいでしょう。でっかいです。
>> うそ、大陸になるでしょ。これならでかい!!

24国の地理問題には関しては、いちおうこういう説もあります。
ちょっと見てもらえると嬉しいです。(売り出し中!)


764

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月28日(月)14時27分33秒]

元の発言 [ Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)00時17分18秒 ]

ありがとうございます。
地理的順番ですがおおよそ解けたように思います。
みたところ山陰道、東山道、南海道+大和が大阪湾あたりで合流しているようです。
今、時間がないのであとで載せます。


765

「邪馬(台)国」は、誤り。

投稿者[ kamakura ] 発言日時 [1月28日(月)14時44分27秒]


  まず、「台」は、「臺」の略字ではない。
  明らかに別字である。
  ただし、「壱」は、「壹」の略字である。

  さて、「台」という字は、たしかに“ト”と読むことがあるが、「臺」を“ト”と読める
 のだろうか?
  3世紀や5世紀に、「臺」を“ト”と読んだ事例はあるのだろうか?
  小生の調べた範囲ではないと思う。
   →  あればご教示願いたいが。

  ところで、現在残されている版本や写本に、「邪馬台国」とあるものはないはず。
  「邪馬壹国」や「邪馬臺国」しかないはず。
  したがって、“ヤマト”と読めるものはないはずで、この音からの地名比定はできないは
 ず。
  近畿説や筑後山門説は、否定せざるをえない。



766

Re: 「邪馬(台)国」は、誤り。

投稿者[ かまくら龍 ] 発言日時 [1月28日(月)14時47分42秒]

元の発言 [ 「邪馬(台)国」は、誤り。 ] お名前 [ kamakura ] 日付 [ 1月28日(月)14時44分27秒 ]

 ↑ 
 名前の変換を間違えました。




767

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月28日(月)18時05分17秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)08時41分52秒 ]

国々がどのような配置になっていたかということについて。
高橋善太郎氏の「魏志倭人伝の里程記事をめぐって」からの抜粋です。

『倭人伝には、女王の都する邪馬台国まで辿ったあとに続いて、「自女王国以北、其戸数道里可略載、
其余旁国遠絶、不可得詳」とことわり書きをして、
次有斯馬国、次有巳百支国、次有・・・・・・・・・、次有奴国、此女王境界所尽、其南有狗奴国、
男子為王、其官有狗古智卑狗、不属女王、自郡至女王国万二千余里
とある。「次有」を頭につけたこの二十一国は、遠絶なるためその戸数道里を詳かになし得ない
其余旁国であるに相違なく、それも女王の勢力範囲内にあったものである。その拡大女王国の南には
又男王国の狗奴国があり、後の記述によれば女王国と対立していることまで知られているから、
たとえ戸数道里が不詳であっても、その遠絶した程度は知れたものであろう。さればこそ
その二十一国は「次有」の語を以って前後の接続関係が示されているのであって、これはたとえ
直線でなくても次々にたどり得たものであろう。而も更にその南に狗奴国があるというのであるから、
倭人伝地理的表現は、伊都国から邪馬台国までを別とすれば、狗邪韓国から狗奴国まで一続きに
辿り得ることを示していると見なくてはならぬ。ただこれだけではこの二十一国が必ず次々に
南に並んでいるとはいえないが、−又、実際にはぐるぐる経廻る様になっていたであろうが、−
ややもすると二十一国さえ南に続いているかの如き錯覚さえ与える書き方である。』

倭人伝によると、邪馬台国+投馬国+狗奴国+21国の配置は、
地理的に何らかの順序付けがなされていることになります。
これらの国々をうまく配置するにはどうすればよいのか?
国名が対応するような順序付けられた場所は存在するのか?
これは比定において大変厳しい条件だと思うのです。


77

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月5日(土)20時54分20秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 1月5日(土)17時46分10秒 ]

>> #阿部氏は、単に三角縁神獣鏡が江南の銅でつくらていることを論証しているだけで、それが、年代や製造地の根拠になることについては何も示していません。


いいえ。結論を言っているだけです。科学的データに基づく立論とは言いがたいです。
数値の出所も数値そのものも出さず、グラフ(しかも見にくい)を出しただけです。
あれじゃ検証のしようもありません。


770

Re: Title卑弥呼の使節派遣前後の状況

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月28日(月)20時45分38秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼の使節派遣前後の状況 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月25日(金)00時44分53秒 ]

コメントありがとうございます。
あと、遅れてすいません。
>>かるーく、コメントです。
>>>>1.其の当時の交易に付いては、朝鮮半島南部だけでなく、東部かなり北方まで倭国との交易があった。交易は活発であったようだ。
>>こいつについては、なんらかの考古学的な証拠がでていますでしょうか?
>>いわゆる、弁辰地域の一部からは、倭系の土器がでていて、
>>弁辰の鉄を求めにやってきた倭人の居住地があったのかも、
>>という話はありますが、東部、北部というと後の、新羅、高句麗までを考えるべきですね。
>>このあたりに倭系の土器が出るなんていう話は聞いたことがありません。
>>また、日本に来ている土器も、いわゆる韓式土器や、楽浪
>>系土器などの系統であって、これは、半島西側から南の
>>方面のものではないかと思いますが、いかがでしょうか?
そうなのでしょうか?
では、議論上での、私の認識違いと言う事になりますか。
ただ、縄文時代からの交易ルートが、そう簡単に亡くなるとも思えませんので、
其の様に、認識していたと言う事でしょう。
>>>>2.倭国の方では、九州だけでなく出雲、事によると北陸辺りまでの力が、交易している。
>>これは、壱岐、対馬、半島南部弁辰の一部で倭系の土器がでる
>>ところなどからは、山陰、北陸系土器が出ているという話がありますね。
>>時期としては、いつごろなのか、っていうのが、ちょっと
>>わかりかねる。庄内併行期なのか、それ以前もなのか、それ以降もなのか、ですけど。
これも、縄文時代からの交易をみれば、当然でしょう。
一度出来た交易ルートは、衰退しても、消える事は、まずない。
流れる産物が変わるだけだと、認識していますが。
>>>>3.朝鮮半島には、倭から交易に来た人達も大勢居た。2.の人達も含まれる
>>>>4.南部から東部かなり北方までにかけて居住者も居た。
>>倭人の?ですか?東部、北方は、まったく知りませんが、どこかに参考文献ありますでしょうか?
これも、今までの議論の認識違いでしょうか?
交易がある以上、居住者が居るのは、当たり前というような間隔ですが。
>>>>5.公孫氏も倭と盛んに交易していて縁が深い。
>>このあたりは、直接的には、魏志韓伝あたりでしたっけ?
>>韓、倭も帯方に属するというのがある。公孫氏政権の時代ですね。
何時だったか、公孫氏の剣の話題もありましたよね。
>>>> 6.当時、魏は、呉と結んだ、公孫氏を攻撃して滅ぼしている。
>>公孫氏は、呉、魏、両方を天秤にかけて、そのつど方針を変えている。
>>で、最終的には、魏に滅ぼされたと。
政治、外交としては当たり前の事をしてるだけ、ですけどね。
>>>>7.魏は、6.の軍事行動にさいし、陸上と海上から封鎖し、皆殺しにしている。
>>景初元年(237年)から、山東半島を拠点にして、渤海湾の海上封鎖と、
>>帯方郡の攻略をして、公孫氏を半島の南側から攻略。
>>そして、公孫氏勢力が、半島南部に逃れる退路を完全に封鎖したのち、
>>北方からせめているわけですが。
>>>>8.高句麗は、この時、一時は,良好であった。公孫氏と対立、魏に協力。
>>このあたりは、あんまりきっちりフォローしていません。
戦略や外交として、積極的かどうかは、別ですが、そう考えないと、
どうしようもないです。
次分の領土のすぐとなりで、大国に、大軍を動かされて、黙ってみているなんて馬鹿な国はありません。
最低でも、根回しが、あったと見なければならないでしょう。
>>>>9.卑弥呼が、使者を派遣したのは、公孫氏が滅んだ2ヶ月後である。
>>景初三年という説によれば、そうなるのかな。
>>>>10.九州の伊都国辺りには中国の出張所的なのがあり、中国の役人も居た。
>>半島から人が来ていることはたしからしい。
>>楽浪系土器などは、纏向からも出てきているらしいので、
>>中国人の交易活動も、案外活発だったのかも。
>>>>このような環境で、本当に、海上封鎖や陸上封鎖が、可能か?
>>まず、現在とはかなり状態が違うので、いわゆる、街道ぞい以外の場所、
>>あるいは、海路の場合も、安全な航路以外の場所を通るには、非常に危険がともなうわけですね。
>>で、その危険というのは、山賊のようなものもあるかもしれないし、
>>また、海賊のようなものもあるかもしれない。
>>で、そういう街道やきまった航路以外だと、かなりの危険を承知して、
>>十分な護衛体制とかとらないと、なかなかおちのびられない。
>>屈強なすごい人たち、なら別なんですが。
>>中国の文明的な人々が駐屯しているような半島において、
>>そういう形で、落ちのびられる中国人がどれほどいたのかとか、いろいろあります。
ご冗談でしょ、近代の、ノモノハン事件でも二重に包囲された砂漠地帯で、
伝令による連絡はついていたと関係者の方から、聞いています。
緑も多く山も有る、古代の朝鮮半島ですからね。
押して知るべし、といったところでしょうね
其れに、十分な護衛の有る脱出なんて、其れこそ少ないですよ。
多くのものが、捕らえられたり、殺される中で、運の良いものが逃げられる。
まして、地元の人が、一人でも協力してくれれば、大幅に可能性は高まるでしょう。
>>>>句奴国と連合女王国の対立は、上記の影響なのか?
>>>>其れとも、倭内部のことなのか?
>>>>1.倭国大乱の続き?
>>>>2.政治経済上の問題?
>>>>3.文化や民族的な部族の争い?
>>>>影響があるとすると、呉と公孫氏と句奴国に魏と連合女王国として対立していたのか?
>>>>てな、疑問に成るんですが。
>>私的には、狗奴国と、倭の卑弥呼政権との対立は、近親憎悪的なものがあって、
>>比較的近い、同属同士の対立であったのではないかと見ています。
>>倭の体制、連合体制ができて、それによる、交易、流通がはじまった段階で、
>>その中の勢力争いのようなものや、なんらかの利害の対立によって、おこったものであって、
>>もともと、異民族的なものとの対立という構図はあまり想定していないんですけど。
そして、魏は、倭にも、根回しをしたのか?






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Re: Title卑弥呼の使節派遣前後の状況

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月28日(月)20時52分42秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼の使節派遣前後の状況 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月25日(金)11時43分33秒 ]

遅れてすいません。
レス、ありがとうございます。

>>>>1.其の当時の交易に付いては、朝鮮半島南部だけでなく、東部かなり北方まで倭国との交易があった。交易は活発であったようだ。
>>>>2.倭国の方では、九州だけでなく出雲、事によると北陸辺りまでの勢力が、交易している。

>>北九州を介さず独自のルートがあったか?
>>交流というからには半島からの流入品だけでなく、これらの地方からの半島へ同量の流出品が示されなければなりません。

>>さもなければ一方的流入だけになってしまいます。
やはり食料、玉、丹、真珠、木材、朝鮮に無くて日本に有る薬草類てナ、所でしょうか?
>>>>3.朝鮮半島には、倭から交易に来た人達も大勢居た。
>>>>2.の人達も含まれる
>>>>4.南部から東部かなり北方までにかけて居住者も居た。

>>東沃沮なんかも含むのかなあ。
>>「海東復有人不」、耆老言國人嘗乘船捕魚、遭風見吹數十日、東得一島、
>>上有人、言語不相曉、其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中、
>>純女無男。又説得一布衣、從海中浮出、其身如中(國)人衣、其兩袖長三丈。
>>又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得之、與語不相通、不食而死。其域皆在沃沮東大海中。」

>>なんて記述をみると活発な交流とは程遠いような。
>>「嵐に遭い数十日吹かれ、東に一島を得る」って日本列島?
>>「一國亦在海中、純女無男・・・」は竜宮伝説?

九州を迂回できるとは、ちょっと思えませんので、日本列島になるのでは?
上のレスでもあった通り、天候などとなれで、かなり違うと思いますけど。
いろんな意味で、現在の考察より進んでるんでは、ないでしょうかね?

>>>>5.公孫氏も倭と盛んに交易していて縁が深い。
「倭は公孫氏に属す」と書いてありますからね。
>>>>6.当時、魏は、呉と結んだを攻撃して滅ぼしている。
>>>>7.魏は、6.の軍事行動にさいし、陸上と海上から封鎖し、皆殺しにしている。
>>>>8.高句麗は、この時、一時は,良好であった。公孫氏と対立、魏に協力。
>>>>9.卑弥呼が、使者を派遣したのは、公孫氏が滅んだ2ヶ月後である。

>>「2ヶ月後」は「2ヶ月前」の誤り?
定説では10ヶ月後とされていますが原文通り解釈した方が面白い。

と、すると、益々、魏による倭の連合への根回しの可能性が、高くなりますね。
半島南部と、倭の諸勢力、其処に話をつけなければ、ざるですものね。
交易の妨害をするも同じですし、
うえの、おにりんさんのとこでも書きましたが、
となりに、大国が、大軍を持ってきて平気な国なんて、有りませんよ。
戦国時代なんですし。

>>>>10.九州の伊都国辺りには中国の出張所的なのがあり、中国の役人も居た。
>>>>て、言うような感じに事実を羅列してみる。(抜けと足りない点が、山ほどだが)
>>>>と、いま、一般的な常識に対する。矛盾がいくつも出てくる。
>>>>このような環境で、本当に、海上封鎖や陸上封鎖が、可能か?

>>4萬人位の軍隊で1000kmを越すような国境と海上を封鎖出来る筈はないし、皆殺しも不可能だったでしょう。

そうでしょうね。

>>この事実に対して、いろんな意見が出てるんですが、
>>さて、色々矛盾するような意見がおおくでてる。
>>>>句奴国と連合女王国の対立は、上記の影響なのか?
>>>>其れとも、倭内部のことなのか?
>>>>1.倭国大乱の続き?
>>>>2.政治経済上の問題?
>>>>3.文化や民族的な部族の争い?

>>>>影響があるとすると、呉と公孫氏と句奴国に魏と連合女王国として対立していたのか?
>>>>てな、疑問に成るんですが。
>>公孫氏は既に滅んでいて残りは呉ですが、ないともいえないし、あるともいえない。
>>ただ、海を隔てて遠いですから軍隊を送ってくれる事
はないし心理的影響くらいでしょうね。

其れは、如何でしょう?実際もっと大きなとこを渡ってるんですし。
安心は、出来なかったんじゃないかな?

>>>>当然、抜けだらけだから、追加したい事なんか山でしょうが、如何考えますかね?




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Re: 里程について

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月28日(月)22時47分29秒]

元の発言 [ Re: 里程について ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 1月25日(金)02時32分31秒 ]

koujiさん、今晩は。

>>  私はとても遅筆なので、レスが遅くなります。お許しください。

私も同じです。お気になさらずに。

>>  韓伝・倭人伝の「短里」説は成り立つでしょうか。
>>  「自郡至女王國萬二千餘里」の過半を占める「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」の行程については以前、ALEXさんが考証されています。以下に引用してみます。
>> 「帯方郡治の比定地として有力な沙里院は、大同江河口に注ぐ大河のほとり程近くにあります。「從郡至倭、循海岸水行」で出発している限り「七千餘里」の始点は南浦のやや上流を措定すべきでしょう。南浦より海州まで現代の航路で300km。同じく海州より仁川まで220km。さらに同じく仁川より木浦まで346km。木浦より釜山まで現在のいくつかの観光船航路に準じてキルビーメーターで計測すると概ね450kmを数えます。総計で1,316kmほど。」
>>  ALEXさんの考証はさらに詳細ですが、とりあえずこの1,316km を魏の里に換算してみましょう。1,316km÷435m≒3,025里。この時点ですでに、帯方郡−狗邪韓国間七千餘里がいわゆる「短里」ではあり得ないことは明かです。しかもこれは現代の航路の話です。古代の航路では、極めて入組んだ朝鮮半島の西及び南側の海岸に対し、さらに密に沿って水行したと考えられますから、二倍強の距離が計上されるのはむしろ当然でしょう。つまり、この七千餘里は明かに「長里」なのです。
>>  これに対して、韓国内は陸行したと主張される方もおりますが、文章としてはそのように読める筈もなく、例の「水行十日・陸行一月」を郡−女王国間の全行程であるとこじつけるための曲解に過ぎません。

ALEXさんの考証を確認していませんが、私の理解を申し上げます。始発地点の帯方郡治の比定は別として、七千余里が道のり距離であることに異論はありません。しかし、この七千余里を全水行であるとは言えないと思います。帯方郡治から水行で韓地に上陸後、陸行したものと推定します。

まず、「乍A乍B」の構文は、「たちまちAし、たちまちBする」と読み、こきざみにAとBを繰り返す意味だそうです。韓地全水行であれば、「乍南乍西」と書くべきでしょう。また、韓伝の記述では、「東西海を以って限りと為し、南倭と接す」とあり、韓半島の南辺は、(全域とは思いませんが、韓地が南で海岸に接すると書いていないことが重要でしょう。)倭地である可能性が高く、全水行は無いと考えます。さらに、韓国内陸行を裏付けると思われるのは、韓伝に記された、多くの国々です。韓伝、倭人伝にのみ数多くの国名が記されたのは、公孫氏の帰属を放れた両国を、陸行により巡察したからではないでしょうか。「水行十日、陸行一月」を、全行程と考えなければ、倭人伝の里程は解けないと思うのです。

韓国を歴るに〜七千余里が、道のり距離を表すのに対し、方四千里は、明らかに韓地の領域を表すものであり、直線距離と考えます。面積を表すのに、道のり距離を使用するとは思えません。少なくとも魏代には、長距離を直線距離で測量する技術が存在したと見て良いのではないでしょうか。

>>  次に「伊都國…東南至奴國百里」について考えてみましょう。百里×435m≒44km。この両国については考古史料の出土状況と古地名を重ね合わせれば、伊都国の中心部は前原市三雲・井原あたり、奴国の中心部は春日市須玖あたりに求めるのが妥当であり、通説化しています。両者の直線距離はおよそ20kmほどです。奴国の中心部については最近は比恵も注目されているようですが、こちらを採っても直線距離はほぼ変わりません。直線距離約20kmとすれば、道のり百里(≒44km)は概ね妥当といえます。伊都・奴両国間百里は明かに「長里」なのです。
>>  ねたろうさんはこの両国の比定地に異論があるかもしれませんが、その比定地について「短里」説以外の根拠を挙げることができるでしょうか?「短里」だけによって行われた比定地を「短里」の根拠とすることはできません。
>>  少なくともこの二箇所については、「長里」でほぼ妥当な記述がなされていると見ることができます。また不彌國は比定地に定説というほどのものがありませんからなんとも言えませんが、例えば支持者の少なくない穂波説を仮に採るとすれば、奴國からの直線距離が25km程ですから、これも「長里」の「奴國…東行至不彌國百里」で妥当ということになります。

これは、牛頭さんとのやり取りで少し触れたのですが、私は奴国と邪馬壹国が福岡平野で、東西に接していると考えているのです。奴国は伊都国から、投馬国は不彌国からの傍線行程と考えると、伊都国を起点に、東百里に不彌国、東南百里に奴国があることとなり、この両国は、ほぼ南北に位置すると考えます。不彌国―邪馬壹国間も距離ゼロで南北に接していると考えていますので、奴国と邪馬壹国は東西に接していると読みました。松浦や伊都国をどこに置くかにより、不彌国や邪馬壹国の位置も移動しますが、松浦から短里で六百里(約45キロ)ですから、福岡平野には達するのではないかと考えています。私自身、未だにこの両国を正確には比定できておらず、短里の根拠とするつもりはありませんが、短里でも解釈できると考えています。

>>  では、狗邪韓國−對馬國−一支國−末盧國間の渡海各千餘里は「短里」だと言えるでしょうか。これについても、ALEXさんの考証がありますが、それ以外にも、海上行程は一昼夜二千里という換算基準が一部にあったこと知られていますから、この種の換算基準が適用されたとも考えられます。この換算基準は「短里」とは関係なく成立したもので、一言で言ってしまえば単なる勘違いなのですが、実際にこの換算基準によって里程を記述されたと考えられる東南アジア方面の地理記述が存在しており、これは呉の時に編纂された「南州異物志」という書物に由来する可能性が高いことが考証されています。
>>  「末盧國…東南陸行五百里到伊都國」については、末盧國の中心部を唐津市付近と考えると、伊都國までの直線距離は30km足らずですから、この五百里は確かに誇大です。海岸沿いのルートは古くは存在しなかったそうですから、私は「草木茂盛、行不見前人」というような状況の山越えルートが距離感を誤らせたのかと思っておりますが、いかがでしょう。

本当に皆さんの研究には頭が下がります。海路に関しても、私は短里と考えますが、一大国―末盧国間が、短里にしても短すぎ、これを上手く説明できません。伊都国までの行程にも頭を抱えています。私も山越えルートを想定していますが、なぜ容易な海路を選択しなかったか等、未だに合点が行きません。ただ、いかに道のり距離であろうと、およそ35kmの行程を200kmもかかったと感じるものでしょうか。長里で解読するには、無理がありすぎると考えます。また、海路や道のり距離を換算すると仰いますが、ふつう換算すると言えば、直線距離でどのくらいかと考えるものではないでしょうか。海路の里表記と陸上の里表記は、共通の単位であり、互換すると考えます。もちろん、海路の方が誤差は大きいと思いますが。

>>  いずれにせよ、「「韓伝」・「倭人伝」内の里表記が、現在の地形との比較において、その比率がほぼ同じである」とはとうてい言えないものと考えます。ちなみに、韓伝の「方可四千里」は、帯方郡−狗邪韓国間七千餘里から概算されたものでしょう。

いかに入り組んだ海岸線であっても、一辺1,600kmは異様です。方三百里と記された一大国が壱岐であることは確実であり、内地の記述がありますから、方三百里は、内地を測量して得た数字であると考えます。つまり、直線距離に近い数値による記述です。壱岐の面積と韓国の面積の比率は、方四千里と方三百里ですから、ほぼ実地に合うと言え、妥当な記述でしょう。これにより、韓の方四千里も直線距離に近い記述であると言えると思います。

>> >> >>  それは、九州説の中でも特に変な説なんじゃないかな?この時期の中国で「短里」が公式に採用されていたなんて主張しているのは、変な人とその信者だけだと思いますよ。
>> >> 私は、信者ではないのですが、支持しています。できれば、そういう言い方はやめていただけませんか。
>>  ねたろうさんは、「『三国志』全編短里で理解できる」ことを否定されたのですから、もはや支持していないのではありませんか?

古田説を良くご存知の方ならお分かりになると思いますが、私の里程に関する論証は、古田説そのものです。氏の数々の提案は、無視できないものと考えているからです。

また、私が上のような表現を嫌うのは、皆さんの才能を惜しむからです。古田氏の説が支持されないのは、その内容においてではなく、論述姿勢に問題があったのではないかと考え、残念なことだと思っています。もちろん、古田氏に他者を侮辱する意図はなかったと思いますが、その表現は、プライドある専門家にとって、我慢ならないほどの屈辱に感じられたでしょう。先の表現を採る事は、古田氏と同じ未来を予感させるのです。侮蔑されたと感じた九州論者は、決して畿内説に耳を貸さないでしょう。ただ、不毛な非難合戦になるだけです。

おにりんさんにも見て頂いていると考え、敢えてここで申し上げますが、知識が無いから発言するなというように(具体的に言えば、百冊も専門書を読んでから論争すべしというような発言)、相手の発言を遮る表現は、つとに避けるべきです。知識が無くともアイデアを持つ素人はいますし、それに蓋をするのは、おにりんさん自身にとっても、なんら益無き事と考えます。相手の仮説への非難は苛烈であっても、相手の人格そのものは尊重すべきです。もちろん、おにりんさんの博識ぶりや、論争を促す役割を担われていることには、敬意を表しますが、是非、その表現にもご配慮願いたいのです。

>> >> >>  まあ、本人の自己申告は当てにならない、ということは覚えておいたほうがいいと思います。
>>  「自分は陳寿を信じ通した」とか「自分は原文を忠実に読みとおした」などと、ことさらに強調するような人の言うことは、眉に唾して聞いた方がいいということです。

その通りですね。
>>
>> >> 書き方が悪かったと反省しています。これは間違いなく長里です。諸葛亮伝の会話文の中にも、「軽騎一日一夜行三百余里」とあり、馬での行軍能力を示すものと考えます。地名比定するまでもなく、同じ距離を表しており長里です。蜀朝は、漢の後継を自認しており、短里使用はあり得ません。私が問題としているのは、これが「建安十二年の記事」であり、「晋代より前の時代(後漢代、魏代)の出来事だ」という事なのです。対して「夷蛮伝」の地の文は、「陳寿執筆時点の記述(晋代)」であり、私の説と矛盾しないと考えています。
>>  しかし、魏志東夷伝の記述対象は「長里」である筈の魏代の東夷であり、当面の対象とする読者が西晋の人々であることも蜀志と同じです。

私たちが、戦国時代の物語を読むのとよく似たものと考えればどうでしょう。本能寺の変を聞いた秀吉は、播磨から取って返すのに、一昼夜で〜里駆け抜けたと書いてあっても、何の不信も感じません。あくまで、主眼は物語の進行にありますし、著明な都市間の距離を現代のkmで書かれては、雰囲気が壊れます。特に会話文では、その傾向が強いでしょう。つまり、検討を要するのは地の文なのです。

>>  また、「魏朝長里、晋朝短里説」にとって致命的であるように思われる史料に、次のものがあります。
>> 『漢書』地理志如淳注「如墨委面。在帶方東南萬里。」
>>  如淳は魏の人だそうですので、「長里」である筈の魏でも倭までの里数は、魏志倭人伝とほぼ同じ里数として把握されていたわけです。これは、倭人伝の里数が「短里」とは無関係であることの証拠ではないでしょうか?
>>  まあ、「萬里」なんていう大雑把な里数は当てにならないと言ってしまえばそれまでですが。

これは、非常に面白い指摘です。『三国志』内には、このての万里使用例がたくさんあります。一つ例をあげれば、巻47呉書呉主伝第二(赤烏七年)の孫権の言葉、
「吾待蜀不薄、…蜀在萬里、…」
とあり、同盟国の蜀を遠いことの例えとしての萬里で表現しています。『倭人伝』は、端数のある万二千余里であり、部分里程の総和であることを考えれば、同列に扱えるとは思えません。
しかし、これがもし短里の萬里であったとしたら、如淳の生存した時代を、晋代にまで延長できるかもしれません。魏末の人とされていますが、陳郡の丞としか出自を知る手がかりはなく、233〜297年とされる、陳寿の生涯と重ねて考えられるかもしれません。つまり、『三国志』や、魚豢の『魏略』による表記の可能性があるわけです。もし、そうであれば、『三国志』の音韻を考えるうえで、重要な史料と言えるのですが…。

>>
>> >> 「史書の記述に誤りがある」ことは、認めます。ただ、「韓伝」・「倭人伝」の里表記の数の多さが問題だと思います。あれだけまとめて間違えることを、ありがちな現象と言えるのかどうか。私には疑問です。
>>  間違えた記述が生じた理由を考えることは重要です。しかし、まとめて間違えたといえるのは、渡海の計三千餘里ぐらいだと思いますし、短里とは関係ないでしょう。
>> >> 「韓伝」・「倭人伝」には、ある一定のルールで書かれていると考えざるを得ない状況が見て取れます。だとすれば、それと境界を接する高句麗や夫餘も、そのルールで解釈すべきだと考えますが、いかがでしょう。
>>  アプリオリに設定したルールを前提に解釈しようとするのは誤りです。高句麗・夫餘・沃沮・[手邑]婁伝の里が「長里」であることは、これを「短里」で解釈するためにはアクロバティックな曲解を積み重ねなければ不可能であることが遺憾なく証明しています。

先に説明申し上げたとおり、道のり距離で韓国の方四千里を解釈するのは不当であり、渡海や道のり距離も直線距離に近い値であると考えています。高句麗短里や、道のり距離で考えることの不当は、もう一度ALEXさんに、説明させていただくつもりですが、まず短里ありからの曲解ではなく、記述と実地形の整合からの帰結です。

>> >> レスしていただき、ありがとうございます。
>>  こちらこそ。真摯なレスをいただき、ありがとうございます。
>>  ALEXさんが詳細なレスを入れているのも多分あなたの真摯な態度に感じるところがあったのだと思います。おにりんさんも、口は悪いですが、多分あなたに期待しているのだと思います。

誤解されています。私は、皆さんに及ぶべくもない素人です。ただ、論敵であれ敬意を払い、知らないことには背伸びせず、間違いを正すに臆することのないようにと考えています。期待されるのは重荷であり、引き出しの少ない私の任ではありません。今後も、遠慮なさらず存分にご批判ください。

>> >> おにりんさんに指摘されたので、訂正させてください。
>> (中略)
>> >> に変更させてください。本当に申し訳ありません。
>>  ケアレスミスはよくあることで、お互い様というものです。

いえ、これもありがたい指摘だったのです。これにより『三国志』には、後漢代と魏代の記述が併記されており、夷蛮伝以外は、基本的に長里表記が確定するのではないでしょうか。

長いレスとなったことをお詫びします。本当に嬉しいレスでした、お礼申し上げます。


774

Re: Title 里程について

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月28日(月)22時51分27秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月25日(金)08時05分25秒 ]

牛頭さん、今晩は。

>> おはようございます。レスが遅くなりました。

こちらこそ、遅くなりました。

>> >> 過分にお褒めいただきありがとうございます。ただ、畿内説の方が、私の説を支持しないことは、判っていますので、反論された後に撤回するかもしれません。その時は、ごめんなさいして、また次の説を立てるつもりです。その程度の仮説です。
>> 過去の論争で『今屯苑、去襄陽三百余里』が短里では説明がつかなくて困りましたが「会話」の中で出てきた距離は長里であるという仮説は目からウロコでした。
>> これで短里が確定したという思いです。

東夷伝は短里、会話文は長里で間違いないと思いますが、問題は地の文の解釈だと思います。畿内説の方は、全編長里ですから問題ないとして、短里説をお考えの九州説の方から、指摘されるかもしれません。いずれにしても、まだまだ問題はありそうです。

>> >> 方二千里とあれば、四角四面に正方形であると考える必要はないと思いますが、その可能性も否定できず、地形的に特定できる山や川や海が国境でない限り、大陸内で、その領域を特定するのは至難と考えます。
>> は対馬国を方八百里としていますから正方形でなくてもいいでしょう。
>> 対馬国の方八百里の面積も短里で計算するとピッタリでしたよ。

勘違いされていると思いますが、対馬は「方四百余里可り」です。これも難しいのですが、壱岐との面積比を考えれば、対馬南島に比定すべきかと考えます。対海国は、瀚海に対する島のような気がするのです。北島が馬韓に対する島の意の対馬であって、後に統合したと言うのはどうでしょう。


778

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月28日(月)23時22分25秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 1月28日(月)12時44分20秒 ]

継体紀に出てくる「近江毛野臣」は,
「あふみのけなのおみ」と訓みます。

同二十四年の歌で,
この「野」のところが「那」,
になっているからだそうです。

#「毛」は「りっしんべん」に「豈」。


779

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月28日(月)23時24分52秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)20時19分44秒 ]

>>
地名を地理的連続であると縛りをいれるのは、地名が失われた
地名が著しくかわった、漢字の当て方が妥当でなかった、後世に誤写があった場合に
ある程度連続の文脈で、補えるメリットがありそうです。
それだけ恣意的になりますが。
私のは基本的に安本説の選択肢から地名連続に合うものを選んだだけです。
またh音はワ行、もしくはア行にとりました。
仕方ないですから。

簡単に行きます。
以下21ヶ国の現われる順です。

斯馬   島根群(出雲風土記)
巳百支  安本説そのまんま。→百支は、伯耆(ほうき=ははき 鳥取県)と合致。
#ただ廣志には巴百支とある。あてになりませんが。     
伊邪   因幡。苦しいです。でも安本氏も伊那に当てていますから。

以上山陰道

都支   土岐群(和名抄)=岐阜県東部
弥奴   美濃国=岐阜県のどこか、岐阜市以東、土岐以西。
好古都  方県(かたかた)群(和名抄)=岐阜市あたり。これはオカトアガタから来たと推定。
不呼   不破(ふわ)群(和名抄)=岐阜県関が原あたり。
#関が出来てから不破と呼ぶようになったと言う、地名縁起はありそうですが。地名縁起は当てにならないから。
姐奴   滋賀郡(和名抄)=滋賀県南部。

以上東山道

対蘇   土佐
蘇奴   讃岐
呼邑   わかりません。
華奴蘇奴 マルセ説に従い四国東部
鬼    紀伊国

以上南海道

為吾   わかりません。宇陀郡?
鬼奴   わかりません。
邪馬   大和国山辺郡
#安本説そのまんま
躬臣   山城国久世(くぜ)郡。巨勢郷。
#安本説そのまんま

以上大和周辺

巴利   播磨
支惟   吉備
烏奴   穴門
奴    北部九州の那珂
狗奴   紀伊国熊野

以上山陽道

地図に書いてみると分かりますが、山陰道、東山道、大和周辺の国々が
おそらく大阪湾岸で集まって、山陽道を北部九州に向かったような配置になっています。
やまとからの流れはずっと西へ西へ行っています。
そこへ南海道や東山道、山陰道が合流してゆくように見えます。
しかも各支流は、山陰道、東山道、南海道と時計回りに現われます。
山陰道は播磨で合流かもしれません。
邪馬台国の入るべき場所に邪馬国があり、投馬国の入る場所もありません。
全体に中心性も見て取れません。

これは邪馬台国や投馬国の成立以前に出来た古い国名リストじゃないでしょうか。
おそらく、伊都国か奴国主導の時にできたか。



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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ ふうらん ] 発言日時 [1月5日(土)21時03分07秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月5日(土)20時54分20秒 ]

>> >> #阿部氏は、単に三角縁神獣鏡が江南の銅でつくらていることを論証しているだけで、それが、年代や製造地の根拠になることについては何も示していません。

>>
>> いいえ。結論を言っているだけです。科学的データに基づく立論とは言いがたいです。
>> 数値の出所も数値そのものも出さず、グラフ(しかも見にくい)を出しただけです。
>> あれじゃ検証のしようもありません。


#東文研のデータを使っているみたいですが?
東文研のは公開されているわけでしょう?
どのみち、三角縁神獣鏡の銅が江南というのは、以前からいわれていたし、あまり、目新しい感じはしないです。



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北九州抜きの独自ルート

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月28日(月)23時29分16秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼の使節派遣前後の状況 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月28日(月)20時52分42秒 ]

>> >>北九州を介さず独自のルートがあったか?
>> >>交流というからには半島からの流入品だけでなく、これらの地方からの半島へ同量の流出品が示されなければなりません。
>> >>さもなければ一方的流入だけになってしまいます。
>> やはり食料、玉、丹、真珠、木材、朝鮮に無くて日本に有る薬草類てナ、所でしょうか?

北朝鮮側の事はよく解らないのではっきりしませんがそれらの物が北で見つかって居ると言う情報はありませんね。

>> >>>>3.朝鮮半島には、倭から交易に来た人達も大勢居た。
>> >>>>2.の人達も含まれる
>> >>>>4.南部から東部かなり北方までにかけて居住者も居た。

>> >>東沃沮なんかも含むのかなあ。
>> >>「海東復有人不」、耆老言國人嘗乘船捕魚、遭風見吹數十日、東得一島、
>> >>上有人、言語不相曉、其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中、
>> >>純女無男。又説得一布衣、從海中浮出、其身如中(國)人衣、其兩袖長三丈。
>> >>又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得之、與語不相通、不食而死。其域皆在沃沮東大海中。」

>> >>なんて記述をみると活発な交流とは程遠いような。
>> >>「嵐に遭い数十日吹かれ、東に一島を得る」って日本列島?
>> >>「一國亦在海中、純女無男・・・」は竜宮伝説?

>> 九州を迂回できるとは、ちょっと思えませんので、日本列島になるのでは?
>> 上のレスでもあった通り、天候などとなれで、かなり違うと思いますけど。
>> いろんな意味で、現在の考察より進んでるんでは、ないでしょうかね?

前出の文は魏の高句麗追討使に「海の東にも人が住んでいる?」と聞かれ「嵐に遭って数十日流され島に着いた。人が居たがそこでは言葉が通じなかった。」
[中略](その風俗の記載)
「また難破船が流れ着き乗り組み員が一人生き残ったが言葉が通じず、飯も食わずに死んだ。それは皆沃沮の東にある。」
と書いてあるらしいです。
私は漢文が読めないので間違っていたらご容赦ください。

東沃沮は北緯40度線あたりの東岸に住んでいたらしいのですが、東沃沮の東と言うと秋田くらいですかね。一島というと佐渡あたりも入るんでしょうか。
この文章読むと中国人は倭人の住む所は九州、山陰、山陽、四国くらいまでとしか認識していなかったと推測できるのではないでしょうか。
これは交流とは言えないでしょう。

と言う訳で東沃沮とは戦乱で流出した難民が流れ着く位しかないわけです。
いずれにしろ北九州および南韓を介さない交流は考えられないでしょう。

>> >>>>5.公孫氏も倭と盛んに交易していて縁が深い。
>> 「倭は公孫氏に属す」と書いてありますからね。
>> >>>>6.当時、魏は、呉と結んだを攻撃して滅ぼしている。
>> >>>>7.魏は、6.の軍事行動にさいし、陸上と海上から封鎖し、皆殺しにしている。
>> >>>>8.高句麗は、この時、一時は,良好であった。公孫氏と対立、魏に協力。
>> >>>>9.卑弥呼が、使者を派遣したのは、公孫氏が滅んだ2ヶ月後である。

>> >>「2ヶ月後」は「2ヶ月前」の誤り?
>> 定説では10ヶ月後とされていますが原文通り解釈した方が面白い。

>> と、すると、益々、魏による倭の連合への根回しの可能性が、高くなりますね。
>> 半島南部と、倭の諸勢力、其処に話をつけなければ、ざるですものね。
>> 交易の妨害をするも同じですし、
>> うえの、おにりんさんのとこでも書きましたが、
>> となりに、大国が、大軍を持ってきて平気な国なんて、有りませんよ。
>> 戦国時代なんですし。

>> >>公孫氏は既に滅んでいて残りは呉ですが、ないともいえないし、あるともいえない。
>> >>ただ、海を隔てて遠いですから軍隊を送ってくれる事
>> はないし心理的影響くらいでしょうね。

>> 其れは、如何でしょう?実際もっと大きなとこを渡ってるんですし。
>> 安心は、出来なかったんじゃないかな?

中国南部から日本にやってくる事は比較的簡単です。
海流にのってしまえば寝ていても日本近海まで来てしまう。
北朝鮮からでも同じです。リマン海流に乗れば日本近海まではこれる。
問題は帰りです。大海を一日で渡ることは不可能ですから。
夜寝ているうちに海流によって押し返されてしまう。
となると夜も休まず漕ぎつづけなければならない。
中国の場合、帰りは琉球列島沿いに島毎に休息をとりながら数倍の時間を掛けて帰ることになる。
(北朝鮮は琉球列島沿いのようなルートもない。)

そんな訳で呉が狗奴国をけしかける可能性はあっても軍を送ることは難しかったと思われます。


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Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月28日(月)23時56分59秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月27日(日)23時17分31秒 ]

>> >> う〜ん、四国説って、折衷案なんですよね。
>> >> だから、インパクトないかも。

>> ですが、史書の記述からすると、そうじゃないかと思ってしまう場所ですよ。

そうですね。例えば投馬国について「九州北部から南に水行二十日」
だとすると、四国西部の可能性は高いと思うのですが。
どうしたわけか、四国説はあまり取り上げられないですね。
倭人伝を読む限りは、九州説または畿内説に限られる合理的な理由
はないと思うのですが。(四国人は声が小さいのかな?)

>> >> ただ、いずれの説にしても思うのは、24ケ国の比定域を
>> >> はっきりしてくれんかなあ、ということです。
>> >> それが遺跡や遺物、地名の上でも妥当であれば、自分も
>> >> この説を投げ出すのですが。

>> 投げないで下さいね。
>> 私は、ご存知の通り、玉や産物から検討していますが、
>> 意外なほど、有っちゃうんですから。

はい。投げ出すのは、あくまで条件付きです。
24もの国々がきちんと地名など倭人伝に沿う形で比定できて、
さらに「真珠・青玉・丹」等の条件も満たす場合です。
産物もかなり強い条件になるようですね。
高知のヒスイは宝石になりそうなのでしょうか?


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Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月28日(月)23時57分39秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月27日(日)23時17分31秒 ]

>> >> う〜ん、四国説って、折衷案なんですよね。
>> >> だから、インパクトないかも。

>> ですが、史書の記述からすると、そうじゃないかと思ってしまう場所ですよ。

そうですね。例えば投馬国について「九州北部から南に水行二十日」
だとすると、四国西部の可能性は高いと思うのですが。
どうしたわけか、四国説はあまり取り上げられないですね。
倭人伝を読む限りは、九州説または畿内説に限られる合理的な理由
はないと思うのですが。(四国人は声が小さいのかな?)

>> >> ただ、いずれの説にしても思うのは、24ケ国の比定域を
>> >> はっきりしてくれんかなあ、ということです。
>> >> それが遺跡や遺物、地名の上でも妥当であれば、自分も
>> >> この説を投げ出すのですが。

>> 投げないで下さいね。
>> 私は、ご存知の通り、玉や産物から検討していますが、
>> 意外なほど、有っちゃうんですから。

はい。投げ出すのは、あくまで条件付きです。
24もの国々がきちんと地名など倭人伝に沿う形で比定できて、
さらに「真珠・青玉・丹」等の条件も満たす場合です。
産物もかなり強い条件になるようですね。
高知のヒスイは宝石になりそうなのでしょうか?


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Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月29日(火)00時54分26秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)22時40分33秒 ]

>> そして「奴」が「野」=noに転訛する可能性は決して低くはありません。

>>
>>
>>
>>
>>
よく「野」が大地の「ナ」に語源をもつとしていますが、
「ノ」(オ段甲)に変化する時期はいつ頃だと推測されますか。
変化過程としては、na -> nua -> no が推定されるでしょうか。
もちろん、語源が違うといえばそれでおしまいです。
基本的な語彙だと思うので、気になります。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
面白そうな問題ですね。
たぶんどこかに論文がありそう。

まず、新しい情報が入らなければ、古い文献のままというのは
まちがいない。しかし、この場合は実際に訪れたのだろうから
情報は入るはず。ここで、もし音が異なることに気づいたとき、
音訳語を直すのか、それとも文献にある古名を踏襲するのか。

実際、直した例は数多く挙げることができます。
きっと「対海」→「対馬」、「一大」→「一支」
などもそうだと推測します。
でも慎重な編者だったら、古来の名前のまま踏襲する可能性もある。
また、途中で手を加えられる可能性もあるので、紹熙本とか紹興本とかで
個々にどうなのか、ということもあるでしょうね。
そういう意味で紹熙本が直さなかった方の系統に思えるのですが。
(対馬を知らなかったということも考えられる。)



786

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月29日(火)00時55分59秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 1月28日(月)13時35分18秒 ]

>> そして「奴」が「野」=noに転訛する可能性は決して低くはありません。
#日本語の「儺」も「野」も同じ「奴」で書き表すのが妥当な、同じ音であった、ということですか。私には信じられません。
私は「奴」は「野」を書き写したと言う主張にはたいへん惹かれます。しかし、「儺」は別の音だったのではないかと考えます。少なくとも、同じ音であったという徹底した証明が必要です。安直に、「な」にあてたり「の」にあてたりするのは学問的ではないと考えます。


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Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月29日(火)01時09分33秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 1月28日(月)23時22分25秒 ]

>> 継体紀に出てくる「近江毛野臣」は,
>> 「あふみのけなのおみ」と訓みます。

>> 同二十四年の歌で,
>> この「野」のところが「那」,
>> になっているからだそうです。

>> #「毛」は「りっしんべん」に「豈」。

#わ〜。私は認識を改めなきゃいけませんか?
でも、[心豈]は「毛」と同じ字なんですか?後で調べてみます。


788

Re: せかせてすいません。

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月29日(火)01時54分54秒]

元の発言 [ せかせてすいません。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月29日(火)00時08分21秒 ]


>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
邑−>巴とすると

>> 呼邑   わかりません。
はなんかありそう。
     
>>
>> 狗奴   紀伊国熊野

>>
これは間違い。
おにりんさんの最初の投稿をコピーしたときのが残ってただけ。
これはなしです。

>>
>>
>>
>>
>>
三国志魏書の段階で公式に伝わっていた国名が30なのでは。
それをもって使駅の通じるところとしたとか。
”今”の意味するところは、今までに使者の来たところ全ての意味かなと。
そして後漢書はそのうけうりと。

>>
>>
>>
>>
>>
丹波と北陸が抜けてるんですよ。
これは気にいらないです。

それと投馬は、斯馬と巴百支と伊邪がまとまって出来たと考える訳です。
邪馬台国は邪馬を中心にした複数の国がまとまったと。




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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月5日(土)22時24分33秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 1月5日(土)21時03分07秒 ]

>> #東文研のデータを使っているみたいですが?
>> 東文研のは公開されているわけでしょう?

教えてください。
東文研のデータというのはどこで入手できるのですか?


>> どのみち、三角縁神獣鏡の銅が江南というのは、以前からいわれていたし、あまり、目新しい感じはしないです。


江南というのは嘘だと聞きましたが。


792

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月29日(火)08時08分49秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月29日(火)03時07分57秒 ]

>> よく「野」が大地の「ナ」に語源をもつとしていますが、
>> 「ノ」(オ段甲)に変化する時期はいつ頃だと推測されますか。

>>
>>
>>
やはり全然分からない問題ですよね。
それでも古語辞典には書いてたりするので、
どうしてなのか不思議です。

倭人伝の漢字 上古音−中古音 (擬定音)
ナ行
那 nar-nan (ナ)
難 nan-nan (ナ)
奴 nag-no (ナ(ノ甲))
爾 nier-nie (ニ)

カ行
古 kag-ko (カ(コ甲))
支 kieg-tSIe (キ甲)
鬼 kIuOr-kIuOi (キ乙(他))
躬 kIong-kIung (ク(コ乙))
佳 keg-kai (ケ乙(ケ甲))
觚 kuag-ko (コ甲(カ))
狗 kug-kOu (コ乙(ク))

カ行は結構そろっている気がするんですよね。
ナ行は、ヌ=nong、ネ=nei、ノ甲=no、ノ乙=nOng
に当たるのはどれでしょう、ということなんですが。
もちろん、音訳にそれらの音がなかったとしても良いけど。
ヌ、ノ甲が「奴」で当てられる可能性もないとはいえない気がします。
ヌ、ノ甲にあてられる韻母で、もっといいものがあるかどうかですね。



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Re: 旧国旧郡名(奈良時代)のものはなんかどっかにありませんか

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月29日(火)09時29分17秒]

元の発言 [ 旧国旧郡名(奈良時代)のものはなんかどっかにありませんか ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)23時15分36秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
奈良時代のは捜しても分からなかったです。
もっとも有ってもなかなか手が出ませんが。
平安期ですが和妙抄ならインターネットにありました。



794

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ オホヤシマ ] 発言日時 [1月29日(火)09時45分37秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月28日(月)23時24分52秒 ]

私の考えを書きます。
斯馬 イセシマ 三重県南部
巳百支 ツバキ 三重県中部(式内車椿神社)
伊邪 イヤ これは難しいが、三重県北部
都支 タキ 美濃国多岐郡 
弥奴 ミナ  美濃
好古都 オホガタ 大県神社付近(美濃国中部)
不呼 アオハヤ 近江北部大羽神社付近
姐奴 シャナ 滋賀県南部。ササナミの滋賀

>> 以上 東海ブロック

対蘇 ツイサ(ツキサ) 淡路 式内筑狭神社
蘇奴 サナ  讃岐国寒川郡
呼邑 ハユ(カ) 讃岐中部(羽床)
華奴蘇奴 ウエノサナ 讃岐金毘羅神社付近
鬼 キ   紀伊国

>> 以上南海ブロック

為吾 イガ 伊賀国
鬼奴 キナ 山城国紀伊郡(風土記の許野国)
邪馬 ヤシマ 河内・摂津
躬臣 クゼ(クゲ)  山城国久世(くぜ)郡。風土記のコガ国

以上 畿内ブロック

巴利 ハリ  播磨
支惟 キビ  吉備
烏奴 アナ  吉備穴国
奴 ナカ  石見国那珂郡

以上 中国ブロック

狗奴 クナカ 出雲

投馬 ヅシマ 丹後・但馬・丹波

各ブロック毎で、隣接関係にあると思われます。
前半部分については、「在野史論」第九巻にのせましたので読んで頂ければと思います(本屋には売ってませんが)



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Re: せかせてすいません。

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月29日(火)09時52分55秒]

元の発言 [ Re: せかせてすいません。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月29日(火)03時14分46秒 ]

>>
>>
ジャストミートなんですがね。
漢字を変えたのは心が痛みます。
ただ誤写で結構変な字に変わっている可能性はあると思います。
邑利だったら悩むでしょう。

>> 三国志魏書の段階で公式に伝わっていた国名が30なのでは。
>> それをもって使駅の通じるところとしたとか。

>>
>>
>>
>> ”今”の意味するところは、今までに使者の来たところ全ての意味かなと。
>> そして後漢書はそのうけうりと。

>>
>>
>> 丹波と北陸が抜けてるんですよ。
>> これは気にいらないです。

>>
>>
>>
>>
>> それと投馬は、斯馬と巴百支と伊邪がまとまって出来たと考える訳です。
>> 邪馬台国は邪馬を中心にした複数の国がまとまったと。

>>
森教授説では、倭人伝全てが三国時代に音訳されたとすると、
魚部模韻がoになってしまって、上古の日本語でオ(甲)が少ないことと合わないとしています。
そこでこの21ヶ国を古く前漢時代の音訳にとって、問題を回避する提案をされていました。
21ヶ国には奴など魚部模韻が多いですから。
そこまで行かなくとも、いろんな時代の資料が混ざっている可能性は高いでしょう。
だいたい30ヶ国も使駅が通ってきたらわずらわしそうです。
帥升あたりが等を引き連れていったときのリストかと思います。
だいたいこのときも等が多すぎて、倭国王と呼んでやるから、
わさわさ連れてこずにもちょっとまとめて来い、とか言われたんだったりして。



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Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月29日(火)12時16分51秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 1月28日(月)23時57分39秒 ]

>> そうですね。例えば投馬国について「九州北部から南に水行二十日」
>> だとすると、四国西部の可能性は高いと思うのですが。
>> どうしたわけか、四国説はあまり取り上げられないですね。
>> 倭人伝を読む限りは、九州説または畿内説に限られる合理的な理由
>> はないと思うのですが。(四国人は声が小さいのかな?)

しかたありません。
直接大陸と向かい合う地域ですからね。
そこから、まず、目が言ってしまうでしょうし。

>> >> >> ただ、いずれの説にしても思うのは、24ケ国の比定域を
>> >> >> はっきりしてくれんかなあ、ということです。
>> >> >> それが遺跡や遺物、地名の上でも妥当であれば、自分も
>> >> >> この説を投げ出すのですが。

>> >> 投げないで下さいね。
>> >> 私は、ご存知の通り、玉や産物から検討していますが、
>> >> 意外なほど、有っちゃうんですから。

>> はい。投げ出すのは、あくまで条件付きです。
>> 24もの国々がきちんと地名など倭人伝に沿う形で比定できて、
>> さらに「真珠・青玉・丹」等の条件も満たす場合です。
>> 産物もかなり強い条件になるようですね。
>> 高知のヒスイは宝石になりそうなのでしょうか?

うっきー(突然さるになっちゃう。)(笑)
調べといて、品質に、気づきませんでした。
それに、全国で発見ってるのは、糸魚川産が主でしたね。
どっかに、メールでも出して、調べときます。


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Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月29日(火)12時20分35秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)13時46分47秒 ]

>>
#ちょっとしたご挨拶ですから、気になさらないでください。
私がそれほど誤解しているわけではない証拠に、「おにりん説」ではなく「おにりん主義」と言っております。多分、この辺にイデオロギーを感じたのだと思います↓。

>>
>>




798

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月29日(火)12時44分18秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 1月28日(月)13時35分18秒 ]

う〜ん、どうも違うんじゃないでしょうか。(下のほうの一服さんのご指摘はまだ未検討ですが)

>> そして「奴」が「野」=noに転訛する可能性は決して低くはありません。
#例えば印欧語の音韻対応とは、ある地域(あるいは時代の場合も)の「儺」が別の地域の「野」に組織的に対応している現象を指しています。私が問題にしているのは、ある時代のある地域で、「儺」も「野」も同じ「奴」という音であった、と言う主張が成り立つのかどうか、そんなに単純に、「似ているし、転訛する可能性は決して低くないし」で済ませてよいものか、という疑問です。

>> 第三に、三世紀の中国語原音による音訳であると推測されていて、
>> noに近い音価であろうと「奴」を使った可能性は排除できません。
#もし専門家が「排除できません」程度の論証で済ませてきたのだとしたら、マニアが好き勝手な思いつき(説ともいう)をばらまくのも当然ですね。


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Re: Title 里程について

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月29日(火)16時42分47秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月28日(月)22時51分27秒 ]

ねたろうさん今日は。

>> >> は対馬国を方八百里としていますから正方形でなくてもいいでしょう。
>> >> 対馬国の方八百里の面積も短里で計算するとピッタリでしたよ。

>> 勘違いされていると思いますが、対馬は「方四百余里可り」です。これも難しいのですが、壱岐との面積比を考えれば、対馬南島に比定すべきかと考えます。対海国は、瀚海に対する島のような気がするのです。北島が馬韓に対する島の意の対馬であって、後に統合したと言うのはどうでしょう。

その通りでした。
つまり400里=30000m
400里の2乗=90ha
実際は71haで誤差範囲くらいですね。

ま、壱岐のことを考えると無理でしょうか。
周辺の小島を加えた海域全体の面積でも想定すれば可能になりますが。
長里ではもっと不可能な面積計算ですね。


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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月14日(月)01時05分26秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月13日(日)13時06分12秒 ]

>> 中葉とまでは考えていません。布留0を三世紀末くらいです。

>>
>>
>>
>>
>>
布留0の墓から三角縁神獣鏡が出るんですか?
三角縁は4世紀とかながえています。
このあたりの2,30年は微妙ですから初期段階と言うようなあいまいな表現は困ります。

>> 鉛の成分調整はしなかったのでしょうか?

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
錫は混ぜたんでしょう?
錫や鉛が入る事によって融点が下がり、流動性も上がって神獣鏡のような半肉彫りの鋳造がし易くなるのではないかと。
錫が融点230度くらいなのに鉛を入れた半田は180度位で溶けるようになるときいた気がします。

>>
>>
>>
>>
>>
鉛を実際に加えたかどうかはちょっとした思い付きなので根拠はありませんが、鉛の同位体と言ってもばらつきが結構あって
その偏差値のなかでおおよそ中国江南と推定できると言うのが以前の説だったと思いましたが?

徐州といっても呉の領域でしか銅は産出しないと言う話ですし。

>>
>>
>>
>>
ヤマト政権がやった事でしょう?

>>
>>
ヤマト政権が唐に対して日本書紀をまとめる事により自分達の歴史を詐称しようとした事はありえますね。

>> 弟子が日本人でも良いのじゃないですか?何処に問題があります?

>>
それでいいんじゃないですか?

>> 日本人に字を教えれば済む事。あるいは日本人を妻にして子供を作っても良い。

>>
>>
なぜ戻ったと考えるのですか?
時代の推移のより人数の増減があったとしても子孫も鏡作部として日本に留まっていたのでは?

>> 三角縁神獣鏡の需要がなくなっただけだろうと思います。
>> 需要がなくなれば作られなくなります。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 中国には痕跡が残っているんですか?

>>
どのような?

>> 三角縁神獣鏡の元であっても整合すると思います。

>>
楽浪で見つかったという三角縁神獣鏡によく似た鏡が日本に来て大型化して三角縁神獣鏡になった可能性があるということです。





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Re: Title 本の紹介

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月5日(土)23時37分12秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)03時09分09秒 ]

>>
>>
>>
#大和に強大な王国が出現したことは誰も疑っていません。古墳時代とは、この時代のことです。
でも、倭人伝には九州のことしか書かれていない。女王の都は、伊都国からせいぜい1500里。
だいいち、記紀には卑弥呼も壱与もいない。
日本には卑弥呼の国も大和の王国もあった。
こういうモデルのどこに無理があるんでしょう。

例えば、牛頭天王さんの、以下の発言。
>> 結局、邪馬台国=弥生X期という前提での議論が、御破算になってしまったのでしょう?
>> 邪馬台国=弥生X期と考えるなら、九州説の方がいいわけなんですけどね。
>>
>>
#結局、大和説は九州説が成り立たない土俵を作っているわけだけど、私の単純な倭人伝理解が成り立たない土俵ってのはなんかうそ臭いんです。
邪馬台国=弥生X期では、なぜいけないんですか?




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Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月29日(火)18時22分57秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 1月29日(火)12時44分18秒 ]

>> #例えば印欧語の音韻対応とは、ある地域(あるいは時代の場合も)の「儺」が別の地域の「野」
に組織的に対応している現象を指しています。私が問題にしているのは、ある時代のある地域で、「儺」
も「野」も同じ「奴」という音であった、と言う主張が成り立つのかどうか、そんなに単純に、
「似ているし、転訛する可能性は決して低くないし」で済ませてよいものか、という疑問です。

まず、音訳当時は同じ音であっても、数百年後に個々に変化する可能性についてです。
「奴」がnoとなる可能性もあると書いたのは、古語辞典に「野」は「ナ(大地)」
の転であるという語源のためです。本当にそうなのか、わかりません。
それから a<->O はかなり実例を挙げることができます。

次に音訳の問題です。
我々が現在「な」と「の」を区別できるのは、これらが対立しているからです。
だから、全然違うと言い切れる。
しかし、日本人が「r」と「l」の区別が難しいように、
また平安時代になって上代の8母音の区別が難しくなっていったように、
ある国ではそういった対立がないために他国語の違う音を同じような音
とする可能性があります。(以上は一般論)
もし、倭人伝の音訳語にナと対立するノ甲のような漢字があれば、
「ナ」だと断言できて結構なのですが、それが見当たらないのです。
逆に、「ナ」に対応する漢字として「那」「奴」と複数あるのはなぜでしょうか。
結局、これらのデータからは断言できないというのは仕方ないと思います。

音価が確定すればありがたいですが、限度もあるということです。
もし、よりきちんと確定したいと思えば、更に多くの音訳語を発見すること、
そしていつの時代にそれらの音訳がなされたかを確定しなければなりません。
でも、どちらも相当に困難あるいは無理かもしれない。

ただ、「ナ」でも「ノ」でもよいという立場をとると、類似地名は格段に増え、
結局地名としての類似の有意性を認め難くなります。
すなわち、どういう立場に立つかによって、類似する確率が変わります。
だから、「ナ」だけしか使わないというほうが、類似地名は見つけにくい
かわりに有意性の判断の部分で有利に働きます。

>> #もし専門家が「排除できません」程度の論証で済ませてきたのだとしたら、
マニアが好き勝手な思いつき(説ともいう)をばらまくのも当然ですね。

この分野の専門家はきっちりやってると思いますよ。
難しいものは難しいとしかいいようがないです。
そして私のような素人は漢字音や上代の音韻の勉強をしないと
変なことばかり言ってしまいます。
ここは素人OKということで、ずいぶん勉強させてもらっています。
私の考え方も変わってきて、やはり類似地名というからには、
子音の交替は清濁のみ、母音交替は a<->O, i<->u くらいしか
認めないほうがいいというふうに。しかし、他人に強要しようとは思いません。

なお、思いつきの類似の中に統計的に有意と思えるものは、
見たことがありません。ほとんど恣意的に思えます。
何よりも多くの郡名、国名のなかから順不同で比定していたのでは、
有意性も何もないです。

邪馬台国を比定するのに「順番にあるはずの21国+狗奴国をどうするのか」
という問題意識は重要だと思います。しかし、
順番とか有意性を無視して単に地名を「あてはめ」て、
お茶を濁している現状ではないでしょうか。


802

Re: せかせてすいません。

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月29日(火)18時29分30秒]

元の発言 [ Re: せかせてすいません。 ] お名前 [ ピクポポデミ ] 日付 [ 1月29日(火)09時52分55秒 ]

畿内説だとけっこう自由度が高いですよね。
そして、一国が国造本紀あたりの国の規模になるのでしょうね。
むう、畿内説はグローバルだなあ。
で、まずは、邪馬台国、投馬国、狗奴国あたりを文化圏で分けて、
そのあと21国を推測すると、全体的な構造としてはよいかも。

>> 森教授説では、倭人伝全てが三国時代に音訳されたとすると、
>> 魚部模韻がoになってしまって、上古の日本語でオ(甲)が少ないことと合わないとしています。
>> そこでこの21ヶ国を古く前漢時代の音訳にとって、問題を回避する提案をされていました。
>> 21ヶ国には奴など魚部模韻が多いですから。
>> そこまで行かなくとも、いろんな時代の資料が混ざっている可能性は高いでしょう。
>> だいたい30ヶ国も使駅が通ってきたらわずらわしそうです。
>> 帥升あたりが等を引き連れていったときのリストかと思います。
>> だいたいこのときも等が多すぎて、倭国王と呼んでやるから、
>> わさわさ連れてこずにもちょっとまとめて来い、とか言われたんだったりして。

ははは。結構情けなさそうな倭国王ですね。
ところで、森説を詳しく知りたいのですが、文献を教えてくださいです。



803

Re: Title 里程について

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月29日(火)19時16分03秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 1月27日(日)08時50分36秒 ]

ALEXさん、今晩は。レス遅くなりまして、申し訳ありません。

>> >『倭人伝』の記述に照らしてみれば、道のり距離であるには、方角+動詞+距離でなければならないのではないでしょうか。また「〜在、方角+距離」の文型で、道のりを示すと考えられる例はあるのでしょうか。私は、この文型を直線距離と考えていますが、不当でしょうか。
>> # 『倭人伝』の記述に照らせば、いづれの文型も道のりです。
>> 「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」
>> 書かれているのが道里であって直線距離などではないことが読み取れると思います。

これは、旅程に表れる里のことを道理と言っているのであって、道のり距離であることは自明です。ただし、韓の方四千里など、領域を示す記述まで縛るものではありません。日野さんの「『漢書』西域伝と魏志倭人伝」によりますと、

1 先行動詞+「至+(地名)」は、実際に行ったことを表す。…道のり距離。
2 動詞の先行しない「至+(地名)」…(私はこれを直線距離と理解しています。)

2の、「至」は前置詞的に「〜まで」と訳し、1とは別の文型であり、実際に行ったことを表すものではないとしています。韓の「方四千里」は、領域を表し、文型2と同じ表記と言って差し支えないでしょう。ただしALEXさんは、2の文型であっても、道のり距離で表記するのが、軍事的観点より妥当とお考えなのでしょう。

>> >方二千里可りは、領域(面積)を表していると思います。
>> # 古代中国人の意識では、封建制下では、確保した領地の東西南北に封と呼ばれる標識を建てます。方○○里とは、その封から封の道里にあたることになります。
>>  また現実的には、距離の表記は軍事的な意味を持ちます。これらは何日で援軍が駆けつけられる距離か等を判断する指標でありまして、直行できない直線距離には意味がありません。
>>  そもそも直径という言葉が最短距離の道のりという意味であります。天体観測ならいざ知らず、地誌上の距離は人の移動に沿って把握するのが基本と言えるでしょう。

確かに距離の把握は、軍事的な意味を持ち、兵站の基本であり、判断の指標です。しかし、領域を表す「方〜里」の文型にも及ぶものでしょうか。例えば、それぞれ方千里の領域を持つ町Aと町Bが東西に接しているとしましょう。町Aは全土が平坦で、方千里は直線距離で考えてかまいません。しかし、町Bには、中央に峻険な山脈を抱え南北を貫いており、東西を行き来するには、町の北限か南限を迂回する必要があるとします。つまり、町Bは、南北は直線距離で千里の幅だが、東西は、中央の山脈の幅しかない南北に長い町になるのです。もちろん、人々の生活する場所である平野部は、ほとんど無いし、(国境中間点から)東西の道のり距離は千里になります。つまり、実質的に町Bは、ほとんど領域を持たないのに、その表記は、町Aと同じ「方千里」の町になるのです。軍事的には、「千里の行程」と言う道のり表記が有効でしょうが、領域表記は、直線距離で表すのが基本であると考えます。

それと同じ事が、先に示した文型2にも言えるでしょう。実際に行っていない場所までの距離表記が、全て道のり距離であるとすると、実距離は、常に地形により変動することとなり(全ての里表記は、おのおの孤立し、共通の単位「里」の意味がなくなる)、兵站を決定する判断基準になり得ません。つまり、「どこそこまで何里の行程」といった明らかな道のり距離であっても、一定のルールが必要なのです。

以前から申し上げている通り、倭人伝の里表記が実地形の比率と酷似しているのは、そのルールの存在を示すものと考えます。そして、倭人伝のルールは、明らかに『三国志』本編たる、帝紀や他の列伝に用いられているルールと違うのです。洛陽から遼東までの四千里と韓半島の一辺四千里を同じ距離と言えないのは、そのルールの違いによるものであり、東夷伝短里は疑えないと考えます。

さて、道のり距離は、直線距離とは確かに違うものでしょう。しかし、5倍や6倍にも間違えるものでしょうか。壱岐の方三百里は、陸地からの測量の方が容易でしょうから、道のり距離と考えたとしても直線距離と、そう違いは出なかったと考えられます。つまり、いかに海岸線が入り組んでいようと、壱岐ほどの小さな島であれば、内陸からの景色で道のり距離を直線距離に修正することは容易であると思われます。壱岐は、南北を長径と考えると、ほぼ20km四方です。長里で考えれば、わずか50里四方にしかなりませんが、短里で300里四方ならば理解できます。壱岐の表記が、直線距離で測った距離とさほどの狂いを見せないならば、韓半島の方四千里も直線距離で表記されていると言えるでしょう。実地形の距離が、倭人伝の里表記と比率において対応しているからです。

>>  東夷傳の高句麗の大きさと襄平−丸都の距離は、道里に沿ってほぼ妥当な数字であります。

前回の回答で、挹婁伝の記述からみて、高句麗の東限を東北に求めるのは、いかがかと申し上げましたし、倭人伝には東南とあり、高句麗の東は、文字通りほぼ東と考えざるを得ないものです。東を集安から見て、ほぼ東との前提で考えてみます。前回は、直線距離での不当を示しましたが、今回は、道のり距離でも不可能であることを示します。
ALEXさんは、遼陽から直線距離で250kmにある、集安が丸都であり、道のり距離400kmが千里にあたるとされています。高句麗の西限を集安と見ておられるようです。では、東限はどのあたりでしょうか。道のり距離と直線距離の比率を8対5と見積もっておられるようですので、道のり距離2000里は、直線距離で1250里です。これを長里で考えれば、500kmになります。集安を高句麗西限とお考えでしょうから、集安を起点に、東に500kmまでが高句麗の領土になるのです。当然、日本海に達しますし、方角を東北に修正すれば、ウラジオストックあたりまで高句麗の領土になるのです。つまり、直線距離で考えようと、道のり距離で考えようと長里では、全く説明がつかないのです。道里に沿っても妥当な数字とはいえません。

私には、ALEXさんが如上の論理に行き着かなかったはずは無いと考えますがいかがでしょうか。心中お察ししますが、東夷伝長里説は撤回されるべきであると進言いたします。

>> >『晋書』の完成は唐代であり、六朝時代や隋末の動乱を経ており、史料散逸の可能性があるのではないでしょうか。短里使用が晋代のみであれば、北朝系の隋や唐に取って代わられてからは、その事実の記憶さえも残らなかったのではないでしょうか。
>> # 暦法、天文から詩賦まで多数の記録が残っているのにですか?
>>  里や歩など大変生活に密着した制度の変更は多方面に影響が大きいものです。

漢書の三注を思い起こしてください。唐の顔師古は、「倭」の上古音を知りませんでした。生活に密着している、漢字の発音であり、遣唐使を送り続けたわが国の国名のはずです。

>> >斐松之は、短里を知っていたから注釈しなかったと考えています。知らなければ、「其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在り」に、注をつけたと思われます。
>> # 知っていることを知らない人の為に付けるのが注釈であります。
>>  公孫淵は呉と遼東の距離感を「江南海北有萬里之限」と書いています。帯方から倭人の都まで1万2千余里(実質約9千里)が丁度会稽東治(福州))の東にあたるという感覚と合致すると言えるでしょう。
>> また、既にkoujiさんが指摘していますが、魏の臣である如淳が漢書の註に倭人を「在帶方東南萬里。」と書いています。

『三国志』の読者も短里を知っていたから、注釈の必要が無かったと考えています。『三国志』は、同時代史書です。われわれが、軍歌の中で「ここはお国の何百里…」と歌われても、単位の違いを理解できるように、魏代の有名人が何千里遠征したと書いてあっても、不信とはしなかったでしょう。また、koujiさんのレスで記したように、『三国志』中には、「萬
里」と書いて「遥か彼方」の意に用いられている例が多数あります。このような言い回しが一般的だったと考えられるのかもしれません。

>>  つまりこの地理感は魏晋共通なのです。また「百里」と言えば県の代名詞なのは漢魏晋共通の常識です。

お恥ずかしいことですが、初耳でした。しかしこれは、里が不変の単位であるという証明には使えないものです。現に、唐では、一里360歩に変わっていますし、日本では、約四キロです。しかも、「千里眼」と言う言葉を現代の日本人は、平気で使用していますし、「万里の長城」が、里の変動とは無縁である事と同じでしょう。

>>  その他はどうでしょうか?
>>  晋に仕えた皇甫謐の「帝王世記」によれば光武帝陵は洛陽の北東15里です。正しい魏の1里で考えれば故洛陽城から孟津に現存する光武帝陵への距離に概ね相当するものですが、「短里」で約1kmなどという近い位置ではありえません。

この記事について、私には調べる術もありませんが、重要なのは、その一文が晋代以前に成文であったかどうかだと思います。つまり、晋代以前に文章となっていたものを転載したのであれば、長里での表記でしょうし、晋代に造文されたものであれば、私の説が崩れるでしょう。

>>  また晋書羊[示古]傳の会話には曰「江夏去襄陽八百里」とあり、正しい魏の1里では直線距離の倍弱。道のりとしては妥当といえる範囲内ですが、「短里」では解釈不能です。
>>  同じく王濬傳の会話中には「十四日至牛渚、去秣陵二百里」とあり、これも直線距離としては魏里では長すぎるが逆に「短里」ではとどきません。苟晞傳では「エン州去洛五百里」とあり、これもこれも直線距離では魏里では長すぎ逆に「短里」では遥かにとどきません。
>>  これらはすべて軍事行動等にからんだ、実際に行く人のための距離把握ですから、“実際には走ることの出来ない直線距離で、なおかつ実距離より大幅に短い”地理感が適用できないことは言うまでもありません。当然に道路の走行距離と考えるべきで、魏里(=晋里)で妥当ということになりましょう。

この二つの例文は、非常に興味深いものです。いずれも、ALEXさんの比定では、魏里では長すぎるとか。先に考察したように、私は道のり距離と直線距離に、それほど大きな違いは無いと考えます。この二例の文型は直線距離と考えますが、道のり距離にしても2倍に達することは無いでしょう。私はこれを、短里表記の可能性があると考えます。興味深いのは、これらがいずれも会話文である事です。つまり、晋代の生の声が記録として残った可能性があります。地名比定が確実に出来るのであれば、是非検討してみたいと思います。私には、皆目見当がつきませんが、ALEXさんは、どこに比定されたのですか。是非推定地名をご教示ください。世界地図は、昭文社の「グローバルアクセス」を使用しています。

>>  もう一つ見ましょう。同じく晋書紀瞻傳では、何もかもかなぐり捨てて急遽撤退するさまを「乃與榮及陸玩等各解船棄車牛、一日一夜行三百里、得還揚州。」と描写しています。三国志にあらわれる有名な董卓の「晝夜三百里來」と一致します。これが大童で駆け抜けるスピードです。

これは、先の二例と違い地の文です。『晋書』の記述に対する検証を経なければならないでしょうが、唐代の書き手が唐代の読み手を意識した記述であると考えます。

>>  このように、後漢−魏−晋の1里は不変なのです。
>>  「短里」は幻想です。

はたして、そうでしょうか。私には、そう思えません。


804

Re: 里程について

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月29日(火)19時20分52秒]

元の発言 [ Re: 里程について ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)23時08分03秒 ]

おにりんさん、今晩は。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
よく解るのですが、こうやって、回答するだけで精一杯なのです。なるだけ、意に添うように心がけますが、次回からということで、お許しください。



805

Re: せかせてすいません。

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月29日(火)20時16分12秒]

元の発言 [ Re: せかせてすいません。 ] お名前 [ 邪馬四 ] 日付 [ 1月29日(火)18時29分30秒 ]

>> ははは。結構情けなさそうな倭国王ですね。

この時代の倭王ですから、北部九州祭祀圏のみの王か、
祭祀を強制できない、なさけない広域倭国(西日本一帯)の王しかありえない。
まじでそんなもんじゃないかと思っています。

北部九州祭祀圏のみだと委奴国王と変わりありませんから、
きっと漢が自分の都合で、オウ"等"のなかから、一番えらそうなのをえらんで
こいつを倭王にするから、みんな従いなさいとかやったんじゃないですかね。

きっと漢にとってもなんかメリットあったんじゃないかな。

>> ところで、森説を詳しく知りたいのですが、文献を教えてくださいです。

古代の日本1
倭人の登場

森浩一編

です。
ハードカバーとは森さんの説の中身が違うみたいなんですが、知りませんか。
森さんの説では、漢書のなかの東[魚是]21国に当てています。


806

Re: ぜんぜん関係ないけど、、

投稿者[ にゃあ ] 発言日時 [1月29日(火)20時29分50秒]

元の発言 [ Re: ぜんぜん関係ないけど、、 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月27日(日)23時44分51秒 ]

ありがとうございます。
HPあったなんて。
さっそく行ってみようかな。
その前に志賀島行こうかな。


807

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月29日(火)20時46分33秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 1月29日(火)01時09分33秒 ]

>> >> #「毛」は「りっしんべん」に「豈」。

「董廚任垢茲諭Zツ未砲蓮屮」ぁ△燭里靴燹△C舛匹@廚判个討い泙靴拭」
「篤瓠廚函嵬嗅遏廚ト韻犬任垢@ΑΑΑ」


808

やっぱり字化けしました、やりなおし

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月29日(火)20時48分45秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ EK ] 日付 [ 1月29日(火)01時09分33秒 ]

>> >> #「毛」は「りっしんべん」に「豈」。

[心豈]ですよね。字通には「ガイ、たのしむ、かちどき」と出ていました。
「[心豈]那」と「毛野」が同じですか・・・。


809

Re: 北九州抜きの独自ルート

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月29日(火)21時11分44秒]

元の発言 [ 北九州抜きの独自ルート ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月28日(月)23時29分16秒 ]

>> >> >>さもなければ一方的流入だけになってしまいます。
>> >> やはり食料、玉、丹、真珠、木材、朝鮮に無くて日本に有る薬草類てナ、所でしょうか?
>> 北朝鮮側の事はよく解らないのではっきりしませんがそれらの物が北で見つかって居ると言う情報はありませんね。

ただ、旧石器や縄文から壱岐辺りの黒曜石が、旧ソ連の辺りまで流れている事も確かですし。
やはり有ったんでは、と考えます。

>> >> >>「嵐に遭い数十日吹かれ、東に一島を得る」って日本列島?
>> >> >>「一國亦在海中、純女無男・・・」は竜宮伝説?

>> >> 九州を迂回できるとは、ちょっと思えませんので、日本列島になるのでは?
>> >> 上のレスでもあった通り、天候などとなれで、かなり違うと思いますけど。
>> >> いろんな意味で、現在の考察より進んでるんでは、ないでしょうかね?

>> 前出の文は魏の高句麗追討使に「海の東にも人が住んでいる?」と聞かれ「嵐に遭って数十日流され島に着いた。人が居たがそこでは言葉が通じなかった。」
>> [中略](その風俗の記載)
>> 「また難破船が流れ着き乗り組み員が一人生き残ったが言葉が通じず、飯も食わずに死んだ。それは皆沃沮の東にある。」
>> と書いてあるらしいです。
>> 私は漢文が読めないので間違っていたらご容赦ください。
>> 東沃沮は北緯40度線あたりの東岸に住んでいたらしいのですが、東沃沮の東と言うと秋田くらいですかね。一島というと佐渡あたりも入るんでしょうか。
>> この文章読むと中国人は倭人の住む所は九州、山陰、山陽、四国くらいまでとしか認識していなかったと推測できるのではないでしょうか。
>> これは交流とは言えないでしょう。

これも、証拠が出ていないから難しいですが、
北海道は、北海道で、大陸と行き来してた節もありますし。

>> と言う訳で東沃沮とは戦乱で流出した難民が流れ着く位しかないわけです。
>> いずれにしろ北九州および南韓を介さない交流は考えられないでしょう。

>> >> >>>>9.卑弥呼が、使者を派遣したのは、公孫氏が滅んだ2ヶ月後である。

>> >> >>「2ヶ月後」は「2ヶ月前」の誤り?
>> >> 定説では10ヶ月後とされていますが原文通り解釈した方が面白い。

>> >> と、すると、益々、魏による倭の連合への根回しの可能性が、高くなりますね。
>> >> 半島南部と、倭の諸勢力、其処に話をつけなければ、ざるですものね。
>> >> 交易の妨害をするも同じですし、
>> >> うえの、おにりんさんのとこでも書きましたが、
>> >> となりに、大国が、大軍を持ってきて平気な国なんて、有りませんよ。
>> >> 戦国時代なんですし。

>> >> >>公孫氏は既に滅んでいて残りは呉ですが、ないともいえないし、あるともいえない。
>> >> >>ただ、海を隔てて遠いですから軍隊を送ってくれる事
>> >> はないし心理的影響くらいでしょうね。

>> >> 其れは、如何でしょう?実際もっと大きなとこを渡ってるんですし。
>> >> 安心は、出来なかったんじゃないかな?

>> 中国南部から日本にやってくる事は比較的簡単です。
>> 海流にのってしまえば寝ていても日本近海まで来てしまう。
>> 北朝鮮からでも同じです。リマン海流に乗れば日本近海まではこれる。
>> 問題は帰りです。大海を一日で渡ることは不可能ですから。
>> 夜寝ているうちに海流によって押し返されてしまう。
>> となると夜も休まず漕ぎつづけなければならない。
>> 中国の場合、帰りは琉球列島沿いに島毎に休息をとりながら数倍の時間を掛けて帰ることになる。
>> (北朝鮮は琉球列島沿いのようなルートもない。)

>> そんな訳で呉が狗奴国をけしかける可能性はあっても軍を送ることは難しかったと思われます。

其れが、以外なんですが、沖縄の南側に黒潮とは
反対方向に流れている海流が、有るようです。

うまく海流、潮流を、乗り継ぐ事が出きれば、結構楽かも?

同やら、リマン海流辺りにも似たようなものがあるんじゃないんかと、
現在調査中なんですけどね。

実を言いますと、昨年の夏に国に帰ったとき唐津や前原を回りました。
これ、ここの議論で、潮の流れのことが、でたんで、
直接現地の民宿にでも止まって、古老の方にでも聞こうとたくらんだんですが、
予約できず、ペケでした。

出も結構面白かったですね。


81

Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ イリヒコ ] 発言日時 [1月6日(日)02時21分32秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ ちょっと一服 ] 日付 [ 1月5日(土)20時18分12秒 ]

こんばんは

>みたいな視点で考えたことはありますか?

申し訳ないですが、きっぱり言って、全くないです。
私は、記紀等の伝承の類いは全くの不勉強で、とてもではないけれどもやり
きれないのでこの方面には手を出さないことにしています。

と、まずは逃げを打たせていただいて・・・・

これだけで終わるのもむげないので一言申し上げると、ちょっと一服さんは

>四道将軍の件で,吉備と関連してきます。
>その言われるところの纏向1式の頃,

と、纏向1のあたりで畿内と吉備との関係ができたように思われているよう
ですが、吉備系土器は弥生中期後半あたりから大和(といっても、纏向遺跡
はこれ以上さかのぼれないので唐古・鍵ですが)に入ってきています。考古
学上、吉備との関係は、紀元前まで遡りますから、この想定は成り立たない
と思います。

それから、吉備系土器は、庄内より前では西日本一帯に強い拡散力を持って
いた土器なんです。おにりんさんの紹介された石野さんの本に書いてありま
すけど、庄内に入るあたりで吉備系土器は九州からも山陰からも姿を消して
いくようです。ですから、吉備系土器の減少を大和側に原因を求めるのはあ
まり適当ではないと思います。

といっても,土器の件が正しいとした場合のことですが。


810

Re: やっぱり字化けしました、やりなおし

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月29日(火)23時16分01秒]

元の発言 [ やっぱり字化けしました、やりなおし ] お名前 [ EK ] 日付 [ 1月29日(火)20時48分45秒 ]

>> >> >> #「毛」は「りっしんべん」に「豈」。

>> [心豈]ですよね。字通には「ガイ、たのしむ、かちどき」と出ていました。


ケ乙類清音で共通です。


古代国語の音韻に就いて
http://www.aozora.gr.jp/cards/hashimotoshinkichi/files/kodaikokugo.html


# 「野」については,
# おにりんさんと邪馬四さんの議論が参考になります。




811

Re: Title 里程について

投稿者[ ALEX ] 発言日時 [1月29日(火)23時24分20秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月29日(火)19時16分03秒 ]

>日野さんの「『漢書』西域伝と魏志倭人伝」によりますと、

1 先行動詞+「至+(地名)」は、実際に行ったことを表す。…道のり距離。
2 動詞の先行しない「至+(地名)」…(私はこれを直線距離と理解しています。)


# 「直線距離と理解」する理由は何ですか?

>領域表記は、直線距離で表すのが基本であると考えます。

# その理由をお聞きしているのです。

>実際に行っていない場所までの距離表記が、全て道のり距離であるとすると、実距離は、常に地形により変動することとなり(全ての里表記は、おのおの孤立し、共通の単位「里」の意味がなくなる)、兵站を決定する判断基準になり得ません。

# 地形は変化しませんので、実際に行き着ける所要日数に基づいて兵站を決定する判断基準となります。


>さて、道のり距離は、直線距離とは確かに違うものでしょう。しかし、5倍や6倍にも間違えるものでしょうか。

# 隋書には「其南海行三月、有tam[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里」とあります。
隋の短里があったのでしょうか?
いいえ、間違った地理情報があっただけです。


>前回は、直線距離での不当を示しましたが

# 直線距離で考えることの正当性について証明できていない以上、不当を示したことにはなっていませんが?
 それ以前の問題として、直線距離で遼陽から集安までどれだけ距離があって、それが「短里」で何里あるかを調べてご回答いただけますか?

>今回は、道のり距離でも不可能であることを示します。
>高句麗の西限を集安と見ておられるようです。

# これが当たっていないので、以下の証明はすべて崩れてしまいます。
高句麗の西限は本渓のやや東と推定されています。

>漢書の三注を思い起こしてください。唐の顔師古は、「倭」の上古音を知りませんでした。生活に密着している、漢字の発音であり、遣唐使を送り続けたわが国の国名のはずです。

# 発音や音律など文字表記のできないものだからこそ失われるのです。


>私は道のり距離と直線距離に、それほど大きな違いは無いと考えます。

# それを証明する努力をされることを望みます。
 襄陽は襄樊、江夏は孝感付近です。牛渚は馬鞍山のやや南、秣陵は直線距離でその東北約40kmほどのところです。


>はたして、そうでしょうか。私には、そう思えません。

# わたしは、事実を見つめて欲しいとしか申し上げようがありません。


814

Re: 里程について

投稿者[ kouji ] 発言日時 [1月30日(水)01時06分57秒]

元の発言 [ Re: 里程について ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月28日(月)22時47分29秒 ]

 ねたろうさん、今晩は。

 ALEXさんへのレスも、まだざっとですが、見せていただきました。


>> ALEXさんの考証を確認していませんが、私の理解を申し上げます。始発地点の帯方郡治の比定は別として、七千余里が道のり距離であることに異論はありません。しかし、この七千余里を全水行であるとは言えないと思います。帯方郡治から水行で韓地に上陸後、陸行したものと推定します。

>> まず、「乍A乍B」の構文は、「たちまちAし、たちまちBする」と読み、こきざみにAとBを繰り返す意味だそうです。

 とは限りません。「Aという状態だったものが、Bという状態に急変する」場合にも用います。


>> 韓地全水行であれば、「乍南乍西」と書くべきでしょう。

 どうしてでしょう?


>> また、韓伝の記述では、「東西海を以って限りと為し、南倭と接す」とあり、韓半島の南辺は、(全域とは思いませんが、韓地が南で海岸に接すると書いていないことが重要でしょう。)倭地である可能性が高く、全水行は無いと考えます。

 『韓…南與倭接』は、『其[水賣]廬國與倭接界』からきたものでしょうが、このことは東夷伝の地理記述の成り立ちを考える上で示唆的です。それはともかく、「接する」とあるからといって地続きであるとは限らないのです。時代は下りますが、唐会要倭国伝には「北限大海、西北接百濟、正北抵新羅、南與越州相接」とあります。魏志倭人伝の冒頭には「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」とあるわけですから、韓([水賣]廬國)と接しているといっても海路を介してのことと理解するのが妥当でしょう。


>> さらに、韓国内陸行を裏付けると思われるのは、韓伝に記された、多くの国々です。

 魏と諸韓国は、「景初中、明帝密遣帶方太守劉[日斤]、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。」を皮切りに、時に干戈を交えるなど、密な関係を展開しています。倭への使者の韓地の陸行を想定するまでもなく、諸国の名前を知っていて当たり前です。


>>「水行十日、陸行一月」を、全行程と考えなければ、倭人伝の里程は解けないと思うのです。

 そんなことないですよ。むしろ問題は、魏志倭人伝の文章はそのようには読めないということです。

『從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里』

どこに、陸行したとありますか?

『南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日・陸行一月。官有伊支馬…』

どう読んだら、「水行十日・陸行一月」が郡から邪馬臺国までの全日程だと読めるのでしょうか?


>> 韓国を歴るに〜七千余里が、道のり距離を表すのに対し、方四千里は、明らかに韓地の領域を表すものであり、直線距離と考えます。面積を表すのに、道のり距離を使用するとは思えません。

 そもそも道のりを記述したもの以外利用できる資料がなかったのです。


>> 少なくとも魏代には、長距離を直線距離で測量する技術が存在したと見て良いのではないでしょうか。

 どのような技術でしょうか?


>> >>  (前略)直線距離約20kmとすれば、道のり百里(≒44km)は概ね妥当といえます。伊都・奴両国間百里は明かに「長里」なのです。
>> >>  ねたろうさんはこの両国の比定地に異論があるかもしれませんが、その比定地について「短里」説以外の根拠を挙げることができるでしょうか?「短里」だけによって行われた比定地を「短里」の根拠とすることはできません。
>> (前略)私自身、未だにこの両国を正確には比定できておらず、短里の根拠とするつもりはありませんが、短里でも解釈できると考えています。

 つまり、通説の比定地を否定する根拠は短里説なのでしょう?


>> >>  「末盧國…東南陸行五百里到伊都國」については、末盧國の中心部を唐津市付近と考えると、伊都國までの直線距離は30km足らずですから、この五百里は確かに誇大です。海岸沿いのルートは古くは存在しなかったそうですから、私は「草木茂盛、行不見前人」というような状況の山越えルートが距離感を誤らせたのかと思っておりますが、いかがでしょう。
(中略)
>> 伊都国までの行程にも頭を抱えています。私も山越えルートを想定していますが、なぜ容易な海路を選択しなかったか等、未だに合点が行きません。ただ、いかに道のり距離であろうと、およそ35kmの行程を200kmもかかったと感じるものでしょうか。長里で解読するには、無理がありすぎると考えます。

 直線距離が30km弱で、この間、背振山地越えルートですから道のりの実距離は直線距離の倍ぐらいにはなるでしょう。「およそ35km」ということはないと思いますが。

>> また、海路や道のり距離を換算すると仰いますが、ふつう換算すると言えば、直線距離でどのくらいかと考えるものではないでしょうか。

 「渡海半日」などを里程に換算する際に誤った換算基準が適用されたという話なのですが。


>> 海路の里表記と陸上の里表記は、共通の単位であり、互換すると考えます。もちろん、海路の方が誤差は大きいと思いますが。

 もちろん、共通の単位であり、それは「長里」です。海上行程の換算の話も、もともと「長里」への換算のための基準です。


>> >>  いずれにせよ、「「韓伝」・「倭人伝」内の里表記が、現在の地形との比較において、その比率がほぼ同じである」とはとうてい言えないものと考えます。ちなみに、韓伝の「方可四千里」は、帯方郡−狗邪韓国間七千餘里から概算されたものでしょう。

>> いかに入り組んだ海岸線であっても、一辺1,600kmは異様です。方三百里と記された一大国が壱岐であることは確実であり、内地の記述がありますから、方三百里は、内地を測量して得た数字であると考えます。つまり、直線距離に近い数値による記述です。壱岐の面積と韓国の面積の比率は、方四千里と方三百里ですから、ほぼ実地に合うと言え、妥当な記述でしょう。これにより、韓の方四千里も直線距離に近い記述であると言えると思います。

 一支の「方三百里」を取り上げるなら、対馬の「方四百余里」も取り上げるべきでしょう。
 魏志東沃沮伝では「其地形東北狹、西南長、可千里」とあり、また倭人伝には「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」とあります。極端に方形からかけ離れた地形の場合は、その形状に即した表現を用いていることがわかります。このことからすれば、ほぼ南北方向に極端に細長い形状の対馬の大きさが「方」で表現されているということは、対馬の形状が誤認されている可能性が高いことを意味しています。
 金海あたりから対馬・壱岐をへて松浦へ渡る場合、金海を出港して上県の北端付近にたどり着き、上県・下県の海岸沿いに南下して下県の南端付近から壱岐へと渡るはずです。対馬の海岸沿いを南下するルートは、直線で80km弱、つまり180「長里」程度になり、相当に入組んだ海岸線ですから、道のりとしては400里程になると考えられます。
 つまり、対馬の「方四百余里」は、対馬の形状に対する誤認はあるものの、一辺の長さ四百余里はほぼ正確に把握されていたらしいということになります。
 「方四百余里」は下県だけとおっしゃるかもしれませんが、下県の近接し遙に大きい上県を無視するのは現実的でしょうか? また、対海を下県、対馬を上県とも考えておられるようですが、対海と対馬の表記の異同は同じ魏志倭人伝の版本間の異同ですから、別の島をさすと考えるのは無理です。


>> >> >> >>  それは、九州説の中でも特に変な説なんじゃないかな?この時期の中国で「短里」が公式に採用されていたなんて主張しているのは、変な人とその信者だけだと思いますよ。
(中略)
>> また、私が上のような表現を嫌うのは、皆さんの才能を惜しむからです。古田氏の説が支持されないのは、その内容においてではなく、論述姿勢に問題があったのではないかと考え、残念なことだと思っています。

 それは誤解です。彼の論述姿勢に問題があることは事実ですが、それは中身がいかさまだから、そのような姿勢をとらざるを得ないのです。


>> もちろん、古田氏に他者を侮辱する意図はなかったと思いますが、その表現は、プライドある専門家にとって、我慢ならないほどの屈辱に感じられたでしょう。先の表現を採る事は、古田氏と同じ未来を予感させるのです。侮蔑されたと感じた九州論者は、決して畿内説に耳を貸さないでしょう。ただ、不毛な非難合戦になるだけです。

 どうも何か誤解されているようです。私は畿内説ですが、九州説を宗教だと思っているわけではありません。もちろん彼のことは教祖みたいなものだと思っていますが、彼ほどには支持者がいないとはいえ、畿内説でも同種の人はおります。もし彼の説を代表的な九州説だと思われているのなら、心有る九州説の方にとっては迷惑至極であろうと思います。
 優れた九州説の代表格は橋本増吉でしょう。彼の『改訂増補 東洋史上より見たる日本上古史研究』の中の「邪馬臺國論考」は東洋文庫にも入っていますから、一読して御覧になっては如何でしょう。本物と偽物の違いがわかると思います。それから、こちらは畿内説ですが、山尾幸久『新版・魏志倭人伝』講談社現代新書もお勧めです。


>> >>  しかし、魏志東夷伝の記述対象は「長里」である筈の魏代の東夷であり、当面の対象とする読者が西晋の人々であることも蜀志と同じです。
>> 私たちが、戦国時代の物語を読むのとよく似たものと考えればどうでしょう。本能寺の変を聞いた秀吉は、播磨から取って返すのに、一昼夜で〜里駆け抜けたと書いてあっても、何の不信も感じません。あくまで、主眼は物語の進行にありますし、著明な都市間の距離を現代のkmで書かれては、雰囲気が壊れます。特に会話文では、その傾向が強いでしょう。つまり、検討を要するのは地の文なのです。

 検証を欠いている以上、頭の中だけで作り上げた空論に過ぎないのではないでしょうか。実際に、西晋代の他の著作を見てみましょう。
 まず、『魏志』所引の『魏略』西戎傳には「燉煌西域之南山中、從[女若]羌西至葱領數千里」とあります。[女若]羌より西、葱領に至る數千里。直線距離でも「短里」では不足します。「長里」であることは明かです。
 また『後漢書』は東晋范曄の撰といいますが、志は西晋司馬彪撰の続漢書の志を後世になって併せたものです。その中の郡国志にも「長里」が用いられています。例えば「遼東郡襄平県、洛陽東北三千六百里」などで、これは魏の明帝が「四千里征伐」とするのと整合しています。
 東晋范曄撰『後漢書』は、記述の対象は後漢であり、当面の対象となる読者は東晋の人々です。しかしその倭伝には、「樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」とあります。対象となる時代も「長里」であり、読者も「長里」の人々なのですから、「萬二千里」や「七千餘里」が「短里」ならば「長里」に換算するはずではないでしょうか。范曄は「西晋朝短里」など知らなかったといっていいでしょう。范曄すら知らない「西晋朝短里」とはいったい何なのでしょうか?それは現代日本の一部の人々の頭の中だけに存在するものだと断定せざるを得ないと思います。


>> >>  アプリオリに設定したルールを前提に解釈しようとするのは誤りです。高句麗・夫餘・沃沮・[手邑]婁伝の里が「長里」であることは、これを「短里」で解釈するためにはアクロバティックな曲解を積み重ねなければ不可能であることが遺憾なく証明しています。
>> 先に説明申し上げたとおり、道のり距離で韓国の方四千里を解釈するのは不当であり、渡海や道のり距離も直線距離に近い値であると考えています。高句麗短里や、道のり距離で考えることの不当は、もう一度ALEXさんに、説明させていただくつもりですが、まず短里ありからの曲解ではなく、記述と実地形の整合からの帰結です。

 魏志東夷伝の韓・倭人伝を除くすべての里程を検証した投稿が過去にあります。下にリンクをいれておきますので、上述してきたことを踏まえて、再考してみてください。



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Re: 北九州抜きの独自ルート

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月30日(水)10時19分36秒]

元の発言 [ Re: 北九州抜きの独自ルート ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月29日(火)21時11分44秒 ]

>> >> 北朝鮮側の事はよく解らないのではっきりしませんがそれらの物が北で見つかって居ると言う情報はありませんね。

>> ただ、旧石器や縄文から壱岐辺りの黒曜石が、旧ソ連の辺りまで流れている事も確かですし。
>> やはり有ったんでは、と考えます。

まあゼロではないでしょうが。稲の栽培が逆に航海術を後退させてしまった可能性がありますね。
縄文時代の方が航海術は優れていたような。

>> >> >> 九州を迂回できるとは、ちょっと思えませんので、日本列島になるのでは?
>> >> >> 上のレスでもあった通り、天候などとなれで、かなり違うと思いますけど。
>> >> >> いろんな意味で、現在の考察より進んでるんでは、ないでしょうかね?

>> >> 前出の文は魏の高句麗追討使に「海の東にも人が住んでいる?」と聞かれ「嵐に遭って数十日流され島に着いた。人が居たがそこでは言葉が通じなかった。」
>> >> [中略](その風俗の記載)
>> >> 「また難破船が流れ着き乗り組み員が一人生き残ったが言葉が通じず、飯も食わずに死んだ。それは皆沃沮の東にある。」
>> >> と書いてあるらしいです。
>> >> 私は漢文が読めないので間違っていたらご容赦ください。
>> >> 東沃沮は北緯40度線あたりの東岸に住んでいたらしいのですが、東沃沮の東と言うと秋田くらいですかね。一島というと佐渡あたりも入るんでしょうか。
>> >> この文章読むと中国人は倭人の住む所は九州、山陰、山陽、四国くらいまでとしか認識していなかったと推測できるのではないでしょうか。
>> >> これは交流とは言えないでしょう。

>> これも、証拠が出ていないから難しいですが、
>> 北海道は、北海道で、大陸と行き来してた節もありますし。

北海道ならサハリンまではかなり近いですし、海流の影響はさほどなかったでしょう。
あ、東沃沮に流れ着いた難破船はアイヌかな?言葉が通じなかったのはそのせい?
リマン海流も順方向だし。

>> >> と言う訳で東沃沮とは戦乱で流出した難民が流れ着く位しかないわけです。
>> >> いずれにしろ北九州および南韓を介さない交流は考えられないでしょう。

>> >> >> >>公孫氏は既に滅んでいて残りは呉ですが、ないともいえないし、あるともいえない。
>> >> >> >>ただ、海を隔てて遠いですから軍隊を送ってくれる事
>> >> >> はないし心理的影響くらいでしょうね。

>> >> >> 其れは、如何でしょう?実際もっと大きなとこを渡ってるんですし。
>> >> >> 安心は、出来なかったんじゃないかな?

>> >> 中国南部から日本にやってくる事は比較的簡単です。
>> >> 海流にのってしまえば寝ていても日本近海まで来てしまう。
>> >> 北朝鮮からでも同じです。リマン海流に乗れば日本近海まではこれる。
>> >> 問題は帰りです。大海を一日で渡ることは不可能ですから。
>> >> 夜寝ているうちに海流によって押し返されてしまう。
>> >> となると夜も休まず漕ぎつづけなければならない。
>> >> 中国の場合、帰りは琉球列島沿いに島毎に休息をとりながら数倍の時間を掛けて帰ることになる。
>> >> (北朝鮮は琉球列島沿いのようなルートもない。)

>> >> そんな訳で呉が狗奴国をけしかける可能性はあっても軍を送ることは難しかったと思われます。

>> 其れが、以外なんですが、沖縄の南側に黒潮とは
>> 反対方向に流れている海流が、有るようです。
>> うまく海流、潮流を、乗り継ぐ事が出きれば、結構楽かも?

黒潮反流の事でしょうか。大きな海流の近くで陸地の地形が複雑な場合反流が発生する事は良くあるようです。
ただこれは常に発生している訳ではなく、現れたり消えたりする事があります。

>> 同やら、リマン海流辺りにも似たようなものがあるんじゃないんかと、
>> 現在調査中なんですけどね。

対馬の北を流れる対馬海流の分流が韓半島の沿岸を流れているみたいですね。
前出の壱岐の黒曜石はこれに乗ってウラジオストックまで伝わった可能性がありますね。
北九州から対馬に渡ってからこれに乗れば比較的簡単ですが、本島中部から直接これに乗るのは難しい。

>> 実を言いますと、昨年の夏に国に帰ったとき唐津や前原を回りました。
>> これ、ここの議論で、潮の流れのことが、でたんで、
>> 直接現地の民宿にでも止まって、古老の方にでも聞こうとたくらんだんですが、
>> 予約できず、ペケでした。

>> 出も結構面白かったですね。



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Re: Title 里程について

投稿者[ かまくら龍 ] 発言日時 [1月30日(水)10時21分34秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ねたろう ] 日付 [ 1月22日(火)23時47分15秒 ]

>> 韓国と高句麗は接しており、その境界は、共有されています。同様に夫餘も高句麗に接しています。「韓伝」が短里であれば、高句麗も短里で記されるはずであり、夫餘も短里で書かれていると言えるのではないでしょうか。

  韓国と高句麗は、ともに魏領に接しているということ
は、当然のこととして、魏も短里で記されると考えるのが
普通でしょう。

  ところで、記されている個々の事例をとりだす前に、
三国志全体の思想はどうなっているのかを考えるのが重要
で、これを論議すべきでしょう。
  小生は、魏史(東夷伝を含む)は、全面短里だと考え
ます。
  ただし、魏史のなかにも、漢代以前の記述もあるが、
これらは、個々に長里か短里を検証すればよいのです。
  それで、誤りのあるものは、裏付けを明確にして訂正
すればよいのです。
  しかし、里数値について、斐松之の註はないようです
ので、誤りはないのでは?

  同様に、蜀や呉は、短里を使用したとはよみとれませ
んから、蜀史・呉史も個別検証が必要でしょう。

  また、史書という正確から、読み手は西晋の天子であ
り、また官僚たちに対して、途中から里単位が変っていて
読んですぐに理解できるのでしょうか。

  魏史と東夷伝で里数値が違うなどとは、陳寿は記して
いないのに。

  
  


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Re: Title卑弥呼の使節派遣前後の状況

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月30日(水)12時41分30秒]

元の発言 [ Re: Title卑弥呼の使節派遣前後の状況 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月28日(月)22時59分03秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
ヒッタイトなんかからして、十分納得できる説ですね。
ですが、これは、北のみ考えたとも思えますね。

>> これも、縄文時代からの交易をみれば、当然でしょう。
>> 一度出来た交易ルートは、衰退しても、消える事は、まずない。
>> 流れる産物が変わるだけだと、認識していますが。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
新羅の古墳なんかから出ている、マガ玉類のことでしょうか?

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
壱岐の黒曜石等、旧石器から縄文にかけて、旧ソ連まで広まっていろ件は、
おにりんさんとしては、如何考えているのでしょう?

>>
おにりんさんも、ご存知の通り、弥生と言って初期は、縄文時代の生活に、
水田の米が割り込んだだけで、生活にはそう変わりないと言う事、が分かってきたようですけど。

この点でも、縄文時代からの交易が、急に止まるとも思えないのですが?

>> 何時だったか、公孫氏の剣の話題もありましたよね。
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
>> 次分の領土のすぐとなりで、大国に、大軍を動かされて、黙ってみているなんて馬鹿な国はありません。
>> 最低でも、根回しが、あったと見なければならないでしょう。

>>
>>
>> >>中国の文明的な人々が駐屯しているような半島において、
>> >>そういう形で、落ちのびられる中国人がどれほどいたのかとか、いろいろあります。
>> ご冗談でしょ、近代の、ノモノハン事件でも二重に包囲された砂漠地帯で、
>> 伝令による連絡はついていたと関係者の方から、聞いています。

>>
ちょっと意味が、つかめないのですが?
戦から逃げるのに、方法の若干の違いは有っても、変わりは、ないと思いますけどね。
生き延びる事だけ、なんですから。




824

Re: 論争は終了したという人はいるけど

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月30日(水)13時18分29秒]

元の発言 [ Re: 論争は終了したという人はいるけど ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月30日(水)12時18分47秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
そうかもしれないんだけど、地域の考古学の知識を増やすために
日本の古代史シリーズを大量に読み込まないといけないから、
大変なんですよね・・・。
それぞれの地域の考古学に詳しい人にラインを
絞ってもらったあとに、調べてみたい気はします。
声母だけでもけっこう重要な情報ですので、誰か頑張って!

なぜ四国なのかというと、まずはまともな人は手を付けていない
と思われる所を山師気分で選んだわけです。
九州だったら誰かがやってるだろうし。畿内は広すぎるし。
畿内と四国東部だったら道を間違えてもおかしくないし(笑)

ところで、大局的にみて四国説のつらい部分はどこでしょうか?
ぜひ、これはお聞きたいなあ。
思いつくところは
1 戸数問題・・・まあ、これはどこでも大変ですよね。本州広域国家なら近いかな?
2 その後の大和朝廷の関係・・・東遷になっちゃうのかな?時期の問題もありそう?
3 国名が古代郡名でそろえられない・・・これはどこでも無理でしょう。

>>
>>
>>
間違いなく畿内は、「強い」勢力ですね。邪馬台国は大和だろうし。
問題は、それがそのまま魏志の邪馬壱国に直結するかどうか。
いずれにせよ、倭人伝にある国々の構造を比定においてきちんと
表現できれば、かなり妥当性のあるものだと思うのです。




825

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月30日(水)15時52分35秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ yaohide ] 日付 [ 1月28日(月)01時49分52秒 ]

>> 九州の地名があまりないんだけど。
>> そうなると九州の邪馬台国連合以外の有明海近辺の国
>> とか豊前や南九州などの国を一大卒で管理できたんだ
>> ろうか?

そもそも文字による記録のなかった3世紀の国の名前が400年も500年も後まで全て残っているなどと考える方がおかしいので完全に消滅してしまった
国名の方が多いだろうという気がします。

僅かに残っていても隔絶した所の国名ですから中国地方や四国、近畿にあっても不思議はありません。

狗邪韓国、対馬、一支、一大、末盧、伊都、奴、不弥、邪馬壱、狗奴が九州にあれば十分じゃないですか。


826

Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月30日(水)17時45分51秒]

元の発言 [ Re: Title 「卑弥呼は日本語を話したか」における地名比定 ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月30日(水)15時52分35秒 ]

>> >> 九州の地名があまりないんだけど。
>> >> そうなると九州の邪馬台国連合以外の有明海近辺の国
>> >> とか豊前や南九州などの国を一大卒で管理できたんだ
>> >> ろうか?

>> そもそも文字による記録のなかった3世紀の国の名前が400年も500年も後まで全て残っているなどと考える方がおかしいので完全に消滅してしまった
>> 国名の方が多いだろうという気がします。

>> 僅かに残っていても隔絶した所の国名ですから中国地方や四国、近畿にあっても不思議はありません。

>> 狗邪韓国、対馬、一支、一大、末盧、伊都、奴、不弥、邪馬壱、狗奴が九州にあれば十分じゃないですか。

↑間違い。狗邪韓国、対馬、一支、一大は抜きです。


827

Re: Title 里程について(ちゃちゃです。

投稿者[ 牛頭天王 ] 発言日時 [1月30日(水)19時08分32秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 1月27日(日)08時50分36秒 ]

>>  公孫淵は呉と遼東の距離感を「江南海北有萬里之限」と書いています。帯方から倭人の都まで1万2千余里(実質約9千里)が丁度会稽東治(福州))の東にあたるという感覚と合致すると言えるでしょう。

呉と遼東の距離感が萬里とした時、呉と魏の国境と遼東と魏の国境の間と考えれば800km〜900km短里で直線一万里でも変じゃない。
また長里ではフィリピンの先まで行ってしまいます。

なるほど「公孫氏短里」のおにりんさんの説もありうるかも。



832

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月30日(水)22時56分45秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月29日(火)12時16分51秒 ]

>> >> さらに「真珠・青玉・丹」等の条件も満たす場合です。
>> >> 産物もかなり強い条件になるようですね。
>> >> 高知のヒスイは宝石になりそうなのでしょうか?

>> うっきー(突然さるになっちゃう。)(笑)
>> 調べといて、品質に、気づきませんでした。
>> それに、全国で発見ってるのは、糸魚川産が主でしたね。
>> どっかに、メールでも出して、調べときます。

前に紹介しました、ヒスイに関するHPの先の方へ問い合わせましたところ、
お返事を戴きました。

高知県のヒスイも愛知県(正しくは静岡県引佐郡引佐町西黒田) のヒスイも、
宝石になるような美しいものは産したことは、ナイトの事です。

普通の人が見れば「えっ!これがヒスイなの?」といった代物、だそうです。
現在、わかっている範囲で、国内のヒスイ産地で、宝石になりうる質を持つヒスイを、
産するのは糸魚川‐青海地域
(隣接する富山県朝日町と長野県小谷村と白馬村を含む)
と言うお返事でした。

まだ、他にも調べていますので、後日、お知らせします。


833

Re: 北九州抜きの独自ルート

投稿者[ 馬頭鬼 ] 発言日時 [1月30日(水)23時51分49秒]

元の発言 [ Re: 北九州抜きの独自ルート ] お名前 [ 牛頭天王 ] 日付 [ 1月30日(水)10時19分36秒 ]

>> まあゼロではないでしょうが。稲の栽培が逆に航海術を後退させてしまった可能性がありますね。
>> 縄文時代の方が航海術は優れていたような。

かも知れません。
以前も書いたんですけど、航海と言うか、海の技術は、
日本では、特に廃れやすいみたいですから。

ですが、弥生初期の研究では、縄文に水稲が加わった程度とのこてですので、
そう、捨てたものではないかも?

>> >> これも、証拠が出ていないから難しいですが、
>> >> 北海道は、北海道で、大陸と行き来してた節もありますし。

>> 北海道ならサハリンまではかなり近いですし、海流の影響はさほどなかったでしょう。
>> あ、東沃沮に流れ着いた難破船はアイヌかな?言葉が通じなかったのはそのせい?
>> リマン海流も順方向だし。

以外と、北海道辺りは、海流や潮流が激しいらしくて、難所だと言う印象を持ってます。
其の上で、かなりの交易があるようですから、
次術は、かなり発達していたと、思うんです。

>> >> 其れが、以外なんですが、沖縄の南側に黒潮とは
>> >> 反対方向に流れている海流が、有るようです。
>> >> うまく海流、潮流を、乗り継ぐ事が出きれば、結構楽かも?

>> 黒潮反流の事でしょうか。大きな海流の近くで陸地の地形が複雑な場合反流が発生する事は良くあるようです。
>> ただこれは常に発生している訳ではなく、現れたり消えたりする事があります。

どうやら、其のようです。
季節や其の時間などで、巧みに利用するという航海の
技術ガとわれそうですが、プロの仕事と考えれば、うなずけるかも?


834

Re: Title もういちど四国東部説

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月31日(木)07時10分58秒]

元の発言 [ Re: Title もういちど四国東部説 ] お名前 [ 馬頭鬼 ] 日付 [ 1月30日(水)22時56分45秒 ]

>> 高知県のヒスイも愛知県(正しくは静岡県引佐郡引佐町西黒田) のヒスイも、
>> 宝石になるような美しいものは産したことは、ナイトの事です。

>> 普通の人が見れば「えっ!これがヒスイなの?」といった代物、だそうです。
>> 現在、わかっている範囲で、国内のヒスイ産地で、宝石になりうる質を持つヒスイを、
>> 産するのは糸魚川‐青海地域
>> (隣接する富山県朝日町と長野県小谷村と白馬村を含む)
>> と言うお返事でした。

なるほど、そうでしたか。
糸魚川のヒスイは唯一日本で宝石と呼べるものだと記憶していたので。

>> まだ、他にも調べていますので、後日、お知らせします。

そうですね。四国は他のところで産出される鉱物はたいてい
産出していたと思います。青玉はほかにどのような可能性が
あるのでしょうね。軟玉ですかね。


835

Re: 論争は終了したという人はいるけど

投稿者[ 邪馬四 ] 発言日時 [1月31日(木)07時15分14秒]

元の発言 [ Re: 論争は終了したという人はいるけど ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月30日(水)22時19分43秒 ]

>>
>>
>>
>>
>>
>>
西部というのは、四国西部の銅矛圏のことでしょうか?
僕としては、もし東遷というものがあったと仮定するなら、
畿内と同じような文化圏であったほうが問題ない気がします。
理由は、その場合ほとんど東遷の痕跡が残らないだろうということです。
また、倭人伝の記述に「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」
というんだから、東遷と合わせて四国東部説の可能性を少しは考えたくもなる
のが人情です。

>> ところで、大局的にみて四国説のつらい部分はどこでしょうか?
>> ぜひ、これはお聞きたいなあ。

>>
>>
ここを、はっきりしてもらうといいのだけど。
勢力の問題とか鏡の問題とか生産物の移動とか、いろいろ考えられるので。
鏡は少ないけどかなり早い段階で前期の古墳からでてますよね。
いちおうなんらかの交流はあったということは、いえるかな。
まあ、交通の要所として誰かからもらったものだといわれれば、
そうかもしれないけど。

>>
>>
うーん、どうなんでしょうね。
http://www.kamnavi.net/en/index.htm
あたりを見るのですが、よく知らないので。
大杉氏は、伊邪那岐命、伊邪那美命、大宜都比女神、大國主命、
少彦名命あたりはもともとは阿波、讃岐の神だった、
と主張していたと思うのですが。
まあ、全国で崇拝される神様ですし・・・。

>> 3 国名が古代郡名でそろえられない・・・これはどこでも無理でしょう。

>>
>>
倭人伝の記述通り21ケ国が次々にあったとすると、
「旁国名は郡名または国名として必ずしもそのまま残らなかった」
ということがほぼ断言できると思います。
でも、佳字二字化もあったので、ぴったりではなくて
郡名の一部になることも有りうる。
また新しい勢力がその地域の首長になったりすると、
地域名が変わる可能性が高い。
しかし、もともとあったものを完全に消すことは難しいと思うのです。
古代の郡名のなかにも途中変えられたものもあるけど、
たいてい河川名、大字、神社名などで残っていたりする。
基本的に、地名という固有名詞はしぶといようなのです。
その地域のひとびとにとっては、普通名詞の性格を持つから
簡単には変えられないのでしょう。

逆に、弥生時代にはきっとこの地域はひとつの国をつくっていたん
じゃないかというところでも、その地域の郡名が古代地名
に由来するとは思われないというのも多いわけです。
だから、慎重に調査するためには、ラインを決めた後に、
郡名だけでなく主要地名によってきめこまかくみる必要が
あると思います。順不同で全部郡名、国名で比定しようとするのは、
いったいどのような根拠なんでしょうね。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
まあ、国名とか人名はその音訳時期とかけっこう面倒な
問題が山積しているようなので・・・。
昨日「古代の日本1 倭人の登場」を読んでみたけど、そういう
思いが強くなりました。
まず、陳寿があまり元の資料に対し手を加えなかった様子が伺えること。
また、なぜ「難」「奴」と複数の音訳語が用いられたかの問題が
音訳の時代が違うという理由で説明がつくこと。
そういうわけで「壱」なのか「台」なのかは、留保したいです。
古田、尾崎両氏の論文は読みましたが、その後の論文は
読んでいないので、それからよく考えたいですね。
邪馬壱国、邪馬台国の表記は、畿内説の人は反対かもしれないけど、
区別するために今はそう使います。

>> いずれにせよ、倭人伝にある国々の構造を比定においてきちんと
>> 表現できれば、かなり妥当性のあるものだと思うのです。

>>
>>
>>
大国3つを決めてもらうと、調べやすいと思うのですが。
四国東部説の場合は、吉野川流域を邪馬台国の範囲にしてしまうと
狗奴国、投馬国あたりは自動的にきまってしまうし、
主要なラインは分岐をふくめて3本しかありません。




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Re: Title 里程について

投稿者[ ねたろう ] 発言日時 [1月31日(木)12時22分30秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について ] お名前 [ ALEX ] 日付 [ 1月29日(火)23時24分20秒 ]

ALEXさん、今日は。

>> >日野さんの「『漢書』西域伝と魏志倭人伝」によりますと、
>> 1 先行動詞+「至+(地名)」は、実際に行ったことを表す。…道のり距離。
>> 2 動詞の先行しない「至+(地名)」…(私はこれを直線距離と理解しています。)
>> # 「直線距離と理解」する理由は何ですか?
>> >領域表記は、直線距離で表すのが基本であると考えます。
>> # その理由をお聞きしているのです。

#その理由は、前回の回答に記したつもりですが。

領域表記が2の文型と同じであるとするのは、「方〜里」を「ある地点から東限まで〜里、北限まで〜里」と言う意味と取れるからです。
道のり距離で領域を表すとすれば、「方千里の国」は、地形により全く違う大きさの国になってしまいますし、全ての里表記が、道のり距離であるとすると、領域比較の基準になり得ません。

>> >実際に行っていない場所までの距離表記が、全て道のり距離であるとすると、実距離は、常に地形により変動することとなり(全ての里表記は、おのおの孤立し、共通の単位「里」の意味がなくなる)、兵站を決定する判断基準になり得ません。
>> # 地形は変化しませんので、実際に行き着ける所要日数に基づいて兵站を決定する判断基準となります。

これは、私の文章が間違っていました。兵站に関しては、ALEXさんの仰る通りですね。
「兵站を決定する判断基準になっても、領域を比較する基準にはなり得ません。」と訂正させてください。

>> >さて、道のり距離は、直線距離とは確かに違うものでしょう。しかし、5倍や6倍にも間違えるものでしょうか。
>> # 隋書には「其南海行三月、有tam[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里」とあります。
>> 隋の短里があったのでしょうか?
>> いいえ、間違った地理情報があっただけです。

これは古田氏同様誤解されています。tam[身冉]牟羅國を済州島にあてられているのでしょうが、tam[身冉]牟羅國とtam[身冉]羅國は、国名も地形も違う別国でしょう。私は、『隋書』は、長里で解釈すべきだと考えていますし、tam[身冉]羅國は台湾であろうと考えています。

#『隋書』は、同時代史書であり、俀国に使者を派遣しており、俀国伝の記述は信憑性が高く重要であると考えています。

>> >前回は、直線距離での不当を示しましたが
>> # 直線距離で考えることの正当性について証明できていない以上、不当を示したことにはなっていませんが?
>>  それ以前の問題として、直線距離で遼陽から集安までどれだけ距離があって、それが「短里」で何里あるかを調べてご回答いただけますか?

直線距離で、ほぼ250kmで、ALEXさんの推定どおりです。短里では、約3300里となり、丸都の手前で高句麗の領土は途切れます。しかし、これが短里で無い根拠にはならないのです。何故なら、遼陽と丸都の推定が間違っていると考えられるからです。長里では、直線距離で見ても、道のり距離(ALEXさんご自身の推定から、直線距離の1.8倍)で見ても、高句麗の領域は広すぎて、東夷伝の記述と整合しないからです。

>> >今回は、道のり距離でも不可能であることを示します。
>> >高句麗の西限を集安と見ておられるようです。
>> # これが当たっていないので、以下の証明はすべて崩れてしまいます。
>> 高句麗の西限は本渓のやや東と推定されています。

では、その推定に従いまして、考察してみましょう。
直線距離で方二千里は、約800キロ四方。
道のり距離は、直線距離に換算すると約500キロ四方。
道のり距離で考えます。私の地図では、本渓からほぼ東500キロで清津という海岸近くの町に達します。さらに東に陸地はありませんし、界を接するはずの沃沮の領域も無いのです。さらに、高句麗の北は、同じく方二千里の夫余です。ALEXさんは、夫余を黒龍江省あたりに求めるのですか。

つまり、長里では解釈できないのであり、短里で遼陽―丸都間が合わないのなら、その地名比定が間違っている可能性が高いと言えるのです。特に丸都・集安説は、疑わしいのではないでしょうか。

>> >漢書の三注を思い起こしてください。唐の顔師古は、「倭」の上古音を知りませんでした。生活に密着している、漢字の発音であり、遣唐使を送り続けたわが国の国名のはずです。

>> # 発音や音律など文字表記のできないものだからこそ失われるのです。

#地名は文字表記ですが、現在では比定できない場所ばかりです。

私が問題にしているのは、王朝の連続性について、なのです。南朝系から北朝系の隋・唐(特に唐)へ権力の中心が移ったことにより、史料の連続性(その内容の解釈も含めて)も、失われたのではないかと考えているのです。

>> >私は道のり距離と直線距離に、それほど大きな違いは無いと考えます。
>> # それを証明する努力をされることを望みます。

これについても、私の考えを述べたつもりですが、もう一度お話します。
壱岐の方三百里は、内陸の記述があることや、島自体が小さいこともあり、実際の距離(直線距離)に近い記述であると考えられます。5、6倍もの錯誤があるとは考えられません。これに対し、方四千里の韓半島は、その大きさや海岸線の複雑さから、壱岐よりは大きな誤差が出る可能性が高いと考えられます。しかし、実際は、壱岐の方三百里に対して、韓の方四千里は、ほぼ妥当な大きさなのです。つまり、壱岐の方三百里が、実際の距離(直線距離)に近いならば、韓の方四千里も直線距離に近い数値であると言えるのです。

また、こうも言えましょう。道のり距離は、その地形が複雑であればあるほど誤差が大きくなると考えられます。しかし、韓伝・倭人伝の行路記事は、ほとんどが直線距離の5、6倍の里表記であるという、一定のルールが見られます。つまり、地形に関係なく距離を表記している可能性が高いのです。これにより、『三国志』の里表記は、道のり距離であっても、直線距離に近い距離表記であると言えるのではないでしょうか。

#直線距離を測る技術があったかという質問をされる方が居られますが、その技術なしに、東夷伝の国々の領域表記や里程を記せないと考えます。また、『漢書』の一桁まで記す詳細な里表記から、『三国志』の概数表記への変化は、その技術の獲得を示すものかと想像します。

>>  襄陽は襄樊、江夏は孝感付近です。牛渚は馬鞍山のやや南、秣陵は直線距離でその東北約40kmほどのところです。

ご教示ありがとうございます。検討してみます。

>> >はたして、そうでしょうか。私には、そう思えません。
>> # わたしは、事実を見つめて欲しいとしか申し上げようがありません。

私も全く同意見ですし、とても残念です。説明の仕方を工夫すべきかもしれません。


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Re: Title 里程について(ちゃちゃです。

投稿者[ EK ] 発言日時 [1月31日(木)12時33分21秒]

元の発言 [ Re: Title 里程について(ちゃちゃです。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月30日(水)22時32分36秒 ]

>>
>>
#短里が東夷の国々で行われていたローカルな単位であると言う優れた仮説は、大昔に安本が提出しています。ただ、残念なことに彼は伊都国以遠は長里説を採用してしまった。
こんな優れた仮説がまるで存在しなかったように安本が振舞い始めるのは、古田の登場後です。
しかしまあ、おにりんさんもかなり正しい理解に近づいたことは認めます。あとは、伊都までは短里で、伊都から先は長里というおにりん説をもう少し理論だててください。



838

Re: 里程について(訂正)

投稿者[ kouji ] 発言日時 [1月31日(木)12時56分20秒]

元の発言 [ Re: 里程について ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 1月30日(水)01時06分57秒 ]

>>  また『後漢書』は東晋范曄の撰といいますが、志は西晋司馬彪撰の続漢書の志を後世になって併せたものです。

>>  東晋范曄撰『後漢書』は、記述の対象は後漢であり、当面の対象となる読者は東晋の人々です。

 三ヶ所の「東晋」は「劉宋」の誤りですね。失礼しました。


842

Re: 訂正のついでに、、、

投稿者[ 大場嘉門 ] 発言日時 [1月31日(木)15時05分26秒]

元の発言 [ Re: 里程について(訂正) ] お名前 [ kouji ] 日付 [ 1月31日(木)12時56分20秒 ]

訂正のついでに教えてください。


>> また『後漢書』は東晋范曄の撰といいますが、志は西晋司馬彪撰の続漢書の志を後世になって併せたものです。その中の郡国志にも「長里」が用いられています。例えば「遼東郡襄平県、洛陽東北三千六百里」などで、これは魏の明帝が「四千里征伐」とするのと整合しています。

ALEXさんの「漢籍の書棚」の『後漢書(續漢書)』郡國志五(幽州刺史部)に、

遼東郡
【秦置。[各隹]陽東北三千六百里。[案本紀、和帝永元十六年郡復置西部都尉官。]十一城、戸六萬四千一百五十八、口八萬一千七百一十四。】

とあります。
「洛陽東北三千六百里」は西晋の司馬彪ではなく、【梁 劉昭註】ではないでしょうか。


843

本日23:00定期メンテナンスを行います。

投稿者[ 管理人 ] 発言日時 [1月31日(木)19時58分38秒]

データ補修は少し時間をください。


845

Re: せかせてすいません。

投稿者[ ピクポポデミ ] 発言日時 [1月31日(木)22時17分07秒]

元の発言 [ Re: せかせてすいません。 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月30日(水)00時49分51秒 ]

>>
>>
日本の古代1倭人の登場を読むと、音訳者が中国人である可能性を推定しています。
また森達弘氏は、魚部模韻の変化を前漢末から後漢初のように書いておられます。
私としては時代を後漢から魏晋まで広くとって、ただし音訳者を古い音韻が比較的
良く残っていた環境にいた人物たちと考えることにしました。
魚部模韻はア行で読まないと、上代日本語とのつながりが悪くなるのだから、
上代日本語を手がかりに地名比定するなら、そう取るしかないなと思っています。
ただ全てがそうではなくて、都のように一部の文字はオ行に移っていたとします。
したがって証拠のある都だけはオ行で、それ以外はア行で一貫することにしました。
また陽声、入声、去声が少ないということだから、それ以外の文字は開音で、
それらの文字は子音韻尾を注意深く扱う方針にします。
おにりんさんのホームページにあったように、私ものちにア行に収斂する
ハ行があったと仮定します。
どこかで、日本語の母音は古くは全てhを伴ったという説を見ました。
ハ行はその名残ですかね。
だからワ行なんかも、ほんとにhを伴ったワ行があったのかも。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
弓と{身弓}とか、狗とか。
なんでだろうと思います。

>>
えー批判を浴びそうですが、同じく日本の古代1倭人の登場に
森達弘氏の以下のような文があります。
****************************************************
位置による音韻の制限

前略

第一の制限法則は、「ア行」音節が原則として語根の頭以外の
位置に立たないことであった。いま倭人語が上代日本語とほぼ
同様の音韻体系をもっていたと過程して考えれば、「倭人伝」
の中で「ア行」音節を表すのに用いられた可能性のある漢字は
その声母や介音からみて、「伊」「己」「惟」「一」「邑」
「鳥」の六字種、述べ10字である。このうち語頭以外の位置に
用いられているのは「支惟国」「呼邑国」の二例に過ぎない。
ただし、この「惟」(中古音jyi)と「邑」(中古音<記号が無いので略>)
は「ヤ行」や「ワ行」の音節を表すのに用いられた可能性もある。
またともに信頼性の劣る第二群に記載されている点にも注意
すべきかもしれない。
****************************************************

このことから私は、惟と邑はそれぞれ似た字に改訂して考えています。
改訂先は言わずもがなですが・・・
支惟と呼邑はそれぞれ、吉備と阿波に当てました。

>>
>>
>>
>>
>>
>>
>>
音訳された場所は、半島かと思っています。

>>
>>
>>
>>
>>
同じく日本の古代1倭人の登場に載っています。

伊都のような倭の中枢では、漢字の教養のある人がいたであろう。
その人が工夫して佳字をあてて、イタを伊都と音訳した。
ところが中国音が変わってしまって、かといって伊都は捨てがたし、
でイトになってしまったと言う話です。

>> 帥升あたりが等を引き連れていったときのリストかと思います。

>>
そう。
最近は帥升というか、邪馬台国前史に興味があるので、こうすると
帥升時代の文字情報が増えると言う下心も有ったりして・・・

>>
>>
107年ってなんか反乱ありませんでしたか。
そろそろ後漢もあわただしくなるころ。
なみいる倭の首長のまえで、倭国王を冊立して威厳を示したいとか。

ところでもうしょうがないので

為吾は伊賀、鬼奴は山城紀伊郡、{身弓}臣は大和巨勢郷にしました。
森達弘氏は「臣」字は日本書紀アルファ郡と倭人伝を通じて、ただ一つの
聞こえのよい閉音なので、誤記の可能性があると書いておられます。
ほんとでしょうかね。

ただ文字を変えるなら、何か地名当て以外の客観的理由はつけたいです。

私は対馬から奴までの、一番目の奴、不彌、投馬、邪馬台、狗奴を除く
25ヶ国リストが最初に出来たことに賭けます。

とか言ってすぐ引いたりして。





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Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ ちょっと一服 ] 発言日時 [1月6日(日)07時25分53秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 1月6日(日)02時21分32秒 ]

いえ,話の筋で黄金期があったとしたら・・・,の意味です。


自分は,ここでは,
吉備と大和・古事記の関係を重視してきた投稿家なもんで,
いわば吉備ジャパネスク派です(^▽^;)

勿論,唐古・鍵の件も話は聞いちょりますが。

記紀を参考にすると,狗奴は後の熊襲のことらしいですが,

しかしながら,ついつい,

東海の久能や東国のケヌ氏,北陸なるクヌガ勢,
丹後のコノ神社,免田式一派とか,
出雲の大狗奴主命?とか,
タミル語の東を意味する kuna とか,

あれこれ空想してしまいますよねえ。

神武もケヌっぽい異名を持ち・・・,
狗奴から名を捧げられたのかもしれませんね。

いっそのこと畿内大和もコミで狗奴国にするとか? >後漢書の拘奴国
(^◇^)¶



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Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ マルセ ] 発言日時 [1月6日(日)07時57分29秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ イリヒコ ] 日付 [ 1月5日(土)01時53分21秒 ]

 イリヒコさん おはようございます。今年もよろしくお願いします。

 いつも言っていることなんですが、マルセは全くど素人ですので、以下、大間違いかも知れませんが。


>>私が狗奴国=吉備と考える背景には、纒向遺跡出土の吉備系土器が纒向1式から3式にかけて激減するという事実があります。(最近の調査で変わっていれば別ですが。)吉備系土器は、纒向1式の段階では外来性土器としては、その比率は東海に次いで二位の位置にありますが、2式、3式と減少し、3式段階では何番目かもわからないくらいまで減ってしまいます。

 これは、石野博信氏の「邪馬台国の考古学」の153pの図のことですよね。この図では、吉備や西部瀬戸内が減って、河内が増えているのが見て取れますが、増えている河内の土器というのは、もしかすると河内型の庄内甕のことなんじゃないでしょうか。
 もし、そうだとすれば、この図は吉備との交流が減ったことを示しているのではなくて、「この時代、甕などが商品として流通するようになり、裕福な層だった吉備からの移住者は、甕を自分たちで作らず、だんだん、河内の甕を購入するようになった。」と考えてはいけないんでしょうか。

 もしくは、別の考え方として、その当時、倭人伝にも記述があるように、国々に市があったわけですから、物を売って歩く商人とか物流に携わる事業者がいたと思うのですが、「西日本全域で、吉備系の外来土器が減っているというのは、単に、流通の事業者の主体が吉備の人たちから近畿系の人たちに移った」と考えてもよいかも知れません。
 政治的な理由でなく、経済的な理由からでも、吉備系土器の減少を説明できるのではないでしょうか。

>> 物言わぬ考古資料から何がしかの結論で断定してしまうことは難しいかとは思いますが、考古学上の事実から何がしかの推論を行うこと、つまり、可能性を探ることに全く意味がないとは思いません。

 もちろん、マルセもそう思っています。


>>狗奴国吉備説はこれまでほとんど議論されていないと思いますが、可能性すら否定されるのであれば、

 いえいえ、ちっとも、そんなふうには思っていません。

>> ただ、私は卑弥呼共立は3世紀前半と考えていますので、共立時から対立がはじまったと考えてもよいのではないかと思います。

 マルセも、卑弥呼共立は210年代の可能性が一番高いと思ってます。女帝の在位年数は比較的長いので、30年くらいは卑弥呼が女王でもおかしくないと思います。
ただ、卑彌弓呼も、その当時、同様に30年も狗奴國王をやっていたと考えるのは、ちょっと厳しいので、「卑弥呼が即位したときには、卑彌弓呼がまだ王ではなく、卑彌弓呼が狗奴國王になった以降に何か問題が生じて、二人の間に対立が生じた。」のかなと考えています。
実は、卑彌弓呼は若いころに卑弥呼にフラレタのを逆恨みして・・・なんていうことがあったりして。


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Re: Title 狗奴国=吉備国 論

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月6日(日)11時57分02秒]

元の発言 [ Re: Title 狗奴国=吉備国 論 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月5日(土)20時00分17秒 ]

>>
>>
>>
>>
おにりん氏>全部で31カ国の名前が出てきますが、これを30カ国としたら、どれを抜くかという議論になります。
 とすれば、先ず候補に上げるべきは狗邪韓国でしょう。

 文中の30ヶ国を“倭”(民族)の範囲と考えれば狗奴国も含むけれど、
 女王国対狗奴国の対立があったとすると、狗奴国も女王国と匹敵する連合体であって一つの国としない考えもあります。
 それと、まだ他に倭に含まれてない“+α”の複数国がありますヨ。



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Re: 西新町遺跡の土器構成

投稿者[ 率善中郎将 ] 発言日時 [1月14日(月)01時55分03秒]

元の発言 [ 西新町遺跡の土器構成 ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月13日(日)21時40分18秒 ]

A〜F区は、田崎氏が勝手につけたのじゃ無くて、2次調査の調査区番号です。
ですから5次の住居址とは別です。
詳しくは福岡市埋蔵文化財センターで聴くといいでしょう。
それと、西新町の布留系甕を加賀南部産とするのは、かなり異論があるようです。もちろん、畿内産ではなく、地元の製作とする説もあります。
あと、西新町遺跡の「畿内系」土器は、よく見ると、畿内のそれと似ても似つかぬものですよ。土器のモデルは畿内系でも、地元で変容して独自変化してしまったようです。これは西新町に限らず、同時期の北部九州の「畿内系」土器のほとんどがそうです。
だから、「畿内系」が多いからって、畿内の人がその土器の割合でそのままいたと短絡するのは危険です。
特に西新町遺跡では、両方使ってる住居も多いし。
ただ、オヤジッチさんの言うように、「貿易商人」が往来しそうな大集落(特に沿岸の)で「畿内系」への変化が早いようです。
ある種の都市間の流行かもしれません。
ちなみにSD=溝、SC=住居址の略号(記号)です。西新町5次のSD06,SD07はSC06,SC07の間違いです。
この時期の九州の土器については、石野氏の本にも引用がありますが(もっとも、研究会発表資料ォ引用してますが)、『庄内式土器研究』19の久住氏の論文を読んで下さい。


90

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月6日(日)12時00分10秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月5日(土)16時17分18秒 ]

>> >> 「東アジアの古代文化109号」で阿部久雄氏が、
>> >> おにりんさんのお好きな「科学的根拠」を元に、
>> これって不思議なことに科学的根拠がまったく書かれていないんですけど、
 ゲッ!
 何をお読みになったんですか。



91

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月6日(日)12時15分06秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月5日(土)22時24分33秒 ]

ふうらんさん、
>> >> どのみち、三角縁神獣鏡の銅が江南というのは、以前からいわれていたし、あまり、目新しい感じはしないです。
 卑弥呼の時代に呉の領域であった鉱山の原料を使っているということですヨ。
 どう解釈なさるんでしょう。

岡野熊鰐、
>> 江南というのは嘘だと聞きましたが。
 氏は「科学的反証が提出されれば撤回、再鑑定をいささかも躊躇しない」と書いています。
 「江南というのは嘘だ」と言ってる人は反証する必要があるでしょう。
 でなければ単なる中傷ですから、そのような人の話は“見ざる、言わざる、聞かざる”べきです。


92

Re: Title 本の紹介

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月6日(日)12時52分19秒]

元の発言 [ Re: Title 本の紹介 ] お名前 [ おにりん ] 日付 [ 1月6日(日)02時38分35秒 ]

>>
>>
 九州は「兵用矛」であったですナ。
 いずれにしろ、箸墓が卑弥呼の墓だとすると、同じ王家の奥津城に2〜3世代前の古墳があることをどう解釈するか。





93

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月6日(日)13時28分38秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月6日(日)12時15分06秒 ]

>> >> 江南というのは嘘だと聞きましたが。
>>  科学的反証が提出されれば撤回、再鑑定をいささかも躊躇しない」と書いています。
>>  「江南というのは嘘だ」と言ってる人は反証する必要があるでしょう。
>>  でなければ単なる中傷ですから、そのような人の話は“見ざる、言わざる、聞かざる”べきです。


その氏は江南の鉛だと言っているのですか?
江南の鉛だと言っているのは誰ですか?


94

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月6日(日)13時32分19秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月6日(日)12時00分10秒 ]

>>  ゲッ!
>>  何をお読みになったんですか。
「東アジアの古代文化109号」です。

データの出所が書かれてないので科学的根拠がないです。


95

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ ふうらん ] 発言日時 [1月6日(日)14時56分05秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月6日(日)13時28分38秒 ]

馬淵氏のもとのデータが、どこにでてるか、ちょっと確認できませんが、安本氏の本にしょっちゅう数値が引用がでていると、思います。そこにもとの資料名もでているのでは?はっきりしなくて、すみません。


江南というのは、湖南・浙江の銅と一致するというので、私が「江南」と表記しました。よくいわれる「華南」はあきらかな誤用のようなので。

なお、従来の馬淵氏の解析だと、江南とも、山東ともかぶるらしいのですが、どうなんでしょうね。

阿部氏は、三角縁神獣鏡のデータを全部つかっているのでないようなので、これが、解析手法の差なのか、データの差なのか、よくわかりません。



96

Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ ふうらん ] 発言日時 [1月6日(日)15時05分45秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ オヤジッチ ] 日付 [ 1月6日(日)12時15分06秒 ]

>> ふうらんさん、
>> >> >> どのみち、三角縁神獣鏡の銅が江南というのは、以前からいわれていたし、あまり、目新しい感じはしないです。
>>  卑弥呼の時代に呉の領域であった鉱山の原料を使っているということですヨ。
>>  どう解釈なさるんでしょう。


#ですから、魏の時代の鏡(中原・遼東・半島)を調べて、それが江南のものか、華北のものか判定しないと、議論のしようがないです。

#漢鏡6期以降くらいになると、江南の原料になるそうですが、これらの製造年代は、どうなるのでしょう?

#ちなみに、殷周の青銅器の原料も、雲南のものだそうです。

>> 岡野熊鰐、
>> >> 江南というのは嘘だと聞きましたが。
>>  氏は「科学的反証が提出されれば撤回、再鑑定をいささかも躊躇しない」と書いています。
>>  「江南というのは嘘だ」と言ってる人は反証する必要があるでしょう。
>>  でなければ単なる中傷ですから、そのような人の話は“見ざる、言わざる、聞かざる”べきです。


#だから、阿部氏は、魏の鏡は江南の原料でないという前提で反論を出せといっているのですが、その前提自体についての、なんの根拠も示していないわけです。

#魏の鏡は江南の原料でないというなら、その根拠をしめすべきです。




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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月6日(日)20時54分33秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ 岡野熊鰐 ] 日付 [ 1月6日(日)13時28分38秒 ]

>> その氏は江南の鉛だと言っているのですか?
>> 江南の鉛だと言っているのは誰ですか?
 私が「江南というのは嘘だと聞きましたが」を「江南産というのは嘘だと聞きましたが」と取り違えたのでしょうか。
 だったら、申し訳ない。


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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ オヤジッチ ] 発言日時 [1月6日(日)21時00分53秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 1月6日(日)14時56分05秒 ]

>> 江南というのは、湖南・浙江の銅と一致するというので、私が「江南」と表記しました。よくいわれる「華南」はあきらかな誤用のようなので。
 「江南=揚子江の南の地方」「華南=中国南部の通称。福建、広東、海南、広西、雲南、貴州」、なんか微妙。

>> なお、従来の馬淵氏の解析だと、江南とも、山東ともかぶるらしいのですが、どうなんでしょうね。
>> 阿部氏は、三角縁神獣鏡のデータを全部つかっているのでないようなので、これが、解析手法の差なのか、データの差なのか、よくわかりません。
 二次元と三次元の差じゃないですか。


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Re: 卑弥呼の鏡(水を差します

投稿者[ 岡野熊鰐 ] 発言日時 [1月6日(日)21時08分50秒]

元の発言 [ Re: 卑弥呼の鏡(水を差します ] お名前 [ ふうらん ] 日付 [ 1月6日(日)15時05分45秒 ]

>> #魏の鏡は江南の原料でないというなら、その根拠をしめすべきです。

それ以前の問題として、江南の原料であるという理由が不明なのです。

ふうらんさんは読んで、その理由が書いてあったと思いますか?